校舎に着いたのは夕方だった。長時間の移動と運動でみんな疲弊していたが、休む暇もなく歌の練習を二時間みっちり行った。あと四日でアイドルとしてデビューするのだから当然だ。

 各自部屋に戻って着替えたあと、初日にミッションくじを引いた教室に全員集められた。

「また箱だ。あっ、カメラもある!」

 入ってすぐ、理子が言った。
 たしかに教壇の上には一つの箱と、六つのインスタントカメラが置いてある。何をするんだろうか。

「ほんとだ」

「これ使う感じ?」

「指示カードあるよ」

「理子、それ読んで~」

 まりなに頷いた彼女がカードを開ける。

「ペアのどちらかが箱の中からくじを引き、指定された場所でデートをする。夕食の店選びは自由。また、デート中にカメラのフィルムを使い切ること。撮った写真はすべて黒板に貼り出します」

「え、みんなに見られるの!?」

 葵がひときわ大きな声を出した。その声にシオンが「それはやばい」と僅かに顔を引き攣らせた。何か疚しいことでもするつもりだったのか。
 みんなが騒ぐ中、どこか冷めた気持ちでカメラを見つめる。
 ──あれで仲良いアピールして、ダウトを誘発することもできるんだよな?
 この番組の企画において重要なのは、如何にポイントを稼げるかということ。恋愛が上手くいかなくてもポイント枠で二名デビューできる。
 俺はミッションが成功だったら六点持っているし、理子も同じだ。もし明日もリアルタイム投票があるなら点を稼げるかもしれない。
 ダウトカードのポイントの仕組みはまだ分からないが、理子といい感じだと見せかけて点をとれば……。

「春兎くん、大丈夫?」

 いきなり目の前に理子の顔が現れてハッとした。考え込んでしまっていたらしい。

「あっ、ごめん」

「くじ引いちゃったよ」

 『デート場所はもいわ山展望台』と書かれた紙を見せられる。こんな寒い北海道の夜に、展望台か。

「じゃあ……行こう」

「うん! これ撮るの楽しみ~」

 カメラを手にした理子が機嫌良さそうに笑った。これでみんなを欺くのは、悪いことだろうか。


 夕食は理子の希望で味噌ラーメンを食べた。札幌市内で屈指の人気店だ。やっと北海道らしい食事ができたと彼女は喜んでいた。
 それからは指定された通りロープウェイに乗って、もいわ山の山頂にある展望台に上がった。

「うわ……」

 隣から感嘆の声が聞こえた。 
 深い暗闇の中、まるで海のように街のカラフルな灯りたちが眩しく視界いっぱいに広がる。

「凄い」

 身を切る寒さが一瞬にして吹き飛んだ。
 理子が感動の声を上げながら手すりの近くに走り寄る。

「ね、やばくない!?」

「これはやばいね」

 お互いに語彙力を失った。夜景には興味なかったが、こんなに圧倒される景色は初めてだ。綺麗だとかありきたりな言葉しか出てこない。

「そうだ、写真撮ろ!」

 理子が鞄からカメラを出した。
 背中を夜景に向けて二人で並んで立つ。これは接近できるチャンスだと思ってさり気なく肩に手を回してみたら、彼女が頬を俺の頬にくっつけてきた。

「はいチーズ」

 ひんやり冷たく、柔らかなその感触に体が硬直する。反対に理子は笑顔で何枚か写真を撮った。

「写ったかな?」

「うん。理子ちゃんの腕を信じよ」

「やだ、責任重いじゃん」

 インスタントカメラはすぐに写真が出てくるけど、この暗さではどこまでハッキリ写っているのか分からない。インカメにもできないし、距離的にも後ろの夜景はあまり写らなかっただろう。

「お互いに撮り合う?」

「いいね。じゃあ春兎くん、かっこよく撮ってあげるからそこ立って」

「頼んだ」

 笑いながら手すりに腕をかけてポージングする。カメラのレンズを見ながらふと考えた。
 ──この写真、啓も見ることになるんだよな。
 あいつも俺たちみたいに密着して撮ったりしてるのかな?
 こうやってお互いに撮り合ったりもして?
 理子にカメラを渡されて、今度は俺がシャッターを切った。そして撮ってる時に気が付いた。彼女の手は小刻みに震えている。

「……寒いよね?」

 ダウンやマフラーをしっかり身に着けているとはいえ、山の上だから特に冷える。もっと早く気がついてやればよかった。
 俺の問いかけに理子は少し考えて、

「写真撮ったら降りる……」

 と珍しく甘えた声で言った。これまで明るく振る舞ってきた彼女が初めて見せた今の顔が、もしかしたら素なのかもしれない。
 きっと俺だけでなく、理子も啓も他のメンバーもみんな作戦を練っている。自分の気持ちを知られないようにと、常に気を張っているのだ。

 帰りのロープウェイの中で、理子は外を見ながらひっそり話し始めた。

「春兎くんは恋愛経験ある?」

「俺は……ないよ。アイドルになるのが夢だったから、恋愛はしないほうがいいかなって」

「真面目だね」

 それは、まだアイドルになってもいないのにという意味だろうか。意図が分からず彼女の顔を見める。さっきとは打って変わって、気怠げな表情だ。

「……理子ちゃんは、俺と啓だったらどっちが気になってる?」

 この質問を唐突に思いついたわけではない。スノボで戯れ合う二人を見た時から、ずっと考えていた。
 綺麗な顔をガラスに反射させながら彼女はしばらく黙った。

「……言えない。私も今まで、アイドルは恋愛しちゃいけないものだと思ってたし。この番組の内容見てびっくりしたもん」

「それでも参加しようと思ったのはなんで?」

「アイドルになりたかったから」

 濁りのない真っ直ぐな瞳と目が合う。そこには、彼女の芯の強さが感じられる。
 ──ああ。こういう人と同じグループで活躍したいな。ライバルとして、仲間として。
 恋愛でも友情でもない。理子に抱いたこの感情は、人としての純粋な尊敬だ。

「春兎くんもでしょ?」

「うん」

「私、春兎くんはアイドルになれると思ってるよ。本気で」

「そんな……」

「だから私も同じグループに入れるように頑張ってる。歌もダンスも」

 こういうとき何を言ったらいいんだろう。
 言葉に迷う俺に、理子はとびきりの笑顔を作った。丸めた拳を目の前に突き出される。

「デビューしたらよろしく」

 容姿からは考えられないほど逞しい性格だ。
 じんわり胸が熱くなったのを感じながら、自分も拳を突き返した。


 スタッフが用意してくれた車に乗って校舎に戻ると、先の教室にみんな集まっていた。

「おそーい」

 ドアを開けた途端まりなが不満そうに唇を突き出す。
 九時までに戻ってと事前に言われていたが、道が渋滞していて間に合わなかったのだ。ごめんと謝りつつ中に入る。

「あと春兎と理子ちゃんペアだけだよ。黒板に写真貼るの」

「え、まじ? うわ」

 すでに黒板には大量の写真が貼り付けてあった。スペースは左下の隙間しか残っていない。そこに磁石で貼り付けていたとき、ふと目の前の写真に視線が止まる。
(これ……啓とゆなの写真だ)
 きっと彼らも自分たちと似たような場所に行ったのだろう。いくつかは食事の写真で、残りはすべてツーショット。
 そのうちの一枚を見た途端、体が強張った。啓とゆなが顔を寄せ合って笑顔で写っている。
 ──いつの間にこんな距離が縮まったんだ。どちらかと言えば、啓は俺と同じで理子といい感じだったはず。まさかたった数時間のデートでゆなを好きになった?
 他にもゆなが撮ったであろう啓の格好つけた写真が目について、思わず舌打ちが出た。

「見てこれ。理子ちゃんのゼロ距離やばい、あざとい~」

 俺が貼ったばかりの写真を恵美が指差す。

「どれどれ」

 その一言でみんなが集まってきた。
 啓には見られたくない。顔をくっつけたことに意味はないんだ。分かってくれ。心の中で祈っていたら、写真を見た啓がふっとこちらを向いた。 

「……仲良いね。理子ちゃんと春兎」

 冷ややかな視線と声に、がくんと気分が落ち込む。

「啓も……ゆなちゃんといい感じだな」

 口から滑り出た挑発的な言葉に、すぐに後悔が押し寄せた。
 ──こんなこと言いたいんじゃない。本当は、写真を見て嫉妬したと伝えたい。俺はお前と出かけたかったと言ったら、迷惑になるだろうか?

「春兎ほどじゃないよ」

 普段は穏やかで優しい啓が、なぜか怒っている。態度も口調も言葉もそうだ。彼自身も気付かない小さな針が俺に向けられている。

「春兎と理子ちゃん、さっきカードもう読んじゃったんだけど。女子は明日一緒に練習するメンバーを二人まで指名できるんだって」

 シオンは指示カードを指に挟んでピラピラ揺らした。

「え、そうなの? みんな決めた?」

「うん。指名がかぶったら同じグループになるよ」

「そうなんだ。私は……、春兎くんと啓くんがいいかな」

 理子が言った途端、ゆなが俯いて気まずそうに手を挙げた。

「私と一緒のグループだね。春兎くん選んだから」

「じゃあ四人ってこと?」

「うん」

 また啓と目が合った。
 なんでそんなに不機嫌なんだ。理子が俺の名前も出したから? 理子が自分だけを選ばなかったから?

 胸内の霧が晴れぬまま解散し、俺は黒板がある教室に行った。けれど伝えたいメッセージが誰宛てにも思い浮かばず、スタッフに断りを入れた。
 そして──気分転換を兼ねて行った風呂で、今一番会いたくない男に遭遇した。

「……啓」

 よりによって服を脱いでいる最中だ。啓が部屋にいるから戻るのをやめたのに。

「メッセージ書いてきた?」

「行ったけど何も書かなかった」

「……そうなんだ」

「啓はこれから?」

「うん」

 誰にメッセージを書くんだろう。俺が書いてないと知ったら、宛先を誰に変える?
 脱ぎ終わったはずの啓がなぜか素っ裸のまま突っ立っている。磁石みたいに目が吸い寄せられそうになるから、必死に抗った。
 手早く服を脱いで籠に入れていく。誘惑に惑わされる前に入ってしまおう。

「春兎、一緒に入ろう」

「え? いや、一緒にもなにも……」

 浴場はここにしかないのだから、必然的に一緒に入ることになる。何がしたいのか分からない。

 こんな時に限って中には誰も居なかった。やけに広く、静かな雰囲気に気まずさが倍増したように感じる。
 わざわざ一番端のシャワーを使った俺に、啓は配慮もせず隣に座ってきた。

「離れて浴びろよ」

「なんで?」

「い、いや、こんなに空いてるんだから」

「誰か来るかもしれないし」

「……来てもいいだろ」

 ああもう、こいつの裸を見ないようにしたいのに。視界の脇にずっと肌があって集中できない。
 いつもより粗雑に髪を洗いながら、意識はやっぱり啓の体に向いている。上半身があんなにムキムキなら、太腿はどれほど太いんだろう。それにあそこだってきっと──。

「あああっ」

 頭に浮かびかけた想像に思わず首を激しく振った。
 俺って、もしかしてゲイなのか?
 啓に会ってからというもの、明らかに自分の中の何かがおかしくなってしまった。抱いたことがない感情に振り回されたり、意味不明な嫉妬したり、あそこの想像までしてる。こんなのおかしい。
 もしかしたら俺は元々ゲイで、周りにたまたま惹かれる男子がいなくて恋愛しなかっただけなのかも。いや、だとしても一目惚れなんてする性格じゃないのに。

「春兎?」

 考えるのが嫌になった。やっぱり少し離れたほうがいい。

「俺、もう出る」

「ちょっと待って」

 俺と同時に立ち上がった啓に腕を掴まれた。

「……なに」

「湯船、一緒に浸かろうよ」

「俺はもう出るって」

「スノボで疲れたし体温めたほうがいい」

 たしかに言う通りだ。もう足が重く感じるほど今日は疲れていて、ゆっくり湯船に浸かりたい。でも二人きりでそれをするのは……と悩んでいると、腕を引かれて湯船に連れて行かれた。

「出たらカメラあるから。もう少しだけ、僕と一緒にいよ?」

 さっき不機嫌だったのを忘れるほど優しい笑顔で顔を覗き込まれる。白くて綺麗な肌が、ほんのりピンク色に上気しているのを見て頭を抱えたくなった。

「うー……わかった」

 こいつにお願いされると駄目だ。何でも聞いてやりたくなる。拒否したら自分が悪いかのように感じる。なんて卑怯な容姿なんだろう?

「春兎も結構鍛えてるんだ」

 湯船に浸かってすぐ、啓がまじまじと俺の体を見ながらそんなことを言い出した。

「み、見るなよ」

 どこを隠したらいいのか迷いながら体を丸める。こうすれば、少なくとも股間と胸は見えないはずだ。

「触ったらだめ?」

「当たり前!」

「僕の腹筋は触ったじゃん」

「おっ、お前が触れって言ったのに」

「冗談だよ」

 意外だった。冗談なんて言いそうにない真剣な顔で迫ってくるから、本気なのかと勘違いした。
(なんだよ、ビビらせやがって…)
 大袈裟に反応してしまったという羞恥心に駆られ、敢えてわざとらしく体の力を抜く。

「さっきの写真」

 啓は途中で口を閉ざした。湯に顎をつけてぼーっと目の前を見つめている。それだけなのにやっぱり絵になる。

「写真?」

「理子ちゃんと、ほっぺたくっつけてた」

「あれは……向こうがやったきたんだ」

「好きなのかな。春兎のこと」

「……俺に聞かれても」

 さっき機嫌が悪かったのは、やっぱり理子と俺の関係に嫉妬したからなのか?
 まだ啓のものになったわけじゃないし、それで八つ当たりされる筋合いはないのに。考えれば考えるほど悪い方向に落ちていってしまう。

「わかんないんだ」

「え?」

 湯の中で手を握られた。驚いて顔を上げる。

「理子ちゃんに嫉妬してるのか、春兎に嫉妬してるのか」

 啓は苦しそうに眉間に皺を作った。初めは軽く触れるだけだった手に、徐々に力が込められていく。 熱い。体も顔も頭の中も、全部が熱い。

「どういう意味?」

「僕は、男を好きになったことがない。今まで一度も」

 それがなんだよと言う前に、啓が声を絞り出すように続ける。

「なのに他の人と居ても春兎のこと考えちゃうんだ。さっきのデート中も……春兎はどこ行ったのか、理子ちゃんと何してるのかって、そればっか考えてた。おかしいかな」

「…………あれじゃない? 昔から知ってる相手だから親近感あるとか」

「そんなんじゃない。春兎が真面目な性格で努力してきたってことは知ってるよ。可愛いのもかっこいいのも、今まで沢山見てきたから」

「だ、だから」

「これまでは動画越しの手が届かない存在で……そういうの考えたこともなかった。でも今は、違う」

 やっぱり、スノボを教えてもらっているときに感じたあの感情は、俺だけのものではなかった。その事実がどうしようもなく嬉しい。

「実は、俺もさっき啓のこと考えてた。ゆなちゃんとツーショの写真見て……嫌だったよ」

「からかってる?」

「俺がそんなことすると思う?」

 啓は激しく首を横に振った。
 これ以上なにを言えばいいのだろう。仮に両思いみたいな関係になったとして、そこから先はどうする?
 同じグループとしてデビューできた時は運営にもファンにも隠さなきゃいけない。片方がデビューしたら、きっと関係は壊れる。それにこの番組の企画は……などと考えたら、未来はないに等しい。
 だったら踏み留まるべき瞬間は今だ。

「でも色々、ダメだろ……男同士だし」

 言いながら手を解く。続きの言葉が出てこなくて逡巡していると、風呂の扉が開いた。

「おっ、春兎と啓じゃん」

「一馬。おつかれ」

 彼がズカズカ入ってくる。慌てて啓と距離を取った。変に思われなかっただろうか。

「うっす~。どした? 二人とも微妙な顔してるけど」

「いや。気のせいじゃん?」

「……先、上がってるね」

「あ……」

 目も合わせずに啓はさっさと出て行ってしまった。
 訝しむ一馬を置いて、俺もあとを追いかけた。何を言えばいいのかも分からないまま。