今日はいよいよ、練習ができる最後の日。
いつもと違って空気がひりつく中、体育館で個人練習が始まった。
このあとダウトや好きな人を書く苦痛の時間が待っている。そればかり考えて体が思うように音楽を拾ってくれない。
斜め前の理子がやけに視界に入る。ここから見ただけでも分かるほど、歌もダンスも完璧。きっとデビューするのに相応しいのは彼女のような人だ。
ふと隣から啓の歌声が耳に入ってきた。
各々のスマホから流れる音源と全員分の歌声は、体育祭でマラソンリレーをしている時と似たような騒音だ。耳触りな音が散らばる空間で、彼の透き通った優しい声だけが“音楽”として聴こえてくる。
この音に身を預けて踊りたい。体にぴったりとハマる音が啓の声だったら、どれほど気持ちいいのだろう。
手が、腕が、足が、胸が、気がついたら全身が動いていた。
不思議と他の音は遮断された。彼が奏でる音だけに体が反応して──まるで広い海の水面に手を広げて浮いているみたいだ。
何も考えなくていい。ただ自分のすべてを預けられる。
啓と一緒にデビューできたら、ずっとこの心地よさに浸れる。俺たちのどちらかじゃ駄目だ。二人じゃなきゃ意味がない。
俺の目標は、いつの間に変わっていたんだろう?
「……春兎?」
呼びかけられたからではなく、彼が歌うのをやめたことで我に返った。
夢中で踊って息が切れている。苦しい。明日には俺の、みんなの運命が決まってしまう。
「ごめん」
「なんで謝る……」
「皆さん、一旦ここで撮影止めまーす!」
スタッフの大きな声と共に、ステージ裏で作業していた人たちがぞろぞろ出てくる。
「昼食含めて二時間ほど休憩にします。自由に過ごしてください。ツーショットしたい方は、撮影するのでまずスタッフに声かけてもらいたいです」
「ツーショットしない人は撮影なしですか?」
啓の問いかけにスタッフが頷いた。
「給食はありませんが、お弁当用意してあります。あと周りの店に食べに行ってもいいです。あっ、皆さん! 二時半になったら最初にくじを引いた教室に集まってください」
「はーい」
「葵ちゃん、ツーショットしたい」
動き出してすぐ、シオンが葵に声をかけた。それを見た一馬はまりなを誘い、恵美が朝也を誘って出て行った。ゆなとリュウキは一人で去った。さすがに俺に声をかける気にはならなかったようだ。
残ったのは理子か……と彼女がいるほうを向こうとしたら、隣から肩をトンッと叩かれた。
「春兎。一緒に弁当食べよう」
「あ、うん……」
彼女に声をかけるつもりはなかったが、こいつは貴重な時間を俺に費やしていいのだろうか。
弁当を持って図書室に入る。律儀に両方の扉を施錠した彼を横目に、俺はテーブルの真ん中あたりに座った。
「隣いい?」
「こんな広いのに?」
「寂しいじゃん、離れて食べたら」
笑いながら啓が隣の椅子を引く。やっぱり距離の近さは変わらない。
「また二人きりになれたな」
「えっ」
誂うつもりで笑いかけたのに、ひどく驚いた顔をされた。
「いや、冗談」
「……昨日なんで一人で風呂行ったの」
「それはまあ、気分?」
あの状態で一緒に風呂なんか入ったら余計なことまで話してしまいそうだった。現に今も、理子とはどういう関係なのか聞きたくてうずうずしている。
「本当に?」
「うーん……」
ここにはカメラがない。周りの教室にも誰もいないことを確認した。それでもすぐに聞く気はなれず、とりあえず弁当の蓋を開けた。
太った鮭の身が二つと野菜、海苔が敷かれた白米。内容としてはごく普通だけど、結局こういうのが上手いんだよな。
「やった、鮭弁当だ」
啓が珍しく子どもっぽい言い方をした。
「鮭好き?」
「うん。弁当のおかずで一番」
「俺と一緒じゃん。やっぱ気が合うな」
「……試してる? 僕のこと」
「何が」
意味が分からず首をひねる。
啓は笑顔と真顔のちょうど中間みたいな顔で、なんでもないと言って鮭を頬張った。
それから食べ終わるまで他愛もない会話をした。お互いに恋愛には触れなかった。きっと、啓は俺が聞きたいことの半分も分かっていないはず。
このままここを出たら、二人きりになれるチャンスは寝るときくらいだ。聞くか聞かないか悩むまでもなく、お茶で喉を潤してから向き合って座った。
「啓に聞きたいことがある」
「うん」
「昨日、り、理子ちゃんと二人で教室入ったよな?」
「え? なんでそれを春兎が」
「他の人から聞いた」
「あー……」
途端に啓の顔が暗くなった。何か言いにくいことを隠されているみたいで、胸の中がざわつく。
「何してた?」
「密告された」
「え……? それだけじゃないだろ」
「それだけだよ。カメラさんも部屋にいたし」
──ただ密告されただけだったのか。
早とちりであんな幼稚な態度を取ってしまった。急に羞恥心が湧き上がってきて首を搔く。
「なんだ。そっか、密告かあ」
「もしかして機嫌悪かったのと関係ある?」
「……理子ちゃんとも、俺みたいに裏で会ったりしてるのかなと思って」
一瞬パッと目を見開いた啓が手を大きく振りながら、大きな声で「それはない」と言い切った。
「ごめん、疑ってた。理子ちゃんとツーショットもしてたし」
「そりゃあパフォーマンスだよ。向こうも分かってると思う。なにより僕は、春兎以外の人に心揺れたことは一度もない」
「そんな……まじで?」
「春兎」
言葉通り揺らぎのない真っ直ぐな瞳に見つめられ、笑ってしまうほど狼狽えた。
脳裏に焼きついた昨日のキスがちらつく。またキスしたい。キスされたい。もっと──。
「好きだよ」
「え!?」
「ちゃんと言えてなかったなと思って。春兎のことが好き。もう自分を誤魔化せない」
頬を温かい手のひらで包まれた。指先の細かい震えが伝わってくる。
いよいよキスされるのかと思って瞼を下ろしたが、いくら待っても一向に気配はない。恥ずかしさで頬に火が走るのを感じながら、そっと目を開ける。
「──あ」
柔らかくて切ない視線に心臓を掴まれる。
この男は、どうしてこんなに、運命という言葉を当てはめてしまいたくなるんだろう。
「春兎は?」
俺も好きだと認めてしまったらどうなる?
未知の世界に足を踏み入れるのが怖い。
ただでさえアイドルになれるかなれないか、瀬戸際に立っている。この恋愛が人生を左右する。一時的な感情に流されていいことじゃない。
黙った俺に、啓は溜め息をついて立ち上がった。
「あっ」
「春兎も歯磨き行く?」
「……行こ」
小学校をリノベーションした宿泊施設だから、トイレ等は各教室には存在しない。一階の共用洗面所に行くと、ちょうどリュウキが歯を磨き終わったあとだった。
「おつー、お前らまじ仲良いな」
「まあな……リュウキはもう戻んの?」
「もちろん! 練習したいし。春兎もくる?」
「あー俺は」
「ごめん、春兎と話したいことあるから」
俺たちの間にずいっと体ごと割り込んできた啓に、リュウキの顔が引き攣った。
「お、おう。じゃ俺は行くわ」
啓は爽やかな笑顔で「頑張って」と見送り、何事もなかったかのように歯ブラシを口に咥えた。
こういうところで意思の強さを感じることがある。きっと、二人きりの時間を少しでも長く確保したいからとかそんな理由だろう。
「話したいことって?」
「んー」
歯ブラシを動かしながら、今は喋れないとジェスチャーをされる。磨き終えて口を濯いだあと、啓の顔が何かを覚悟したようなものに変わった。
「トイレ一緒に入ろう」
「……え、一緒に?」
四つある個室の一つを指さした啓が頷く。
スタッフは撮影準備、リュウキは体育館、他の男子はツーショットに行っているとは言え、さすがに個室に二人で入るのはまずい気がする。
「大丈夫。人来ないから」
「い、いやいや! もし出るとこ見られたらどうするんだよ」
「僕が吐いてたとか言えばいい」
「でも……」
「来て」
「あっ、ちょっと」
手を強めに引かれて連れ込まれた。個室は広めで、男二人が入ってもさほど窮屈に感じない。
──ここで一体なにするつもりなんだ?
綺麗な顔が近寄ってきたかと思えば、大きな手でゆっくりと扉の内側に体を押し付けられる。
「な、に」
頭が真っ白になった。大きく膨らんだ不安と期待がドコドコと心臓を速く打ち始める。
こんなところで体を密着させ、見つめ合うなんて変だ。俺たちはおかしい。
「僕……好きな人の名前、春兎を書こうと思ってるんだ」
「えっ?」
何を言われたのか理解できなかったが、啓の真剣な顔を見て冗談じゃないことはすぐに分かった。
「春兎も、僕の名前を書いてくれたらうれしい」
こいつは本気で俺と恋愛したいんだ。
はっきり伝わってくる気持ちに、顔が熱くなる。リスクとか周りからどう思われるとか、きっとそんなことをいっぱい考えた上で告白してくれた。
啓が足を一歩踏み出した。完全に体が密着してすぐ、唇を塞がれる。
「っう……!」
人生で三回目のキス。ムカつくことに啓は経験が豊富なのか、口の中を舐められて心臓が止まりかけた。
「ん、ぅ」
どうしたらいいのかわからない。息をするのもままならず、ただただ扉と啓の体に挟まれながら体を震わせた。
「はあ……、まっ、て。息できない」
啓の肩を押し返したが、力の抜けた手は何の意味も成さなかった。
「鼻で息するといいよ」
いいよじゃねえよ! なんだそのアドバイスは。
「おい、だめ……っ、だって……」
抵抗も虚しく手首を掴まれ、再び唇が重なる。勢い余って扉に背中がぶつかった。トイレの中とは思えない激しい音が耳に響く。
「ん、んん」
もう何も考えたくない。このままここでずっとキスしていたら、怒られてしまうかな。
──あ、落ちる。
とうとう足の力がガクッと抜けた瞬間、腰を抱きかかえられた。
「春兎……どうしよう、本当に……すきになっちゃったんだ。これが終わっても春兎と一緒にいたい」
矢継ぎ早にそう言った啓の顔は、酸欠で息を切らしている俺より苦しそうだ。
もしかしたら、同じようにこいつも俺に対して運命を感じているのかもしれない。そうじゃなきゃこんなにも必死になる理由が分からなかった。
「俺も……啓のことが好き、だけど」
「え!?」
「どうすんの。俺たちが恋人になってデビューするなんて無理だろ。男同士ってだけで変な目で見られるのに。きっと事務所にも親にも反対される」
「それは……」
「俺、アイドルになることだけ考えてきたって知ってるよな? 恋愛もしないで、ずっと。だから……諦められないんだ」
「ならお互いポイントでデビューすればいい」
「片方は理子ちゃんだろ、どう考えても。二人でそれはムリだって」
啓は押し黙った。代わりに、俺を抱き締めている腕にぎゅっと力が込められる。
こんなときでも石鹸のようないい匂いにうっとりしかけて、どこまでバカなんだと自分に呆れた。
「でも僕は……春兎の名前を書くよ。自分や周りに嘘つきたくないし、恋愛リアリティーショーなんだから性別関係なく好きになってもいいと思ってる」
「……それは俺もだけど」
「気持ちに応えられないなら、僕の名前を書かなくてもいい」
そういう運命だったんだって諦めるから。と続けた啓は、長く息を吐き出して俺の肩に額を押しつけた。
「すき」
辛うじて聞き取れた、くぐもった小さな声。ズキズキと胸が痛む。
運命というものは諦めるとか云々の話じゃなくて、必然的で自力では変えられないものじゃないのか?
もし恋人になれなかったら運命じゃなかったってことになる。
(俺はどうしたらいいんだよ……)
背中に腕を回すかどうかしばらく悩んで、力なく振りおろした。


