君が待ちわびる黄昏で

 それからはあっという間に話がまとまって、結陽の海外留学兼お仕事は、予定通り来年の二月出発の運びとなった。
 期間は当初の二年より短めの一年半になった。
 大学と画商側の謝罪を含んだ対応らしいが、だったらもっと短くしてくれと夏希は思った。

 十一月下旬、学校の屋上から見上げる空は、水色が一層、薄くて高い。
 雲一つない秋晴れの空には、冬の気配が近付いていた。

「何か色々、揉めたみたいだな」

 健太が夏希に棒付きキャンディを差し出した。
 受け取って包装を解く。夏希が子供の頃から好きなラムネ味だ。

「うん、でも、無事に纏まったみたいだから」
 
 その辺の事情は、恐らく健太のほうが詳しいだろう。

「兄貴は殴っといたから。悪かったな」
「は⁉ 建優さんのこと、殴ったの?」

 健太に殴られたら、建優は死んでしまいそうだ。それくらい、貧相な体形をしている。

「あの状況なら夏希に説得させんのがベターだけどさ。あの状況で夏希を利用したのが気に食わなかったから、殴った」

 なんというか、健太らしい理屈だなと思った。
 やっぱり健太は、そこそこ事情を把握しているらしい。

「でも俺、良いことしたと思うぜ。顔、思いっきり腫らした兄貴が俺に殴られたって茅野先生に話したら……」

『それは、ご愁傷さまです。健太君が殴っていなかったら、僕が殴るところでした。金輪際、夏希君を利用するような真似は、よしてくださいね。大学、辞めますよ?』

「……って、言われたんだってさ。しかも笑顔で」
「そんなやり取りがあったんだ」

 結陽からは、そういう話は聞いていない。
 そもそも建優も色んな立場の板挟みで大変な思いをしただろうに、と気の毒に思った。

「案外、怖い人だよな。芸術家って、自分の専門以外、何も考えてない人ばっかだと思ってたけど、茅野先生は意外と計算高そう」
「とんでもない偏見だし、結陽さんも建優さんも、ちゃんと考えてる人だよ」

 計算高いかは別として、今時、ぽやぽやと絵だけ描いている画家なんか、そういないだろう。
 特に建優は色んな意味で苦労していそうな気がする。

「で? 夏希は平気なの? 一年半も待てんの?」
「うん、待つよ。待ってるって、約束したから」
「ふぅん」

 空を見上げる夏希の隣で、健太も空を見上げた。

「夏希はさ、なんで空を見るのが、好きなワケ?」
「なんで……。あんまり考えたコト、ないけど」

 空を見上げるのは夏希の趣味で、子供の頃からの癖でもある。
 
「俺、一人っ子で両親が共働きで、家に一人でいる時が多かったから」

 そういう時は空を見上げて、観察していた。
 夕暮れの朱色の空を飛んでいく真っ黒な鴉が、夜の群青に呑み込まれる前に空の彼方に消えていく。
 朝は早い時間から母親が動き出すので、一緒に起きて寝ぼけ眼な白い空を眺めていた。

「生活の一部かな。癖になってるというか。でも今は、俺が見てる空を一緒に楽しんで、絵にしてくれる人がいるから、前より楽しい」

 嬉しくて自然と笑みがこぼれる。
 そんな夏希を健太が眺めていた。

「まさか夏希から惚気を聞く日が来るなんてなぁ」
「惚気⁉ 今の別に、そういうんじゃないよ」

 気恥ずかしくなって、俯く。
 
「……一年半後には、俺たち、大学生だな」
「そうだね」

 一年半なんてきっと、長い人生からしたら、あっという間の時間だ。
 けど、今の夏希たちには貴重な時間だ。

「健太は進路、決まった? やっぱり経済学部?」

 家の仕事を継ぐつもりでいる健太は、兄の建優のような芸術家系ではなく、経済系に進むのだろう。
 性格的にも向いている気がする。

「理系の大学でもいいかなと思ってたけど、経済か商業系で絞るかな。夏希は? 芸術関係?」
「なんで芸術? 俺、そういうセンスないよ」
「そうか? 夏希って、兄貴や茅野先生と同じ匂いするけど」

 健太の言葉が、いまいちしっくりこない。
 自分に芸術的センスがあるとは、とても思えない。

(でも、空の話を書くのは、最近ちょっと楽しい)

 結陽に進められて書いている空の話は、過去の分も今の分も、書ききれないほどある。
 自分の中に、こんなに物語が眠っていたなんて、知らなかった。

(これも結陽さんが教えてくれた、俺の趣味だ。喜んでくれる人がいるから、余計楽しい)

 それが今は嬉しくて、ちょっとくすぐったい。

「やってみたいこと、一つだけ、見付けたんだ」

 夏希は空を見上げた。

「空の話を書いてたら、もっと空を知りたくなって、今度は違う目線で見てみたくなった。だから、理系に行こうかなって」
「へぇ、意外。環境系とか地球科学とか、そんな感じ?」
「まだ具体的には決めてないけど、そんな感じ」

 ぼやけてはっきりしなかった自分の未来が、輪郭を持ち始めた。
 夏希の中に埋もれていた興味や関心を掘り起こしてくれたのは、結陽だ。
 こんな風に人と出会って、気持ちが動いて、新たな気持ちが生まれていくのは、新鮮な感覚だった。

「志望校、決まったら教えろよな。俺も相談すっから」
「そうだね。学校でこういう話できるの、健太だけだ」

 健太が、じっとりと夏希を見詰めた。

「茅野先生と付き合ってからのほうが夏希とゆっくり話せるって、俺的にはなんか複雑なんだけど」

 言われてみれば、そうかもしれない。
 結陽と関わるようになってからのほうが、健太と二人で話す機会が多い気がする。

「言われてみれば、そうかも。健太、色々、ありがと」

 夏の個展の時、健太が一緒に行ってくれなかったら、きっと心が折れていた。
 それ以来、健太にはお世話になってばかりだ。
 健太が照れたように目を逸らした。

「そういう可愛い顔すると、また奪いに行くからな!」

 首に腕を回されて、引っ張られた。

「一年半は邪魔者いねぇし、俺にだってまだチャンス、あるだろ?」
「ない。そういうチャンスはない。友達なら遊ぶ」
「なら、友達から恋人コース」
「ない。それもない。なら、遊ばない」

 まるで子供の頃のように健太とじゃれ合う。
 こういうのも、久し振りだ。
 風に寒さが滲み始めた屋上に、二人の声が響いていた。