あっという間に一ヶ月半が過ぎた。まだ五月下旬だというのに、日中の屋外では長袖のシャツだと暑く感じる。放課後になればニットベストがいるかな? という微妙な季節だ。

 念のため持参していたベストを着て下校した俺は、毎週訪れている理央(りお)のマンションで今、頭を悩ませている。


「うーん……俺が卒業するまでに、なんとかしないとな……」

 目の前のテーブルと俺の手元には、今日返ってきたらしいテスト用紙が。正面には、ラグの上で居心地悪そうにしている理央がいた。

「昔の言葉とか、勉強する意味が分からない」

 ツンとして言う通り、古文はかなりの赤点だ。でも、現代文もあまり良くない。

「数学はいいのになぁ」

 地理歴史、公民が四十点前後の中、数学だけは九十五点も取れている。

「数学は答えが書いてあるから」
「答え?」
「式を分解すればいいだけでしょ?」
「あー……根っからの理系頭なのか」

 理央には数式がどう見えているのか、地道に計算している俺には分からない。

「暗記物が苦手なのかな。こればっかりは繰り返し覚えるしかないけど、西洋の歴史は映画を参考にすると頭に入りやすいかもな」
「……ごめん。俺、かっこ悪いよね」

 理央は、しゅんと肩を落とす。

「誰にでも苦手なことはあるだろ? 入学したばかりだし、今から頑張ればいいんだよ」

 中学の頃は荒れていたと言っていた。でも今の高校に入るために受験勉強を頑張ったんだろうし、理央はやれば出来る子だと思う。

「むしろ、なんでも飄々とこなしそうな理央が勉強苦手なのはちょっと可愛い……って、気分悪くしたらごめんな」
(おう)ちゃんに可愛いって言って貰えるなら、勉強出来なくてもいいかな」

 理央はやけににっこりと笑って、そっと教科書をテーブルの下に隠した。

「それとこれとは別だからな? まずはこの間違えたところを一つずつ考えていこうか」

 教科書をテーブルの上に戻し、国語の教科書から該当するページを探す。


「凰ちゃんって、国語の先生似合いそうだよね」
「それ、岡本にも言われたよ」
「先越されて悔しい……」

 ムッとする理央って本当に可愛いな。思わず頭を撫でてしまう。

「凰ちゃんは、あの人みたいな陽キャっぽい人が好き?」
「陽キャって。いや、岡本は間違いなく陽か」

 陰の部分が存在しないくらい明るい。それで言うと俺は陰多めかな。

「俺みたいなテンション低いのは嫌い?」
「低くないだろ? 理央のその緩い感じも落ち着くし好きだよ」
「……俺も、凰ちゃんのこと好き」
「ありがとうな。じゃあ、勉強しようか」

 目の前に教科書を置くと、理央は不服そうな顔をした。

 会話の流れを無理矢理切った自覚はある。だって……少し照れたような理央の顔に、ドキッとしてしまったから。再会した初日みたいな甘えた演技をしなくなって、自然体の理央は、本当にかっこいいと思う。

 長袖のシャツ一枚の理央を改めて見ると、腕も俺より筋肉があるし、胸板も厚い。五年の月日は長いよな、と改めて思わされた。

「凰ちゃん?」
「っ、あ、えっと、じゃあこの問題から解いていこうか」

 顔を覗き込まれて、また動揺してしまう。芸能人みたいに成長したものだから、やっぱり一ヶ月ちょっとじゃ見慣れない表情があるんだよなぁ。


◇◇◇


「理央君、大きくなったわねぇ~」

 数日後の放課後。理央を俺の家に連れて行くと、母さんが心底驚いた顔をした。理央は照れくさそうに微笑んでお辞儀をする。

「ご無沙汰しています」
「あらぁ、すっかり大人になって~」

 母さんは感動しっぱなしだ。俺もすごくその気持ちは分かる。

(りん)ちゃんの旦那さんとどっちが大きいかしら?」

 にこにこしながら理央を見上げる。
 麟ちゃん……麟奈(りんな)は俺の姉で、一昨年、卒業と同時に結婚をした。相手は同じ大学の留学生だった男性だ。

 今は旦那さんと一緒にニューヨークに住んでいて、姉の招待で母さんは二ヶ月ほど旅行に行っていた。母さんは今日の昼に帰国したばかりだ。

 姉さんは俺の六歳年上だから、理央は一緒に遊んだことはないけど、面識はある。一応、姉さんの近況は理央に話していた。

「お祝いが遅くなってすみません。ご結婚、おめでとうございます」
「ふふ、ありがとう。麟ちゃんも喜ぶわ。そうだわ、たくさんお土産を買って来たの。ちょっと待っててね」

 母さんは上機嫌でお土産を取りに行った。
 ご両親が離婚したことは一応母さんに伝えていたけど、理央に気を遣っている感じじゃなく、普段通りでホッとした。


「……昔と変わらずに迎えてくれて、嬉しい」
「大きくなっても理央は理央だからな。母さんにとっては理央も息子みたいなものだと思うよ」
「そうだったら嬉しいな。……凰ちゃんの家は温かいね。変わってなくて嬉しい」

 理央はリビングを見渡して、懐かしむように目を細める。

 一緒にお絵かきをしたテーブルも、ゲームをしたテレビも、ソファの位置も、五年前と場所は変わっていない。俺も懐かしくなって、理央の視線の先を追った。

 しばらくして、母さんが両手いっぱいにお土産を持って戻って来る。そんなにあるなら手伝ったのに、と慌ててお土産を受け取る。

「理央君が帰ってきたって聞いて、あれもこれもって買って来ちゃったの。これ、あちらのお菓子と保存食。お勉強の合間にちょっと摘まむのにぴったりじゃない?」
「ありがとうございます。助かります」

 理央は一人暮しだから、保存食は助かるみたいだ。一つずつ手に取って嬉しそうにしている。でも、「勉強……」と呟いて一瞬嫌な顔をしたのを見逃さなかったぞ。本当に勉強嫌いなんだな。……それも可愛いんだけど。

「それと、これ。凰ちゃんとお揃いのペンとノートとストラップと置物」

 母さんはにこにこしながら俺と理央に渡してくれる。ペンとノートと、国旗の色合いをした布のストラップはかっこいいけど、この光る自由の女神の置物はリビングとか玄関に置いた方が良くないか?

「理央君、凰ちゃんとお揃いだと嬉しそうにしていたでしょう? ……もう大きくなったから、そういうのは嫌かしら……?」
「嫌なんてとんでもないです。昔よりもっと凰ちゃんのことが好きなので、すごく嬉しいです」

 ふっと目を細めて笑う理央に、一瞬ドキッとしてしまった。

「そう言って貰えて私も嬉しいわ。理央君は今も素直なのねぇ。うちにお婿さんに来てくれてもいいのよ?」
「母さん、姉さんは結婚したばっかりなんだから……」
「麟ちゃんじゃなくて、凰ちゃんよ」
「母さん~……」
「ありがとうございます。凰ちゃんが了承してくれたらそうしたいです」
「理央も、母さんの冗談に付き合わないでいいからな?」

 苦笑すると、二人して本気だと言って笑い合う。

「そもそも俺たち男同士だってば」
「あら、凰ちゃんったら。今どきそんなこと気にして」
「凰ちゃんは慎重な性格ですから」
「本当ねぇ。猪突猛進な麟ちゃんを見て育ったからかしら」

 それは……ないこともない。

 失敗したらどうしよう、など考えもしない姉さんの行動力に、いつもこちらがハラハラさせられていた。人の目を気にすることもなく、歴代の彼氏にも堂々と愛の言葉を伝えていた。

 ……その行動力が、本当は、羨ましかったんだ。