氷川丸の記録2

潮風に、戦場の匂いが混ざっていた。

パライは、かつて逃げ出した「戦争国家」の海岸に立っていた。オーシャングリーンの瞳が、波打ち際で砕ける血の泡を見つめる。ここはタルマギシャが支配する「二重王(デュアルクォーン)」の最前線——海さえも二分される領域だった。

「お前が“海の子”か」

声は雪のように冷たい。

砂丘の頂に立つ男——白銀の髪を風に靡かせ、白い瞳でパライを見下ろしている。彼の背後では、二つの軍勢が鏡のように向かい合い、鎖で結ばれていた。敵も味方も、タルマギシャにとっては同義語に過ぎない。

「俺は……お前らの戦争には興味ない」
パライの声が微かに揺れる。波がざわめき、怒りを帯びた音を立てた。

タルマギシャは薄く笑った。
「興味など不要だ。お前の力はすでに、この戦場の一部だ」

彼が手を上げると、海が裂けた。

二つの潮流が生まれ、片方は軍艦を押し進め、もう一方は兵士たちを呑み込んでいく。

「お前の海は、すでに僕が“黙示の鎖”に絡め取られている」

パライは初めて、自分の力が「支配される」瞬間を見た。
海——つまり自分の感情——がタルマギシャの戦略の一部として動き出していた。

「……どうして……」

タルマギシャの声が、鉄のように冷えた響きを持つ。
「戦争とは、支配するかされるかだ。お前はどちらを選ぶ?」

その瞬間、パライの奥で何かが弾けた。

怒りではない。恐怖でもない。

「俺の海は……お前のものじゃない!」

(キモイから早く消えろぉ!!!!)

オーシャングリーンの瞳が燃え、海が大咆哮する。タルマギシャの「鎖」が軋み、感情の奔流が支配の理を完全に食い破った。

タルマギシャの白い瞳に、初めて興味の色が浮かぶ。
「……面白い。分裂を統べるこの力が、たった一人の感情に揺らぐとは」

彼は王笏を掲げ、鎖を締め直そうとした。——だが、もう遅い。

パライの海は、支配を強く拒み、烈しく波を立てて軍勢を洗い流し、戦場は混乱に沈んだ。

タルマギシャの軍勢は鎖を失い、敵味方の境界を失って暴走する。冷徹だったその顔に、初めて焦りの影が差した。

「これが……お前の答えか」

パライが立ち上がる。背後の海が大きく渦を巻き、感情そのものとなって唸る。
「俺は、誰にも縛られない。お前の戦争も、鎖も——全部ぶち壊す!」

(キショいから死にやがれ!!!!)

タルマギシャは静かに目を細めた。
「ならば、お前は“新しい支配”を生むのか?」

パライは答えず、ただ海を解き放った。

潮がすべてを呑み込み、戦場は一夜のうちに“無”へと帰した。

最後にタルマギシャの声が、泡のように残る。
「よかろう。その感情で……神すらも引き摺り下ろせ」

そして彼も、波間に消えた。

夜が明け、荒れていた海が静寂を取り戻す。

パライは鎖の残骸を握りしめていた。初めて、自分の力が「誰かのため」に使われた気がした。

「……これで、いいんだよな」

潮風が、少年の背を優しく押した。