「空が……」
結陽が、ぽつりと呟いた。
「和歌山にいた頃、僕は空の色なんて考えもしなかったんです。それくらい、下を向いて生きていた。だけど、絵は描けたんです。たとえ恩師にレイプされようと、乗り越えようと付き合った相手を今度は僕が傷付けてしまった時ですら。むしろ絵しか描けなかった」
とんでもない告白を、動揺しながら静かに聞いた。
「知らない土地に来て出会った男の子は、僕が知らない空の表情を教えてくれました。やっと顔の上げ方を知ったんです。夏希君が大切で失いたくない。傷付けたくないから、離れるしかないと思ったのに。健太君と恋人になったら、きっと幸せだろうと思うのに。手が、動かなくなりました」
結陽が自分の手を、ぼんやり眺めた。
「空の色も……、夏希君が教えてくれた沢山の空の色も、わからなくなって」
ぼんやり思い出した。
今回の結陽の絵は、ほとんどが空の絵だ。風景の中にかなりのバランスで空が描き込まれている。
(そういうことだったか。これは思ったより重症、いや……)
「本気ってことだね」
俺の呟きに、結陽が顔を上げた。
「え?」
「失くしたら、茅野が一番得意なことさえ出来なくなるくらい、夏希君が茅野の中で大切な存在になってるってことでしょ」
「大事、だけど。大事にしたいから、離れたのに」
「なんで離れた……、あぁ、そっか」
レイプされた経験と、その後に自分がしてしまった過ちを繰り返すことを恐れているんだろう。
さっきの結陽の言葉を繋ぎ合わせた推論でしかないが。
夏希を大事にしたいから、守るために離れる選択をした。そんなところだろう。
「解決方法なら、あるよ。とびきり簡単なのが」
結陽が顔を上げた。
「夏希君と離れないで側にいること。ていうか、茅野はもう夏希君から離れられないでしょ。そういう自分を自覚する」
「でも……」
結陽が目を伏した。
「さっきから気になってたんだけどさ。夏希君の気持ちは聞いたの?」
「好きと、言ってくれました」
「だったら、付き合えばいいんじゃない?」
結陽が押し黙った。
その理由は、さっきの話で察しがついた。
(傷付くのも、傷付けるのも怖くて一緒にいられないとか、そんな感じか。健太とは真逆だな)
他人の気持ちなんか気にせず自分の気持ちを押し付ける弟を思い出す。
決して悪い子ではないが、そういうところが誤解されがちだ。
(実際、そういうワンマンが苦手で夏希君は健太から距離を取ったっぽいしなぁ)
健太が大好きな夏希は、恐らく健太が苦手だ。
それは、家に遊びに来ていた頃の夏希を見ていても気が付いた。
「健太が怒った理由が、ちょっとわかるよ。今の茅野は自分の気持ちばっかりで夏希君の気持ちを考えていない。大事にしたいと言いながら、自分の考えや気持ちを押し付けているだけだ。それって一人相撲だよね? 自己満足ってやつじゃないの?」
結陽が顔を上げた。
目は何か言いたそうだが、言葉はない。
「そうやって距離を置いて自分だけ満足してる今のほうが、夏希君を傷付けているとは思わない? 結果、自分も絵が描けなくなるほど打撃を受けていたら、世話ないよね」
結陽が目を見開いた。
今気が付きました、みたいな顔だなと思った。
「もう一度、ちゃんと話すべきだよ。二十三日、個展にくるんだよね。特別来賓の日だし、ちょうどいいんじゃないの?」
個展の予定表を広げた。
奇しくもその日は、夏希と健太以外の予約が入っていない。
「この日はこれ以上、予約入れないようにしておくよ。受付も、俺が出てあげる。だからちゃんと、話しておいで」
「先輩……」
何とも言えない顔で、結陽が俺を見上げた。
「その日、夏希君に見せたい絵を、ここに描くといいよ。茅野は、どんな顔の夏希君を、夏希君に見てほしい?」
「どんな顔の、夏希君を……、僕が知ってほしい、夏希君の顔は……」
結陽が筆を手に取った。
絵に向かう結陽の顔を見て、内心で安堵の息を漏らした。
〇●〇●〇
とまぁ、そんなことがあった訳だが、その話を健太にしてやるつもりはない。
「俺が何を言わなくても、あの二人はくっ付いていたと思うよ。思いが沁み込み過ぎて、とてもじゃないけど一人じゃ、どうにもできない」
結陽と話して、今日の夏希を見て、そんな印象を受けた。
好きとか愛してるという言葉が陳腐に聞こえるくらい、惹かれ合う二人なんだろう。
「意味わかんねぇ。芸術家の言葉って、理解できない」
「可哀想だけど、健太に付け入る隙は無いって意味だよ。大人しく見守ってあげなよ」
納得いかない顔で不貞腐れる弟の頭を撫でる。
「そもそも健太は、何でそんなに夏希君が好きなワケ?」
見た目も可愛らしくて、如何にも受けっぽい男の子に見えなくはないが。
一見すれば地味で目立たない、大人しい子だ。
「夏希は、ちゃんと中身を見てくれるから。上辺の俺じゃなくて、中身を知ってるから、ダメなトコも良いトコも教えてくれる。そういう夏希だから、好き」
ぼそっと零れた言葉には、俺も納得だ。
昔から夏希には、物事や人の内面を見抜く目がある。
本人はそれを特別だとも思っていないが、中々に特殊で芸術向きな感性だ。
「健太に見る目があって良かったって思うよ。次に好きになれる人、探そうな」
「見付かるかよ。俺が、どんだけ夏希を好きだと思ってんだよ」
「健太はまだ高校生なんだから、これから見付かるって」
涙は多少、乾いたらしい。弟の頭を撫で続ける。
普段なら嫌がる仕草を振り払いはしなかった。
「話し合い、上手くいくといいけどねぇ」
ぽそりと呟いて、空を見上げた。
鱗雲が流れる青い空は、ゆっくりと秋に向かって表情を変えようとしていた。
結陽が、ぽつりと呟いた。
「和歌山にいた頃、僕は空の色なんて考えもしなかったんです。それくらい、下を向いて生きていた。だけど、絵は描けたんです。たとえ恩師にレイプされようと、乗り越えようと付き合った相手を今度は僕が傷付けてしまった時ですら。むしろ絵しか描けなかった」
とんでもない告白を、動揺しながら静かに聞いた。
「知らない土地に来て出会った男の子は、僕が知らない空の表情を教えてくれました。やっと顔の上げ方を知ったんです。夏希君が大切で失いたくない。傷付けたくないから、離れるしかないと思ったのに。健太君と恋人になったら、きっと幸せだろうと思うのに。手が、動かなくなりました」
結陽が自分の手を、ぼんやり眺めた。
「空の色も……、夏希君が教えてくれた沢山の空の色も、わからなくなって」
ぼんやり思い出した。
今回の結陽の絵は、ほとんどが空の絵だ。風景の中にかなりのバランスで空が描き込まれている。
(そういうことだったか。これは思ったより重症、いや……)
「本気ってことだね」
俺の呟きに、結陽が顔を上げた。
「え?」
「失くしたら、茅野が一番得意なことさえ出来なくなるくらい、夏希君が茅野の中で大切な存在になってるってことでしょ」
「大事、だけど。大事にしたいから、離れたのに」
「なんで離れた……、あぁ、そっか」
レイプされた経験と、その後に自分がしてしまった過ちを繰り返すことを恐れているんだろう。
さっきの結陽の言葉を繋ぎ合わせた推論でしかないが。
夏希を大事にしたいから、守るために離れる選択をした。そんなところだろう。
「解決方法なら、あるよ。とびきり簡単なのが」
結陽が顔を上げた。
「夏希君と離れないで側にいること。ていうか、茅野はもう夏希君から離れられないでしょ。そういう自分を自覚する」
「でも……」
結陽が目を伏した。
「さっきから気になってたんだけどさ。夏希君の気持ちは聞いたの?」
「好きと、言ってくれました」
「だったら、付き合えばいいんじゃない?」
結陽が押し黙った。
その理由は、さっきの話で察しがついた。
(傷付くのも、傷付けるのも怖くて一緒にいられないとか、そんな感じか。健太とは真逆だな)
他人の気持ちなんか気にせず自分の気持ちを押し付ける弟を思い出す。
決して悪い子ではないが、そういうところが誤解されがちだ。
(実際、そういうワンマンが苦手で夏希君は健太から距離を取ったっぽいしなぁ)
健太が大好きな夏希は、恐らく健太が苦手だ。
それは、家に遊びに来ていた頃の夏希を見ていても気が付いた。
「健太が怒った理由が、ちょっとわかるよ。今の茅野は自分の気持ちばっかりで夏希君の気持ちを考えていない。大事にしたいと言いながら、自分の考えや気持ちを押し付けているだけだ。それって一人相撲だよね? 自己満足ってやつじゃないの?」
結陽が顔を上げた。
目は何か言いたそうだが、言葉はない。
「そうやって距離を置いて自分だけ満足してる今のほうが、夏希君を傷付けているとは思わない? 結果、自分も絵が描けなくなるほど打撃を受けていたら、世話ないよね」
結陽が目を見開いた。
今気が付きました、みたいな顔だなと思った。
「もう一度、ちゃんと話すべきだよ。二十三日、個展にくるんだよね。特別来賓の日だし、ちょうどいいんじゃないの?」
個展の予定表を広げた。
奇しくもその日は、夏希と健太以外の予約が入っていない。
「この日はこれ以上、予約入れないようにしておくよ。受付も、俺が出てあげる。だからちゃんと、話しておいで」
「先輩……」
何とも言えない顔で、結陽が俺を見上げた。
「その日、夏希君に見せたい絵を、ここに描くといいよ。茅野は、どんな顔の夏希君を、夏希君に見てほしい?」
「どんな顔の、夏希君を……、僕が知ってほしい、夏希君の顔は……」
結陽が筆を手に取った。
絵に向かう結陽の顔を見て、内心で安堵の息を漏らした。
〇●〇●〇
とまぁ、そんなことがあった訳だが、その話を健太にしてやるつもりはない。
「俺が何を言わなくても、あの二人はくっ付いていたと思うよ。思いが沁み込み過ぎて、とてもじゃないけど一人じゃ、どうにもできない」
結陽と話して、今日の夏希を見て、そんな印象を受けた。
好きとか愛してるという言葉が陳腐に聞こえるくらい、惹かれ合う二人なんだろう。
「意味わかんねぇ。芸術家の言葉って、理解できない」
「可哀想だけど、健太に付け入る隙は無いって意味だよ。大人しく見守ってあげなよ」
納得いかない顔で不貞腐れる弟の頭を撫でる。
「そもそも健太は、何でそんなに夏希君が好きなワケ?」
見た目も可愛らしくて、如何にも受けっぽい男の子に見えなくはないが。
一見すれば地味で目立たない、大人しい子だ。
「夏希は、ちゃんと中身を見てくれるから。上辺の俺じゃなくて、中身を知ってるから、ダメなトコも良いトコも教えてくれる。そういう夏希だから、好き」
ぼそっと零れた言葉には、俺も納得だ。
昔から夏希には、物事や人の内面を見抜く目がある。
本人はそれを特別だとも思っていないが、中々に特殊で芸術向きな感性だ。
「健太に見る目があって良かったって思うよ。次に好きになれる人、探そうな」
「見付かるかよ。俺が、どんだけ夏希を好きだと思ってんだよ」
「健太はまだ高校生なんだから、これから見付かるって」
涙は多少、乾いたらしい。弟の頭を撫で続ける。
普段なら嫌がる仕草を振り払いはしなかった。
「話し合い、上手くいくといいけどねぇ」
ぽそりと呟いて、空を見上げた。
鱗雲が流れる青い空は、ゆっくりと秋に向かって表情を変えようとしていた。

