君が待ちわびる黄昏で

 コーヒーショップを出て、とぼとぼと歩いていた。
 どうするのが正解か、わからなかった。

(結陽さんが怒るの、わかる。けど、急に留学取消した結陽さんが全く悪くないわけじゃない。でもだけど、そもそも結陽さんが留学取消した理由は、きっと俺で……)

 不意に立ち止まった。

「二年も、会えない」

 ぽつりと呟いた声は、酷く乾いていた。
 代わりに目から、ぽろぽろ涙が零れた。

「あれ? なんで……。俺、結陽さんに待てるっていったじゃん。邪魔したくないって、自分から、言ったのに」

 突然、突き付けられた現実があまりにリアルで、手が震えた。

(本当は、会えないの辛い。寂しい。そんなの、本人に言えるわけない)

 ただでさえ渋っている留学だ。行かないでなんて言ったら、結陽はきっと行かない。
 今まで積み上げてきた大事なものを総て捨てて、俺を選ぶ。そういう人だ。

「俺が、言わなきゃ。行けって、言わなきゃ……」

 両手で目を押さえて、懸命に涙を拭う。
 指の隙間に映る空は、秋の空とは思えないほど潤んでぼやけた夕の茜だった。

 十一月最初の週末、俺は結陽のアパートに泊まりに行った。
 建優から話を聞いた二日後だったから、その間、結陽には会っていない。
 心の整理をするには時間が足りなかったが、のんびりもしていられない。

(今日は海外留学のこと、結陽さんにちゃんと話さなきゃ)

 気を引き締めて、結陽に会いに行った。
 インターホンを押す指がもう、震えている。
 自分の頬をパンパンと叩いて、思い切って押した。

「いらっしゃい、夏希君……」

 扉を開けた結陽の顔から笑みが消えた。

「何か、あった?」

 俺の顔を凝視して、結陽が神妙な面持ちになった。
 既に顔にも出ているのかと思うと情けない。
 フルフルと首を振って、部屋の中に強引に入った。

「何もないよ。会うの、久し振りだから、ちょっと緊張してるだけ」

 実際、結陽のほうが忙しくて、この一週間はほとんど会えていない。
 その忙しさはきっと、海外留学の話合いも込みなんだろうと、建優の話を聞いた後に思った。

「最近、忙しかったから。中々会えなくて、ごめんね」

 結陽が後ろから俺を抱きしめた。
 背中に感じる熱も、優しい声も吐息も、全部が愛おしい。
 涙が滲みそうになって、ぐっとこらえた。

(この程度で動揺してたら、話なんかできない。ちゃんと落ち着いて、冷静に話さなきゃ)

 抱きしめてくれる結陽の手を握った。

「夏希君? 本当に何か……」
「海外留学の話、取消されていないんだよね」

 背中に沿った結陽の体が、ピクリと震えたのが分かった。

「誰かに聞いた?」
「建優さんが、教えてくれた」
「そっか。東野先輩が……。夏希君にわざわざ、話したんだね」

 強く唇を噛む。今の言葉だけで、俺が何を考えているのか、悟られた気がした。
 互いに言葉を失くして、気まずい沈黙が降りた。

「……今は保留になっているけど、大丈夫だよ。僕が、ちゃんとするから。夏希君は気にしないで。僕は行く気、ないからね」
「ちゃんと、行ってきてよ。元々、そういう予定なんだから。無理してまで断らなきゃならない理由、ないでしょ」

 早口で捲し立てた。
 でないと声が震えそうだったから。
 結陽の手を握る自分の手に力が入るのを、止められない。

「夏希君……」

 結陽が抱く腕を強める。
 伝わる熱が温度を増して、結陽の輪郭を鮮明にする。
 それが嬉しくて、今は辛い。

「前とは状況が違うよね。ただの留学じゃないんでしょ。これから先、結陽さんが日本で絵を描けなくなったら、俺……」
「確かに大手の画商が関わってるけど、僕が絵を描くのは売るためじゃない。絵を描く環境を失う訳じゃないよ」

 結陽の話は、嘘ではないんだろう。
 だが、それが正しい判断なのか、はわからない。
 わからないが、それでいいとも思えない。

「……俺のため?」

 こんな風に聞くのは、本当は嫌だ。
 まるで思い上がりで傲慢な台詞に感じる。

「俺がいるから、俺といたいから、結陽さんは留学、取消したの? 理由は、俺?」

 最初に留学取消しの話を聞いた時、後付けのような理由は聞いた。
 けれど、結陽の本当の気持ちを聞いていない。
 
「……今回の件は、色々理由があるよ。だけど、海外留学をやめようって思った一番の理由は、夏希君だった。夏希君といるほうが僕は、自分らしい絵が描けると思ったから」

 涙が、勝手に溢れてきた。
 ぽたぽたと、結陽の手に零れ落ちる。
 その手を、強く握った。

「俺、待てるって言った。二年くらい、待ってる。海外にいたって連絡、取れるじゃん。今だって、毎日会ってるわけじゃないんだから」
「……夏希君」
「邪魔したくないって、足引っ張りたくないって、言ったのに! 何で俺を理由にするんだよ!」

 振り返って、結陽の胸を強く押した。
 勢いで結陽が尻もちをついた。
 結陽の服を引っ張って、胸に頭を押し付ける。
 これではまるで縋っているようだと思うのに、顔をあげられない。

「……夏希君、顔、見せて」

 優しい指が顎を撫でる。
 フルフルと首を振った。

「お願いだから、ちゃんと、行ってきて。約束してくれなきゃ、顔、あげない」

 声は震えるし、涙も止まらない。
 こんな情けないぐちゃぐちゃの顔、見られたくない。

「建優先輩に、僕を説得しろって、お願いされたんだね。夏希君は今日、その話をするために、僕に会いに来たんだね?」

 確かにその通りだが、そうだとも違うとも、言えなかった。
 自分の気持ちがぐちゃぐちゃで、自分でもよくわからない。
 頷くことも出来ずに、沈黙するしかなかった。

「夏希君は、本当に僕に留学、行ってほしい? 建優先輩のお願いとか、僕の将来とか考えないで、夏希君の本当の気持ち、教えて」

 結陽の手が俺の顎や頬を撫で続ける。
 背中を撫でる手が、俺の体を抱き寄せた。

「……俺の気持ち、話したら、結陽さん絶対、行くって言わないから、言いたくない」

 小さな声で、ぼそぼそと答える。
 結陽の手が、すっと離れた。
 触れていた熱が急に消えて、不安になった。
 
「夏希君は、僕のために二年待つって言ってくれた。嬉しかったよ。だけど、僕なんかいなくても、夏希君は平気なのかなって、ちょっと寂しかった」
「ちがっ、そんなわけない! 毎日会いたいし、一緒に空を見上げたいし、結陽さんの顔を見て空の話したい。手も繋ぎたいし、ぎゅってされたい」

 ただの本音が、するすると口から零れ落ちる。
 ダメだと思うのに、止められない。

「本当は行ってほしくない。ずっと側にいてほしい。ずっと側にいたい。大好きだから、離れたくない。でも、それじゃ、結陽さんは、絵が……。描けなくなったら、俺、結陽さんの絵が大好きなのに、そんなの嫌で。だから、どうするのが正しいのか、わかんない」

 言葉と一緒にとめどなく流れる涙を結陽の手が拭う。
 拭いきれずに溢れた分は、結陽の唇が吸い上げた。

「やっと、夏希君の本当の気持ち、聞けた。夏希君は良い子で賢いから、僕のことばかり考えて、僕にとって正しい答えを探してくれるけど。僕にとって正しい答えは夏希君の気持ちだよ」

 結陽が俺の体を抱き寄せて、顔を胸に押し付けた。

「僕が大好きな子が、僕のこと大好きだって泣いてくれる今が、どうしようもなく幸せなんだ」

 顎を掴まれて、顔が上がる。
 唇が重なって、熱が伝わる。
 驚くほど安心した。

「毎日、日本の空の色、教えて。夏希君の空の物語を、僕に送って。僕はそれを読みながら、夏希君の空を描くから」
「……結陽さん。行く気に、なったの?」

 結陽が、もう一度夏希の唇を食む。

「本当は行きたくないよ。ずっと夏希君と一緒にいたい。だけど、大好きな子が、こんなに一生懸命、僕の未来を考えてくれてるのに、これ以上、子供みたいな我儘、言えないよ」

 結陽の腕が夏希を抱きしめる。
 柔らかいのに強くて、痛くない拘束が、心地良い。

「僕が帰ってくるまで、待っていてくれる?」
「待ってる。毎日、空の話を書いて、結陽さんが帰ってくる日、待ってる。一分一秒でも早く帰って来てって思って、待ってる」

 俺は顔を上げた。
 結陽の口の端に口付ける。それから、柔らかくて熱い唇に口付けた。
 いつもなら結陽からもらってばかりのキスを、今日は自分から贈った。

「行ってほしくないけど、待ってるから」

 見上げた結陽の顔は、まだ涙で滲んでいる。
 俺の目尻に唇を寄せた。

「他の国の空をお土産にして帰ってくるから。僕のこと、待っていて」

 涙を吸った唇が、唇の熱を食む。
 唇が重なって、熱が溶けたキスは甘くて、苦かった。