「昨日の投票で一位だった啓さんと理子さんが、デート相手に春兎さんを選びまして……」

 朝から俺を呼び出したスタッフはひっそりと話し始めた。

「啓さんが春兎さんの名前を書いた理由が分かんないんすけど、あれっすかね? 男同士で話したい……的な?」

 困惑した顔で聞かれても困る。俺じゃなくて本人に聞いてほしいが、もし「好きだから」なんて答えられたらもっと困る。ここは適当に誤魔化さないと。

「ずっと女子と一緒にいたから、気晴らしとかだと思います」

「なるほどお……それで、春兎さんはどちらを選びますか?」

 “春兎”と書かれた二枚の紙を見せられる。右は理子で、左は啓が書いたものだ。
 少し悩んでから左の紙を受け取った。

「……俺も啓に話したいことがあるので、こっちでもいいですか」

「あ、まあ……はい。撮影ないんでどっちでも」

 じゃあ行ってきますと踵を返した瞬間、思い出したかのように呼び止められた。

「ないと思いますけど、番組の企画に支障出るような話し合いはしないでください。お互いの恋愛事情を教えるとか」

「大丈夫です。ただ……普通に遊ぶだけなので」

 むしろ今から会う相手と恋愛しそうになっているのに、そんなことをするわけがない。
 きっぱり否定したことに満足したのか、スタッフはすぐに興味が失せた顔になった。


 校舎裏に行くと、私服姿の啓が体の後ろで手を組んで待っていた。俺を見た途端に駆け寄ってくる。

「春兎! 来てくれたんだ」

「来てって言われたから」

「うれしい」

 制服じゃない姿は新鮮だ。いい意味で高校生らしさがなく、シンプルな無地のシャツとジーンズ、アウターは丈が長めのダウンジャケット。そして薄めのマフラーは巻かずに首にかけてあるだけ。
 イケメンは私服も格好いいんだなと感心していると、目の前に手を差し出された。

「……え? なにこの手」

「繋ごう」

「い、いや見られたらまずいっしょ」

「大丈夫。デートなんだから」

「あっ」

 強引に手を掴まれて彼の上着のポケットにそのまま突っ込まれる。

「こうしたら見られないよ」

 やることも台詞も顔も、まるでドラマみたいだ。普通の男がやったらクサいと思うはずなのに、なんでこうもいい感じにキマってしまうんだろう。

「……今日どこ行く」

「一応、プランは考えてきた」

「ふーん。俺はどこでもいいけど」

 お前と一緒なら──とはさすがに言えない。
 自分も男なのにリードされている気がするが、そっちのほうが気が楽だ。いっそ身を委ねてしまおう。

「春兎、前に温泉入りたいって言ってたよね」

「……そうだっけ?」

「うん。一年前くらいかな、動画で」

「一年前!? そんなの覚えてないって」

「言ってた」

「俺も覚えてないようなこと覚えてんのやめろよ……」

 それが本当なら、ダンスじゃなくただの日常系の動画か生配信でポロッと出た言葉だ。些細なことでも記憶するほど本当に俺の動画を見てきたのだと分かって、余計に恥ずかしくなる。

「定山渓って知ってる? そこに温泉街があるらしくて」

「へえ、近いの?」

「いや。一時間くらいバス乗るけど、いい?」

「もちろん。むしろ遠いほうが……誰かに会わなそうだし」

「たしかにそうかも」

「デートが終わるまで誰にも会いませんようにー」

 両手を組み合わせて天に向かってお願いしたら、啓がくすくすと肩を震わせて笑った。こっちは真剣にお願いしたというのに。

 行きのバスに乗り合わせたのは前方に座ったカップルが二組と、高齢の女性が三人だけ。俺たちは一番後ろの端っこに寄り添って座り、背もたれの後ろで密かに手を繋いだ。

「……なんか思ったより空いてるな」

 定山渓は観光地ではないのかもと思うほど、想像よりずっと人が少ない。民家や旅館の背後にそびえ立つ雪山が街の静けさを保っているようだ。
 雪は道の脇に寄せられ、背丈と同じくらい積もっている。

「ちょうどよかったよ。手も繋げるし」

 握られたままの右手を少し持ち上げた啓がにっこり笑う。こいつの、やや強引な一面にも慣れてきた。冗談として流すことにも。

「温泉って日帰りで入れんのかな?」

「うん。良さそうなところ、いくつか調べてきた」

 まずはこっちと腕を引かれた。転ばないよう気をつけながら緩やかな坂を踏みしめて歩いて行く。
 大型の宿泊施設を除き、通り道には見るからに古い建物が建ち並んでいる。雪景色に溶け込む白塗りの壁と、それを縁取る木枠とのコントラストに時代を感じる。よく見たら、似たような作りの宿が多いようだ。
 正面は格子戸が隙間なく閉じられていた。趣のある雰囲気に躊躇ったが、後ろから啓の手が伸びてきて流れるように扉を開いた。

「こんにちは」

 啓の声が届いたのか、暖簾がかかった開口部から従業員らしき年配の女性がのっそりと出てくる。

「いらっしゃいませ、温泉の利用?」

「はい」

「タオルは持ってます? レンタルもありますけど」

「あー、二人ともレンタルでお願いします」

 温泉巡りをするならタオルを持ってくればよかった、と思いながら利用料とタオル代を払った。
 体の重みで軋む階段を上がると、男湯の入り口に辿り着いた。木網の籠がいくつか置いてあるだけの素朴な脱衣所。鏡と洗面台はかろうじて一つある。うっすら暖房がかかったそこで震えながら衣服を脱いだ。
 啓が風呂に繋がる扉を開けた途端、顔を綻ばせた。

「すごい景色」

「ほんとだ……うう寒」

 外に面する部分はガラス張りになっていて、木々に積もった雪景色や川の一部を見ることができる。秋になったら紅葉が映える温泉なのだろう。
 さっと体を洗って湯船に浸かった。ラッキーなことに、俺たち以外に客はいない。

「はあ……気持ちいい」

「啓、近いって」

 石で作られたざらつきのある浴槽はかなり広い。なのに俺の近くに座った彼は、今気づいたとばかりに「無意識だった」とまた笑った。離れる気はないらしい。
 やや熱いくらいの湯だ。冷え切った体が内側からじんわり温まっていくのを感じて目を閉じた。ごぽごぽ……と黄金色の木の筒から流れ出てくる湯の音しか聞こえない。誰かと一緒に居てこんなに静かに、穏やかに過ごせるのは初めてだ。
 しばらく静寂に身を委ねていたかったが、目を閉じたことで雑念がどんどん浮かんでくる。
 帰ったらまた競争世界に戻ってしまう。二人きりの時間はない。それどころか、北海道で過ごす時間も残り僅かとなった。
 東京に帰ったあと、俺たちはどうなってしまうんだろう。
 偶然どこかで会ったら挨拶をする程度の、お互いのSNSを見るだけの関わりが薄い他人として過ごすのか?

「今日……帰ったら密告タイムって書いてあったね。台本に」

 啓の優しい声に目を開ける。また無自覚なのか、さっきより距離が縮まっている。でも指摘しようとは思わなかった。

「あれって何なんだろ。誰に密告すんのかな」

「わからないけどメンバー同士でやるんじゃない? 誰と誰が怪しいとか」

「うわー……なんか空気悪くなりそう」

「僕たちのこと、密告しないで」

「するかよ」

 またこいつは、冗談を真面目な顔して言う。俺たちの関係を誰かに言ったところでメリットはないと分かっているのに。

「春兎」

「ん?」

 ふっ、と啓の顔が動いたと思った瞬間、視界がぼやけた。唇に何かが触れてすぐ離れていく。

「……え?」

 妙に柔らかかった。唇に残った感触を何度か反芻して、やっとキスされたのだと認識する。ファーストキスをこんな形で奪われることになるとは。
 いや、そんなことよりなんでキスされた?
 ぐるぐる考えていたら再び顔が近づいてきた。ようやく我に返る。

「ち、ちょっ、なにしてんの!」

 誰かに見られていたらどうしよう。
 取り乱して周りを確認したが、啓は余裕のある声で「僕たちしかいないよ」と言った。
 パニックになって騒いでいるのは俺だけみたいだ。もう訳がわからない。

「なんでキスした?」

「嫌だったら拭きやすいかなと思って。このお湯で」

「そういう問題じゃ……」

「春兎、もう一回したい。今度はちゃんとしたの」

 ちゃんとしたやつって何?
 じゃあ今のはキスと呼べない何かなのか?
 考えがまとまらないまま、どんどん顔が近づいてくる。啓の薄くて形が良いそれに釘付けになった。ごくん、と喉を上下したのと同時に唇が重ねられる。

「んっ……!」

 ぱちゃんと水が跳ねる音がした。言われた通り今度はただ唇の先端が触れるだけのものではなく、ぴったり粘膜がくっついている。息ができない。温泉の蒸気も相まって苦しい。
 慌てて体を押し返したら、ひどく残念そうな顔をされた。

「はあ……もっとしたかったな」

 今まで触れられていたところに指を這わせる。
 これがちゃんとしたキスなんだ。柔らかいだけじゃなくて、弾力もあって、熱くて頭がおかしくなりそうだった。
 ──いや、いやいや。なに余韻に浸ってるんだ?

「こんなところで、キ、キスなんてするなよっ」

「ここじゃないならいい?」

「……のぼせた。もう出る」

「あ、春兎まって」

 啓は純粋で真面目だと思っていたが、実は恋愛には手慣れているほうなのかもしれない。
 よくよく思い返せば、昨日の夜だってベッドにいた俺を使われていない教室に連れ出した男だ。そりゃあ温泉に浸かってる最中にキスしてきても不思議じゃない。
 なんとなく裏切られたような気分のまま、他の温泉宿にも足を運んだ。先客がいたおかげでキスはもうされなかった。