君が待ちわびる黄昏で

 古民家を出てから、ずっと健太の肩を抱いていた。
 いつも前向きで強気な弟は、挫折の経験が少ないせいか、逆境に弱い。
 声を殺して泣く弟が、可哀想で愛おしい。

「夏希君とはお友達でいたほうが、長くお付き合いできるって。昔から性格違い過ぎるの、わかってただろ」

 健太が一方的な好意で夏希を引き摺り込んでいるのも、その好意が友情ではなく愛情なのも、大昔から気が付いている。

「わかってるよ、性格違うくらい。けど、関係ねぇじゃん。恋人になったら猶更」

 性格や好みの違いに気が付いて先に離れて行った夏希の行動が、健太には受け入れられないのだろう。
 そういう部分はまだ子供だと、つくづく思う。

「恋人になれればね。そうじゃないなら、健太は友達でいるのが、夏希君を失わずに済む唯一の関係だと思うけど」

 健太が、じっとりした目を向けた。

「てか、兄貴は茅野に何を言ったわけ? 兄貴が余計なこと言わなきゃ、あの流れで夏希を落とせたかもなのに」
「まだ言うか。諦め悪いね」

 あの場で夏希が泣いたのは結陽への思いが溢れたからだ。
 そんなのは、後ろから見ていた俺でも理解できた。
 万が一にも健太に流れた可能性はないと思うが、それを指摘したら健太はまた機嫌を損ねるのだろう。

「健太が茅野を虐めるから、茅野の筆が止まっちゃってね。学長に声掛けられて、様子見に行ったんだよ。その時にね」

 学校法人理事の父親絡みで、学長には何かと雑務を任される。
 俺にとっては、その一環だった。


〇●〇●〇


 理事長が苦心して大学に招致した天才絵師がスランプらしい。
 そんな話を学長から聞いた建優が茅野結陽のアトリエに足を運んだのは、八月の上旬。
 結陽の状況として、七月下旬に夏希にサヨナラし、八月上旬に健太にキツイ言葉を投げられた、その後だった。

「個展の準備はどう? 捗ってる?」

 アトリエの中を見渡す限り、問題ないように思えた。
 描き上がった絵は既に移送して展示の準備に入っている。
 仕上がっていないのは、最後の一枚、今回の目玉になる大判の絵だ。
 それも描かれている少年の表情を書き込めば終わりだ。
 心配する程でもないと思うのだが。

「大体、整っています。最後の一枚はもう少しなんですが。一から描き直そうかと思っています」
「一から⁉」

 ぼんやりと流れてきた声に、大きな声で驚いた。

「本当は全部、描き直したいです。展示する絵、全部。僕にあの絵を世に出す資格はないから」

 そう語る結陽は視線もぼんやりして、思いっきり腑抜けている。
 手元のスケッチブックに、目が向いた。
 そこに掛かれた少年は、知っている子に似ていた。

「これ、夏希君? 茅野が熊野神社でデートしてたのって、まさか夏希君?」

 結陽が時々、講義をサボって神社で逢瀬をしている話は、絵画科ではちょっとした噂になっていた。

(相手は女の子って噂だったけど、夏希君か。ぱっと見、小柄で可愛いから女の子に見えなくもないか)

 最近では高校の制服も、女子でもパンツを選べるし、勘違いするかもしれない。

「東野先輩、夏希君を知って……、ああ、そっか。弟さんがお友達でしたね。お友達というか、恋人候補」
「むしろ、なんで茅野がうちの弟、知ってんの? 会ったこと、あったっけ?」

 しかも、弟の込み入った事情まで知っている。
 父親が保護してきた天才絵師だが、家族ぐるみの付き合いまではしていない。
 大学の学科が同じでなければ、会う機会はなかっただろう。

(恋人候補とかいう辺り、茅野もゲイには抵抗ないのかな。レイプ事件は乗り越えたのか)

 一時は事件のせいで人と接することも出来なかったと聞いた。
 信頼していた講師に無理やり犯されたのだから、無理もない。
 狭い田舎で、事件の噂に雁字搦めになって身動きがとれなくなっている天才を、勿体ないと和歌山から引き摺り出したのが、俺たちの父親だ。
 
(親父は健太がゲイなのも知ってるし受け入れてるから、年代の割にセクシャリティには寛容だけどね。絵が描けないんじゃ、擁護も出来なくなるぞ)

 その点は、困りものだ。
 美大の学生として受け入れてはいるが、天才絵師という肩書も、保護するにあたり大事な要素だった。
 昨今、落ち目な絵画科で、『茅野結陽』というブランドを、大学の価値を上げる売りにすることも、もちろん見越している。

「弟さんが、二十三日に夏希君と僕の個展にくるそうです。それを伝えに来てくれました。ついでに、夏希君は渡さないって。僕はサヨナラをしたって言ったのに、信じてもらえなくて。あの事件を理由に夏希君を振るなら許せないって、夏希君はその程度じゃないって、叱られました」

 淡々とぼんやりと結陽が語る。

(健太の奴、追い詰め過ぎだ。茅野は俺以上に繊細なのに、突き落としてどうする)

 軽く頭を抱えた。
 結陽の手元のスケッチブックを眺める。
 目の前に置かれた、目玉の大判の絵と見比べた。

(あの少年のまだ描かれていない顔は、夏希君を描く気だったんだろう。描けなくなったか)

 芸術方面を多少なりと経験していないとわからない感覚。
 他人からしたら些細なきっかけや心の陰りが、筆を止める。
 泣きながらでも打ちひしがれても手を動かしていればいつかは終わる仕事とは違う。

 思った以上にどうしようもない状況に、頭を抱えた。