君が待ちわびる黄昏で

 夏希は焦っていた。
 二月二日と聞いていた結陽の出発日が早まった。
 今年の二月のロンドンは気温が低く、特に上旬は悪天候で気流が安定しない予測らしい。
 フライトが欠航する状況を懸念して、予定が一週間、前倒しになった。
 しかも結陽の出発の日、夏希は学校で模擬試験が組まれているから、見送りに行けない。

(来週には、結陽さんはロンドンに行っちゃう。しかも、本が届いてない!)

 印刷所に最速で入稿した本が出来上がってくるのは、結陽の出発日と同じ日の午後の予定だ。
 建優が何度か印刷所に問い合わせをしてくれているようだが、早めるのは難しいらしい。

『いつも使ってる印刷所だから、多少は融通してくれるって話なんだけど、約束はできないって返事でね。進捗あったら、すぐ連絡するね』

 建優からのメッセを読んで、夏希は項垂れた。

(そもそも、作り始めたのが遅すぎた。今更、そんなこと考えても意味ないけど)

 最悪、出発日に届かなくても、結陽の留学先に送る方法だってある。
 そこまで嘆く必要はない。

(でも、出来れば直接渡したい)

 今は、奇跡的に本が届いてくれるのを祈るしかなかった。


〇●〇●〇

 
 一月最後の週末、夏希は結陽の家に泊まった。
 週が明けた月曜には、結陽はロンドンに旅立つ。
 なのに、本は届かなかった。

「明日、朝とか早いんだろうし、あまり遅くならずに帰るね」

 いつもならゆっくりと日曜の夕方まで一緒に過ごすが、今日はそうもいかない。

「準備は終わってるし、あとはお風呂に入って寝るだけだから、気にしなくていいよ」

 隣に座る結陽が、夏希の頬に口付けた。

「それより、もっと顔、見せて。一年半分の夏希君、もっと充電させて」
「そんなに、持つ? ……んっ、ふぁ」

 唇を吸われて、キスが深まる。
 ちゅっと音を立てて名残惜しい唇が離れる。

「全然、持たない。夏希君を小さくしてポッケに入れて持っていきたい」

 ぎゅぅっと強く抱きしめられた。

「ポッケに……、入りたい」

 同じくらい強く、結陽の体を抱き返した。

(せめて本が届いてくれたら、俺の代わりに連れて行ってって、渡せたのに)

 結局、本の話すら、結陽にできなかった。
 それが心残りで仕方ない。
 せめてもと、準備したブックカバーやしおり、添えるつもりだった手紙をラッピングして持ってきているが、渡すタイミングを思いっきり失っていた。

(本がないのに、これだけ渡すのって、どうなんだろう。本と一緒に後から送った方がいいよな。でも、手紙もあるし、渡すべきかな)

 迷うと余計に動けない。
 結局まだ、渡せていない。

 夏希の顔を眺めて、結陽が苦笑した。

「夏希君、そんな顔しないで。もっと、笑ってよ」
「え? 俺、変な顔してる?」

 夏希は自分の頬を、むにっと摘まんだ。

「不安そうな顔してる。僕が行っちゃうから、悲しい? それ以外にも、何かあった?」

 心情を見透かされた気がして、ドキリとした。

「結陽さんが行っちゃうの、悲しい。でもそれは、ちゃんと覚悟決めたから、グズグズ言ったりしない。ただ、あのね」

 本の話をするべきか迷った。
 渡せないモノの話をして、結陽はがっかりしないだろうか。

(でもせめて、俺の気持ちだけでも、伝えたい)

 夏希は意を決して顔を上げた。

「あのね、実は……」

 夏希の言葉と同時に、スマホが鳴った。
 建優からの着信だ。
 夏希は慌てて電話を取った。

「建優さん……」
『夏希君、今、どこに居る?』
「結陽さんの家だけど……」
『本、印刷所から直に受け取ってきた! 届けるから、熊野神社まで出て来て! もう駅出たから、すぐに着く!』
「わかった」

 夏希は結陽を振り返った。

「ちょっとだけ、待ってて! すぐに戻ってくるから、待ってて!」
「うん、わかった。待ってる」

 いつもなら出ないような勢いで、結陽の肩を掴んだ。
 気圧された様子で、結陽が頷いた。
 夏希は、転びそうになりながら立ち上がると、玄関を飛び出した。

 結陽のアパートから熊野神社までは五分程度だ。
 いつもなら近いと感じる道が、やけに遠く感じた。

「夏希君、こっち!」

 神社の鳥居の前で、建優が手を振って夏希に駆け寄った。

「建優さん!」

 夏希も駆け寄る。

「印刷所まで、取りに、行って、くれ、たんだ……」

 息が切れすぎて、上手く話せない。

「発送されちゃうと、明日まで待たなきゃだからね。出来上がり次第、連絡もらえるように話してたんだ」
「あり、がと……」

 建優の優しさが沁みて、涙が込み上げた。

「気にしなくていいよ。それより、早く戻って茅野に渡してあげなよ」

 小さな段ボールを手渡された。
 そんなに重くないのに、とても重く感じる。

(この中に、作った本が。結陽さんのために作った本が、入ってるんだ)

 そう思ったら、感動がじんわり込み上げた。
 
「涙は茅野に拭ってもらいな。きっともっと泣くでしょ」

 建優が悪戯に笑んだ。
 夏希は自分の手で、ぐぃと頬に流れた涙を拭った。

「ありがと、建優さん。絶対、お礼するから」
「ちゃんと茅野に渡せたら、それで充分。俺も一緒に作った甲斐があるよ。ほら、早く戻って」

 肩を掴まれて、体をくるりと回転された。
 背中を、ぽんと押されて、足が前に出た。

「結陽さんに、渡してくる!」

 夏希らしくないような張りのある声で言い切った。
 建優が笑顔で手を振ってくれた。
 貰った勢いを殺さないように、夏希はまた走った。