『今日は全国的に天気は下り坂。雷を伴う突然の豪雨にお気をつけください』
「ママー!早く髪結って!」
「まだお昼よ?何時に行くの?」
「4時!」
「詩は?」
「んー藍と行くだけだしいつもと同じ時間」
「なら涼送ってってくれない?お友達と合流するの見届けてくれたら良いから」
「ん〜」

お昼のニュースを見ながら2人に目もくれず生返事をする。ゲリラ豪雨が頻発するこの時期と花火大会って相性があまり良くない。今と昔ではやはり何もかもが違うのだろう。
涼を送っていくのだって全然乗り気じゃないけど、別にやることも無くて、断って文句言われるくらいなら暇つぶしにもなるし従おうと思った。それだけだったのに。


「あらぁ、良く似合うわね。お父さんの浴衣出してみて良かったわ。良いやつだからたまには着てあげないとね」
母さんに呼ばれて和室に入れば、涼のお気に入りの浴衣の隣に見慣れない藍色の浴衣が置かれていた。それが何かを聞くまでもなく母に手際よく着付けされた。
「詩にぃかっこいいね!パパの5倍かっこいい!ねぇ髪の毛涼がやってあげる」
と言った具合で俺は誰よりもこの日を楽しみにして気合いが入っている姿になってしまった。まぁ、でも、藍の隣に立つのならこのくらいしてもいいかななんて思ったし、俺が浴衣着てきたらあいつなんて言うのかななんてちょっと考えたりもした。

なのに。

『悪ぃ』

ピコン、とテーブルの上に置いていたスマホの画面が明るくなり、幸先の悪すぎるメッセージが表示される。

『バイト欠員出て急遽入る事になった』
『花火には間に合わせる』
『遅くなるかもしんねぇからもしあれだったら誰かと先回ってて』

ピコピコと連続で送られてくるメッセージにどんよりとした雲が心にかかっていく。誰かとって誰とだよ。藍以外に一緒に行く人なんていないのに。返信する気になんてなれずにそっと画面を暗くした。

大きな向日葵柄の赤い浴衣を着て楽しそうにする涼と玄関を出たところで藍のお母さん、琴音さんと鉢合わせしては、「あら詩くんデート?」なんて言われた。
お宅の息子さんと行く予定でしたが、すっぽかされそうですなんて言える訳もなく、「デートなんて、そんな」というあやふやな返事しか出来なかった。
「2人ともとても似合ってるわよ」とお世辞を言われて涼は更に嬉しそうにしているし、俺は更にどんよりとした気持ちになっていく。
家から徒歩10分程の会場である河川敷に草履でひょこひょこと20分かけて到着し、涼が無事友達2人と合流できたのを確認して俺はどうしたものかと思考を廻らす。
藍が俺とふたりだけで行きたいって言って来たのに。俺だけが楽しみにしてたみたいでなんか嫌な気持ちになった。遠くで花火大会を知らせる段雷が響き渡り、徐々に人が増え屋台が賑わい、中央は盆踊り会場になっているらしく聞き馴染みのある音楽が大音量で流れている。誰もが心躍るような場所なのに、あまりに自分には場違いで、もう帰ろうかななんて思い始める始末だった。

「あーーー!サクラちん?サクラちんだ!!」
大きな声に俺は振り返った。
「久しぶり!浴衣似合ってんね!髪型もおでこ出してるとか超新鮮!!やっぱサクラちんイケメンだな〜リオンのイケメンセンサーに狂いは無かった!」
俺が返事をする隙すら与えずに喋り出す平澤さんに俺は顔を隠すように前髪を弄った。というか、地元で高校の同じクラスの人に会うことをあまりに想定してなかった。
「平澤さん家こっちの方だっけ?」
「全然違うけど、こっちの方のお祭りなら知り合いに会う確率少ないかなって思って!」
平澤さんはそう言いながらポチポチとスマホでメッセージを打ち始める。ネイルも夏祭り仕様の金魚柄で、同じく金魚の描かれた深い緑色の浴衣を着た平澤さんの見た目からも今日を楽しみにしていたのが分かる。
「誰かと待ち合わせしてるの?」
その言葉に待ってましたとばかりに平澤さんが目を輝かせる。
「えへへ、あのね、超聞いて欲しいんだけどね、なんと、なんと!実は今日うっちーと待ち合わせしてんの!」
興奮気味に前のめりになって平澤さんは教えてくれる。うっちーに勉強を教わる事に成功し、お礼を込めてテスト後に一緒にカフェに行き、そして夏祭りに誘う事にまで成功をしたのだと。「全部サクラちんのお陰だよ〜」なんて言ってくれたが、俺は話を一度聞いただけであって100%平澤さんの実力だ。
「サクラちんは誰と来てるの?彼女できた?」
あまり聞かれたくない質問に真実を話す。
「いつも通り藍とだけど、あいつ、さっき急にバイトで来れないかも、他の人と回っててって。あいつとしか約束してないから急に誰かと一緒に行くとか俺には無理なのにね。喉乾いたしなんか買って帰ろうかなーって思ってる」
「そうなの?リオン達と一緒に回る?大歓迎だけど」
少し心配そうに平澤さんは誘ってくれる。俺に話しかけてしまったがばかりに変な気まで遣わせてしまった。
「気持ちだけ貰っとく、ありがとう。俺毎年来てるし、一人でも平気だから。てか、内田くん待ってるんじゃない?平澤さん楽しんでね」
上手く笑えていたかどうか分からないけど、できるだけ気を遣わせないように返事して別れた。
ニュースの予報通り、空は黒い雲に覆われ始め今にも雨が降りそうな気配がしてきた。


お祭り価格で売り出されているペットボトルの飲料水と焼きそばを2つ買って俺は河川敷を後にした。花火が始まるまであと2時間半程あるし、母さんと妹が時間かけて着飾ってくれたから祭りを楽しまずにすぐ帰るのもなんか気が引ける。
ぼんやりと歩いて辿り着いたのは河川敷から離れた丘の上にある公園だった。ラジオ体操をする神社から更に坂と階段を登った先にある開けた場所は花火を見る穴場だが、毎年俺と藍以外此処まで花火を見に来る人は居ない。
小学生の頃、涼のように早くから外に出て一通り屋台を回っては花火が始まる数時間前には飽きて、この公園で遊んでいたら花火が始まってしまったのが発端だった。あれは小学生4年生頃だっただろうか。それからここは花火を見る2人だけの秘密基地みたいな場所になって、藍と他の友達複数人とお祭りに行っても最後はふたりで抜け出して此処で見ていた。
少し懐かしく思っているとポツポツと雨が降り出した。涼に折り畳み傘を持たせたが、自分の分は持っていない。雨宿りしようと藤棚の中に入るも、やはり完全には凌ぐことが出来ずに生ぬるい雨がじっとりと絹を濡らした。

藍にいつも振り回されている。

出会ってから今日まで、良くも悪くもずっとだ。藍は小学校に入学するタイミングで引っ越してきた。同い年で家が近いという事もあって入学当日から行動を共にした。田舎ということもあり、基本幼稚園から持ち上がり皆顔見知りの中で、藍だけが異彩を放っていた。真っ赤なランドセルを背負った今までの人生の中で一番可愛い顔をした藍を初めてみたその瞬間、心を奪われたのは言うまでもない。初恋だった。母さん達が「藍ちゃん」と呼ぶから女の子かと思ってたけど男の子だと知った時、さほどショックを受けなかったのは、もう藍という人間に興味があったからかもしれない。一年生なのに漢字を知ってたり、かけっこで一番だったり、男の子からも女の子からも人気でいつも輪の中心にいるのに、学校の行き帰りは必ず俺と一緒にいてくれたり、俺にとって憧れと安心が共存する人物だった。

小学一年生の冬、藍と一緒に始めた体操教室の合宿があった。ウィンタースポーツを楽しむといったものでスケートやスキー、雪滑りなど好きな物が選べたが、藍と一緒が良いという理由だけでスケートを選んだ記憶がある。親と離れての二泊三日の合宿は初めてで、一日目は何とか終えたものの二日目の夜にはホームシックになってしまってなかなか寝付けなかった。確か十人一部屋で、全員寝静まった真っ暗な部屋の中自分が一人ぼっちになってしまった気がして怖くて、泣き出してしまいそうだった。引率の講師の元へ行くか迷ったけど外に出る勇気もなくて明かりを求めるようにモゾモゾと布団から這い出て、洗面所の電気を付けてはポロポロと涙を零した。みんなが平気なのに自分だけ心が弱い気がして悔しくて、恥ずかしくて、どうしたって寂しくて、歯を食いしばるけど涙はとめどなく流れてしまう。

「うた?どうしたの?」

扉が開いた事に気づかなかった。鏡の前にしゃがみこんでパジャマの袖でゴシゴシと目を拭っても視界は歪んでぼんやりとしか見えなかったけど、声で藍だと分かった。

「おなかいたいだけ」

ひくっひくっとしゃくり上げながら俺は答えた。精一杯の強がりだった。
「だいじょうぶ?先生呼ぶ?」
静かに首を左右に振ると藍は扉を閉めて、俺の隣にしゃがみこんだ。
「僕もね、夜悲しくなって起きて泣いちゃう時あるよ」
何かを見透かしたように藍は喋りだす。
「でもうたはもう大丈夫だよ。僕がいるから泣かないで。さびしくないよ、ずっといるから」
「……ずっといっしょ?」
「うん。ずっと一緒。うたが泣き止んで寝るまで僕起きてるし、明日も明後日も一緒だよ。あのね、おまじないあるよ」
そう言って藍はポケットティッシュを取り出した。戦隊モノのキャラクター柄がプリントされたティッシュだった。
「これ持ってると僕強くなれるんだ。僕の宝物だから、これで涙拭いたらすっかり止まるよ。鼻水も拭いていいよ」
藍の言葉に俺は笑った。大切な大切なティッシュを一枚貰って涙を拭いたら本当に止まってしまったから不思議だった。
「うたが泣いてると僕も悲しくなるし、うたが笑うと凄く嬉しい気持ちになる。だから僕がいたらさびしくない、だいじょうぶって思って貰えように僕、がんばる。ヒーローみたいに」

小声でのふたりだけの秘密のやり取りを俺はずっと鮮明に覚えている。
あの日から藍はずっと俺のヒーローだし、一目惚れは大きな恋心に変わっていった。
俺は藍に初めて会った時から藍の事が好きだ。
好き過ぎて、藍が俺とずっと一緒にいてくれなくなるのが怖くて、だけどこの恋が実る望みなんて本当に薄くて、自分の気持ちに気付かないふりをしていた。
自分の世界の中心にはいつだって藍がいるけど、いなくても生きていけると考えてた。
あの日、俺にだけ向けられた藍の気持ちだけで充分だと思っていた。

藍にいつも振り回されている。俺が勝手に好きになって勝手に振り回されているのだ。
藍の言動で一喜一憂して、藍を独占したくて独占されたくて、足りない。

平澤さんが羨ましい。あれだけ素直で真っ直ぐ想えたら、なんてないものねだりかもしれない。『赤い糸』だってそうだ。自分の相手が藍じゃないとはっきり見えてたら、諦めがつくと思っただけ。今のままでいいんだと思いたかっただけ。何処までも保身に走って、はるか昔の言葉に縋ってるだけ。

ゴロゴロと遠くで鳴っていた雷も肩を濡らす雨も、気づいたら止んでいて静かに夜が始まっていた。
藍が居なくて良かった。もし居たら、もうこの想いを隠すことは出来ないから。


雨上がりの澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込んでベンチから立ち上がる。雨に降られたことを理由にして帰ろうと思った。

「うた!」

「詩!ごめん、本当に遅くなった。約束したのに、ごめん。お前メッセージ見ないから何処にいるか分からなくて、一通り探してたら遅くなっちゃった」
走ってあがってきたのだろう。肩で息をしながら藍は力尽きたとでもいうように膝に手をついて呼吸を整えている。
俺は一歩、二歩と藍の方へと歩み寄り、三歩目は地面を強く蹴って駆け出しそのまま藍に抱きついた。

「うた?」
ドォォン。背後で大きな音が地を揺らす。
「寂しかった」
「一人にしてごめんね」
花火の音で届かないと思った言葉に返事が返ってくる。背中に回る熱に顔を上げれば至近距離で目が合った。
藍の目は花火ではなく、俺だけを映している。
そんな事が嬉しくて俺は藍の胸元を両手で自分の方へと引き寄せて、キスをした。
いくつ花火が上がったのだろうか。呼吸するのを忘れて少し苦しい。地面に少しだけくっついてる爪先から唇まで微かに震えて、閉じていた瞼をゆっくりと開いた。
俺が藍から視線を外す隙もなく、背中に回っていた腕は後頭部に置かれ、顎が空を向く。
「あ、い」
彼を呼ぶ声はちゃんと形にならぬまま、藍の唇に吸い込まれていった。2度目のキスは藍からだった。
なぜ藍から俺にキスをしているのか分からないけれど、事の発端の俺は受け入れる事で精一杯で、胸元を掴んでいた腕にも次第に力は入らなくなっていき、体も心も全部、藍に預けてしまった。
十数秒だったのかも、数分だったのかもしれない。永遠に似たその時間は唇から伝わる体温が途切れた事で終わりを迎える。
代わりにごち、と丸出しになった額に藍の額がぶつかって、どちらともなく上がり切った呼吸を何とか落ち着ける。
「詩、濡れた?体冷たい」
「ちょっとだけな。外暑かったしちょうど良かった」
大丈夫?と心配そうな声に応えるようにこくりと頷く。
「浴衣、似合ってるよ」
「……お前もな。なんで浴衣」
「バイト終わってめっちゃ汗かいたし詩に会うし一回家帰ってシャワー浴びて着替えようと思ったら母さんが」
「おばさん変な事言ってた?」
「詩と涼ちゃんに会ったって。詩が浴衣着て祭り行くの初めてだから絶対デートだって。相手は誰だあんた知ってるのかってしつこくて」
「はぁやっぱり。勘違いされてる」
「だからさ母さんに言ったの。詩は俺と約束してるって。そしたら鬼の形相で着付けられたよ。詩の浴衣見て箪笥に眠りっぱなしなのを思い出したみたいでさ、リビングに広げてあったし。詩の浴衣姿見れないのだけは最悪すぎて、めっちゃ走ったから着崩れたし、髪もセットしたけど最悪」
「かっこいいよ」
心の底から出た言葉だった。
「俺が出会った中で一番。どんな姿の藍もかっこいいけど、今日の藍は特別一番かっこいい」
俺の後ろで大きな花が咲く度、藍の顔が様々な色に彩られる。驚いたように大きく目を見開いたかと思えば、嬉しそうに眉を下げて目を細める。
「あのさ、俺がバイト始めたのはこれを詩に渡したくて」
目を閉じて、との指示に従い目を閉じるとひんやりとしたものが首に触れた。
「なに、これ」
「本当は夏休み詩をデートに誘おうと思ってたんだけど、この前言ってた『赤い糸』の話でコレだなってピンと来た。形がある方が安心するって言ってたじゃん?不安になったり苦しくなるくらいだったら縛られていたいって。もし、俺と詩がその赤い糸で結ばれて無くても、それでも俺はずっと傍にいるから」
首に下げられたのはシルバーのリングだった。恐る恐る、輪を指でなぞる。心臓が大きく跳ねているのが指先に伝わる。
「あい」
「詩、好きだよ。大好き。ずっと一緒にいて」
俺が言いたかった言葉と同じだった。
「おれも、大好き」
俺が照れて笑うと藍も笑った。


「なー俺、お前にあげるもんなんも無い。あ、焼きそば買っといたよ。冷めきってるけど」
「俺の分も?」
「うん。藍が来なかったら家まで渡しに行こうと思ってた」
藤棚のベンチに座り直して街を見下ろした。花火が終わって大勢の帰る客で人が溢れかえっていた。
「家帰ったら一緒に食べよ」
ぼんやりと、余韻に浸るように言葉を繋ぐ。まだどこか夢見心地で、やはり夢なんじゃないかと思ってしまう。だけど自分の体温に馴染んだネックレスの感覚が現実だと教えてくれる。
「うん。てかさ、なんで俺に彼女作っていいとか聞いてきたの?」
「えー聞く?」
「聞く」 俺の食い気味な返事に恥ずかしいんだけど、と前置きをして藍は話し出す。
「本当にシンプルに、詩に俺の事意識して欲しかっただけだよ。詩、鈍感だから一向に俺の好きって気持ちに気づかないし、俺の事幼馴染としか見てないだろうなって思って」
「はぁ?!なに、いつから」
「ははは、ナイショ。さっきも俺、すげぇ緊張してたから。まさか詩からキスしてくれるとは思わなかったけど」
「俺、藍が彼女作るって言った時から気が気じゃなかったし、毎日お前の事ばかり考えてたし、お前祭り来れないかもって知っていじけたし、来てくれて凄い嬉しかったし。藍にだけ、ずっと振り回されてるよ」
「これからもずっと俺だけ見ててよ」

いつだって藍は俺に宝物をくれるのだ。