真っ白な雪山が見渡す限りに広がっている、北海道の中心部にあるスキー場。俺たちはここに朝から連れてこられた。
今日の指示カードは極めて簡素で、『全員でスノーボードをする』としか書かれていなかった。他の日に比べると自由度が高い撮影なのかもしれない。
着替えてスノボ用の道具を受け取り、全員リフトで少し上のゲレンデに登った。
「ううっ、寒い~」
「ね、でも意外といけるかも!」
「このウェアあったかいね」
「あたし寒いのマジむりなんだけど……」
まりなを筆頭に女子たちが背中を丸めて寒そうな仕草をする。
「……そんな寒い?」
シオンに聞く。全然と首を横に振った。
男は筋肉量が多いから、体温が女子より少し高いと聞いたことがある。しかもアイドルを目指しているだけあって皆モデル並みに痩せている。脂肪も筋肉もないとなれば、いくら服を着込んでも寒さを感じるのかもしれない。
「じゃあ……滑ろっか?」
「みんなで滑るの?」
「特に指示なかったから、最初はみんなで行動しよう」
「そうだね」
あんなに寒い寒いと言っていたまりなが意外にも先頭を受け持った。なんの躊躇もなくスイーっと行ってしまう。
「ま、まりな早いー!」
「俺たちも行こ」
「だね」
彼女を追いかけるように、運動が得意な朝也やシオン、綾香たちが続いて行く。
自分はというと──、まだ板に足を固定すらしてない。なんせ人生で初めてのスノーボードだ。スキーすらまともにやったことがないというのに、いきなりこんなことが出来るのだろうか?
「春兎、大丈夫?」
啓が心配そうな顔で近づいて来る。
「あー……うん、たぶん」
「もしかしてスノボー初めて?」
「……わかる?」
「僕が教えるよ」
「い、いい。早く女子と滑ってきて」
俺の言葉に、なぜか啓はムッと顔を顰めた。
「教えるって言ってんの。カメラさんも行ったし」
「え?」
モタモタしているうちにスタッフもみんな降りてしまったらしい。
男二人に密着しても撮れ高はないと判断したのだろう。気づいたら周りには啓しかいなかった。
「ごめん、俺のせいで……」
「だから大丈夫。他の人は気にしないで」
「わかった」
「まず、移動するときは片脚を板につけて。後ろの足で地面を蹴る」
「うん」
「止まるときは体を捻って、板が横向きになるようにする。やってみる?」
腕を前に差し出された。つかまって板を横向きに変えてみる。
「それで踵に力を入れると止めやすい」
「おっけい。滑るときは?」
「膝を曲げながらバランスを取る。もう一回板を縦にしてみて」
言われた通り最初の向きに戻ると、啓が正面に立った。今度は逆に俺の両腕が掴まれた。
「S字を意識して滑るといいよ。膝を曲げて左右に傾けて、上半身は足と反対方向になるように。僕につかまっていいから」
「うん……」
体を曲げてやってみたが、思ったより体勢のバランスを取るのが難しい。
倒れそうになって強めに体にしがみつく。目の前の男は微塵も動じなかった。これも鍛えているおかげか。
「板の側面の縁でスピードを抑えながら滑れば怖くないと思う」
いきなり人がいるところを滑るのは危ないからと、まずはなるべく平坦な場所で練習することになった。
もちろん啓の補助はもうない。体を曲げたら見事にバランスを崩した。板ごとすっ転ぶ。
「あーっ」
どしんと尻が雪にぶつかった途端、慌てて啓が駆け寄ってくる。
「大丈夫?」
「俺これ苦手かも」
「まだ決めるの早いって」
くすくす笑われた。啓は滑ってもいないのになんだか楽しそうだ。
見守ってもらいながらしばらく滑る練習をした。こんなに長時間みんなと離れていてもいいのかと、内心不安になりながら。
「あんま転ばなくなったね」
「啓のおかげで」
「春兎が器用だからだよ」
こいつは俺のことを過大評価している。くだらない動画を載せてもいいねを押すくらいだから、不思議でもないけど。
「さっきのところ、下に降りてみる?」
「うん。怖いから啓が先に行って」
「わかった」
「みんなもう他のとこ行ってるかもな……ごめん、こんなのに付き合わせて」
「全然。春兎と居るほうが楽しいし」
「だからさあ」
そういうことは女子に言えって。春兎春兎って、お前はそればっかりじゃん。恋愛リアリティーショーなのに。
喉元まで上がってきた言葉を飲み込みつつ、早く行ってと男の背中を押す。
最初にいた場所から啓が滑り出した。教えてくれただけあって、慣れた様子で人と人の間をすり抜けていく。体を曲げるときに地面を片手で触れるのが格好良くて痺れた。
対して俺は、誰かにぶつからないようにしなきゃ……とドキドキしながら滑り出した。
まだコントロールは上手くできない。思ってもない方向に行こうとする板を制御したいが、スピードが落とせなくて難しい。どうしよう。
目と鼻の先に、ゴーグルを外して笑顔で待つ啓がいる。よりによって板がそこに引き寄せられていく。
「は、春兎、止まって!」
視界が狭くなる中で啓の声が聞こえた。
体を捻ったらぶつかるギリギリで止まった──が、盛大にコケた。しかも、前方向に。
「うわっ」
勢いのあまり、目の前にいた啓の体を押しながら倒れる。たかが一瞬の出来事がスローモーションみたいにゆっくりと見えた。
啓の驚く顔を認識して、咄嗟に目を瞑った。
──痛みはこない。俺の下敷きになった男がすべてを代わりに吸収してくれたおかげだ。
「ご、ごめん!」
「あははっ、びっくりした」
啓の笑い声に驚いて顔を上げる。そして顔の近さに息を飲んだ。
「っ」
あと少しで唇が触れる距離。自分のゴーグル越しに目が合う。
「あ……」
声を漏らしたのはどちらだったか。
雪に囲まれて輝く瞳が、何もかも手放したくなるほど美しい。
やっぱりこいつはダメだ。人を中毒にさせる効果が絶対にある。もっと見たい。もっと知りたい。もっと深いところを探りたい。もっと深いところまで見てほしい。
「春兎」
名前を呼ばれるまで、思考が欲に侵されていた。
「ご、ごめ」
「ペンギンのぬいぐるみ……あれ、春兎だよね? ありがとう」
「え?」
「朝起きたとき、飛び上がるくらい嬉しかった」
なんで今この状況でその話を?
ただ、起き上がってしまったら終わってしまう。俺の思考を麻痺させる顔を見つめながら、「お礼にあげただけ」と答えた。
「……このまま二人で居たら怒られるかな」
ぼそっと独り言みたいに呟かれた啓の言葉に唇を噛む。
俺たちは今、確実に、お互いに何かを感じている。友情とかそんな単純なものではない。はっきり分かる。波のように押し寄せてくる感情に、胸が押しつぶされそうになっている。
このままじゃダメだ。
欲を無理やり断ち切って腕に力を入れる。体が離れると、明らかに啓の顔が暗くなった。薄い唇を尖らせて視線を送ってくる。
「僕は春兎と居たい」
「駄目だって……怒られる」
ただの言い訳だった。これ以上どうにかなってしまう前に、一旦距離を置かなければいけない。そうしないと──どっちも脱落という最悪の結果にぶち当たる。
「みんなのこと探しに行こ」
俺が差し出した手を、啓は控えめに掴んだ。
付近を滑っているうちに他のメンバーと撮影隊を発見した。どこ行ってたのと女子に怒られたので、教えてもらっていたとだけ伝えた。
「理子ちゃん、一緒に滑らない?」
啓の声が聞こえて思わず振り返る。二人は話すために体を寄せた。
「啓くんは経験者?」
「うん、滑れる」
「そしたら上級者コース行こ!」
「いいね」
「じゃあ……行ってきます」
理子が俺に目配せをした。
──俺と居たいとか言いながら、すぐ理子のこと誘うのかよ。何なんだ、あいつ。
胸のあたりを押さえつけられているみたいに苦しい。俺は今、どっちに嫉妬してるんだろう。
「春兎くんってスノボ初めて?」
ゆなが話しかけてきた。歩いて行った二人の後ろ姿を見ながら、「そうだよ」とぼんやり答える。
「私も初めてなんだ。一緒に練習したいな」
「うん……俺たちも行こうか」
歩きにくそうにしているゆなを支えるつもりで手を貸した。が、手を繋ぐためだと勘違いしたのか、頬を染めて掴まれた。
ちょうどいい。俺には彼女と手を繋ぐミッションがある。カメラは回っているし、ほとんどのメンバーがここにいる。一つ不安な点を挙げるとすれば、グローブの上から手を繫いでもクリア判定を貰えるのかということだ。
ゆなは俺よりスノボが苦手だった。支えてもすぐに転んでしまうし、少し滑れても人がいるところでは怖くて出来ない。
結局、二人でしばらく苦戦したあとカフェで休むことになった。カメラも入ってゴンドラで上まで登ったところ、景色を一望できる場所にある。
展望スポットを通り過ぎて店の中に入ると、暖房が効いた室内との温度差に頭が痛くなった。
「あったけえ……」
「はあ、やっと中入れたね」
「ゆなちゃん体は大丈夫?」
「うん。でもちょっと疲れた」
「だよな、俺も」
カップに入ったココアに口をつけながら、ゆなが何か言いたげに見てくる。
「どうした?」
「あっ、いや……」
気に障ることをした覚えはない。口を挟まずに続きを待った。
「あのさ……、春兎くんは理子ちゃんといい感じ?」
「え?」
予想していなかった方向からの質問に狼狽えた。しかも番組の構造上、それを言ったら俺や理子が不利になる。
「あっごめん。そんなこと言えないよね」
「そう……だね」
「昨日の動物園でふたりが手繫いでるの見て、正直羨ましいなと思った。もう自分が入る隙間ないのかな~とか」
「あれは」
きっとミッションだから、なんて迂闊に言うわけにはいかない。
「でも、さっき私も手繋げて嬉しかった。手袋の上からだけど」
えへへ。と目を細めてゆなが笑った。
その純粋すぎる表情に胸が締め付けられる。まるで騙してしまったかのような気分だ。
確かに理子とはいい感じの雰囲気なのかもしれない。だがあれは演技かもしれないし、今は啓とツーショットデートをしている。言い方は悪いけど、見切りをつけて相手を変えても遅くはないだろう。
──そう分かっているのになぜ気が進まないのか。
いや、もしかしたら理子もゆなも、啓までもが演技をしている可能性だってある。誰を信じたらいいのか分からない。
「春兎くん」
「……ん?」
「帰りも手繫いでいい?」
ゆなの目がキラキラと期待に満ち溢れている。そのうちの少しも受け止めきれないまま、俺は曖昧に頷いた。
最初の集合場所だったゲレンデに行くと、一馬が真っ先に俺たちの繫いだ手を指摘した。
「春兎とゆなちゃん手繋いでるじゃん!」
「えー! ほんとだあ」
声に釣られて啓がこちらを見る。慌てて手を離したがもう遅かった。
顔を見ることができない。昨日もそうだ。別に何かしたわけじゃないのに、俺が手を繋ぐと啓は怖い表情をする。
「理子ちゃんたちはまじで上級者コース行ったの?」
「うん! 啓くんめっちゃ上手いんだよ。かっこよかった」
「うぇーい、惚気けんなし」
「いや、理子ちゃんも上手かったじゃん。僕より全然できてたよ」
囃し立てられて満更でもなさそうな啓に腹が立つ。数時間前まで、俺と見つめ合った挙句に「二人で一緒に居たい」なんて言っていた男とは思えなかった。
「ほんとに啓くん凄いんだって。こうやって、くるんって回ったり──あっ」
その場で回って見せた理子がバランスを崩し、啓の腕にしがみつく。そして、なぜか啓は彼女を支えるふりをして上半身を軽く抱擁した。
──なにあれ?
じわっと胸が内側から燃えるように熱くなる。
支える必要はあっても、あんなことする必要は絶対にない。明らかに今のはわざとだった。恋愛経験ゼロの俺でも分かる。
「ねえ、こんなとこでイチャイチャしないでよ」
恵美が茶化したおかげで空気は一気に和やかなものに変わった。
もう支えなくていいのに、いつまでもぴったりと寄り添ってる彼らを見て苛々する。こんなことなら、あのまま啓と二人きりで居ればよかった。


