夜はまだ明けない。

それでも、宮の奥では何かが音もなく崩れ始めていた。



静華の間での戦いから数刻。

花と朱皇は後宮の奥の離宮へと運ばれ、侍医たちが慌ただしく行き交っている。

朱皇の傷は深かったが、あの場で見せた強靭さのとおり、命に別状はないと告げられた。



けれども——。



花の胸の奥は、奇妙な震えで満たされていた。

恐怖ではない。

何か呼ばれているような感覚だった。



朱皇が眠りに落ちた部屋の隅で、花は膝を抱え、灯火の揺れに視線を落としていた。

律と露も近くにいるのに、その気配すら遠く感じる。



呼ばれている。

どこへ?

誰に?



その時、外の風が一瞬だけ鋭く吹き込んだ。

灯りが細く揺らぎ、影が床に流れ込むように伸びる。



胸が、きゅう、と締めつけられた。



——来い。



声がしたわけじゃない。

けれど、確かに呼びかけがあった。

花の血の底、もっと深いところで。



「……っ」



堪えきれず、花は立ち上がった。



律が気づき、急いで振り返る。



「花様?どうされました……」



露も歩み寄るが、花は首を振る。



「……ごめん、ちょっと……息を吸いたくなったの。すぐ戻るから」



「外はまだ危険です!せめて誰かを——」



「大丈夫、ひとりで行きたいの。行かなくちゃいけない気がするの」



自分でも理由にならないことを言っている。

だが、止められたら二度と戻れない気がした。



律と露は迷ったが、あの戦いを見ていた彼女らには、花の瞳の決意が普通ではないことも分かったのだろう。

二人は視線を交わし、小さく頷き、花を送り出した。



花は廊下を歩く。

足元が自然と道を選ぶ。

まるで何かに導かれているように。



ふと気づくと、後宮の北側——。

通常は宮女でも近づけぬ、古の一角へと来ていた。



そこには翠色の玉石で封じられた扉があり、ずっと昔から閉ざされたままだったはずだ。



近寄る者はいない。

好奇心で覗こうとする者すらいない。

それほど、その扉は異様な気配をまとう。



なのに——。



扉の前に、ひとりの影が立っていた。



蒼璃だった。



薄闇の中でも、その瞳の鋭さが分かる。

剣は抜かれていない。

けれど、その佇まいには戦場の気配があった。



「……やはり、来たな。花」



花は息を呑む。



「どうして……ここに」



「理由は単純だ。お前の血が、この扉を開けるからだ」



胸が痛むほど強く脈打ち、指先が冷える。



「……私の……血……?」



「そうだ。ずっと封じられてきた史書から消された血筋。帝家の中でも最も深く、危険とされた系譜。それがお前の母——紫苑の一族だ」



紫苑。

その名を聞くだけで胸の奥がひりつく。



蒼璃はゆっくりと続ける。

声は冷たいが、その奥にあるのは憎しみではない。

むしろ、真実を告げるための覚悟だった。



「朱皇兄上は知らぬ。父帝も隠した。だが……お前は帝の花などと優しく呼ばれる存在ではない。お前は本来、帝を選ぶ側の血だ」



花は理解できなかった。

いや、拒んでいたのかもしれない。



「……違う。私は……灰被りで……奉公娘で……そんな、大層な……」



「違わぬ。むしろ、お前だからこそ、あの扉が呼んでいる」



蒼璃は後ろへ一歩引いた。

扉が花に向かって、わずかに震えたのだ。



本当に呼んでいる。

花を。



蒼璃が静かに言う。



「開けろ。お前の出生を知りたくば、ここを越えるしかない。朱皇の血と、お前の血が、どんな運命を背負っているのかをな」



花は扉に手を伸ばし——触れた瞬間。



翠玉の封印がひとりでに砕け落ち、白い光が外へあふれ出した。



その光に飲み込まれながら、花は振り返る。

蒼璃が、微かに笑ったように見えた。



「行け。真実を知り、それでも兄上を選ぶのか……見届けてやる」



花は光へと吸い込まれた。

足元を失い、風のない空間を落ちていくような感覚に包まれる。



そして——。



白の殿に、ひとり立っていた。



高い天井、無数の古い巻物、万年の時を超えて閉ざされた記録の山。

その中央に、ひとつの石台があった。



花が近づくと、不思議なことに巻物がひとりでに開いた。



そこに記された名——。



「紫苑。禁裏・帝家守護の系譜」



花の胸が震える。

目の奥が熱くなる。

覚えている。

母の、あの穏やかな声。

毎晩聞かせてくれた、優しい子守歌。



あれはただの歌ではなかったのだ。



――帝家を護る、古の呪歌。



巻物の次の頁がひらりと捲れた。



そこに記された、血の系譜。



紫苑。

そして、花。



名が、確かに刻まれていた。



「……私……帝を……守るために、生まれた……?」



答える者はいない。

けれど胸の奥が熱を帯び、光が脈打つ。



目を閉じると、朱皇の姿が浮かんだ。



あの人が、倒れた瞬間。

血が滲んだ衣。

それでも花を見つめた、優しい瞳。



守りたい——。



その気持ちは、ずっと前からあった。

でも今、その想いは血に刻まれた本能のように深く響いている。



「私は……朱皇陛下を……守りたい」



「それが……私の、選ぶ道……」



石台が光を放つ。

巻物が全ての頁を開き、白い布のような光が花の胸に吸い込まれていく。



花は瞳を開き、強く息を吸う。



縛られていた何かが、ほどけたような感覚。

けれど、重い使命の影も感じる。



——戻らなければ。

朱皇のもとへ。



そう思った瞬間、白い殿が淡く揺れ、花の身体は元の世界へと弾き出された。



光が収まった時、花は扉の前に立っていた。



蒼璃が静かに問う。



「真実を得た顔だな。花、選んだのか?」



花は迷いなく頷く。



「はい……私は……陛下を守るために生まれました。なら、私はこの力を……陛下のために使います」



蒼璃の瞳がわずかに揺れる。

彼は花の答えが気に入らないはずなのに、どこか安堵したようでもあった。



「……愚かにも、強い。兄上が……惹かれるわけだ」



その言葉に花は息をのむ。



蒼璃は背を向け、低く言い残した。



「戻れ。兄上は……お前の名を呼び続けている」



花は走った。

朱皇のもとへ。

自分の選んだ場所へ。

帝の許嫁としてではない。

帝を護る者として。






朱皇の腹を貫いた刀は、柄の奥まで深く沈み込んでいた。



 その一撃は、互角を保っていた戦いの均衡を一気に崩し、朱皇の身体からは温かい赤が静かに流れ落ちてゆく。



ただ、朱皇は叫ばなかった。苦しみに顔を歪めることすらせず、相手に一瞬の勝利の味を覚えさせることさえ拒むように、ただまっすぐ立ち続けた。



 刀を握る敵、黒縄の呼吸の使い手。その目には勝利の色が宿りかけていたが、朱皇の沈黙がその感情を鈍らせる。



「……倒れろよ。腹を貫かれて立つ奴なんざ、見たことねぇんだよ」



 羅刹は吐き捨てるように言いながら、刀を引き抜こうとした――が。



 朱皇の左手が、ぎり、と刀の刃を掴んだ。血が流れるのも構わず、朱皇はその刀を自らの腹へ押し込ませないよう押さえ込んでいた。



 羅刹の指先に、微かな震えが走る。



「……人間じゃねぇのか、お前……」



 朱皇はようやく口を開いた。



「……人間だよ。ただ――守りたいものを持ってるだけだ」



 その声音は、かすれていて、それでも不思議と凛としていた。



 刀を握ったまま、朱皇は一歩踏み込む。

 身体の奥を灼く痛みがあった。視界がぼやけかける。しかし、止まれなかった。



 ――花を、守る。



 それだけが、倒れない理由だった。



 羅刹は嘲るように笑ったが、その笑みには焦りが混じっていた。



「まだ戦えるつもりか……!貫かれてるんだぞ!」



 朱皇は返さない。ただ足を踏み出し続ける。

 その姿は、もはや闘技の域ではなかった。

 静かで、まるで祈りのような歩みだった。



 羅刹は攻撃を続ける。しかし朱皇はかわす。

 腹を押さえた片手で、もう片方の手だけで、しなやかに、そして鋭く。

 羅刹の攻撃は当たりそうで当たらない。



 戦いの場の空気が変わり始めていた。

 まるで朱皇の意志が空間ごとねじ伏せてゆくように、風が止まり、時間さえ引き延ばされているように感じられる。



「やめろよ……なんなんだよ……お前……」



 朱皇が歩み寄るたびに、羅刹は後退した。

 怒りも、恐怖も、混ざっている。

 その瞳に映る朱皇は、人ではなく揺るぎない灼光そのものだった。



 腹の傷からは、赤が流れ続ける。

 命が刻まれるように、足元に点々と滴る。

 それでも朱皇の眼は揺れなかった。



 ――花の泣く顔を、二度と見たくない。



 その一念だけで、朱皇は戦っていた。




 羅刹は奥歯を噛み、残る力を全て刀に込めた。



「なら――これで終わりだァ!」



 全身をひねり、黒縄の呼吸の奥義を叩き込む。

 その軌跡は闇の縄のように蠢き、触れれば生きた肉を断つ確実な刃。



 だが朱皇は、ほんのわずか……指先ほどの幅で横にずれた。



 息をしているのかもわからない動きだった。

 痛みと出血で限界を超えているはずの身体が、まるで幽霊のように軽く動いた。



 羅刹の目が絶望で見開かれた。



「な……っ……!」



 朱皇がようやく口を開く。



「……これで終わりだ。花が待ってる」



 次の瞬間、朱皇は刀を抜かれた腹から溢れた赤を無視し、一気に踏み込んだ。

 拳が、まっすぐ羅刹の胸へ突き刺さる。



 轟音はない。

 ただ、羅刹の身体が大きくのけぞり、壁へ激突し、崩れ落ちた。



 立ち上がれない。

 決着だった。




 勝利の余韻を感じる暇もなく、朱皇は膝をついた。

 腹の傷から血が溢れ続け、息が浅く、指先の震えが止まらない。



 そこへ駆け寄ってくる足音――花だった。



「朱皇っ……!!」



 花は勢いよく膝をつき、朱皇の肩を抱いた。

 その手が震え、瞳から涙があふれそうになっている。



「なんで……そんな無茶して……!死にますよ……」



 朱皇はかすかに笑った。



「……死ねない。花との約束、まだ守れてない」



「約束……?」



「……もう二度と泣かせないって」



 花は堪えきれず、朱皇の胸に顔をうずめた。

 そして震える声で言う。



「泣くよ……!あなたが傷ついたら……泣くに決まってるじゃないですか……!」



 朱皇は、花の髪をゆっくり撫でた。



「……ごめん。でも、守りたかったんだ。俺は……花が見てる未来に、ちゃんと立っていたい」



 その言葉に、花は顔を上げる。

 朱皇の瞳には、痛みよりも強く、揺るぎない光が宿っていた。



「朱皇様……」



「花が、俺の救いだから」



 花の頬を、一筋の涙が伝う。

 けれどその表情は、泣き顔の中に確かな笑みも宿していた。



「だったら……生きてよ。必ず。 私を守りたいって思うなら、私にも……あなたを守らせて」



 朱皇は頷く。



「……これからは、二人で生きる」




 戦いの最後の音が、世界から消えた。



 風が止まり、土埃がゆっくりと落ちていく。



 朱皇の拳に残っているのは、わずかな痛みだけ。

 対峙していた羅刹は、壁際で完全に沈黙し、動く気配は一切ない。



 すべての戦いが……ようやく終わったのだ。



 朱皇は大きく息を吐き、腹に手を当てる。

 刀が貫いた部分はまだ赤く濡れていたが、彼の体は信じられないほど安定していた。



 痛む。しかし、折れない。

 花との約束が、そのまま身体を支えているようだった。



 地面には、夜の激闘の名残が点々と横たわっている。

 焦げた土、ひび割れた地面、斬り口、無数の傷跡。



 だが、さっきまで暴れていた影の一つとして動くものはもうない。



 長い夜だった。

 あまりに長すぎて、今がどこにいるのか、時間の感覚すら失いかけていた。



 朱皇は、静寂に満ちた大地の真ん中で、ゆっくり目を閉じる。



 ——終わったんだ。



 その事実だけが、胸の奥を温かく満たしていく。




 花の肩は震えていた。

 泣いているのか、安心して力が抜けたのか……多分どちらもだ。



 東の空が、わずかに薄い青を帯びていく。

 まだ夜の名残は濃いのに、確かに朝が来ようとしていた。



 朱皇と花はゆっくり立ち上がった。



 羅刹の姿も、倒れたものたちの姿も、もう二度と動き出すことはない。



 この地で繰り広げられた激闘のすべては、夜の底へ沈んでいき、朝だけが静かに訪れようとしている。



 朱皇は花の手を取った。

 その指は温かく、柔らかく、震えていたが……強かった。



 花が囁く。



「……朱皇様。こんな場所に、あなたを置いておきたくない」



「……ああ。行こう。これからは……戦いじゃなくて、生きる方へ」



 二人は並んで歩き始める。

 ゆっくり、確かに、一歩ずつ。

 夜の名残を踏みしめ、朝の光を目指して。



 歩くたびに、戦いの痕跡が背後へ遠ざかっていく。



 轟く叫びも、振るわれた刀の軌跡も、拳の重みも、すべてが朝の手前で消えていった。



 朱皇は花の横顔を見る。

 花も朱皇を見返し、柔らかく微笑んだ。



 それだけで、胸が満たされる。

 戦いの痛みも、夜の恐怖も、すべてが今ここにいるという実感に変わっていく。



 東の空が静かに明るくなる。

 淡い金色が空へ伸び、影だった世界を溶かしていった。



「なぁ、花」



「はい?」



「……生きててよかった。一緒に、この朝を見られてよかった」



 花は朱皇の手をぎゅっと握る。



「うん。私も……心からそう思う」




 夜が終わった。

 朱皇の長い戦いも終わった。

 守りたいすべてを抱えたまま、朝へ進む道がはっきりと見える。



 もう誰も、二人を傷つけるものはいない。

 もう誰も、朱皇の光を奪えない。



 そして――。



 静かな朝の中、朱皇と花はゆっくりと歩き続けた。



 まるで物語が静かに幕を閉じていくのを知っているかのように。

 もう次の戦いなど存在しないと、世界が優しく教えてくれるかのように。




__番外編__





戦いの夜が明けて数日。

 朝の光は柔らかく、風はやさしく、宮中はようやく落ち着きを取り戻していた。



 だが二人には、少しだけ慣れない時間が訪れていた。



 それは、何の敵も、陰謀も、危険も存在しない自由な朝。



 朱皇にとっては久しく味わったことのないものだったし、花にとっても、奉公でも後宮のしがらみでもない、ただの朝というのは不思議なくらい静かだった。



「朱皇さま、今日は……本当に、お休みでいいのですか?」



 花が控えめに確認すると、朱皇は苦笑した。



「俺が休むと言ったら、周囲が勝手に動いてしまったんだ。これ以上倒れられては困るとか、朝まで戦う帝は初めて見ただとか……」



 花は思わず笑ってしまった。



「まぁ、あれだけ戦って……腹まで貫かれて……それで歩いて帰ってきたら、驚かない人はいませんよ」



「だからこそ、今日は俺も休んでくれと言われた。なので、花。今日は一日、お前と過ごす」



「えっ……そ、そんな、私なんかで……」



「私なんかは禁止だ」



 朱皇は花の額に軽く指を置いた。



「お前は俺が選んだ。理由が欲しいなら、いくらでも言ってやる」



 花は顔を真っ赤にしてうつむく。



 その姿すらいとおしいと思ってしまう自分が、朱皇には少しおかしく思えた。




 その日の宮中は、珍しいほど静かだった。



 朱皇と花が歩けば、侍女たちは遠巻きに道を開け、文官たちは息をひそめ、まるで二人の邪魔だけはするまいと言わんばかりに距離を取った。



「なんだか……気を遣わせてしまってませんか?」



「気を遣わせているんじゃない。俺がお前と過ごすと言ったから、皆が勝手にそっとしてるだけだ」



「そんなことまで……」



「帝だからな。利点くらいは使わないと」



 そう言って朱皇は肩をすくめたが、 花にはそれが少し気恥ずかしい優しさに見えた。



 ふと、庭の向こうで、春の花が風に揺れた。



「……あ」



「どうした?」



「この花、母が好きだったんです。香りがやわらかくて……それで、かんざしの模様にもなっていて……」



「紫苑の花か」



「はい。だから、なんだか懐かしくて」



 朱皇はその花を一輪折り、花の髪にそっと挿した。



「似合う」



「えっ……そ、そんな……」



「本当だよ。お前は、自然の花に負けないくらい……綺麗だ」



 花の頬がまた赤く染まる。



「朱皇さまは、たまに……ずるいです」



「お前が照れる顔を見るのが好きなだけだ」




 二人はそのまま庭をゆっくり歩いた。



 戦いも、血の気も、憎しみも、陰謀もない時間。

 ただ、穏やかで、静かで、少し照れくさいだけの空気が流れていく。



「そういえば、花」



「はい?」



「以前、お前を初めて見たとき」



 花は歩みを止める。

 朱皇はその瞳をまっすぐ見つめた。



「あのときのあんな目で見るなという言葉……覚えてるか?」



「……はい。怒られると思って、心臓が止まりそうでした」



「怒ったんじゃない。俺は……あの目に、救われたんだ」



「救われた……?」



「あの夜、后選びの宴。周囲の姫君は皆、俺に縋りつくように視線を向けていた。だが、お前だけは……『怖いけれど、ちゃんと見ます』という目をしていた」



「そんなつもりじゃ……」



「わかってる。でもあの視線が、俺にはとてつもなく嬉しかった」



 花は胸に手を当てる。

 心臓が熱く、くすぐったい。



「花。俺は帝である前に……一人の男だ。誰かに真っ直ぐ見つめられたかった。お前が、それをしてくれた」



「朱皇さま……」



「だから、今こうしてお前と歩けることが……嬉しい」



 花は言葉を失い、ただ朱皇の袖をそっと掴んだ。

 掴んだまま離せなかった。




「花、一つ聞いていいか?」



「はい……?」



「戦が終わった今。これから先、何がしたい?」



 花は少し考えた。

 帝と過ごす未来など、想像したことすらなかったからだ。



「……誰かの役に立ちたいです。灰をかぶっていた頃の私でも、誰かの支えになれるなら……」



「それでいい」



「え……?」



「お前は、そういう人だ。だから、俺は……お前を手放したくない」



 花は息を呑んだ。

 朱皇は手を伸ばし、彼女の指をそっと絡める。



「花。お前が許すなら……これからも、俺の隣にいてほしい」



 花は静かに頷いた。

 涙が溢れたが、それは悲しみではなく、温かさからだった。



「……はい。私でよければ、いつまでも」




 朱皇はその手を引き、庭の出口へ歩き出す。



「どこへ……?」



「散歩の続きだ。朝日がきれいな場所がある。お前に見せたい」



「そんなところが……」



「今日が自由な一日の初めての朝だ。なら、お前と朝日を見ないと始まらないだろう?」



 花は微笑んだ。

 朱皇も、その微笑みに安心したように笑う。



 戦いの夜を越えて、

 二人はようやく、本当の朝を迎える。



 その朝は、戦の匂いも陰謀の影もない、ただ穏やかで、風がやさしくて、人が人として息をできる⋯⋯そんな朝だった。



 朱皇は花の手を握ったまま歩き、花もまた、その手を握り返す。



 どちらも離さない。

 離れる必要がなかったから。



 夜が終わり、朝がある。

 二人の物語は大団円を迎えたけれど、

 

 ⋯⋯⋯⋯この普通の一日からまた、ゆっくりと続いていく。