(もう辞めてしまおうか――)

閑古鳥が鳴くお店。いっそのこと、閉めてしまおうかと考えることもある。……でも定休日でないのなら、開ないといけない。そもそもお客さんに来てもらわなければ、生活することができないから。

僕の心の中を占めていたのは「恥ずかしさ」だった。

「2ケ月で店を畳んだ」
銀行からお金を借りていなかったのが、せめてもの救いだったけれど、親や周囲の人達にバレてしまうのが恥ずかしかった。悔しさなどよりも先に出てくるのは、恥ずかしさだった。

朝まで脅迫的な感覚に襲われて、あまり眠ることもできない。涙を流しているので、目だって腫れている。貧乏神のような表情をしてカウンターでお湯を沸かしていた気がする。

「にゃあーん」
「にゃあーん」

(ん……?)
(……猫か?)

いつも通りの朝10時。喫茶「凪」のドアは午前中は開けっ放しにしている。「暑い」とか「寒い」とか言うだけのお客さんは、来ていないから。換気のため、そして中を見てもらうためにいつも開けていた。

「にゃあーん」
明らかに、すぐ近くに猫がいる。

(どこだよ……)

「今、手が離せないんだよ!」と本当は言いたい。しかし現実はそうではない。僕はコーヒーカップを戸棚にカチャリと片付けると、開いたドアの先へと歩いていった。

「にゃあーー……ん」

まさにドアの真横。入口を出てすぐ右側だった。小さな黒猫が大通りに向かって鳴いていた。

「にゃああーー……ん」
僕はこれまでペットを飼った経験がない。猫を触ったこともなければ、犬の頭を撫でたこともない。鳴いてはいるけれど、黒猫がなぜ鳴いているのかは分からない。

「おい……」
「にゃ……?」
黒猫が鳴くのを止めて、僕の顔を見た。

「どうした?」
「……」
「どうした? 誰か探してるのか?」
「にゃあ」
「……困ったな。店の前なのに……お母さんは?」
「にゃっ」
「『にゃっ』じゃないよ……」

困ったお客さんだった。お店の中に入るわけでもない。コーヒーを飲むわけでもない。お金を払ってくれるわけでもない……。

(おい……)
(これじゃ、お客さんは入れないぞ……)

大通りを歩いている人達は、一瞬だけちらりと黒猫と僕を見て、くすりと笑う。でも、足を止める人はおらず、ただ「黒猫と戯れている喫茶店のおじさん」としか認識されていない感じがした。

(……困ったな)
(ホウキで追っ払うのも、ちょっと可哀そうだしな……)

動物に触れたことがない僕は、「この黒猫をどうやってどかそうか」と頭を捻る。

「あっ……おい!」
その瞬間、開けていたドアに向かって黒猫がピャッと走り出した。目にも止まらぬ速さで、店の中に忍び込む。

「おいって」
僕も慌てて黒猫を追って自分の店へと戻る。「困ったぞ……」と思いながら、黒猫を探すと、2階へと続く階段の真下で、僕をじっと見つめていた。

「おい……2階に行くなって」
人間の言葉を理解しているかのように、黒猫は軽やかに階段を上って、2階へと姿を消した。どうせお客さんはいない。僕も黒猫に続いて、サンダルを脱ぎ捨てて2階へと駆けあがった。