好きって言ったら友達やめる!

「うわ。瑠珂って、文才皆無だね」
 俺のレポート用紙をじっと見つめながら、深谷は呆れ気味に言った。
「うるせぇ、そんなの俺が一番分かってんだよ」
 俺はコーラのストローを齧り開き直る。声のトーンがいつもより低いのは、ここが自分のバイト先のファストフード店だからだ。
 レポートのためにオープンキャンパスへ行ったは良いが、肝心のレポートが壊滅的だった。何から手を付けて良いのか、どうまとめたら良いのかが分からず、全く進められずにいた。このままではパンフレットの丸写しになってしまいそうで、せっかく現地まで話を聞きに行った意味がなくなってしまう。というか、このクソ暑い中、あの坂を上ったことを無駄にはしたくない。そうやってウダウダと悩んでいるうちに、夏休みも残り一週間になってしまった。俺一人ではどうしようもなくなって、深谷に自分から連絡を入れたのだった。
 そんな訳で、バイト終わりに会う約束を取り付けた俺は、バイト先の客席で向かい合わせに深谷と座っている。この前のように炎天下の中、外で待たせるのも嫌だったから仕方ない。呼び出した挙句、バイト先まで来てもらったので、流石にポテトとアイスティーは俺の奢りだ。ポテトに関してはついさっき揚がったものだし、お礼にしては十分だと思う。なのにこいつときたらテーブルにトレーを置くと「俺、猫舌」と言った。大人な俺は「冷めたら食べりゃ良いだろ」とサラッと言ってかわしたが、内心むちゃくちゃイラッとした。人の心遣いをなんだと思って……!こういうところが本当にムカつく。だが、これもレポートのためと思い、文句は飲み込んだ。それに、さっきからカウンターから向けられる女性スタッフ陣からの視線にもそろそろ限界だ。改めて深谷の顔の良さを感じた上に、一緒にいる俺へのチクチクした視線は嫉妬と疑問が混ざり合ってかなり痛い。黙ってすんなりと話を聞き、さっさと終わらせて帰りたい。
「瑠珂が志望してるのは教育学部でしょ?」
「え……?あ、うん」
 イライラし過ぎて別の事を考えていた俺は、適当に返事をした。すると、それを見透かした深谷はジト目で俺を見る。
「……なに?」
「俺と居るんだから、他の事考えるのやめない?」
「ハァ?」
 思わず声が裏返る。羞恥で心臓までうるさく反応した。こちらの様子を気にしている女性陣が、俺らを見ながら何やら騒がしい。
「お前な……!そういう誤解の生まれる言い方やめろ。次の出勤時、どえらい質問攻めに合うだろうがっ」
「じゃあ、ちゃんと聞いて」
 深谷はそう言うと、トレーをテーブルの端に寄せ、俺のレポート用紙を中央に置いた。持参したフリクションペンで、要らない箇所に線を引き、俺の文章を簡潔にまとめていく。そして、最後の用紙には大胆に大きなバツ印を書いた。
「あっ!おま……人の努力をっ」
 何するんだと文句を言おうと顔を上げると、深谷は溜息を吐いた。
「商業部のことは要らない。概要に学部がいくつあるか書いたんだから、あとは瑠珂の興味のある方だけで良いと思う。その方が読む方も分かりやすいし、まとめやすいはず。要点としては教育学部の特徴は何なのか、そのどこに惹かれたのか、瑠珂の進路としてどう影響すると考えられるか……とか?ま、この辺さえ書ければ量なんて要らないんじゃない?」
 大きなバツ印を書いたレポート用紙の裏に、今の要点を書き出すと、俺にレポート用紙を突き返した。ポンポンと繰り出される的確なアドバイスに、俺は正直ポカン状態。メモを取る事すらしないまま、深谷が走らせるペン先をじっと見ていた。
「……はい。俺からは以上」
「えっ。でもそんだけだと枚数稼げないんじゃ……?」
 俺の力量でこのアドバイス通り書き直せば、ペラッペラのレポートが出来上がるのが目に見えている。提出してすぐに返されたらどうしてくれる。深谷だから書ける文章と、俺が書く文章には雲泥の差があるし、何より先生達の受け取る重みが違うはず。ていうか絶対違う。俺が要点を確実にまとめたレポートをサラッと書いて提出したところで、誰を雇った?なんて聞かれそうだ。
「枚数の指定は無かったよ。それに、レポートは内容の方が大事だろ。まぁ、大学だと課題や先生によっては字数制限もあるみたいだけど」
「なる、ほど……」
 そう言われて俺は頷いた。そもそも、課題のプリントを大して読み込んでいなかった俺が言い返せる訳もない。俺は添削をしてもらったレポート用紙をカバンにしまい込むと、トレーの上のポテトに手を伸ばした。
「ありがとな」
「別に。これぐらいならいつでも聞いて。瑠珂にならちゃんと教えてあげる」
「贔屓かよ」
「そうだよ。瑠珂は特別だし」
 深谷もポテトに手を伸ばした。触って熱さを確かめてから恐る恐ると口に運ぶ。慎重すぎる行動に思わず吹き出した。
「……笑うとこじゃないだろ」
「だって、お子ちゃまかよ」
「仕方ないだろ。小さい頃、スープで火傷してから熱いのは苦手なんだよ」
 深谷は口を窄めて、だんだんと声を落としながら言い訳をする。すると、ふと小学生の頃の記憶がポンと頭の中で浮かんだ。
「あー、いたいた。給食でさ、まだ熱いスープが冷める前に口付けて火傷したやつ」
「……へぇ」
 深谷がワンテンポ遅れて返事をした。
「あの時のこと、ちょっと後悔してるんだよね、俺」
「でも、瑠珂は火傷してないだろ?」
「んー、まあそうなんだけど。それ、俺が原因で火傷させちゃってんだよね」
 それは思い出すだけで胸が痛い。でも絶対に忘れてはいけない事として、俺の中に残っていた。
 今でこそは相当くだらないことなのだが、当時は足が速いか牛乳イッキが出来る出来ないかが男子のヒエラルキーの決定打だった。もっと色々と競うところはあっただろうに、幼い頃の男子はアホで、その時そう思ったことが世界の全てだった。
「俺、牛乳嫌いなの」
「……だろうね」
 俺の頭から足先へ順に視線を送りながら深谷が言う。何となく言いたい事が分かり、カチンときた。
「あのな、牛乳飲まなくても伸びるやつは伸びるんだよ。寧ろ俺は飲まないでここまで伸ばしたんだぞっ!褒められても良い方だっ」
 乗り出して主張する俺に、深谷は冷めた目を向ける。
「すごーく水を差すけど、俺も牛乳あんまり飲まないんだよね」
「……お前、マジで黙ってろよ。俺、今超大事な話してるからな」
 くすくすと笑うと、深谷は「ごめん」と言って続けるように俺を促した。
「小学生の時、給食で牛乳イッキの競争とかあったじゃん?俺、絶対やらないって言ってたのに、先生の目を盗んで無理矢理飲まされそうになったんだ。背の高いやつに羽交い締めにされて、目の前に牛乳瓶突き付けられて。その時、幼馴染が機転効かせてまだ冷めてないスープに口つけて火傷して大騒ぎになったんだ」
 あの時の給食は学校内の給食室で作られていたためか、ほんのり温かいを通り越して熱い物もあった。まぁ、それは確かにごく稀なことなんだけど。あの日のスープはきっと、最後に作り終わった出来立てだったのかもしれない。どれだけ熱かったかは覚えていないが、幼馴染が一番最初に口を付けて火傷をしたのは覚えていた。
 結局、幼馴染の火傷で教室が騒ぎになり、俺は牛乳イッキを免れた。何も考えずに口を付けて火傷したのか、俺から注意を逸らすためにやったのかの真意は分からない。でも、俺が助かったのは事実で、幼馴染が怪我をしたのも事実だ。
「今更だけど、俺がちゃんとあいつらを遇らえていれば、みっちゃんは火傷しないで済んだんだろうなって……。ま、今更お前に話したところで意味ないけど」
「確かに。そうだね」
「そうだねって、お前な……。普通、そこはフォローが入るんじゃねぇの?」
 すると深谷は首を振った。
「大丈夫だよ。みっちゃんは多分、いや全然気にしてないと思う。寧ろ瑠珂を助けられて嬉しかったと思う」
「はぁ?」
 いやいや、お前がみっちゃんの気持ち分かるわけないだろ?真顔で何を言ってんだ。
「言っておくけどな、みっちゃんはお前みたいに俺の事ばっかり考えてる訳じゃねぇからな?まぁ、確かに泣き虫でよく俺の後ろに居るような子だったけど……」
 記憶の中のみっちゃんは大抵、俺の陰に隠れてめそめそと泣いている。ドッヂボールで直ぐに当てられてしまったとか、帰り道にカラスがいて通れないだとか、食べかけのアイスを落としてしまっただとか。そんな事で泣くなよ、なんて思ってはいたが、ついつい手を差し伸べたくなる相手だった。助けてやると本当に嬉しそうに微笑むのも忘れられない。みっちゃんは俺を頼りにしてくれていて、弟みたいな幼馴染だった。
「へぇ。瑠珂って俺の事、自分の事大好きで四六時中考えてる一途な人だと思ってくれてるんだ」
「誰がそこまで言ったかよ」
「えー?」
 記憶の中で微笑むみっちゃんの横で、ふざけた仏頂面の深谷が立つ。俺とみっちゃんの思い出の邪魔だ、そんなところに立つんじゃない。
「でも……みっちゃん、そんなに大事にされていたんだね」
 深谷はしみじみと噛み締めるように言う。ほんのり赤くなった頬に、俺は眉を寄せた。
「なんでお前が嬉しそうなんだよ。まぁ、でも全部昔の話だし」
 俺は溜息を吐いた。
「火傷の後、みっちゃんはしばらく学校休んで、そのまま引越ししたんだよ」
 ぼんやりしていた記憶が今、思い出された。火傷を負ったみっちゃんは、そのまま早退して病院に連れて行かれた。次の日は学校に登校せず、その次の日も学校を休んだ。その次の日も来なくて、結局一週間休んだかと思えば、翌週そのまま先生から転校したと言われたのだ。
「多分……いや、原因は間違いなく俺」
「……え、瑠珂が?」
「みっちゃんは俺のために火傷をしたんだよ。状況的に、どう考えても俺を庇ったとしか思えない。そもそもの話、俺がちゃんとしていれば良かった話だろ。だから絶対俺が原因じゃん」
 絶対そうだと言い切ると、深谷の眉が中心に皺を作った。何か言いたげな顔をしたため、深谷の口が開くのを待っていると、代わりに物凄く深い深い溜息を吐かれた。
「あー……瑠珂って本当、文才ないな」
「……は、なんて?」
 今その話に戻すか?俺は苛立ち込みで聞き返す。
「そもそもの話なら、まず牛乳イッキを振る方が悪いね。使い方違うでしょ」
「え、そこ?」
「そこって言うか、原因はそいつらだろ。第三者が聞いててもそう思う。ていうか絶対そう」
 瑠珂は悪くない、ともう一度言って深谷は続けた。
「それに、少なくともみっちゃんは瑠珂に会うのが気まずいとかで休んだ訳じゃないと思う。引越しだって、本当はもっと早く決まっているもんだろ。業者に依頼するのにだってそれなりに日程を考え頼むでしょ。言えなかったって考えるのが普通じゃないの?」
 捲し立てるように深谷が喋る。息継ぎを忘れて喋ったようで、息が上がっていた。
「きっと……言わないとって思ってたのに、そんな事が起きたんだ。勇気を振り絞って瑠珂を守ったら、火傷もして終いには知恵熱出ちゃって。大事な事を伝えられないまま、転校する事になったとか……さ。考えればいろんな可能性あるだろ」
 俺は深谷の勢いに押され、小さな声で「そうだな」と答えるしか出来なかった。
「……あぁ、ごめん。勝手にヒートアップした」
 そう言うとアイスティーのストローに口を付けた。ゴクンと鳴った喉に俺の背中がピンと張る。どうしてこんなに深谷が熱を込めて話すのかは、分からなかった。同じ火傷を負った身として、何か思うところがあったとか……。
「でもさ」
「ん?」
「俺……なら、ずっと覚えててくれて嬉しいって思うよ」
 小さな声で深谷は言った。何故か気恥ずかしそうにポテトを突く。恥ずかしい事なんて、これよりもたくさん言ってきてるくせに。
「……火傷したことをか?俺なら忘れて良いって言うけど?」
 俺の返答に深谷はまた溜息を深々と吐いた。
「……瑠珂は文才もなければ読解力も無いね」
「は?」
「みっちゃんとしては、好きな人守れた勲章だから嬉しいんだよ。火傷をした事も恥じてないし」
「お前なぁ……そんな都合良い訳ないだろ。第一、みっちゃんが俺の事をそんな風に見ている訳ない。お前じゃあるまいし」
 まるで自分の事のように話す深谷に思わず笑った。
「まぁ、俺がみっちゃんと最後に会ったのって小一だし、もう顔だって忘れられてると思うけどさ。でも、もしそうだったら……お礼ぐらい言っておけば良かったな」
 そう、俺のためにやった事なら尚更だ。俺は謝ってもいなければ、お礼の一言も言えないまま、みっちゃんと離れてしまった。みっちゃんの中で、深谷の言う通り俺という存在が嫌な思い出でないならば、たった一言言えたら良いとさえ思う。
 ぼんやりとポテトに手を伸ばし、めそめそとみっちゃんのことを思い返していると、テーブルに伏せてあった深谷のスマホが突然揺れた。
「ん、電話?」
「ううん。アラーム。この後用があって」
 深谷は手元の荷物をまとめながら答える。時間にはまだ多少の余裕があるようで、その動きはゆっくりだ。
「そっか。忙しいとこ悪かったな」
「ううん。瑠珂に呼び出されたの嬉しかったし、瑠珂のバイト先でデートも出来たから、寧ろ役得」
 深谷はにっこり満面の笑みで言った。
「いや、課題見てもらっただけだからデートではねぇな」
 呆れ気味に答えると、深谷は文字通りにガックリと肩を落とし、残念そうに眉を下げた。用事があると言いつつ、その帰り支度の手も止まっている。おいおい、アラーム掛けるほど大事な用んだろ……こんなに悠長で大丈夫か?
「……じゃあさ、今回のレポートが上手く書けたらちゃんとデートしようよ。待ち合わせして、どっか行くの」
「はぁ?今、アイスティーとポテトでチャラにしたろ。それに待ち合わせして、オープンキャンパスに行ったじゃん」
 トレーの上のポテトは半分以上も減っている。もちろん、先程から数回ストローを加えているのだって見ていた。つまり、俺のお礼は済んでいるはずだ。しかし、深谷は首を横に振ると、椅子から立ち上がった。
「チャラにするなんて俺は一言も言ってないよ。勝手に用意して、瑠珂が勧めたから食べただけ。オープンキャンパスは、確かに瑠珂と出かけたい気持ちもあったけど、大部分は課題のためじゃん。あれはノーカン」
「いやいや、そういうのってほら、暗黙の了解とか言うじゃん?分かるっしょ。高校生が友達に奢るってのは。つーかさ!お前俺との約束分かってるよな?」
 念を押すように確認した。ノーカンって言葉にカチンときたが、そこを突いてあの日をデートだと思って意識していたと勘違いされても困る。それに、デートってのは少なくともどちらかに好意があって成立するものだと俺は思っている。
「今、瑠珂に好きなんて一言も言ってない」
 約束は分かっていると、深谷はしれっと答える。だいたいこいつは、俺と友達といたいから好きと言わなくなったはずだ。その言い方もなんか腹立つな。本当に好きじゃないみたいな……いや、今はそこじゃなくて。
「だったらデートっておかしいだろ。友達と行くなら『遊びに行こう』って誘い方の方が」
「ごめん、俺時間ギリギリみたいだから行くね。レポートの出来は休み明け、提出前に確認させて」
「おい、話はまだ終わって」
「じゃあ、デート楽しみにしてる」
「だぁーからっ!って……あ、ちょっ」
 深谷は言いたい事だけ言うと、アイスティーだけ持って忙しそうに店から出て行ってしまった。なんなんだまったく。俺は残されたトレーのポテトを乱暴に掴み、口の中に詰め込んだ。



 結局、レポートが思いの外上手く書けた。書き上がりには二日ほど掛かったが、まあまあ早く仕上がった方だ。勿論、深谷のアドバイスは全て取り入れた。その方が潔い。まぁ、アイツの得意気な顔を想像するのは腹が立つが、苦手なものは苦手だし、自分一人の力ではどうにもならないから頼ったのは事実。ここはもう、乗っかるしかない。
 俺は書き直したレポートをまじまじと見つめる。このレポート、本当に俺が一人で書いたかは絶対怪しまれるな。でも、書いたのは自分だけど、人からアドバイスをもらった……ぐらいは許容範囲だろう。ほら、数学の解き方を誰かに教えてもらうのと大して変わりないし。
 とりあえず、この出来はまず深谷に見せるべきだよな。本当に、我ながら上手くまとまっていると思う。日本語の文章として捉えてもらえるのかは流石に他者の意見は必要だしな。
 いやでも……またデートだ何だって言い出すから……。
 心臓が妙に騒がしくなり、頬に熱を感じた。
「デートって……」
 椅子の背もたれに体重を預け、天井を見上げる。その単語に変に反応してしまう自分が恥ずかしい。今までは別に大した単語ではなかったはずだ。そりゃ、良いなと思った女の子と遊びに誘うのは結構緊張はするけど……。でも前は口に出す事に大した抵抗も恥ずかしさもなかった気がする。前にクラスの気になる女の子、潮田来海を誘うことを考えた時だってそうだった。デートに誘いたいと、海斗達の前で豪語したこともあるぐらいだし、本当に……大した単語じゃなかったはずなのに。
 でもまぁ、オープンキャンパスにも行った訳だし、二人で出掛けるぐらいなんてことない…………よな?
 友達と遊びに行く約束をするだけなのに、感覚がなんか違う。海斗や航、日向と出かける約束をした時はこんなに心音がうるさいと思ったことはない。というかまだデートに行くと決まっていないだろうが。何を勝手に緊張して……は、緊張?まさか、俺が?深谷相手に?
 俺は頭を振りながらベッドにダイブした。
「いや、絶対緊張とかあり得ないって……」
 口にして吐き出すと、より心音が速まった。こういうのって意識し出すと面倒だ。クーラーをガンガンに効かせている部屋なのに身体中が熱い。頭の中を空っぽにしなければ、と思っている矢先に二番目の姉ちゃんの声が部屋の外から聞こえた。
「瑠珂ぁ、ご飯だって」
「……すぐ行く」
 そう答えてベッドから起き上がる。こう答えたら直ぐに行動しないと姉という生き物はしつこい上に面倒くさい。ドアノブを回して、部屋から出た。
「……え、瑠珂」
「ん?」
「あんた、クーラーかけすぎて熱でも出た?顔真っ赤だけど」
「……は?」
 俺は姉ちゃんに適当な(机に突っ伏して寝たから頭に血が昇ったというよく分からない)言い訳をすると、慌てて洗面所に駆け込んだ。


 リビングへ行くと、母さんの代わりに一番上の姉ちゃんが作ったというトマトとバジルの冷製パスタがどん、と大皿に盛られており、各席には取り皿とオニオンスープが置かれていた。
「……なんか男の料理みたいだな」
「それにしてはオシャレでしょ?彼氏に今度作るんだって」
 二番目の姉ちゃんがニヤニヤと笑いながら答えた。母さんに関しては娘の手料理が嬉しいようで俺に早く席に座れと目で訴えた。
「へぇ〜」
 席に座りながら一番上の姉ちゃんを見た。ほんのり頬が赤い。
「出されたものは文句言わずに食べる」
「いや別に文句なんて一言も無いですけど……」
 俺が席に着くと、母さんが「冷めないうちに食べましょ!」と手を合わせた。冷製パスタに冷めないって……というツッコミはさて置き、俺は手元のオニオンスープを見て口を開いた。
「スープと言えばさ……。母さん、みっちゃんって覚えてる?」
 俺は息を吹きかけながら湯気の立つスープカップに口を付けた。コンソメとタマネギの甘みが口の中に広がる。姉ちゃんにしては腕を上げたな。
 すると母さんはパスタを取り皿に取り分けながら「あぁ、そうそう」と声高めに答えた。
「春に戻って来たよわね、みっちゃん」
「……え?」
 戻っ……え?
「あら、会ったからその話になったんじゃないの?」
 固まった俺に、母さんは首を傾げたが、パスタを一口食べると「美味しい〜!」と直ぐに俺の方から姉ちゃんへと視線と一緒に興味も移動した。
「ちょ、母さん。戻って来た……って?」
「瑠珂、そんな事よりさっさとパスタ食べなさいよ」
「そうだよ!お姉ちゃんの将来かかってるかもなんだから」
「そんなん、後で父さんに聞けば良いだろっ」
「お父さんの胃袋と若い男の胃袋は価値観違うのっ!」
 姉二人が声を揃えて勢いよく答えた。その圧に負けた俺は、渋々とパスタを取り皿に乗せる。こういうのがあるからさっさと出ていきたいんだよっ!
 俺は一口分パスタをフォークに巻き付け口に放り込む。目だけで姉ちゃん二人に食ったぞ、と訴えると「美味いよ」と簡単に感想を言った。
「もっとちゃんと食リポしてよ。全然参考にならないじゃん」
「ほら、今時の高校生ならできるでしょ」
「いねぇよそんなバラエティ向け高校生」
 俺はもう一口食べてから、母さんに視線を戻した。
「で、みっちゃんなんだけどっ!今どこに住んでるとか何か聞いてる?」
「聞いてるって……瑠珂、あなた同じ学校でしょ?」
「……はぁ?同じ学校?何言ってんだよ」
 俺は文字通り首を傾げた。だって、春頃に転校して来たのは深谷しかいなかったはずだ。あんな事を言う転校生だ、他のクラスに転校生が居たとしたら「まともな転校生」として記憶しているに違いない。
 俺の顔が顰めっ面から変わらないせいか、母さんも首を傾げた。
「おかしいわね、深谷さんに会った時に学校名聞いたんだけど……」
 …………ん?あれ。
「……母さん、今なんて?」
「だから、深谷さんから直接学校名聞いたって」
「深谷?」
「みっちゃんの話でしょう?ほら、光明くん。深谷光明くんよ、毎日遊んでたじゃない」
「………………は?」
 カラン、と俺の手からフォークが滑り落ちた。姉ちゃん二人がまたうるさく文句を言うのが遠くで聞こえたが、心臓がバクバクと壊れそうな勢いで脈を打ち、周りの音がどんどん遮断されていく。
 嘘だろ。いや、マジかよ……!
 俺はごくりと唾を飲んだ。口の中はカラカラで、身体中から冷や汗がどっと出る。
 俺よりも背が小さくて、ビクビクとしていたあのみっちゃんが。深谷光明というあの厄介な同級生と同一人物だって……?
 俺の記憶の中でメソメソと泣きべそばかりかいていたみっちゃんがガラガラと崩れていく。代わりに、転校初日に俺に向かって好きだと言った深谷の顔が浮かび上がった。
 じゃあ、俺……もしかしてみっちゃん本人にみっちゃんの話してたって事?ていうかなんでアイツ、それは自分だって言わないんだよ……!
 急に恥ずかしさと苛立ちが込み上げ、俺はオニオンスープを一気に飲み干した。
「ちょっと、ちゃんと味わいなさいよ!」
 姉ちゃんから文句をぶつけられようが、そんな事、今の俺は気にしていられない。俺は山盛りにパスタを取り皿に取り分けると、黙ってその分を平らげた。さっきよりも心臓も幾分か落ち着いてきたが、まだ耳の奥がドクドクと脈の音を拾っている。
 あぁ……!もぅ、マジで……ふざけんじゃねぇ……!なんなんだっつーのアイツは……!
 名前を聞いて思い出せなかった自分が一番悪い。だけど、さっさと言ってくれれば。
 腹の奥が熱くなる。姉ちゃんと母さんが、一気に食べ過ぎだのなんだの文句を言うのを背にして、冷蔵庫から麦茶を取り出しグラスに注ぎ、これも一気に飲み干した。何をしても込み上げる気持ちが払いきれない。俺は深呼吸すると、もう一度テーブルに座り直して「おかわり!」とデカい声で言った。