君が待ちわびる黄昏で

 不意に後ろから、影の頭が近付いた。
 誰か来たのかと、ビクリとして後ろを振り返った。

「夏希君!」

 叫んだ名前が耳に届いた時には、抱き包まれていた。

「え? ……結陽、さん?」

 知っている温もりが夏希の体を抱いている。
 まだじんわりと夏の暑さを残した風が、知っている匂いを流し込む。

「最後の依頼の絵画が書き終わったら帰っていいって言われて、寝る間も惜しんで急ピッチで描いた。ろくに連絡も出来なくて、ごめん。心配したよね」

 結陽が早口で話すから、何を言っているのか頭に入らない。
 ただ目の前に結陽がいることだけは、理解できた。

「日本に着いてから連絡したんだけど、返事がないから、何かあったのかと思って夏希君の家に行ったんだ。お母さんが散歩に出掛けたって教えてくれたから、きっと神社だと思って」
「連絡? え? あれ?」

 スマホを確認する。
 結陽からのメッセは、届いていない。

(メッセ、届いてない。結陽さん、ちゃんと送れたのかな。疲れすぎて夢の中で送ったりしてないかな)

 軽く混乱しながら、メッセが届いているか再確認する。やっぱり、ない。
 結陽の健康状態が心配になった。

「帰る日を連絡したつもりだったんだけど、ちゃんと届いてなかったっぽくて。というか、僕が送信し忘れたのかもしれなくて。とにかく帰って夏希君に会うのが早いと思った。何もないよね、元気だよね?」
「俺は、元気だけど……」

 結陽が、混乱した様子で慌てている。夏希の顔にペタペタと触れた。
 焦燥しきった表情が夏希を見下ろした。
 結陽のほうが夏希より、よっぽど疲れた顔に見える。

(連絡したか、わかんなくなっちゃうくらい、忙しかったのかな。結陽さん、相当無理して、疲れているんじゃ……。それなのに、帰って来て最初に俺を探してくれたんだ)

 心配になりながらも、胸の奥がきゅんと締まった。
 夏希は、恐る恐る結陽の腕に触れた。

「えっと、……とりあえず、幽霊、じゃないよね?」

 夏希の言葉に、結陽が小さく息を吐いた。
 さっきよりは落ち着いた顔が近付く。
 黄昏の弱い茜に照らされた結陽の顔が、困ったように笑んだ。

「本物の僕だよ。けど、危うく幽霊になるところだった」

 夏希の頭に手を回して、性急な唇が重なった。

(あ……、熱い。ずっと待ってた、欲しかった結陽さんの体温だ)

 幽霊じゃない、本物の結陽の熱を、やっと実感できた。

「僕は夏希君に会えないと、息ができない。キスしてやっと、息ができた」

 結陽が、夏希の体を強く抱き寄せて、肩に顔をスリスリした。
 体が強く触れ合って、感じたかった熱が否応なしに流れ込んでくる。
 甘えた仕草が可愛くて、夏希は結陽を抱き返した。

「温かい。本物の結陽さんの熱だ。幽霊じゃ、ないね」

 温もりが沁みて、目が滲んだ。
 夏希の体を抱いた結陽が、大きく息を吸い込んだ。

「夏希君だ、夏希君の匂いだ……。少し、背が伸びた? 前より顔が近い」
「うん、大学入ってから、五センチも伸びた。なのに、結陽さんのほうが、まだずっと背が高い」

 大学生になってやっと一七〇センチに身長が届いたのに、まだ結陽の顔が目の上にある。
 抱き寄せられると、夏希の顔は結陽の肩あたりにくる。

(前は胸の辺りだった。ちょっとだけ、結陽さんの顔に近付いた)

 一年七カ月という時間の経過を、改めて実感する。
 
「顔、良く見せて。ちょっと大人っぽくなってるね。だけど、可愛い夏希君のままだ」

 夏希の顔に触れて、結陽が嬉しそうに夏希を見詰めた。
 結陽が、「はっ」と、気が付いた顔をした。

「そうだった、会ったら最初に聞こうと思ってた言葉があるんだ。慌てすぎて最初に聞けなかった」
「言葉?」

 首を傾げる夏希の体を、結陽が少しだけ離す。
 すぃと、空を指さした。

「……今日の空は、夏希君の好み?」

 その問い掛けは、まだ会ったばかりの頃、結陽が必ず夏希にしていた質問だ。
 懐かしくて、想いが胸に込み上げる。

「今日は……、昼間から気持ちいいくらい澄んだ透明な水色で、俺が好きな秋の空だったから。きっと夜空も冴えて、コーンムーンが綺麗に見えるよ」

 空の話をしているだけなのに、涙が込み上げて、声が震えそうになる。
 抑えきれない感情が、熱い雫になって目から流れた。

「ねぇ、結陽さん。まだ結陽さんに送ってない話があるんだ」
「どんな話? 教えて」

 結陽の指が、夏希の目尻をなぞる。
 くすぐったい感覚すらも懐かしい。

「俺と結陽さんが出会った黄昏は、薄明ともいうんだって。日本では、たったの三十分しかない時間なんだって。今の、この黄昏も、その三十分の一部」

 夏希は結陽の顔に手を伸ばした。
 いつも結陽がしてくれるのと同じように顔を包みこむ。

「そんなに短くて、顔もよく見えないような黄昏の中で、結陽さんは俺と出会ってくれた。連絡つかないのに、見付けてくれた。出会えたのも、見付けてくれたのも、奇跡みたいで、結陽さんとの出会いが、まるで運命みたいって、思った」

 奇跡だとか運命だとか、自分には無縁すぎて使う機会なんかない言葉だと思っていた。
 でも今は、他にぴったりはまる言葉が、見当たらない。

「運命だよ、確実に」

 結陽の唇が近付いて、夏希の涙を吸い上げた。

「黄昏が怖くて嫌いだった僕の心を、待ちわびるほどに変えたのは、夏希君なんだから。僕はもう、夏希君がいないと息ができない」

 互いに腕を絡めあい、体を強く抱きしめる。
 ついさっきまで途方に暮れていた腕は今、愛する人を抱いている。
 一年七カ月、空を彷徨っていた手が、ようやく欲しかった熱に触れた。

「おかえり、結陽さん。結陽さんが待ちわびる黄昏で、待ってたよ」
「……ただいま。黄昏が夏希君を連れてきてくれた。やっと夏希君に帰ってこられた。もう、離れない」

 終わりかけの薄明が、重なった二人の影を長く伸ばす。
 影より濃く交わし合うキスはどんどん深まって、離し方がわからなかった。

 結陽が待ちわびる黄昏が、これからも自分であればいい。
 どんなに離れても何度でも見付けるための、黄昏は二人の刻だ。
 結陽が息の仕方を忘れないように、これからも絵を描いて、物語を紡げるように。
 もう離れずに済むように。
 夏希は結陽の体を強く包んで、掴まえた。