期末テストが終わればすぐ夏休みがやってきた。高校二年目の夏休みはどこか余裕があって、夏休みの課題を立てるだけ立てて朝は10時まで眠る、これが理想だった。

「うたにぃーおーきーてー!ラジオ体操行こうよー」
「むり……何時今」
「5時半!」

5時半からラジオ体操する奴がどこにいるんだ。5歳年の離れた小学6年生の涼は、憧れの皆のスタンプ押すお姉さんになれたことが嬉しくて夏休みが始まってから3日目の今日もタオルケットの上からバシバシと容赦なく兄を叩いてラジオ体操するぞと起こそうとしてくる。地球温暖化の影響か、まだ日が昇る前だと言うのにもう窓の外では蝉が複数鳴き始めているのだから、不思議な気持ちになる。俺と藍がラジオ体操ガチ勢だった頃はこの時間、少し風が肌寒く静かな空間に元気なおじさんの運動をする声だけが響いていたのをぼんやりと思い出した。
飽き性な涼のこの張り切り様も蝉の寿命より短いのだから、早朝に起こされる日々ももう少しの辛抱なのだ。

6時になってやっとの事で起き上がり下に降りていけば、既に玄関で靴を履き、スタンプカードを首から垂らした涼が待ちくたびれたように上半身を床に着けゴロゴロと転がっていた。
「すず、せっかく髪縛ってもらったのに崩れちゃうよ」
「うたにぃが起きないのが悪いんだよ」
「ラジオ体操始まるの、6時45分でしょ」欠伸をかみ締めながら言葉にすれば、涼は良いことがあったとでもいうように顔をほころばせる。
「さっき玄関開けてお庭出たら、藍にぃランニング行くって走ってったよ!涼ねぇ、手も振ったよ!」
「良かったな」
涼は藍に懐いている。少し前まで藍を見つけたら駆け寄って抱きついていたのに、今は少し照れて手を振るに留めている。
「最近お家来ないのなんでって聞いたらね、藍にぃバイトが忙しいんだって!でもね、涼にバイトしてる喫茶店においでだって!詩にぃと一緒においでって!ねぇ行こ!今日行こ!」
ラジオ体操の事など涼の頭の中にはもう残っていないだろう。
藍は期末試験が終わり夏休みに突入するのと同時にシフトを入れ始めた。勿論、今回のテストも藍はクラスで一位だったし、夏休みの大半をバイトに費やしても勉強が疎かになることは無いだろう。昔から驚く程に容量が良い。一方万年中の上といった微妙な順位を守るので精一杯な俺は、出された課題と母さんから任された妹のお守りで精一杯だった。母さんがパートに出ている間、妹の面倒を見ていればお小遣いが貰えるためラジオ体操にも付き合っている訳だ。
「今日って、藍バイトはいってんの?」
「えー詩にぃ知らないの?聞いて!何時からいるか聞いて!お洋服着替えようかな〜あ、詩にぃ髪の毛も縛り直してー!」
「その前に、ラジオ体操だからな」

上機嫌でラジオ体操会場の神社に到着し、集まった子どもとお年寄りの前で意気揚々と体操し、終われば涼にスタンプを押してもらおうと綺麗な一列が出来るのを俺は後ろから見守っていた。
手持ち無沙汰に体をフラフラ動かしていると、それを止めるように肩が押さえつけられる。突然全身にかけられたその重さに驚き体が硬直し声も出ない。

「……はよ〜」

耳元から聞こえるのは少し息の切れた挨拶だった。
「びっっっくりした」
「はは、お前すげぇ気ぃ抜けた動きしてたから」
肩を弾ませながら笑う藍を俺もなんだか久しぶりに見た気がする。涼が言っていたように早朝ランニングをしていたようで、見慣れないヘアバンドをしていた。少し長めの髪と汗が邪魔にならないようにだろう。この格好を知っていたのなら、先に教えてもらいたかったものだ。

「おはよ。涼の付き添いで5時半から起こされてんの。まだ眠いっていうか体動かしてないと寝ちゃいそう」
「本当に朝苦手だな。休み中も俺が毎朝起こしてやろうか?」
「あ、涼がお前に会えなくて寂しがってたっていうか、さっき久しぶりに会えてすげぇ喜んでた」
「え〜嬉しい」
藍は本当に嬉しそうににっこり笑う。
「バイト先来てって涼に言った?」
「言った言った!詩と一緒においでって」
「もう行く気満々で今日行きたい何時からシフト入ってるかって聞いといてって言われた」
「今日?いるよ、12時から!3時までランチやってるからおばさんお昼ご飯用意してなかったら来てよ。ホールだから俺が作る訳じゃないけど」
「了解。昼飯俺担当だから今日行くわ」
「まじ?お前飯作れんの?」
バイト先に行く事ではなく、俺が飯を作ることに藍は食いついてくる。
「簡単なやつなら。俺と涼しか食べないし、素麺とか炒飯とか、冷やし中華とか」
「えー詩がご飯作ってくれるなら俺バイト行かないでお前の家行くんだけど」
マジで、と念を押して結構本気な顔で俺の顔を覗いてくる。
「藍のバイト先賄い出るんでしょ?絶対そっちの方が美味しいよ」
そう言って上手くかわそうとしたが、やっぱり俺には出来ない。
「こ、今度、藍がシフト無い日俺ん家来れば?美味くないかもしんないけど、テスト勉強とか色々教えて貰ってるし、お礼に」
「いいの?ほんと?家戻ったらシフト確認する。早起きしたから早速いい事あったわ」
嬉しそうに笑う藍の顔をまじまじと見て俺はどんな反応をすればいいのか迷ってしまった。俺だって、涼に付き合って早く起きて良かったかもって思ってるし、でもなんかその気持ちを藍にバレたくない。
藍ってまつ毛長いよな。下まつげもバサバサで、少しつり目でなのもクールで、懐いてる人間に擦り寄ってくる感じとか猫っぽいよなって顔を見ながら変な事を考えて何かを保とうとした。
「じゃ、昼頃『なぽれ』涼連れて行くよ」
「おー待ってる」
じゃああとで、と手を軽く振って藍は家の方へと駆けていった。
『なぽれ』は藍のバイト先の駅前にあるこじんまりとした喫茶店だ。あの日、平澤さんとドーナツ屋さんに寄った帰りに高校から近いお店の面接を受けたと言っていたが、その後も何件か面接を受けたりして夏休みである事や待遇を考慮して『なぽれ』に決めたと言っていた。


ラジオ体操から戻り、数時間の二度寝の後涼を連れて『なぽれ』へ訪れた。
藍曰く、客が1番少なかったのが決め手と言っていたが、若い女性客を中心にほぼ満席で賑わっていた。
何度か訪れた事があるこの店のメニュー表を見ていると、「ご注文はお決まりでしょうか」と店員に声をかけられた。藍だ。
「……店員さん、ここベルで呼ぶんじゃないんすか?」
「藍にぃ!エプロン似合ってる〜髪の毛結んでるの新鮮!おすすめはなんですかー?」
真っ白なワイシャツを肘の下まで巻くって黒いカフェエプロンを身につけているとてもシンプルなスタイルだが、他の店員の数倍目を惹かれる。
「お兄さんの事気になっちゃったので俺から声かけました〜涼ちゃんありがとー。オススメはオムライスとクリームソーダだよ。クリームソーダは俺作んの」
藍は腰をかがめて、涼に分かりやすいようにメニューを指差しながら教えている。
「じゃあ涼はオムライスとクリームソーダ!詩にぃは?」
「俺はナポリタンと」
「詩もクリームソーダね、俺が作るから!味選べるよ何にする?」
押しの強い店員にメニューを絞られ、狭まった選択肢の中から俺はレモンを選んだ。

まぁ器用なこと。絵本の中から飛び出てきたようなクリームソーダが2つ、数分後にはお出しされた。俺達の会話を盗み聞くようにしてた周りの客も挙ってクリームソーダを頼み始めたことからやはり来店の狙いは藍なのだろう。俺達も藍に会いに来ているようなものだから他人のことを言える立場ではないが、女性客は目を光らせてどうにか藍との接点を持とうと話を持ちかけていた。
「藍にぃ、すごい人気だねぇ〜。ねー涼のメロン一口飲みたい?」
涼はのほほんと店内を見渡してそう言葉にし、次の瞬間には俺の飲み物との交換を持ち出してくる。
料理が運ばれてきて俺も涼もさらに口数が減ると、やけに周りの声ばかりが耳に届く。
「お兄さんいつシフト入ってるんですか」「何時に終わりますか」「この後時間ありますか」
藍が逆ナンされる声だ。藍は落ち着いて、そして愛想のいい笑顔を浮かべながら躱しているのを聞いて少しほっとする自分がいる。

注文したことのなかったナポリタンも涼のを一口貰ったオムライスもクリームソーダも、全部美味しかった。こんなに美味しい料理が賄いで食べれるのならここでバイトをする意味があると思った。藍がなぜバイトを始めたのか、その真相はまだ分かってはいないが。
「美味しかったね」と言い合って席を立つとレジで藍が待っていた。
「あ、俺の事が気になってる店員さんご馳走様でした。美味しかったです。特に、クリームソーダ」
揶揄うように藍に言えば、藍は「お客さんの為に張り切りました」なんておどけて答える。
「ところで、今日シフト何時上がりなんですか?」
「18時です。お兄さんには特別、教えます」
藍は人誑かしな笑顔で俺の掌に30円乗せて笑った。
「来てくれて嬉しかった。涼ちゃんもまた来てね!」
俺の後ろでふらふらしていた涼は藍の声にレジまで戻ってきて「またすぐ来るよ!」と返事をしていた。一体誰が連れていくのか。でもなんだか藍の新しい一面が見れたような気がして悪くなかったと思った。




「え、待って詩?なんで?なんで居るの?」
まぁこれが正しい反応だろう。
結局俺は藍のバイトが終わる時間に合わせて『なぽれ』の入口で待ち伏せした。そして無事、藍に見つかった訳だ。
「何となく。お前にシフトいつ上がるか聞いちゃったから……なに?やっぱ変?」
突然手で顔を覆う藍に俺は自分の言動に自信が無くなる。というか、正解が分からなくて数分前まで帰るかずっと悩んでいた位だ。藍のバイト終わり待ってたらびっくりするかな、ヤバい奴って思われるかな、ただの幼馴染なのに何様とか思われたりして、とか色々藍の反応は考えるだけ考えた。でも、昼飯を食べてる時周りの女の人達と俺が藍に同じ扱いをされるのが嫌だと思った。思ってしまったのだ。俺にとってやっぱり、どうしたって藍は特別で、藍にとっても俺はどこか特別であって欲しい。特別でいさせて欲しい。そんな欲が蓋をしても溢れて出てきてしまうのだ。
だから、涼と家に帰ってから18時までの数時間俺は藍がバイト終わり誰か知らない人と合ってるんじゃないかとか、彼女探しに始めたんじゃないかとか、そもそも彼女がもう居てその為にお金貯めてるんじゃないかとか、そんな事ばかり考えてしまい課題すら手につかない始末だった。

「変じゃねぇよ。俺さ、実はちょっとだけ期待した。時間教えたら迎え来てくれるかなって。はは、嬉しー」
指の隙間から目だけがこちらを見ている。夕日のせいなのか、藍の顔は少し赤くて、その赤は伝染するかのように俺の頬まで染め上げて程なくして街全体が同じ色になっていく。
「お兄さん、この後暇?」
「店員さんこそ。予定ないんすか?」
照れ隠しを含めた茶番を続けながら家に着くまでの時間を惜しむようにのんびりと足を進める。
「無いよ。バイト行く時、あそこのゲーセンで気になるガチャガチャ見つけたんだよね、寄り道してこ」
「いいよ。何系?」
「ミニチュア系」
「あぁ、集めてるやつね」
「そ〜新作」
そんなぎこちなさもすぐに馴染んで他愛も無い話に変わっていく。

「あ、夏祭り」
「あぁもうすぐだな」
七月末。この町で一番大きい花火大会が七月の終にある。毎年間違い探しのようにほんの少しだけ変わるポスターの前で立ち止まって、何となくそれを見た。この辺の掲示板はイベントが終わっても貼ったままなのがデフォルトだから、今年の花火大会のものなのか年を確認する癖がついてしまっている。
「藍はこの日バイト?」
「バイト入れてない」
「じゃあ今年も行く?」
藍も同じようにポスターを見ているもんだと思って横を見れば、藍は真っ直ぐに俺を見ていた。

「詩と一緒に行きたい。ふたりだけで」

一緒に行かなかった年など小学生の頃から今に至るまで一度だって無いはずだ。だが、約束等したこともなく、ただ漠然と藍と一緒に行くものだと思っていた。