横引の戸を開けると、受付らしき場所に見知った顔がいた。
「ようこそ。待ってたよ」
「なんで受付が兄貴なんだよ」
健太が嫌そうにしながらチケットを渡した。
半券をもいで、東野建優が弟にチケットを戻した。
「美大の学生の展覧会は学生が持ち回りで受付や雑務を手伝うんだよ。絵画科は学生が少ないから皆で協力しないとね」
「だからって、茅野先生は有名人なんだからさ。職員、もっと使えよ……」
健太が珍しく煮え切らない言葉を零している。
俺も倣って、チケットを渡した。
「御無沙汰してます」
「久し振りだね、夏希君。中学の頃は夏休みも、よく家に遊びに来ていたけど。かなり背が伸びたね。大人っぽくなった」
「ありがとう、ございます。高校に入って十センチ以上伸びました」
しばらく会わなかった親戚のおじさんにでも会った気分だ。
健太の兄には中学一年以来会っていないから、三年振りだ。
建優は高校時代から、あまり変わっていない気がする。
「どれだけ有名人でも学生は学生だよ。茅野の前であんまり有名人とか、言うなよ。そういう風に特別扱いされるの、好きじゃないみたいだから」
「ただの事実だろ。そういう無意味な謙遜する奴、かえって傲慢で感じ悪ぃよ」
健太が、かなり不機嫌に吐き出した。
建優が苦笑して俺に目を向けた。
「やっぱり、俺がちゃんと見張っておかないと、かな。夏希君は気にしないで絵を楽しんでね。中に、どうそ」
建優の誘導で、中に入った。
受付があった土間らしき場所から、室内に入る。
昔は座敷があったのであろう部屋の中は、タイル張りの床になって土足でも歩ける仕様だ。
天井を見上げると、高い場所に煤けた太い梁が渡って、存在感大きく屋根を支えていた。
(こういう古民家って、雑誌とかでしか見たことないけど、凄い。雰囲気あって、いい感じだ)
古民家カフェなんかの特集を読むのが、俺は好きだ。
近くにないし、車でないといけない場所が多いので行く機会はないが、興味はある。
「この奥だよ」
廊下らしい狭い空間を過ぎて、突き当りで建優が足を止めた。
「茅野も後から顔を出すと思うから、それまでゆっくり楽しんでね」
建優にぺこりと会釈して、俺は健太に続き、部屋の中に入った。
二間を繋げてリノベーションされた室内は、仕切りの壁が両脇に細く残っているものの、広さを感じる。
その壁に、額に入った絵が飾られていた。
一通り、ぐるりと見渡して、言葉を失くした。
「……これ、全部……?」
ほとんどが結陽と一緒に見た空の景色だ。
春のぼんやりとした水色の空が広がる下に小さく、熊野神社が描かれている絵。
新緑が濃くなって鮮やかに瑞々しい初夏の空は、寝転がって見上げた額縁の空。
初めて結陽に会った時の、薄暗がりに伸びた灰色の影。
結陽が好きな黄昏を二人で日陰で待っていた梅雨入り前の風景。
雷空の絵まである。シルエットは、人が抱き合っているように見えた。
(今までの、俺と結陽さんの思い出、辿ってるみたいだ)
一枚の絵の前で、足を止めた。
灰色の闇と白と水色のグラデーションを静かに灯す朝。
昼の喧騒を抱いた水色を塗り替えようと迫る茜、両方を力強く飲み込む濃い群青の闇が垂れ込む暮の空。
二つのグラデーションが夜明けと夕暮れを表した絵は、結陽がスマホにメモっていた夏希の言葉そのものだった。
(夜明けも夕暮れも、グラデーションは二人で見てないのに。俺の言葉を絵にしてくれたんだ)
喉が詰まって、目頭が熱くなる。
ちゃんと絵を見たいのに、涙で潤んで視界がぼやける。
必死に涙を拭いた。
「やっぱり全部、大学に入ってからの絵なんだ。こっちの絵は、この辺の風景だもんな」
健太が、部屋の中央に置かれた展示ボードの絵を眺めて呟いた。
涙が流れそうになったのを悟られないように、顔を隠した。
展示ボードには、大学周辺の景色が描かれた絵が数点、飾られていた。
「結陽さん、風景画が専攻っていってたから」
「ふぅん。……まぁ、そうだよな。どれも茅野先生の新作か。展示数少なくても集客あるはずだわ」
健太の言葉を聞きながら、絵に見入った。
風景を映した絵だが、どれも空に大きな空間を割いている。
空の表情がどの絵も違って、とても印象的だ。
「部屋の奥に、今回の目玉の絵があるよ」
建優にさりげなく促されて、健太の後ろについて奥の部屋に入った。
壁一面を占拠する大きな絵が目に入った瞬間、足が止まった。
「人物画も描くんじゃん。悔しいけど、俺、この絵好きだわ」
健太の言葉に返事が出来なかった。
大きな絵の中には、大好きな空が詰め込まれていたから。
雲が少ない秋の冴えた青空と、夕の黄昏がキャンバスの中に同居する。
その境界に立つ人物は、俺だ。
大好きな空を見上げる俺の顔は笑顔なんかじゃない。
真剣に好きなモノに見入る見開いた目に浮かぶのは、隠しきれない好奇心と言い得ない憧憬。
それが如何にも自分に思えて、俺の目がまた潤んだ。
(結陽さんは、俺を見てくれてた。俺がどんな気持ちで空を見上げていたか、知ってた)
最後に会った日の結陽の言葉を思い出した。
『また、今度、かな。ちゃんと清書したのを見てほしいから』
俺のスケッチをしたあと、その絵を見せてくれなかった結陽の言葉の意味が、今わかった。
「こんな、こんなの、まるで……」
全力で好きだと言われているように感じる。
視覚が、感情が、脳が揺さぶられて、全身が震える。
「どうしよう、健太。俺、やっぱり、結陽さんが好きだ。大好きだ。諦めるの、無理だ」
涙が溢れて、絵が見えない。
ちゃんと見たいのに、一片も余さず目に焼き付けたいのに、涙が邪魔して、視界がぐちゃくちゃだ。
俺の腕を引いて、健太が腕に抱いた。
「今日はハンカチ、持ってねぇから。泣くなら抱きしめるしかねぇぞ」
健太が俺の顔を胸に押し付ける。
どうすればいいかわからなくて、動けなかった。
「ようこそ。待ってたよ」
「なんで受付が兄貴なんだよ」
健太が嫌そうにしながらチケットを渡した。
半券をもいで、東野建優が弟にチケットを戻した。
「美大の学生の展覧会は学生が持ち回りで受付や雑務を手伝うんだよ。絵画科は学生が少ないから皆で協力しないとね」
「だからって、茅野先生は有名人なんだからさ。職員、もっと使えよ……」
健太が珍しく煮え切らない言葉を零している。
俺も倣って、チケットを渡した。
「御無沙汰してます」
「久し振りだね、夏希君。中学の頃は夏休みも、よく家に遊びに来ていたけど。かなり背が伸びたね。大人っぽくなった」
「ありがとう、ございます。高校に入って十センチ以上伸びました」
しばらく会わなかった親戚のおじさんにでも会った気分だ。
健太の兄には中学一年以来会っていないから、三年振りだ。
建優は高校時代から、あまり変わっていない気がする。
「どれだけ有名人でも学生は学生だよ。茅野の前であんまり有名人とか、言うなよ。そういう風に特別扱いされるの、好きじゃないみたいだから」
「ただの事実だろ。そういう無意味な謙遜する奴、かえって傲慢で感じ悪ぃよ」
健太が、かなり不機嫌に吐き出した。
建優が苦笑して俺に目を向けた。
「やっぱり、俺がちゃんと見張っておかないと、かな。夏希君は気にしないで絵を楽しんでね。中に、どうそ」
建優の誘導で、中に入った。
受付があった土間らしき場所から、室内に入る。
昔は座敷があったのであろう部屋の中は、タイル張りの床になって土足でも歩ける仕様だ。
天井を見上げると、高い場所に煤けた太い梁が渡って、存在感大きく屋根を支えていた。
(こういう古民家って、雑誌とかでしか見たことないけど、凄い。雰囲気あって、いい感じだ)
古民家カフェなんかの特集を読むのが、俺は好きだ。
近くにないし、車でないといけない場所が多いので行く機会はないが、興味はある。
「この奥だよ」
廊下らしい狭い空間を過ぎて、突き当りで建優が足を止めた。
「茅野も後から顔を出すと思うから、それまでゆっくり楽しんでね」
建優にぺこりと会釈して、俺は健太に続き、部屋の中に入った。
二間を繋げてリノベーションされた室内は、仕切りの壁が両脇に細く残っているものの、広さを感じる。
その壁に、額に入った絵が飾られていた。
一通り、ぐるりと見渡して、言葉を失くした。
「……これ、全部……?」
ほとんどが結陽と一緒に見た空の景色だ。
春のぼんやりとした水色の空が広がる下に小さく、熊野神社が描かれている絵。
新緑が濃くなって鮮やかに瑞々しい初夏の空は、寝転がって見上げた額縁の空。
初めて結陽に会った時の、薄暗がりに伸びた灰色の影。
結陽が好きな黄昏を二人で日陰で待っていた梅雨入り前の風景。
雷空の絵まである。シルエットは、人が抱き合っているように見えた。
(今までの、俺と結陽さんの思い出、辿ってるみたいだ)
一枚の絵の前で、足を止めた。
灰色の闇と白と水色のグラデーションを静かに灯す朝。
昼の喧騒を抱いた水色を塗り替えようと迫る茜、両方を力強く飲み込む濃い群青の闇が垂れ込む暮の空。
二つのグラデーションが夜明けと夕暮れを表した絵は、結陽がスマホにメモっていた夏希の言葉そのものだった。
(夜明けも夕暮れも、グラデーションは二人で見てないのに。俺の言葉を絵にしてくれたんだ)
喉が詰まって、目頭が熱くなる。
ちゃんと絵を見たいのに、涙で潤んで視界がぼやける。
必死に涙を拭いた。
「やっぱり全部、大学に入ってからの絵なんだ。こっちの絵は、この辺の風景だもんな」
健太が、部屋の中央に置かれた展示ボードの絵を眺めて呟いた。
涙が流れそうになったのを悟られないように、顔を隠した。
展示ボードには、大学周辺の景色が描かれた絵が数点、飾られていた。
「結陽さん、風景画が専攻っていってたから」
「ふぅん。……まぁ、そうだよな。どれも茅野先生の新作か。展示数少なくても集客あるはずだわ」
健太の言葉を聞きながら、絵に見入った。
風景を映した絵だが、どれも空に大きな空間を割いている。
空の表情がどの絵も違って、とても印象的だ。
「部屋の奥に、今回の目玉の絵があるよ」
建優にさりげなく促されて、健太の後ろについて奥の部屋に入った。
壁一面を占拠する大きな絵が目に入った瞬間、足が止まった。
「人物画も描くんじゃん。悔しいけど、俺、この絵好きだわ」
健太の言葉に返事が出来なかった。
大きな絵の中には、大好きな空が詰め込まれていたから。
雲が少ない秋の冴えた青空と、夕の黄昏がキャンバスの中に同居する。
その境界に立つ人物は、俺だ。
大好きな空を見上げる俺の顔は笑顔なんかじゃない。
真剣に好きなモノに見入る見開いた目に浮かぶのは、隠しきれない好奇心と言い得ない憧憬。
それが如何にも自分に思えて、俺の目がまた潤んだ。
(結陽さんは、俺を見てくれてた。俺がどんな気持ちで空を見上げていたか、知ってた)
最後に会った日の結陽の言葉を思い出した。
『また、今度、かな。ちゃんと清書したのを見てほしいから』
俺のスケッチをしたあと、その絵を見せてくれなかった結陽の言葉の意味が、今わかった。
「こんな、こんなの、まるで……」
全力で好きだと言われているように感じる。
視覚が、感情が、脳が揺さぶられて、全身が震える。
「どうしよう、健太。俺、やっぱり、結陽さんが好きだ。大好きだ。諦めるの、無理だ」
涙が溢れて、絵が見えない。
ちゃんと見たいのに、一片も余さず目に焼き付けたいのに、涙が邪魔して、視界がぐちゃくちゃだ。
俺の腕を引いて、健太が腕に抱いた。
「今日はハンカチ、持ってねぇから。泣くなら抱きしめるしかねぇぞ」
健太が俺の顔を胸に押し付ける。
どうすればいいかわからなくて、動けなかった。

