君が待ちわびる黄昏で

 息を切らせて戻った夏希に、結陽が驚いていた。

「夏希君、大丈夫? 何があったの?」

 息を整えているから、上手く話せない。
 部屋の中に戻って、座り込む。

「結陽さん、カッターかハサミ、貸して」
「その段ボールを開けるの? これでいい?」

 渡されたカッターナイフで、段ボールを開ける。
 意を決して蓋を開く。
 中には、緩衝材に包まれた本が入っていた。

「夏希君、これ……」

 一緒に段ボールの中を覗き込んでいた結陽が、目を見開いている。
 暗い夕焼けに文字が浮かんだ表紙を、夏希はするりと撫でた。

「本当は、カバーをかけて、ちゃんとラッピングして渡したかったんだけど。作り始めたの、遅くて、間に合わないかもで」

 本を一冊、手に取って、結陽に差し出す。

「結陽さんが絵を描いてくれたみたいに、俺も結陽さんに、形に残る物、あげたくて。今まで書き溜めた話と、まだ送ってない空の話、結陽さんの絵と一緒に、本にしたんだ」

 結陽が、じっと本を見詰めている。
 その目が、嬉しそうに笑んだ。

「君が待ちわびる、黄昏。そっか、……そっかぁ」
「俺からあげられるものって、少ないけど。せめてこれ、ポッケに入れて一緒に持っていって」

 本を受け取った手が、夏希に伸びた。
 結陽の腕が夏希を包む。

「やっぱり夏希君は、いい。すごくいい。夏希君が夏希君だから、僕は夏希君が好きだよ。夏希君だから、欲しい」

 性急な唇が重なる。
 いつもより強くて、柔らかくて、甘い。

「ありがとう。こんなに最高な贈り物、貰ったの初めてだ」

 見上げた結陽の目が潤んでいる。
 夏希は、結陽の目尻にそっと指を添わせた。

「結陽さんが引き出してくれた、俺の一部だよ」

 結陽がいなければ文章も書こうとも、本を作ろうとも思わなかった。

「この本、夏希君だと思って、いつも持ってる。ずっと持ってる」

 結陽が、本当に嬉しそうに泣きながら笑う。
 安堵と嬉しさで、夏希の目も潤んだ。
 二人して泣きながら、ぴたりと抱き合った。
 温もりを忘れたくなくて、出来るはずもない一年半分の充電をするつもりで、夏希は結陽にしがみ付いた。

「本、開いてもいい?」
「良いけど……」

 出来れば一人になってから読んでほしい。

「夏希君も、まだ見てないでしょ。一緒に見よう」
「……うん」

 確認していないから、どういう仕上がりになっているか気になるが、一緒に見るのは恥ずかしい。
 結陽が腕を解いて、座った。

「はい、ここ、おいで」

 夏希に向かって、結陽が手を伸ばした。
 結陽は夏希を後ろから抱いて座るが好きだ。
 いつもの姿勢だと思うが、その近さで一緒に本を読むのは、恥ずかしい。
 もじもじする夏希の腕を結陽が引いた。

「ぅわ……、結陽さん」

 慌てる夏希を、結陽がいつものように後ろから抱きしめる。
 夏希の目の前で、結陽が本の表紙を捲った。
 口絵にした夏の個展の絵が現れた。

(小さいけど、絵、潰れてなさそう。良かった。結陽さんは、嫌じゃないかな)

 絵描きの中には、描いた絵のサイズを変えられるのを嫌う人もいると、建優が話していた。

『茅野はプロだし、商業使用でそういう経験、何度もしているから大丈夫だと思うけどね。会報誌に載せる絵も縮尺OK貰ってるし』

 そんな風に話していた。
 正月に結陽が同じ絵のポストカードをくれたし、大丈夫だと夏希も思うが。

「あの、結陽さん……。嫌じゃ、ない?」

 本をじっと見詰めて何も言わない結陽に、恐る恐る問い掛ける。

「嫌? 何が? ごめん、今……。この口絵を見て、本当に夏希君と一緒にロンドンに行くような気持になってた」

 見上げた結陽の頬が、ちょっと赤い気がする。
 照れた顔を見ていたら、夏希まで照れた気持ちになってきた。
 結陽の手が、ゆっくりとページを捲る。
 結陽の視線が夏希の言葉を辿る。

(本て、初めて作ったけど、書体も選べるとか、知らなかった)

 明朝体より、可愛い書体を見付けて、それを選んでみた。
 建優にアドバイスをもらいながら、読み疲れないような文字数や行間を工夫した。

(何かを形にするって、こんなに大変なんだって、初めて知った。なのに結陽さんは、もう何枚も素敵な絵を作り出してる)

 それがどれだけ大変かも、ただ好きという気持ちだけで続けられることではないとも、本を作ってみて実感した。

(結陽さんの絵に比べたら、俺の本なんて素人だけど、それでも大変だった。やっぱり結陽さんは、凄い)

 結陽の手がゆっくりゆっくり、次のページを捲っていく。
 黙って読みふけっていた手が、止まった。

「夏希君の言葉の後に、僕の絵が入ってるね」
「ダ、ダメだった? 前が良かった?」

 小さく吹き出して、結陽が首を振った。

「そうじゃないよ。あまりにもピッタリで、ビックリしたんだ。僕が夏希君のどの言葉を絵にしたのか、バレバレだね」
「あ、うん……」

 それは多分、夏希じゃなくても気が付く。
 建優は、すぐに気が付いた。
 特に夏の個展の絵に関する言葉は、健太ですら当てていた。

「夏希君の言葉と僕の絵が繋がって、重なってるみたい。まるで魔法みたいな本だね」

 結陽の目が、うっとりと本を見詰める。
 その顔のほうが幻想的で、夏希は結陽に見入った。

(喜んでくれてる。結陽さんが、俺が作った本、喜んでくれた)

 胸の奥にじんわりと嬉しさと充足感が湧き上がった。

「この先は、絵がないの?」

 続きを捲ろうとした結陽の手を、夏希は止めた。

「この先は、結陽さんの絵がない話とか、まだ送ってない話がほとんどだから、今は読んじゃ、ダメ」
「そっか、留学先でのお楽しみか。一気に読みたいけど、ちょっとずつ楽しもうかな」
「うん、そうして欲しい」

 結陽が夏希の髪に頬擦りした。

「留学してからも、新しい話、送ってくれるんでしょ?」
「ん、送る。書いたら、すぐに結陽さんに送る」

 夏希の書く空の話を読む相手は結陽しかいないから、送る相手は結陽しかいない。

「夏希君、僕ね。絵を仕事だと思ってなかったし、今でも思ってない。多分、この先ずっと、仕事だとは思わないと思う。だから特別頑張ろうなんて、考えたこともなかったんだ。僕にとって絵は、息を吸うのとあまり変わらないから」
「息、なんだ」

 息を吸うように絵を描くのなら、なくなったら生きていけないほど、結陽の一部だ。

「でも、この一年半は頑張ろうと思う。夏希君が受験を頑張るみたいに、僕も頑張って、帰ってきた時、夏希君に頑張ったよって胸を張りたい。この本を読んで、そんな風に思ったよ」

 頬に柔らかなキスが落ちる。

「そんな風に言われたら、俺も頑張らないと、恥ずかしくて結陽さんに会えない」

 夏希は振り返って、結陽の胸にこつんと額をあてた。

「夏希君は、頑張るでしょ。この本だって、時間がない中で一生懸命、作ってくれた。俺のことも、いつも一生懸命、考えてくれる。夏希君が頑張ってくれるから、僕も頑張りたいって思ったんだよ」
「本のこと、時間がなかったって、なんで知ってるの?」

 素朴な疑問が口を吐いた。

「え? いや、それは……、何となく」

 結陽が照れた目を気まずそうに逸らした。
 夏希がコソコソしている気配を感じ取られたのだろうか。

「でも、俺も、頑張ろうって思った。結陽さんが、頑張って作った本、喜んでくれたから。頑張るの、良いなって思った」

 普段から活力があまりない夏希は、意識して頑張るなんて、ほとんどしない。
 自分のできる範囲でできることを、それなりにこなしてきた。

「受験、頑張るね。大学生になって、結陽さんに会えるように」

 夏希の顔を見詰めて、結陽が笑んだ。

「ちゃんと休憩もしながら、お互いに頑張って、繋がる先の未来で、また会おう」

 誓いのように響いた言葉を、口付けで交わし合う。
 いつもと同じ唇は、いつもとは違った熱を夏希に流し込んだ。