砂浜のサオリ9号―A Cat Has Nine Lives―

「ねえ、卓也さん、私、生まれ変わったら、その島の猫になりたいな」
 妻の沙織が、そんなことを言い出したのは、亡くなる前の晩のことだった。もう35年も前のことだ。その年、僕と沙織は28歳、娘の沙也加は、まだ2歳だった。
 沙織が言った島とは、僕が学生時代からよく行っていた沖縄の小さな島のことだ。そして、沙織が「猫になりたい」などと言い出したのは、都会の慌ただしさや、胸の痛みに悩まされることもなく、砂浜の木陰でのんびりと海を見ている島の猫を、僕が羨んだことがきっかけだった。
「沙織、でも・・・」
 言いかけた僕の言葉を遮って沙織は真意を語った。
「私が猫になりたいのは、ずっと先じゃなくて、すぐにあなたの許に戻ってきたいからよ。ねえ、大学の授業で習ったのを覚えていない? “A Cat Has Nine Lives.”(猫に九生あり)っていう言葉。猫に生まれ変わってくれば、あなたのいる現世に9回戻ってこられるわ。うまくいけば、あなたがお爺さんになって、今度は私があなたを看取ることができるかもしれないじゃない。それにさあ、すぐに人間になって戻ってきたら、私たち触れ合えないじゃない。変に接近したら、あなた、警察に捕まるわ」
 馬鹿げた夢物語を理路整然と話す沙織が妙に可愛らしく、また哀れに思えた。
「なるほど、それは名案かもしれないね」
 そう答えてあげなければいけないような気がした。言いつつ、一つ疑問が芽生えた。僕はそれをそのまま口にした。
「でも、沙織、どうして島の猫なんだ。島の猫になったら、たまにしか君に会えないじゃないか。島に移住するわけにもいかないし」
「そうね、でも、それでいいのよ。あなたには、普段は私のことなんて忘れて、元気に過して欲しいの。あなたが、猫になった私の顔を見ながら、嘆いてばかりなんてことになったら嫌だもの。だから、あなたが好きな島に来た時だけ、私に会いに来て、あなたや、沙也加のこと、私の両親とか、大学の仲間のこととか聞かせてくれれば、それでいいの」
 そんな夢物語を笑顔で語ったわずか数時間後、沙織は静かに息を引き取った。

 それから、35年が経った今、僕は、また、ナップザックにブルーシートを入れて、島の砂浜を目指していた。何度目になるのか、数を数えたことはない。
 緩く短い、砂浜へ下る坂道は、緑のトンネルと化していて、その向こうに海の青が光る。どうやら満潮が近いようだ。
 坂を降りてすぐの所には、星砂を探す団体客が例の如く群れをなしていた。彼らの横を通り過ぎて、僕は海に沿って右側の、人影のない日陰を目指した。
 目的の場所にたどり着くと、僕はナップザックからブルーシートを取り出した。すっかりくたびれたそれを砂の上に敷き、ナップザックを枕にゴロリと横になった。三十年以上に渡って、幾度となく繰り返されたルーティンだ。
 ぼんやりと海を見ているうちに、僕は眠りに落ちた。それもまた、よくあるパターンだった。

 ふと目を覚ますと、僕の顔のすぐ脇で三毛猫が丸まって寝ていた。サオリ9号だ。サオリ9号は、歴代のサオリの中でも一番の高齢だ。最後の世代故に、少しでも長生きしようと頑張っているような気がした。島に来る前は、サオリ9号が既に世を去っているのではという一抹の不安があったのだが、杞憂だった。無事に生き延びて、今日の日を迎えてくれたのが嬉しかった。
 僕が上半身を起こし胡坐をかくと、サオリも半球を崩し、前足を伸ばした姿勢で行儀良く僕の隣に腰を下ろした。僕が何をしようとしているのか、ちゃんと心得ているのだ。
 僕はナップザックから写真の束を取り出すと、トランプのカードを切るみたいに一枚ずつサオリの前に重ねていった。そこに映っているのは、ほとんどが中学生の女の子の姿だ。
「君の孫も、もう中学生になったよ」
 僕がそう声を掛けると、サオリはちらっと僕の方に顔を向けたが、すぐに写真の方に向き直った。そして、僕は残りの写真を次々とサオリの前に置いていった。
 かつては娘の沙也加の写真を見せては、その成長ぶりを事細かく報告したものだったが、孫の沙希が生まれてからは、もっぱら報告は沙希の方にシフトしてしまっていた。
 持ってきた写真を全て見せた後は、写真には写っていない親戚や、大学の仲間、その他の人の近況報告に移った。そして、とうとう、僕は自分自身のことを報告しなければならなくなった。
 今までの自分の近況報告は、途中から愚痴に変わっていた。そんな時、サオリはゴロリと転がって無防備にお腹を見せた。面白くなさそうな態度にも見えた。ともあれ、誰にも言えない愚痴をサオリ相手にこぼす時間は、僕にとって得難いものであった。愚痴が長引いてもサオリが途中でいなくなることは無かった。
 しかし、今回、僕の近況報告はこれまでとは様子の違うものになった。愚痴をこぼすつもりはなかった。近況報告に入る前に、僕はサオリに礼を言った。
「サオリ、今まで、ありがとう。君のおかげで良い人生だったよ」
 僕の言葉に耳をピクンと動かした後、サオリは僕の方に顔を向けた。僕の発言の真意を問いたいという顔をしたような気がした。
「サオリ、実はね、余命半年の宣告を受けたんだ。医者に無理を言って、今日、ここまで来させてもらったんだが、君の会えるのは今日が最後だ」
 僕の言葉を聞いたサオリは、四本の足で立ち上がると、僕の足元に移動し、僕の足に体を摺り寄せてきた。僕はサオリを胸元に抱き上げて、耳の後ろを撫でた。サオリは気持ちよさそうに目を閉じて、されるがままにしていた。
「なあ、サオリ、9回生きたんだから、今度は人間に生まれ変わってきてくれよ。そうしたら、また、結婚しよう。こんどは女の子だけじゃなく、男の子も生んでくれ、できなかった家族旅行もしたいな。子供たちが育って、年を取ったら、この島で暮らすのも悪くないかな」
 僕の言葉にサオリの目が開いた。
 その目が、「うん、そうしよう」と言っているような気がした。
 
 終