学校から自宅までの間、電車を降りて線路沿いを歩くと、小振りな森がある。
 鬱蒼と茂る森の奥は、神社があった。
 有名な神社に比べたら規模の小さな、地元の神社だ。
 その割に整備されているが、普段から人気はない。

 いつもの通り、境内の中で空を見上げた。
 木々は茂っているのに、神社の真上だけは空が開けて、良く見える。
 
「まるで空を切り取ったみたいで、今日も素敵だ」

 ここから見える空が、好きだ。
 春は朧でぼんやり滲んだ淡い水色。
 湿気が増えて、じっとりした空気が空の色を淡くぼかす。水彩絵の具を水で溶いたような空だ。
 夏になるにつれ水気が減って、周囲の緑と一緒に空の青が濃くなる。
 滲んだ空が夏に向かい始めていた。

 神社を囲う森の木々が額縁になって、空を絵のように切り取る。
 表情の変化を見付けやすいこの場所の空が、一番のお気に入りだ。

「今日は、真ん中より、もっと社寄りがいいかな」

 空を見上げながら、自分が好きな空の景色を探す。
 足元に何かがぶつかって、ドキリと見下ろした。

「そんなに見上げて、首が痛くなりませんか? いっそ寝転がったほうがよく見えますよ」
結陽(ゆうひ)さん。今日は早いですね」

 社の前でごろりと横になった男が、俺に向かって微笑みかけた。
 結陽さんには夕方、黄昏時でないと会えないと思っていた。

(早めに来て、最推しスポットをオススメするつもりだったのに)

 教えるどころか、先を越された。

「今日は講義が一コマ飛んだから、早めに野外活動しようと決めまして」
「そう、なんですか」

 近所にある美大一年生の茅野(かやの)結陽(ゆうひ)は、この社でよく絵を描いている。
 高校に入学したての頃に発見したこの神社(空映えスポット)で結陽と偶然に出会ったのは、今月。つい二週間ほど前だ。

「黄昏には、まだ早いですよ」

 初めて会った時、結陽さんは薄い暗がりに包まれたこの場所で、空の絵を描いていた。
 他にいくらでも絵のモチーフがあるだろうに、結陽さんは空しか描いていなかった。
 結陽さんが描く黄昏は、俺が好きな空を切り取ったようで、とても綺麗だった。

 それからも結陽さんとは、この社で何度か出会った。
 一言二言、言葉を交わすうち、お互いに空が好きだと知った。
 だから俺は、大好きな空と結陽さんに会いに、この場所に来る。

「僕は夕暮れの空が好きですが、夏希君は青空が好きでしょう? だから先に良い角度を見付けてオススメしようと思って」

 結陽さんの言葉に、思わず顔を逸らした。

(同じこと、考えてた。結陽さんもオススメ探し、してくれてたんだ)

 そう思ったら嬉しくて、ちょっとだけ心臓がドキドキした。

「夏希君、今日はね、横になったほうが空を高く感じます」

 手招きして、隣にどうぞ、と誘われた。
 こういう場所で寝転がるのは如何なものかと思う。けど、結陽さんがとても嬉しそうに誘うから、嫌ともいえない。
 おずおずと結陽さんの隣に横になった。

「今日は雲が多いですね。朧な春の空って感じです。もうすぐ五月だから、空の色は濃くなってきましたね」
「春と夏が混じった空ですね。こういう移り変わりの空も、良いです。そういえば今日、暑いですよね」

 四月だというのに日差しは熱い。
 横たわっている石段も陽に焼けて温かい。
 もぞもぞ動いていたら、結陽さんの腕に自分の腕がぶつかった。

「ぁ……、すみません」

 小さな声で謝って、ずるずると結陽さんから距離を取る。
 結陽さんが、同じようにずるずると体をずらして、何故か俺に近付いた。

「今日の空は、夏希君好みですか?」

 ドキドキしてどこを向いているかわからない目線を、空に戻す。
 まだ春だというのに夕立でも降ってきそうな大きな入道雲の頭が、木の向こうから顔を出していた。

「好み、まではいかないかな。嫌いじゃないけど、もっと雲が少ない、秋の空のほうが俺は好きです。だけど、今日の黄昏は、見たいです」
「僕もです。僕は黄昏が好きなので」

 知ってます、と言いそうになって口を噤んだ。
 何枚も何枚も、結陽さんが黄昏の絵を描いているのを知っている。
 その時間に合わせて、この社に来ているのだから。

「石段、意外と熱いですね。起きましょうか」

 ひょっこり起き上がった結陽さんが、手を差し出した。
 気恥ずかしさを何とか表に出さないように気を付けながら、結陽さんの手を握って起き上がった。

(結陽さんの手、握っちゃった。熱くて、ちょっと汗ばんでた)

 感動しながら立ち上がる。
 結陽さんが荷物を解き始めた。

「絵の準備ですか?」
「いえ。今日は雨がきそうなので、無理かなと思いまして。それより、これ」

 結陽がペットボトルを手渡した。

「春の割に今日は熱いですから、日陰で水分補給しながら、夕暮れを待ちましょうか。雨が降りそうになったら帰るってことで」
「ありがとうございます。絵が描けないの、残念ですね」

 水を含んで飲み込んだ結陽さんが、ちょっと考える顔をした。

「そうでもありません。今日は夏希君に会えましたから。お話しできて、楽しいです」

 優しく笑まれて、思わず目を逸らした。

(そんなの、俺のほうが、思ってる。俺はいつだって、結陽さんに会いに来てるんだから)

 言いたくても言えない言葉を、貰った水と一緒に飲み込んだ。