鮮やかな赤が真っ青な空によく映えていた。
 大きな傷一つないランドセルがくるりと回り、太陽に負けないあたたかな笑顔が視界いっぱいに広がった。初恋だった。

  出会ったのは小学一年生の入学式、それからずっと一緒だった。

「うた、(うた)?起きろよ。遅刻すんぞ〜」
「んー。もうちょっと、うぅつかなんでお前ここにいんの」
「迎えに来たらおばさんに起こしてこいって頼まれたの。早くしないと怒られんぞ」

(あい)は布を隔てて喋る俺に痺れを切らしたのか、布団を思い切り剥ぎ腕を引っ張り強制的に上半身を起き上がらせる。目を開けばまだ夢を見ているのではないかと勘違いしそうになるほど整った美貌の男があきれた顔でこちらを見ている。
  見慣れているとはいえ、毎度かっこいいと素直に思ってしまう。初めて会った時の藍は俺より背が低く可憐で、赤いランドセルを背負っていたから女の子と見間違えるほどだった。なのに、歳を重ねるにつれ段々と背は抜かれ、藍は骨格良く程よく筋肉のついたモデルのようなスラッとした体型に成長をし、子どもの頃から変わらないその端正な顔立ちからは可愛げだけが抜け去っていた。そう、全くもって可愛げが無くなってしまったのだ。

藍の力強い腕に引っ張られ制服に着替えさせられ、階段を下り、リビングを通り抜け、母さんと藍が喋ってる声をバックに歯を磨いて適当に寝癖をなおした。

「……はよ」
「おはよ。もしかして今目が覚めた?」
「もう詩ったら。本当に藍ちゃんがいないと何もできないんだから。あ、今日琴音さんお仕事で帰り遅いんでしょ?夜ご飯藍ちゃんの分も作っとくからこっちに帰っておいでね」
「まじ?嬉しい、ありがとう」
愛嬌を振りまく相手が俺の母さんで良いのだろうか。その辺のアイドルや俳優なんかより容姿が良くてオマケに勉強も運動もソツなくこなす藍に彼女はいない。学校では今母さんに向けているようなあどけなさの残る笑顔なんて見せず、誰に対してもクールに対応する事から『氷の王子』なんてあだ名を付けられるまでだ。

「お前さ、俺の母さんのこと好きなの?」
「は?そんな訳あるか。つかなんだよ急に」
「さっきも母さんに媚び売るようなことしてたからさ」
玄関を出て駅へ向かう一本道、いつものように隣合って歩きながら今朝ふと思った事を口に出した。
「そりゃおばさん、引っ越して来た時からずっと俺の事気にかけてくれてるし、飯美味しいし、詩の母さんだし」
「最後の意味わかんね〜つか、母さんに優しく出来んならクラスの女の子達にもうちょい愛想良くしたら?」
「はぁ?する意味ねぇー。つか、お前が余計な事言うから同クラじゃない子にも告白されんだけど」
「なに?自慢?俺への当てつけ?」
「そうじゃねーよ」

 ここまで話したところで改札を通り過ぎ、混雑するホームへと上がり自然と会話は課題と今日の授業についてに変わっていった。
 さっき言っていた余計な事ってのは、藍に彼女がいるかとしつこく俺に聞いてくる女の子達に「絶賛募集中らしい」と返事してしまった事だろう。
 女子の噂ほど早いものは無いな、と何処か他人事のように感心してしまう。原因は俺だけど。
 常に藍の隣にいる俺なんて人生で告白された事など一度も無いのだから贅沢な悩みだと思う。誰からも溢れんばかりの好意をぶつけられたことなど無いから、その告白とやらが良い物なのか悪い物なのかは置いておいて。それでもお互いが互いを想い合う所謂両想いってやつはきっと奇跡に近いものなんだと思う。だって、言葉にするタイミングが少しでもズレてしまったらその恋は実らない可能性が9割だ。俺の好きな小説や漫画、映画で培った経験がそう言っている。
 そう考えると高難易度すぎる恋愛は俺には攻略する事は出来なそうだし、実際そういった類に縁がなくて安心している。ただ、運命の赤い糸とやらが実際に見えるのならば恋愛というのは単純で明快で、安心できるのかもしれない。


放課後のチャイムと共に藍の机には数人の女子が集まっている。

久遠(くおん)くん、この後ヒマ?」
「久遠くん、さっきの数学わかんないとこあったから教えて欲しいんだけど」
「ウチらこの後ドーナツ食べいくんだけど甘いの好き?嫌だったらラーメン行こ」
 
陽キャの集団に囲まれて表情ひとつ変えない藍を見て「かっこいい〜」なんて歓声が沸くのだから女の子というのは分からない。

「予定あるからムリ」
「えーなに?だれ?」
「詩の母さんが晩メシ作ってくれる日だから」
「夜ご飯に間に合うように解散するよ!良ければ桜宮(さくらみや)くんも誘う?」
「詩?詩はダメ。図書委員の仕事あるから。俺も手伝うし、じゃ、また明日」

一方的に、そして俺を勝手に巻き込んで話を終わらせ藍は俺の席に来る。俺が聞き耳を立ててようが関係ないと言ったような堂々たる表情で「早く行こ」なんて催促までしてくる始末だ。


「いや、手伝ってくれるのは有難いけどさ、毎日ここでぼんやりしてるだけで言い訳?」

 放課後の図書当番はやることがほとんどない。部活や遊びや塾やらで、本の貸し借りにくる生徒はほとんどおらず、返却BOXに入れられた数冊の本を書架に戻しさえすれば閉館の時間まで駄べる以外に何も無い。
 カウンターに丸椅子ふたつ並べて座って、藍は返却カレンダーの日にちと曜日を律儀に翌日のカードに変えている。

「この時間のこの場所が俺の安寧を保ってるからね」
「そ、ならいいけど。俺に気とか遣ってるなら大丈夫だよ。仕事も一人でできるし」
「別に?どうせ一緒の家に帰るんだし待ち合わせするより一緒にいた方が楽でしょ」

 入口に飾ってあった『地元出身作家特集』から取ったであろう本を適当にペラペラ捲りながらか藍はそんな事を言う。
一理ある。
 確かに藍はすぐ声を掛けられるし、図書室にいたって女の子達も態々追いかけてきたりしていた。しかしそれを見兼ねた司書のおばちゃんが女の子たちを上手く払ってくれたから俺たち以外誰もいない空間が出来上がったのだった。俺に気を遣ってるのではなく、俺を理由にここで時間を潰すのが藍にとっては最善なのだろう。因みに司書のおばちゃんは新刊の詰まったダンボールを持ち上げようとしてぎっくり腰になってしまいしばらく休養を取っている。

「なー詩この本読んだ?『〇〇町怪談集』第18話の殺人現場この高校の裏山だぜ」面白いもん見つけたとでも言うように藍はニヤッと笑う。
「そんなやばい本置いてあった?」
「フィクションだけどね。やっぱ短編集の方が集中力続くかも」

 少し長い前髪をかきあげて、藍は飽きたとでもいうようにカウンターに突っ伏した。俺も手持ち無沙汰で横に置かれたその忌々しさのある怪談集を手に取り同じように姿勢を崩してだらしなくページをパラパラと捲る。
 背後でグラウンドで部活動をしている声と小さく秒針の刻む音が聞こえ、次第にそれらの音すら気にならないほど文章の世界に頭が引っ張られていく。

「なぁ詩」
「んーなに」


「俺、彼女作ってもいい?」


研ぎ澄まされた脳内に、藍のこの言葉が反芻する。全ての音が完全に消え去り、藍の声だけが頭の中に残る。
 何十秒、藍の顔を見ていたのだろうか。
 しっかりと握っていたはずの本が音を立てて閉じ、同時に全ての音が耳から脳内へと大音量で戻ってくる。
 秒針の針が俺の返事を催促するように焦れったく同じリズムで音を出し、その規則正しさを乱すかのように心臓が飛び跳ねる。


「え?あ、なに、急に。つうかそれ、俺に許可取る必要なくない?好きにすればいいと思う」

 何かを取り繕うように、言葉が跳ねて散ってしまう。藍は机に伏しじっとこちらを見たまま目をそらさない。

「でもお前、俺に彼女とかできたらひとりぼっちになっちゃうよ」
「はぁ?!ならねぇし!お前以外に友達作ろうと思ったら、全然できるし!別にお前がいなくたって……俺は…………」

 何かを言葉にしようとしたけれど、それは言葉にならなかった。
 小学一年生の頃、友達が上手く作れない俺が吐いた言葉が藍の足枷になっている事に気づいてしまったからだ。彼女作れば良いのに、なんて簡単に言っていたけれど近くに居すぎて、ずっと隣にいたからこそ離れる事など一度も考えたことがない自分に気付かされたからだ。

「っ別に、お前に彼女が出来たってお前と友達なのは変わらないし、大丈夫だよ」
大丈夫。それは自分に向けた言葉だった。

「まぁ俺がお前を一人にするわけ無いけどな。腹減ったし鍵返してそろそろ帰ろうぜ」
先程のこちらを試すような視線から一変して明るい表情で藍は荷物を持って立ち上がった。それに釣られるように立ち上がっては藍に続いた。突然過ぎるその言葉の真意を俺はぐるぐると考え続け、家に着いても、大量の唐揚げを目の前にしても、風呂に入っても、藍の言葉と整理のつかない感情が押し寄せてきて頭の中をいっぱいにした。

「って、なんでお前まだいんの?」
「なんでって、今日泊まるって言ったじゃん」
神経が図太いのか、マイペースなのか。
 俺のベッドの隣に来客用(といっても、藍専用)の敷布団を敷いて俺より先に横になる。
 なんだか今日はやけに疲れた気がする。既に入眠体制に入っている藍を見て全身の力が抜けるような気がした。きっと、俺が思ってるより簡単にこの関係は崩れない。言葉一つで崩れてしまうような関係ではないと、どこか願うように心の中で自分に言い聞かせた。