『食べることが怖い』

 そう思うようになったのはいつからだろう。
 歯車が狂いはじめたのは、彼氏の恭平くんとの同棲生活が始まって少し経った頃だった。
 
 恭平くんは2歳年上。付き合って半年経った頃、彼がふいに言った。

「瑞穂、そろそろ同棲しない?」

 私はちょうど32歳になったばかり。
 将来のことを考えるには、悪くないタイミングだった。
 
 周りでは結婚する友人が増えてきて、私だけが取り残されていくような感覚。焦りが心のどこかにあった気がする。
 だから、結婚への近道になったらいいな。そういう淡い期待が芽生えたのも事実だ。

 同棲開始してからは、一緒に買い物へ行ったり。ソファでテレビを観ながら、並んでごはんを食べたり。
 ずっと一緒にいられる日常が、すごく幸せだと感じた。
 そんなあたり前の日々が続くものだと思っていたのに……。
 
 ある日、付き合っていた恭平くんが何気なく言った。

「……なあ、最近ちょっと食べ過ぎじゃない?」
「え? なにが?」
 
 向かい合ってごはんを食べている最中。
 何を言っているかいまいち理解できず、もぐもぐと頬張ったまま聞き返した。
 すると、彼は眉間にしわを寄せる。
 
「女の子なのにそんなに食べる? 普通、女の子はもっと気を使うんじゃない?」
 
 その言葉が胸に突き刺さった。言われるがまま、視線を落とすと私が食べていた生姜焼きと、白米はまだ半分ほど残っている。
 
「え、でも……このくらい普通じゃないかな? 大盛り食べてるわけじゃないし」
 
 私は曖昧な表情のまま、言葉を選んで言い返した。
 たしかに食べることは好きだ。だけど、量で言えば人並だと思う。
 
「太らない体質ならいいけど、そうじゃないじゃん?」
 
 笑って流せたら良かったのに、私はその瞬間から箸を持つ手が止まっていた。
 
「わ、私。太った……かな」
「うん。前よりちょっとね」
 
 素っ気なく言った彼は、一向に私のことを見てはくれない。



「俺の友達の彼女とか、みんな細いしさ。努力してる感じ? 瑞穂も、もうちょい気をつけたら?」
 
 努力。気をつける。
 その言葉はまるで今の自分はダメと言われているようで、心がひりついた。
 私は食べかけだった生姜焼きを、箸でつまんで見つめる。口に運ぶ手を止めて、そっと箸を置いた。
 
「そう、だね。ちょっとダイエットしてみようかな」
 
 その日から私は食べることを、意識しすぎるようになった。
 
 
「それ食べるんだ?」
「痩せるって言ってなかった?」
「どんだけ我慢できないんだよ」
 
 彼の放つ一言一言が積み重なって、私の心をむしばんでいく。


 食べれば太る
 太れば嫌われる。
 嫌われたら捨てられる。
 捨てられたら婚期が遠のいてしまう。
 


 普通にお腹いっぱい食べてしまった時は、罪悪感がつのるようになった。

 なんとか食べたものを減らしたい一心で、便器の前にしゃがみ込んだりもした。
 ひんやりした床の冷たさは、まだ記憶に残っている。
 そこにいる自分自身が、ひどくみじめに思えた感情も。

 震える手を口もとへ近づけた途端に身体がはっきり拒否するのがわかった。
 胃の中が重くうずくのに、吐き出す気配はどこにもない。
 
 吐き出すこともうまくできなくて、気づけば食べることが、怖くなっていた。

 そんな私の変化に、恭平くんは気づかない。
 食事に手を付ける回数が減った私を見て、むしろ努力してると褒めた。
 そのたびに、心がずきんと痛くて息苦しい。
 努力なんかじゃない。ただ食べることが怖いだけなのに。
 
 それから、私は偶然恭平のスマホを見てしまった。
 そこに映っていたのは、私より細い女の子と撮った写真。
 ああ、やっぱり
 ギリギリで保っていた心がぐしゃりと潰れた。
 
 もう……無理だ。
 私は荷物をまとめ、同棲していた家を出た。
 行き場はなかった。実家は飛行機で帰る距離だし「家に泊めて」と気軽に言える友達もいない。
 ホテルに泊まるお金だって、馬鹿にならないし数日も続かない。
 頭の中でぐるぐると考えた末に、私は家を出た足で不動産屋へ駆け込んだ。
 
「す、すぐに入居できる部屋……ありませんか」
 
 扉が開いて第一声がそれだった。
 不動産屋さんの男性は、目をぱちくりとさせた。必死にキャリーケースを引いていた私は、ひどい血相をしていたんだと思う。
 だけど、さすがは接客のプロだ。次の瞬間には爽やかな笑みを浮かべる。
 
「いらっしゃいませ。本日担当します。川村と申します」
 
 そう言って、カウンターの席に案内された。丁寧に渡された名刺を受け取って、その場に置いた。
 私より年下に見える川村さんは、不思議と安心できるような風格があって、声も落ち着いている。
 
 そんなことを考えていたら、別の女性職員さんが横からお茶の入ったカップをそっと置いた。
 軽く会釈をして、出されたお茶をじっと見つめる。
 お茶だからカロリーはないか。あ、でも飲みすぎるとむくむ?
 口にするより先に、そんなことを考えてしまう。
 
 その時ハッと我に返る。
 もう恭平くんとは別れたんだから、気にしなくていいのに。
 習慣になってしまったのかもしれない。
 
 小さな一口を飲んで、一息つく。
 それだけで罪悪感が残る。

「こちらに記入していただけますか?」

 川村さんが差し出した紙に書かれた項目は、名前、職種。簡単な私の情報を書く欄。指定された必要事項を書いて埋めていく。


「桜井瑞穂様……お部屋をお探しですね」


 私には住む場所がない。
 それに恭平くんと暮らしたあの家には、もう帰りたいとも思わなくなった。
 
 浮気をされたからじゃない。
 食べることを責められた日々から逃げたい。
 その気持ちが背中を押して、私は力強く頷いた。


「どんな物件をご希望ですか?」
「はい。あの……できるだけ、安いところで……」
 
 言いながら、ちょっとだけ自分でも情けなくなる。
 けれど、背に腹は代えられない。予定にいなかった引っ越し費用は痛い。
 今後のことも考えて、家賃はどうしても抑えたいんだ。
 
「安いところ、ですね。具体的にはどのくらいでお考えですか?」
「とにかく、相場より安めで……敷金礼金ゼロとか、ありません?」
 
 無理難問をとりあえず言ってみた。こういうのは、言ってみないと分からない場合もある。
 川村さんは苦笑しつつ、パソコンをカタカタと叩く。
 
「あと、今すぐ住めるところが欲しくて……」
「すぐ入居できるお部屋……ありますよ」
「……え」
 
 希望に満ちた言葉が耳に届いて、考え込んでいた私は顔をあげる。
 川村さんはパソコンから私へと視線を移すと、穏やかに笑った。
 
「ちょうど一室、空いていてですね。敷金礼金もなしで、すぐにご案内できます」
 
 敷金利金がなし?
 魅力的な言葉に、思わず前のめりになった。
 
「ど、どんなお部屋ですか?」
「えっと、1LDK。駅から徒歩10分。条件付きですが家具家電付です。今資料出しますね」
 
 サッと出されたのは、間取りと部屋の詳細が書かれた紙。
 一人暮らしには十分な広さだ。なにより駅が近いというのも魅力的。
 
 あとは、一番の問題は家賃だけど……。
 
「ええ!」
 
 視線を辿って二度見する。目を凝らしてみても、私の見間違いじゃない。
 
「さっ、さんまんえん!?」
 
 思わず声が裏返った。あまりに安くて衝撃を受ける。
 
 家賃3万って、駅から徒歩10分で?
 そんな物件、今どきありえるの……?
 心臓がドクンと跳ねて、次の瞬間にはざわざわと胸が落ち着かない。
 
 建物がかなり古いとか? 築50年とか?
 それならこの値段も頷ける。おそるおそる尋ねる。
 
「あ、あの……ちなみに築年数って……?」
「築15年です」
「じゅ、15……?」
 
 拍子抜けするほど普通だ。
 築15年なら古いっていうわけでもないから。

 だったら、どうしてこんなに安いの……?
 え、逆にこわいんだけど。

 すぐに安いのには理由があるだろう。と疑念が浮かぶ。


 好条件の部屋の紹介に、嬉しい気持ちと不安が入り交じり、頭の中では理由を必死に探す。
 
「こ、ここ。なんでこんなに安いんですか?」
「ああ、ちょっと特殊でして」
 
 川村さんは表情は曇らせて、言葉を濁した。
 
「特殊って?」
「……ここは入居条件が厳しいんです」
 
 ……なるほど? 入居条件が厳しいのか。
 家賃が安い理由と繋がるのだろうか。なにも理由もなく、家賃が安いよりはどこか安心した。
 
「その入居条件って……」
「まず、安定した収入があること」
「……はい」
 
 私は会社員だ。それなりに勤務年数も長くて、家賃を払うことに問題はないと思う。
 
「次に、身元が保証されている方」
「……はい」
 
 保証人はお母さんとお父さんにお願いしようかな。うん、きっとこれも大丈夫。
 
「最後に、猫が好きな人」
「……はい」
 
 ん? 流れで返事をしてしまったけど、今なんて言った?
 ねこがすきな人。って言った?
 
「猫がお好きなんですね。入居条件はクリアです!」
 
 返事をしてしまったせいで、肯定したと思われたらしい。川村さんは淡々と続ける。
 戸惑う私をよそに、満面の笑みを浮かべていた。
 
「あと条件の一つとして、大家さんと直接会っていただく必要があるんです。入居には、その……大家さんの承諾が必要でして」
「面談があるってことですか?」
「まあ、そんな感じですね。気に入ってもらえれば即決です」
 
 なんだ。そんなことか。
 とんでもない条件なのかと思っていたから、拍子抜けしてしまう。
 大家さんからしたら、変な人間とは契約したくないだろうし、面談があることに疑問は抱かなかった。
 
「面談は全然大丈夫ですよ」
「えーっと、桜井さんは正社員でお勤めで」
「はい」
「勤務年数は何年になりますか?」
「八年です」
 
 一度転職してから、ずっと今の会社だ。一般的に言えば、勤務年数はそれなりに長い方だと思う。
 それから、川村さんは表情を変えずに質問を続ける。
 
「いつから入居ご希望ですか?」」
 
 まるで何もなかったかのように、猫の話題はさらりと流された。
 不思議に思いながらも、私は質問に答えていく。
 
「出来るだけ早く入居したいです。今日からだとありがたいです」
「今日から? それはなかなか難しい……です、ね」
 
 川村さんは一瞬、目を丸くした。そんなの無理に決まってるだろ、と言いたげに眉があがる。
 
「……でもこの物件なら大丈夫かも」

  川村さんは小さな声で呟いた。
 それから顔をあげて、確信したような顔で続ける。
 
「出来るだけ早く……ですね。桜井さんなら大丈夫かと。お仕事されていますし、なにより条件をクリアされているので」
 
 パソコンのキーボードを叩きながら、川村さんはにこりと笑った。
 
「では、ちょっと大家さんに聞いてみます。お電話失礼しますね」
 
 川村さんはそう言うと、ポケットからスマホを取り出した。
 画面を素早くタップし、耳にスマホを近づけた。
 
「あ、大原さん。いつもお世話になっております、枡口不動産の川村です……」
 
 電話だからだろうか。声のトーンが少し上がって聞こえる。
 おそらく大家さんと話しているのだろう。
 
「はい、そうなんです。今、桜井さんという方が物件に興味をお持ちでして……」
 
 私のほうに視線を向けながら、川村さんは軽く頷いた。



 
「……あ、可能ですか? 助かります」
 
 電話口の相手の返答に合わせて、川村さんは相槌をうつ。
 ぼーっと見入っていたら、いつのまにか通話を終えた川村さんは、嬉しそうな顔で口を開く。
 
「桜井さん、大家さんがぜひ面談をしたそうです。大丈夫であれば、即日入居可能だそうです」
「即日入居可能? それは助かります。ぜひとも面談をお願いします」
 
 こうして私は、条件のよすぎる破格物件を見に行くことになった。
 好条件には、ある理由がある……とは知らずに。
 
 
 ♢
 
 私はさっそく川村さんに連れられて、アパートへ向かった。
 駅から歩いて10分。
 住宅街の奥まった場所に、そのアパートはひっそりと建っていた。
 木造二階建てで新しいとは言えないけど、思っていたより普通でちょっと安心する。

 プレートには、黒い文字でアパート名が刻まれていた。
 ――メゾン・ガトス

 まじまじと見つめていると、川村さんが補足する。


「築は古いですけど、管理状態は悪くないんですよ」
 
 たしかに敷地内の雑草はきちんと刈られていて、手入れもされている印象を受ける。
 少しばかりガーデニングスペースもあった。
 
「大家さんの趣味らしいです」
「へえ」
 
 私がガーデニングスペースを見入っていたので、川村さんが横から説明する。
 
「桜井さんが今回内見するのは……105号室ですね。中をご案内しますね」
 
 105号室。
 鍵を差し込んでガチャリと開けると、鼻にやってくる素朴な匂い。
 なんだろう。木の匂い? 少し安心するような感じ。
 部屋に入ると、床一面に敷かれた柔らかそうなカーペット。新しく変えたのだろうか。古びた印象は持たなかった。
 そして、思ったより明るい。日当たりも悪くなかった。
 部屋を見渡すと、壁紙も新しく張り替えられているみたいで真っ白だった。
 
「え、普通に良い部屋じゃないですか……」
「でしょう? 家賃からすると破格ですよ」
 
 南向きの1LDK。間取りは一人暮らしには十分な広さ。キッチンは一口コンロ。狭めだけど工夫すれば何とかなる。
 バストイレ別だし、収納も多い。
 
 駅からも徒歩圏内で、これで敷金礼金ゼロって、逆に怖いんだけど……。
 良すぎる条件ほど裏があるものだ。
 嫌な予感が背筋を走る。そして、ある疑念が浮かび上がってきた。
 
「ここって、事故物件だったりしますか?」
 
 だって、こんなにいい部屋が家賃3万円なんて信じられない。
 少なくとも、数倍ぐらいの値段が妥当だと思う。
 おそるおそる尋ねると、川村さんは顔を左右に振る。
 
「とんでもないです。事故物件ではございません」
 
 川村さんは一瞬驚いた後、きっぱりと言いきった。
 ……事故物件ではないんだ。
 疑念が晴れて、ひとまずホッとする。

「……ここ、住みたいです!」
 
 事故物件ではない。それでこの好条件。
 迷う理由がとこにもなかった。私は勢いのまま川村さんに申し出た。
 
「ありがとうございます。それじゃあ、大家さんに連絡しますね。ここで少々お待ちを」
 
 川村さんは部屋を出て電話をかけ始めた。
 私はもう一度、部屋をぐるりと見渡す。エアコン、照明。必要なものはそろっている。
 ここで暮らせたらいいな。人知れず心弾ませていた。
 
 
 
 
 ♢
 
「桜井さん。こちら大家の大原さんです」
「こんにちは。本日はよろしくお願いします」
 
 川村さんが電話をかけてから、本当に数分後の出来事だった。
 ノックのあとに現れたのは、穏やかな雰囲気を纏った初老の女性。
 背筋がすっと伸びていて、白髪が混じったショートヘアがよく似合っている。優しい雰囲気だけど、どこか芯のある佇まいだった。
 
 丁寧に会釈され、私も慌てて頭を下げる。

「いきなりきてびっくりさせたら、ごめんなさいね。私このアパートの101号室に住んでるのよ」
 
 そっか。このアパートに住んでるんだ
 だから電話一本でそのまま部屋まで来てくれたのだ。
 ……くるの早いな、と思ったけれど、それなら納得できる。



「大原と申します。桜井瑞穂さん、でしたね」
「あ、はい。よろしくお願いします」
 
 アパート契約は初めてではないけど、大家さんと面談という経験はなかった。
 緊張して、ちょっとたどたどしくなる。
 大原さんは私をじっと見つめたあと、にこりと微笑んだ。
 
「お部屋、気に入っていただけましたか?」
「はい。ぜひここを借りたいです」
「それは良かったわ。この部屋は、きちんとお世話できる方に住んでもらいたいと思っていたの」
 
 ……お世話? 何のお世話?
 言っている意味が分からない。不思議に首を傾げた、その時だった。
 
 ――コトン。
 小さな軽い音がクローゼットの方から聞こえた。
 私と大原さんが同時に顔を向ける。
 扉が半分空いたクローゼットを見入ると、陰からすっと現れた。
 丸い目がふたつ、こちらを見上げる。
 
「……え?」
 
 一瞬何が起きたのか分からなかった。数秒の間を置いて、それが猫だと理解する。
 白と茶色が混ざった柄の猫は、大原さんの足元にまっすぐ歩いてきて、足にすりすりと顔をこすってきた。
 
「にゃあ」
「え、えっ……? 猫? なんでここに……?


 もしかして迷い込んじゃったのかな。
 でも玄関ドアは閉まっていたはず。私は慌てて辺りを見回した。開いている窓もないし、当然だけど猫が通れそうな穴も見当たらない。
 
 どうやって入ってきたの?
 そんな私の困惑など気にせず、猫は大原さんの足元に体をすりよらせる。



「ふふっ」
 
 大原さんは静かに笑うと、その猫を抱きかかえた。
 
「この子、少し人見知りなの」
 
 その言い草は、猫のことを知っている感じだった。
 大原さんの飼っている猫が迷い込んじゃったのかな。
 川村さんも驚いている様子はないし、この場で戸惑っているのは私だけだった。
 大原さんは抱きかかえた猫を撫でてから、私の顔をじっと見つめた。
 
「猫はお好き?」
 
 また同じ質問をされた。
 不動産屋でも川村さんにされた質問だ。
 私は無意識に川村さんに視線を送る。すると彼は優しく微笑んだまま。
 
「嫌いではないと思います」
 
 意図が分からないので、曖昧に答えた。
 正直なところ、猫が大好きかと言われたらそうではない。
 かといって、嫌いなわけではないので嘘もついていないことになる。
 
「……あら、猫好きと聞いてたけど」
 
 大原さんは不満げな顔で、川村さんに視線を送る。
 もしかして、私失言しちゃった?
 川村さんの顔を見ると、焦った様子で視線を泳がせていた。
 状況をなんとなく察して、慌てて言いなおす。
 
「す、好きです」
 
 咄嗟にそう返事をする。
 大家さんの機嫌を損ねるわけにはいかない。そう思って言いなおしたのだ。
 
「そう、猫がお好きならいいわ。105号室は、この子です。三毛猫で名前は『ミケ』」
「この子です?」
 
 悠長に説明する大原さんに向けて、理解が追いつかなくて私は首をかしげる。
 
「この子はわりともの静かな子で手がかからないと思うわ。ただ、キャットフードは嫌いでね。猫用のごはんを作ってもらうことになるけど」
「……つ、作る?」
 
 猫用のごはんって、人が手作りすることもあるんだ。
 ……ってそういうことじゃなくて。
 話が見えてこなくて、頭が追いつかない。
 
「最初は戸惑うかと思うけど、心配いらないわ。ここの105号室はミケと暮らす部屋なの」
「猫と、暮らす? そんな、私聞いてません!」
 
 助けを求めるように、川村さんに視線をうつす。だけど彼は気まずそうに視線を泳がせる。
   
 
「猫つき物件だって、川村さんから聞いてなかったの?」
「ね……こ、つき?」
「ええ。うちで保護している子がいましてね。入居される方には、その子と一緒に暮らしていただくのが条件なんです」
 
 一瞬耳を疑った。それは今までに聞いたことないような条件だったから。
 
「家具家電付き。(条件あり)というのは……?」
「ああ、それはその猫ちゃんに合わせた猫グッズはこちらで準備してるってこと。至れり尽くせりだと思わない?」
 
 大原さんは得意げな顔で笑った。
 条件ありというのは、そういうことか。
 川村さんに部屋の情報を説明されるたびに、ところどころで引っ掛かることがあったけど。理由がわかって妙に納得してしまう。
 
 猫付き物件というパワーワードが、頭の中でぐるぐる回る。
 ……条件の収入があること、ってそういう意味で?
 猫と暮らせる金銭的余裕があるかどうかってこと?
 
「……猫と、一緒に、暮らす……」
 
 私は呆然としたままつぶやいた。
 川村さんが繰り返し『特殊な条件』と言っていた理由が、ようやくわかった気がする。
 まさか、部屋探しで猫が付いてくるとは思わなかったけど。
 
「その様子は聞いてなかったのね。まあ、無理にとは言わないわ。いやいやな人にミケを任せるわけにもいかないし」
 
 穏やかな口調なのに、落胆しているのが見てとれる。
 だけど、そんなこと言っても。私だって戸惑っているんだ。
 
 3万円でこのアパートに住めるなら、猫をお世話してもお釣りがくるんじゃない?
 そんなことを頭の中で考えはじめる。
 ただ動物を飼うって、お金がかかるっていうよね。私に務まるのだろうか。
 
「あ、あの。動物の病院代ってすごく高いって聞きますけど……」
「ああ、それは大丈夫。家賃に猫保険代も含まれてるから」
「猫保険? そんなものあるんですか」
 
 知らなかった。人間の保険と同じ感じで、病院に行く場合は、多少降りるのかな。
 それならお金の心配はそんなにしなくていいかも。
 なぜか前向きに検討し始めていて、自分が一番驚いた。
 
 だって、今の私は帰る家がない。迷っている余裕なんてないんだ。
 それにこんなにいい条件の部屋は、他に現れないと言いきれる。
 
「あの! 私、ここに住みたいです!」
 
 気づけば胸を張ってそう言っていた。
 
「私は101号室に住んでるから、なにかあればいつでも言ってね」
 
 大原さんの腕の中にすっぽりと納まったミケは、ゴロゴロと喉をならしている。
 
「桜井さんなら、大丈夫そうね」
 
 正直、猫については素人同然の知識しかない。
 不安を拭うような、大原さんの優しい声はやけに胸に響いた。
 
 
 
 ♢
 
 契約は思ったよりあっさり進んだ。
 大原さんは「猫が嫌いじゃなければ大丈夫よ」と笑い、必要書類に迷いなく印鑑を押してくれた。
 その日のうちに鍵を受け取り、私は手持ちの荷物だけで引っ越し完了となった。
 物が少ない新しい部屋に、猫グッズだけが常備されていて、なんとも不思議な空間。
 立ち尽くしながら、私は深く息を吐いた。
 
「……ふう。とりあえず、部屋が見つかってよかった」

 即日入居できるなんて思っていなかった。
 しばらくはホテル暮らしを覚悟してたので、本当に良かったと思う。

 

 最低限の荷物を置いただけの部屋は、まだ自分の家という実感は薄い。けれど、前のアパートで感じていたような窮屈感はなくて、気持ちが少しだけ軽くなった。
 
「桜井さん、少しいいですか?」

 ノックの音と共に、大原さんの声が聞こえた。
 私は慌てて玄関に向かった。ドアを開けると、にっこり笑う大原さんは、ミケを抱きかかえていた。
 
「今日からよろしくお願いしますね」
「こちらこそ……よろしくお願いします」
 
 大原さんの腕の中にいるミケが、腕の中からしなやかに降りた。
 それから私の足元まで歩いてくる。
 自然と屈みこんで、ミケの視線に近づいた。
 おそるおそる手を差し出すと、あたたかい息が指先にふわりとかかる。
 ――クンクン、と鼻がわずかに動いているのが見えた。
 
 まるで見定めされているかのような気持ちになって、少しだけ緊張する。
 それから、金色に近い琥珀色をした瞳が、数回まばたきをした。
 
「……かわい」
 
 無意識に声がこぼれた。
 しっぽは細くて長くて、つやつやの毛並みは思わず撫でたくなる。
 思っていたより、警戒されていないようで、ちょっと安心した。



「今日から一緒に暮らすんだね。よろしくね、ミケ」
 
 そう言うと、ミケはまるで返事をするように「にゃ」と鳴いた。
 
「ふふっ、桜井さんのところでなら、きっと安心して暮らせるわ」
 
 慣れない手つきで毛並みを撫でると、ミケはまるで歓迎するかのように目を細めた。
 ミケは「にゃあ」と短く鳴き、尻尾を揺らす。


 ――こうして、私とミケの新しい暮らしが幕をあけた。
 
 
 
 
 ♢

 改めて部屋を見渡すと、猫の眠る場所なのだろうか。ドーム型の小さなベッド。それに猫トイレもきちんと供えられていた。
 その時思い至る。

 『備え付き』ああ、そういうことか。
 家具家電ならぬ、猫用品が備え付きってことだ。
 なんだかおかしくなってきて、ふっと笑ってしまった。


「君はもうトイレも覚えてるのかな? すごいね……」

 おそるおそる声をかけると、ミケはぴくっと反応したあと、避けるように身を隠されてしまう。

「……まだ初日だもんね」

 
 ああ、そういえばごはんを食べていなかった。
 しばらくして気づいた途端、胃の奥がきゅっと縮む。

 それは空腹の痛みというより、食べることそのものに対する恐怖の反応だった。
 恭平くんに言われ続けた言葉は、思っていた以上に深く刺さっていて、食事をする習慣そのものが消えてしまっていた。



 まあ、食べなくてもいいか。
 最近の私はいつもこんな感じ。
 お腹が空いているかどうかも、正直よく分からない。
 食べようとすると胸がざわつくから、無意識に「食べない」という選択をしてしまう。
 
 ふと視線を落とすと、ミケが丸い目でこちらを見ていた。
 私はよくても、この子も同じっていうわけにはいかないか。
 
「……君は、お腹空いてるよね」
 
 そう声をかけると、返事のように「にゃあ」と短く鳴いた。
 小さな口からこぼれたその声が、まっすぐ私に届く。
 
「……そっか。だよね。食べたいよね」
 
 ミケは尻尾を上げて私を見上げた。その視線はごはんを期待しているように見える。
 その仕草が可愛くて、無意識に口元がゆるむ。
 
 そうだ、私のことはいいけど、ミケのごはんは別問題。
 しっかり作らなきゃ。

 大原さんから聞いた話によると、ミケはキャットフードが嫌いらしい。
 それなら、ごはんは私が作らないといけない。
 
 ふと思い出して、テーブルの上に置きっぱなしだった紙を開いた。
 そういえば、大家さんがミケのごはんのレシピをくれてたっけ。
 帰り際に「この子はキャットフードが食べられないからね」と渡された紙。



 
「よし……まずは買い物だね」
 
 そう独り言をこぼすと、ミケがまた「にやあ」と鳴いた。
 まるで背中を押してくれるみたいで、これはいかないといけないなと、決心が固まる。



 とはいえ、引っ越してきたばかりでこの辺りにどんなお店があるかは、まだ把握できていなかった。
 とりあえず、猫のごはんの材料だからスーパーに行けばいいかな。
 
 スマホを取り出し、ここの住所とスーパーを入力すると、すぐに数件をピックアップしてくれた。
 あ、ここいいかも。徒歩5分と書かれてるスーパーに行くことにした。
 
 住宅街の細い道をしばらく歩くと、小さめの看板が目に入った。
 ここだ。ガラス越しに見える店内は広くはないけれど、人はそれなりに入っているように見えた。

 自動ドアを抜けて店内に入ると、いろんな匂いが混ざった独特な匂いが鼻をくすぐる。
 大原さんからもらったレシピが書いてある紙を広げた。
 店内を見渡しながら、材料を探していく。
 

「えっと、猫にネギ類はだめらしい……」
 
 へえ、そうなんだ。わかりやすく赤文字でそう書いてあった。
 
「むね肉と、人参……」
 
 書いてある食材それぞれ買い物かごに入れていく。
 ついでに自分のごはんも買おうと手を伸ばして、ぴたりと止まる。その瞬間心がひりついてしまった。
 途端に胸がざわついて、息苦しさを覚えた。
 
 息を吸って、吐いて。簡単な動作を繰り返し、なんとか気持ちを落ち着かせる。
 食材の入ったかごを持ってレジに向かった。
 
 なんとか会計を済ませ、スーパーを出る。
 外の空気を深く吸い込むと、少しだけ体が軽くなった。
 
 ……帰ろう。ミケにごはんを作らないと。
 その思いに支えられるようにして、重い足を引きずって家に向かった。



 
 
 
「……ただいま」
 
 スーパーの袋を持って帰宅すると、自然と「ふう」とため息が出た。
 慣れない場所での買い物は、思っていた以上に神経を使う。
 
 視線をあげると、リビングにミケがちょこんと座っているのが見えた。
 
「ミケ、ただいま」
 
 反射的に挨拶をすると、ミケは買い物袋へ歩み寄ってきた。
 どうやら気になったようで、袋の外側を鼻を近づけて、ひくひくと嗅ぎ始める。
 今度は中を覗いて、興味深そうに確認しているように見えた。
 
 やがてミケは袋から視線を上げ、私に視線を向けた。
 ミケは小さく「にやあ」と鳴いた。
 その泣き声が「作ってくれ」と言っているように聞こえて、やる気の出た私は腕の袖をまくった。
 
 キッチンに袋を置き、買ってきた胸肉や野菜を一つずつ取り出す。
 ……料理なんて、いつぶりだろう。
 
 恭平くんに食べることに口を出されるようになってから、料理をする回数は減っていた。
 作っても文句を言われるし、自然と宅配サービスを使うことが増えた。
 私以外が作ったごはんなら、文句を言わないし、その方が気が楽だったから。

「どれどれ、大原さんのレシピを見てみよう」
 
 達筆で書かれたレシピを読み込、作り方を確認する。
 むね肉、人参、全部一緒に炊飯器で調理するみたい。
 意外と簡単な料理工程だ。これなら私にもできそう。
 
 
 あれ、炊飯器って買わないといけない?
 一瞬焦って見渡すと、すぐに炊飯器を見つけた。
 猫グッズは常備済みと聞いたけど、炊飯器もしっかり備え付けてあった。
 
 
 まずは人参の皮をむいて、猫が食べやすい大きさに刻んでいく。
 結構刻んだ方がいいのかな。
 大原さんのレシピは丁寧にイラスト付きだった。料理がまだまだな私にとって、凄く助かる。
 
 次に胸肉の下ごしらえをする。皮をむこうとすると、手ですんなりとれた。
 その時もミケは待ちきれないと言わんばかりに、私の足元から離れない。
 
「ふふっ、もうすぐできるよ」
 
 食材を炊飯器に豪快に入れて、水も加える。どうやらこれだけらしい。
 スイッチを押すと、機械的な音が鳴り始める。
 
 
「ミケ、少し時間がかかるから、もう少し待ってね」
 
 そう伝えると「にゃあ」と鳴いた。まるで本当に言葉を理解しているかのようだ。
 それからミケは、リビングの掃き出し窓のところで体を丸くする。ちょうど日が当たって、あたたかそうだ。
 
 私もミケの隣に座って、窓から外を見上げた。
 雲ひとつない青空が広がっている。
 
 こういう時間っていいなあ。
 ただ空を眺めているだけなのに、気持ちが軽くなるようだった。
 
 脳裏に浮かぶのは、恭平くんと暮らしていた日々。
 楽しい時間もあったはずなのに、今では思い出せない。
 縛られていた自分の時間が、ゆっくりと進み出すようで、なんだか嬉しくなった。
 ミケの存在も、さらにその感覚を深めてくれた。
 
 
 
 
 
 ~♪
 炊飯器から軽やかなメロディーが流れ始める
 炊きあがりの知らせの音だ。
 
「あっ、ミケのごはんできたみたい」
 
 そういうと、ミケの耳がピクリと動いたような気がした。
 
 
 さっそくキッチンに向かって、炊飯器の蓋を開ける。
 ふわりと優しい匂いが鼻に抜ける。
 なんだか懐かしくて、無意識に目を細めた。
 
 
「初めてだから、成功かわからないけど、いい感じかな?」
 
 しゃもじでゆっくり混ぜ合わせると、熱のこもった湯気が顔にかかる。
 ミケが足元でうろうろと歩き回っている。楽しみにしてくれてるのがわかって、私まで嬉しくなる。
 
 ……あれ、そういえば全然いやな気持ちになってない。
 
 炊き立てのごはんの匂いにも、嫌悪感を抱くようになっていたのに。
 そのことに、自分でも少し驚く。



 ミケのためのごはんだからなのかな。
 自分の感情を不思議に思いながら、猫用のお皿にそっと盛りつける。
 
「これを冷めてから……ね。そうだ、猫って猫舌っていうもんね」
 
 じっと座り込んでいるミケに向けて説明する。
 
「もうちょっと待っててね。今は熱いから」

 前足をきちんと揃えたまま、私の顔を見上げてくる。
「まだ?」とでも訴えるような丸目がかわいくて、思わず頬がゆるむ。
 熱が引くまでの時間が少しだけ愛おしく思えた。
 
 
 
「よし。そろそろ平気かな」
 
 時間が経って余熱が取れた。私は指先でそっと触れて、ミケが食べても平気な温度かどうか慎重に確かめる。

「ミケ~。ごはんできたよ」
 
 呼びかけた途端、たたたっと軽い足音が響き、ミケが今まで見た中で一番の勢いで飛んできた。あまりの速さに、思わず目を見張る。
 
 
 お皿に顔を近づけ、まずは一口ゆっくり食べた。。
 ほんの一瞬だけ首をかしげるようにして止まり。そのあと、何かが弾けたように勢いよく食べ始めた。

 ――ぱく、ぱく、ぱく。
 小さな体からは想像できないほど夢中で、その勢いは心配になるほど。
 
「そんなに……おいしい?」
 
 無言で食べ続けるミケの姿が、問いの答えなような気がした。
 
 ミケの咀嚼音が静かな部屋の中に小さく響く。
 なんだか愛おしくて、しばらく食べているミケを眺めた。
 
「作ってよかった」
 
 自然とこぼれた一言に、自分でも驚いた。
 食べ物を見ることすら、嫌悪感を抱いていたのに。
 今はミケの食べる姿が、こんなにも愛おしい。
 
 
 
 ♢

 それから新しい部屋と、ミケとの暮らしにも慣れたころ。
 ミケのごはん作りは、私の毎日の習慣になっていた。
 
 
 以前は胸を締めつけていた料理をする時間が、今では不思議と落ち着く時間になっていた。
 私がキッチンに立つと、ミケはいつものように足元で丸くなる。
 料理をする私を見守ってくれているみたいに。

 これはあとから知ったことだけど……。
 キャットフードは嫌いと聞いていたけど、どうやら缶詰なら食べれるみたい。
 
「ミケ、今日は少しだけ缶詰もあげてみようか?」

 試しにスーパーで買っておいた猫用の缶詰を開けてみた。
 ミケに少し匂いを嗅がせようと思って皿に出しただけだったのに、ミケは躊躇なく顔を突っ込み、あっという間にぺろりと食べ終えたのだ。
 
「……え、食べるの? 缶詰、食べられるの?」

 驚いて動揺したのを覚えている。
 ずっと手作りじゃないと食べない子。と思っていたから。
 拍子抜けというか、なんというか……。
 
「……もっと早く言ってよね」
 
 嬉しいことではあるけど、おかしくなって一人で笑ってしまった。
 



 ミケが缶詰を食べるのはわかった。
 それでも、私がキッチンに立つ回数が減ることはなかった。
 ミケがぱくぱくと食べる姿を見ると、私の気持ちまで軽くなるような気がして。
 
 胸肉をほぐして、野菜と混ぜ合わさったごはんをお皿によそう。
 ミケは勢いよくぱくぱくと食べ始めた。
 
「いっぱい食べてね」
 
 ふとキッチンに目を向けると、ミケ用に作ったごはんが少しだけ残っていた。
 胸肉と野菜の、素材のやわらかな匂いがふわりと鼻をくすぐる。
 
 これって私が食べたっていいんだよね。
 そう思った瞬間、胸の奥がざわついた。
 
 
「それ食べるんだ?」
「痩せるって言ってなかった?」
「どんだけ我慢できないんだよ」

 恭平くんに言われた棘のような言葉が、久しぶりに脳裏をよぎる。
 
 息苦しさを覚えて胸を抑えたその時――。
 ミケの小さな口から聞こえる咀嚼音が耳に届いた。
 
 
 息苦しさが消えて、そっと腕を降ろす。
 そうだ、ここにはあの頃の自分を縛りつける声はない。
 視界の端では、ミケがごはんを必死に食べている。
 その姿がかわいらしくて、また気持ちが軽くなる。
 
 私はスプーンを手に取って、お皿に残っていた柔らかい具材をすくった。
 口元まで持っていくと、指先がかすかに震える。
 怖い……でも。
 意を決して、そっと口に運んだ。
 
 思っていたよりずっと優しい味が広がった。
 塩気もほとんどなく、食材そのものの甘さが口に広がる。
 なにより、これがミケが喜んで食べてくれた味だと思うと、ほっこりした気持ちになった。
 
「……おいしい」
 
 人間用に味をつけたわけではないから、美味しいと言っていいのか分からない。
 だけど、私にとっては、泣きたくなるほどおいしい味だった。
 
「ごはんって、こんなにおいしいんだ」


 そんなあたりまえのことを、私は忘れていたのかもしれない。
 一口、二口、次々と口に運んでは、ゆっくりと噛み締めた。
 
 
 自分でも気づかないうちに、頬が濡れていた。
 いつのまにかぽろぽろと涙があふれていたんだ。
 
 一口、二口、喉を通ると、お腹が満たされていく感覚。
 空腹感を思い出したような気がした。
 
「食べることって、悪いことなわけないじゃん」
 
 食べることは、体をつくること。
 食べることは、自分を労わること。
 
 無意識に上書きされてしまった『食べることはだめなこと』その言葉は、すっと消えていく。
 忘れていたおいしいを、教えてくれたのはミケだった。
 
 
 スプーンを握ったまま、私は声を出さずに泣いていた。
 頬を伝う涙がぽろぽろ落ちていく。
 
 ごはんを食べ終えたミケが、静かに歩み寄ってきた。
 足元で立ち止まり、私を見定めるように見つめてくる。
 
 ミケはそっと私の膝に前足をかけ、顔をぐっと近づけてきた。
 次の瞬間、こぼれた涙をぺろっと舌でなぞった。ざらりとした感触が頬に残る。
 
 驚いてミケを見ると、もう一度じっと私の顔を見上げてくる。
 あまりに驚いて、知らず知らずのうちに涙はぴたりと止まっていた。



 慰めようとしたのか、ただの好奇心からなのか。
 真相はわからない。
 だけど、ミケのおかげで、また優しい感情が芽生えた。
 
 
 
 ♢


 それから数日後。
 休日をのんびりとミケと過ごし、窓から差し込む光が部屋をやわらかく染め始めた時だった。
 玄関のチャイムが鳴る。
 
「……誰だろう」
 
 ドアを開けると、そこには大家の大原さんが立っていた。
 にっこりと優しい笑みを浮かべている。
 
「桜井さん。少しだけ、お時間いただけるかしら」
「はい、どうぞ」
 
 私は大原さんを部屋に招き入れた。
 大原さんは部屋を見回していく。まるで検査されているような気持になって、緊張感が走る。
 
「どうですか? ミケとの暮らしは……」
「助かってます」
「助かる?」

 大原さんは眉をひそめ、こちらを振り返った。
 その表情に、私は慌てて顔を振る。

「あっ、違うんです! その……ミケがいてくれると、すごく、落ち着くというか……」
 
 言葉が追いつかなくて、説明しようとしても喉の奥でつかえてしまった。

 最初は、ただ家賃の安さに惹かれただけだった。
 行き場がなくて、切羽詰まった状況で選んだ部屋。
 それが本音だ。
 だけど……今ではミケと暮らすこの暮らしが、なくてはならないほど大切なものになっていた。

 ミケがそばにいてくれたから『食べるのが怖い』その呪縛を断つことができた。
 
 大原さんはミケを見下ろして、ゆっくり口を開いた。
 
「もしね、大変であれば……引き取りますよ。条件付きとはいうけど、私にとってはこの子たちが一番大事なの。入居者の人が無理されていないかと思って」
「待ってください!」
 
 思わず声が大きくなった。
 自分でも驚くほど必死な声が、静かな部屋に響く。

「大変なんかじゃありません。ミケが……いてくれて、本当に助かってるんです。ごはんも……少しずつ食べられるようになって……」
 
 やっと絞り出した声は震えていた。するとミケがそっと足元に寄り添ってきて、体を足に預けてくる。
 全部この子のおかげなんだ。
 
 大原さんはふっと優しく笑う。

「あら、ミケは桜井さんがいいのね」
「え?」
「だって、私じゃなくて桜井さんの方にすり寄ってるでしょ。最初は私の方にいたのにねえ」
 
 ミケは私の足元から離れない。大原さんの言葉を聞いて、記憶が手繰り寄せられる。

 ミケと初めて会った日。
 たしかにあの日は、大原さんの足元にすり寄っていた。
 
「ちょっと心配してたけど、もう安心ね。ミケは人を選ぶ子だから……きっと、桜井さんが好きなのよ」
「……そうなんでしょうか」
「ええ。そうよ」
 
 ミケは「にやあ」と短く鳴いた。タイミングがよくて、大原さんと視線が重なる。その瞬間、どちらからともなく笑い合った。

「桜井さん、改めて105号室に入居してくれてありがとう。これからも、よろしくお願いしますね。ミケのことも……」
「もちろんです。こちらこそよろしくお願いします」

 私が軽く頭を下げて言うと、大原さんは安心したように、表情を穏やかにして部屋を後にした。
 


 
 105号室。
 ソファに腰を下ろし、テレビでも見ようかな。そう思った時だった。スマホが震える。
 画面には見たくなかった名前が表示された。

「……恭平くん」

 その名前を見ても、不思議と動揺しなかった。自分でも驚いたくらいだ。
 通知を開くと短い文面が並んでいた。


『久しぶり。元気にしてる?』
『いつ戻ってくんの?』


 私の気も知らないで、勝手なことばかり。
 深呼吸をして短い返信を打つ。

『もう帰りません。連絡先も消します。今までありがとう』

 数秒考えて最後の文字を打ち込む。

『私、食べることが好きだったみたい。前の生活より今の生活が幸せ』

 送ってすぐに既読の文字がついた。
 それを確認してから、彼の連絡先をブロックする。

 一方的に自分の声を言い逃げして、満足げな顔になる。
 もう、恭平くんの意見なんて聞いてやらない!
 大丈夫。これからは、私の時間を生きるんだ。

 ずっと心に潜んでいたモヤが晴れたような気がした。
 腕を伸ばして背伸びをすると、ミケも真似するように、ぐーんと背中をしならせた。

「ふふっ、かわいい。これからも一緒にいてね」

 今の私にとってミケのいない生活はもう考えられない。ミケの背中をそっと撫でた。
 
 ミケはゴロゴロと小さくのどを鳴らし、私の隣にちょこんと座った。
 
「あ、初めてゴロゴロ鳴らしてくれた」
 
 認めてもらえたようで、嬉しくなる。
 ミケのいる暮らしが、ずっと続いてほしい。
 その気持ちを伝えるように、私はミケをゆっくり撫でた。
 
 
 
 
 

 ♦︎


「川村さん、お世話になっております。ええ、空いてますよ。今は201号室が空室ですね。新しい入居者ですか? ええ、大歓迎ですよ」
 
 101号室。このメゾンガトスの大家の住む部屋だ。
 電話口で穏やかに答えながら、大原は窓の外に目を向けた。
 

「ただ、条件がありまして……。入居希望の方は、猫はお好き?」
 
 メゾンガトス。
 建物の名前の通り、猫とともに棲む家。

 駅近、敷金礼金なし。家具家電付き(条件有)
 家賃3万円
 
 ……ただし、猫好きに限る。
 

 そんな不思議な入居条件のあるメゾンガトス。
 誰かの心をそっと救ってくれる部屋なのかもしれない。