十月末、結陽と恋人になって、あっという間に二カ月以上が過ぎた。
 お付き合いは順調、というか以前と変わりない。
 神社で空を見上げながら結陽のスケッチを眺める。
 時々、結陽のアパートに泊まりに行く。
 
 少しだけ変わったことと言えば、結陽の行動が前より少しだけ大胆になってきたことだろうか。
 泊まりに行くと、ちょっとだけ、そういうことがある。

(触れるのに慣れてきた証拠というか。ああいう時の結陽さん、普段と違って雄みが凄い)

 昼間とは違う夜の色気に流される。
 結陽も辛くはなさそう、というか良さそうだし、嫌ではないから問題ないが。
 恥ずかしくて、どんな顔をすればいいか、わからなくなる。

(トラウマ克服できてるなら、いいんだけど)

 最後までしている訳ではないが、そういう行為に震えなくなったのは、きっと結陽にとって進歩なんだろうと思う。

 だから、というわけではないのだが。
 俺はスマホを眺めた。
 最近は、結陽に勧められた空の話を、ちょっとずつ書き始めている。
 結陽と話した内容だけでも文字にして、渡そうと思っていた。

(俺が結陽さんにあげられるものって、これくらいしかない。いつも気持ち良くしてもらっている御礼……とかではないけど!)

 自分の思考に自分でツッコんで恥ずかしくなった。
 パタパタと文字を打ち込みながら、自分が書いた文章を改めて読み返す。

「俺って、空を見てこんな風に思ってたんだな」

 いつも感じることや見ていることを文字にしているだけなのに。
 改めて文字に起こして読み返すと、考えていただけの時とは違って見えてくる。
 とても不思議な感覚だ。

 スマホ画面から顔を上げて、空を見る。
 今日の空は、如何にもな秋晴れだ。

「遠くに見える秋刀魚雲、泳ぐの忘れて、昼寝してるみたい」

 呟いて、クスリと小さく笑った。
 またスマホに打ち込もうとしたら、バイブが鳴ってメッセージが届いた。

「建優さん? 珍しい。何だろ」

 健太の兄から直に連絡が来るなんて、滅多にない。
 メッセージを確認した俺の心臓が、ドクリと下がった。
 手早く返信すると、急いで指定されたコーヒーショップに向かった。

 駅前のコーヒーショップの二階に上がる。
 俺の姿を見付けた建優が手を振った。

「夏希君、こっち。急に呼び出して、ごめんね。健太にメッセしたら、もう学校を出たって返ってきたから、摑まるかなと思って」
「ちょうど電車、降りたとこでした」

 建優がホットコーヒーを差し出した。

「これ、良かったら、どうぞ」
「いただきます。それより、結陽さんの海外留学って、取り消しになったんじゃないんですか?」

 早速、本題を振った。聞かずにはいられなかった。

「んー、本人はもう行く気ないみたいなんだけどね。そういうわけにもいかなくてね」

 建優が困った顔で苦笑した。

「けど、結陽さんは取り消しの申請をしたって」
「その申請、保留になってるんだよ。まぁ、本来なら大学の規定で三カ月前なら取消可能でね。茅野の留学は来年の二月出発の予定だったから、そういう意味では問題ないんだけどさ」

 建優が言い淀む。

「何が、問題なんですか?」

 前のめりになる俺を、建優がチラチラと窺う。

「今回の海外留学は、茅野結陽の売り込みも兼ねていてね。勉強半分、売り込み半分で、画商(スポンサー)が支援してたんだ。だから、半分、仕事みたいなもんなんだよね」
「そんなの、勝手に取消なんかできないですよね」

 そんな話、結陽は一言も話していなかった。

「それがねぇ、本人は知らなかったんだよ。大学の留学枠って思っていたみたい」
「は? そんな大事な話、どうして本人が知らないんですか?」
「俺も詳しくは知らないんだけど、どうも大学と画商で勝手に進めた企画みたいでね。まさか本人が留学を取消すと思ってなかったから、説明は後日のつもりだったらしい。そもそも画商が関わってきたのも、夏の個展がきっかけだったみたいだから、タイミングも悪かったんだろうね。茅野の取消申請が一歩遅かったというか」

 完全に大人の世界の事情だと思った。
 汚い商戦の話をされているような気分になる。

「それで、流石に茅野も怒っちゃって」
「結陽さんが? 怒った?」

 あの優しい人が怒る姿なんか、想像できない。

「ただの留学に仕事を挟みこんだ画商とは金輪際、仕事しないとか言い出しちゃったんだけど。そこと取引しないで日本で絵を売るのは無理ってくらいの大手なんだよね」

 聞けば聞くほど、血の気が下がる話だ。

(結陽さんが怒るの、当然だ。本人が知らない間に勝手に仕事を入れられて、規定に沿ってキャンセルしてるのに保留なんて。だけど、このままじゃ)

 結陽が日本で絵を描ける環境が壊れたりしないんだろうか。

「承諾した大学の職員は本人が知っていると思ってたとか言ってるけど言訳っぽいし、どんな事情だろうと大学にも責任があるしね。画商側も平謝りではあるけど、仕事を取り下げる気もなさそうで、膠着状態になっちゃってんの」

 建優が深い息を吐いた。
 理事長の息子は学生でも、こういう場面で骨を折るのだと思った。

「つまり、結陽さんが海外留学に行くのが、一番丸く収まるってことですね。その説得を、俺にしろって言いたいんでしょ」

 この話の流れで俺が呼び出された理由は、それしか思い浮かばない。

「夏希君の賢さも敏さも助かるけど、申し訳ない気持ちでいっぱいになるよ。俺だって夏希君にこんな話、したくないんだけどさ」

 建優が項垂れた。
 夏の個展の時、建優は結陽と俺の味方をしてくれた。
 だから、この言葉が嘘ではないのは、わかる。

「一応、茅野に配慮して期間はなるべく短くする予定だよ。だから何とか、海外留学する方向で話してみてくれないかな」

 建優が俺に頭を下げた。

「わかりました……」

 建優の疲れた顔を見たら、嫌だとは言えなかった。