氷川丸の記録2

海が「計算」され始めた。

パライは、足元の潮が数字に分解されていくのを見た。波の形、塩の濃度、風の速度——すべてが白銀の光に包まれ、無機質な数式へと置き換わっていく。

「……お前は?」

声はなかった。

代わりに、法文の断片が空から降り注ぐ。

『認識対象、パライ。理的有効値、測定開始』

砂浜の向こうから現れたのは、白銀の外骨格に群青の外套をまとった「何か」だった。片身は歯車の眼球で世界を計測し、もう片身は虚空へと溶け、命令の糸を紡いでいる。

ガルマ=オルディクト。
彼が歩くたび、金属音が響き、足跡に数式が刻まれた。

「感情による海の操作。非効率だ」

二重の声が、パライの鼓膜を震わせる。

「お前の力は、『虚秩裁定』の対象だ」

次の瞬間、パライの腕が「0」と「1」に分解されかけた。
パライは跳ね退いた。潮が盾となり、数式の侵食をわずかに防ぐ。

「戻れ……!」

オーシャングリーンの瞳が光を放つ。感情の奔流が解き放たれ、荒れ狂う波がガルマ=オルディクトへ襲いかかる。

だが——

『物理法則、再定義。密度、無効。運動量、制裁適用』

ガルマ=オルディクトの断罪演算法が発動。波は空中で動きを止め、その水分子ひとつひとつが「被告」として裁かれた。

「お前の海は、もはや『自然』ではない。これは、僕が許可した現象だ」

パライの額に汗がにじむ。

(こいつの力……タルマギシャの『鎖』より、はるかに理不尽だ……!)

拳を握る。

「だったら、俺の『感情』ごと叩き込む!」

パライは突撃した。

波も、風も、砂も——すべての自然を「怒り」に変え、ガルマ=オルディクトへ叩きつける。

『警告。理的有効値、閾値超過。対象、排除プロセス開始』

白銀の外骨格が閃光を放つ。究罰拳理(Ordo Impactum)——その拳は、因果律そのものを殴りつけた。

「くっ……!」

パライの体が吹き飛ぶ。肋骨が「2+2=5」に歪み、血が「定理の不備」として砂に吸い込まれる。

だが——

「……それでも、海は俺のものだ……!」

オーシャングリーンの瞳が、最後の光を放った。

混律機構(Chaos‑Order Core)に、感情の渦を叩き込む。

ガルマ=オルディクトの白色の瞳が、初めて「驚き」に揺らいだ。

『矛盾検知……混沌と秩序の同時入力……』

その一瞬の隙に、パライの波が裁智を飲み込んだ。
静寂が戻る。

砂浜には白銀の欠片が散らばり、もうガルマ=オルディクトの声は聞こえない。

パライは俯いた。

「……あいつは、『悪』じゃなかった」

潮が足元に寄せる。

裁きも、理も、もう海を縛れない。
パライの感情が、最後の『法』だった。

少年は深く息を吸い込み、再び歩き出した。