親不孝者35歳、黒猫と暮らす

にゃーちゃんが僕を見つめる目に、一層力が入った気がした。

「……どういうことさ」
「ん? パパのお父さん。……たぶん、あんまり長くないね」
「……えっ? 分かるの?」
「うん。伝わるもん。お父さんがパパを想ってる気持ちが」
「……」
「空を通じて。わたしに伝わるの」
「……」
「パパに伝えたがってるよ? 色々」
「……良いよ。別に」
「良いの?」
「……もう、良い。東京は別に。良い」
一瞬で頭の中に……これまでのことが思い出される。いらいらしていたり…電車の中で涙が止まらなかったり……色々な想いが複雑に絡み合って整理できない。

「……変わってるね。パパは」
「変わってる?」
「そうだよ」
「……何が」
「だって……喫茶店とかわたしに……こんなに優しくて愛情いっぱいなのに」
「……」
「お父さんは、ちがうんだなぁって思って」
「……」
僕は言葉を返すことができなかった。

――

――

――

2日後の午後。僕は東京へ戻るために、「臨時休業」と書いた紙を急いで喫茶店のドアに貼る。

20分ほど前に、母親から「お父さんが死んだ」と電話がかかってきて、僕は準備に追われていた。飛行機のチケットを急遽取って、にゃーちゃんにご飯の準備をする。2日ほど空けることになるため、松野さんに連絡をすると、にゃーちゃんのお世話を快く引き受けてくれた。

「……行くんだ」
「そりゃね……」
「だから一昨日、言ったのに……」
ちょっと潤んだような瞳で、にゃーちゃんは問いかけてくる。

「スゴイね。にゃーちゃんの言ってたこと……本当だったじゃん……」
「……何よ、疑ってたんだ」
「疑ってはないよ。何だろ……いきなりだから信じてなかったっていうか」
「まぁ。それも……確かにそうか」
「2日ほど空けるから…松野さんにお願いしてある」
「あぁ……あの優しそうなお姉さんか。わたし、好きよ? あのお姉さん」
「ははっ……良かった。じゃ、ちょっと行ってくるから」
「うん。大丈夫。どこも行かないから」
「……」
「わたし、この家好きだから」
不思議なやり取りだな……と思いながら、下着だけカバンに詰め込み、家を出た。

お父さんには仲の良い友達は特にいなかった。母親の方も同じだったらしく……僕と母親のみが参加して行う火葬を選択した。火葬場のロビーで2人きりになったけれど……話に花が咲くことなど何一つなく、沈痛な面持ちで僕達は時間が経つのを待った。

最後のお別れの時。母親は泣いていた。「再婚してから一緒にいたからな……」と僕は思った。そもそも周りの人達に聞かれること自体が恥ずかしかったけれど……僕はお父さんに「お疲れ様でした」「長い人生、お疲れ様でした」とだけ声をかけるのみにした。

(何を……話そうか)

長崎から東京に向かう機内の中で、ずっと考えていた……一言だった。

もう2度と目を開けることはないお父さん。そして驚くほど痩せこけたお父さんを見て、涙がこぼれ落ちる、とまでは行かなかったけれど……目頭を熱いものが覆っていて、前がよく見えなかったのを覚えている。

帰りの飛行機の中で……僕は心の中にぽっかりと大きな穴が空いていることに、気が付いた。

別に僕が長崎で生活をしていたって……離れた東京にいるお父さんに会いに行ったことはない。でも……もうこれから2度会うことはできずに、2度と声を聞くことができないんだ……と思うと、何も感情が湧いてこず、ぼんやりとしてしまう。……不思議だ。

「……ただいま」
「あっ……パパ。お帰り」
「元気? 大丈夫だった?」
「うん。お姉さん、すっごい優しかったから」

僕が落ち込んだ様子なのを察したのか……一昨日よりも、声のトーンが落ち着いている。「本当に賢い猫だな」と思う。

「何。合せてくれてんの? 僕に」
「そんな言い方しなくても良いでしょ? 死は悲しいものなんだから」
「……そうだね」
僕はカバンを下ろし、下着を洗濯機へと放り込む。そして松野さんに感謝を伝えるために電話をした。

「わたし達もそうだけど」
「ん?」
「お別れって……いつだって悲しいよね……」

にゃーちゃんは晴れ渡った空を見上げるように、小さく呟いた。