君が待ちわびる黄昏で

 八月、夏休みも半分が過ぎた。
 やる気もなく、やることもなくて、家で悶々と過ごす日々が続いている。
 図書委員の日に健太に会った数日後、二十三日に個展に行こうと連絡が来た。 
 初日は業界関係者も多く混むだろうから、きっと話す暇はない。という健太のアドバイスに従うことにした。
 了解の返事はしたが、俺は今更、迷っていた。

(あんな風に別れたのに、俺が個展に行ったら迷惑じゃないかな。結陽さんだってもう、俺に会いたくないだろうし)

 会ったとして、どんな顔をすればいいのかも、わからない。

(いやいや、絵を観に行くんだから。本人がいるとも限らないんだし、会えるとも限らないんだし)

 ただ絵を見るだけなら、許されるだろう。
 会わないと断言されたのに、しつこく付き纏っているように思われるのも嫌だ。

「個展、か……」

 まだ美大の一年生なのに、個人で展覧会を開けるほどの実力者なんだろう。
 スマホを取り出して、「茅野結陽」と検索してみた。

(ただの興味……じゃなくて、絵画展に行くんだから、少しくらい知っていないと、逆に失礼だよな)

 決して、ストーカー的行為ではない。
 そう自分に言い聞かせて、後ろめたい気持ちを押し込めた。

「え……、まじで?」

 名前を検索しただけで、日本画の作品が数点ヒットした。

「ウィキにページがあるじゃん。マジで有名人じゃん……」

 何も考えずに、タップする。
 中学の時に、日本水彩画会主催のコンテストで大賞を取って以来、日本画、水彩画のコンテストは軒並み入賞。
 高校時代には既に個展を開ける実力と作品数があった。
 絵の販売価格は既に一流の証、と書かれていた。

「思っていた以上に、ヤバい人だった」

 改めて、健太の話が重く響く。
 武蔵埜森美術大を傘下に持つ学校法人の理事長が引っ張るのに苦労するほどの逸材。
 うつ伏せになっていたベッドで、枕に突っ伏した。

(最初から、俺なんかが会って話せる人じゃなかったんだ。住む世界が違う人、そう思えば、諦めもつく)

 むしろ、どうして今まで会えて話せていたのか。
 今となっては、そっちのほうが疑問だ。

「会ってる時は、結陽さんを調べようなんて、思いもしなかったな」

 個展のチケットを渡されなければ、凄い人かもなんて意識も湧かなかったと思う。
 だから調べようだなんて露ほども思わなかった。
 それまでは、一緒にいて楽しい、ただの友人だったのだから。

(趣味の空の話が出来て、取柄も特にない俺なんかを褒めてくれて、一緒にいて楽しいって言ってくれる、ただの大好きな人)

 結陽と過ごした時間を思い出したら、じんわりと涙が滲んだ。

『今日の空は、夏希君の好みですか?』

 顔を見た瞬間、結陽は必ず最初に、そう問い掛ける。

『やっぱり夏希君は、いいなぁ。僕は夏希君が空の話をする時の表現が好きです』

 結陽がくれた言葉の一つ一つを噛み締めながら思い出す。
 その度に、流したくない涙が、ぽろぽろ零れ落ちた。

「俺だって、結陽さんの声も、話し方も、笑った顔も大好きで、くれる言葉も、空の絵も、誰より、好きなのに」

 声に出したら余計に切なくて、涙が溢れる。
 ぐぃと、手で目を擦って、スマホを眺めた。

「個展、やっぱり行くの、やめようかな」

 これ以上、結陽の絵を見たら、また思いが溢れそうで、怖い。
 何気なく画面をスクロースしていた指が、止まった。
『茅野結陽 事件』という検索ワードが目に飛び込んだ。

「事件……? て、何?」

 恐る恐る、タップする。
 かなり古いネット記事が一件だけヒットした。

『和歌山県新宮市の中学三年生男子の家庭教師だった男性が、絵画の指導中、生徒に猥褻な行為に及んでいる所を家人が発見し、通報。家庭教師は強制わいせつ罪で現行犯逮捕。被疑者は同意であった旨を主張し、生徒から誘われたと話したが、被害者が否定したため、強制性交等罪が成立。有期懲役五年の実刑判決が確定する』

 スマホを持つ手が震えた。
 視界が揺れて、思わず目を閉じた。

 この記事に名前は一つも書かれていない。
 結陽が被害者とは限らない。

(そうだよ、結陽さんと関係あるとは、限んないじゃん。けど、でもキーワードが被り過ぎて)

 結陽、事件で出てきた記事で、和歌山とか絵画という単語が出てくる。
 しかも、実刑が五年なら、あと一年で犯人は刑務所から出てくる。

(その前に活動拠点を関西から関東に移した、とか。和歌山を離れたくて関東の大学に進学して。だから夏休み、帰る気はないって言ったんじゃ)

 頭の中で、色々なピースが浮かび上がり合わさっていく。
 こんな時ばかり頭の回転が速い自分が嫌になる。

(違う、俺が一番、気になってるのは、そうじゃなくて。あの時、俺が言った言葉と結陽さんの顔で)

 酷い言葉を浴びせた時の辛そうな顔と言葉を、思い出していた。

『結陽さんにとって、俺は都合よく使える人間? 自分の愉悦さえ満たせればいい存在?』
『違う! それは絶対に違う! そうじゃないから、そうしたくないから……』

 あの時の結陽は普段聞いたことっがない尖った声で俺の言葉を否定して、見たこともない辛そうな顔をしていた。
 自分の愉悦さえ満たせればいい、なんて、まるでレイプを想起させるような言葉だと、自分で思った。

「あれは絶対に言っちゃいけない言葉だった。俺が結陽さんを、傷付けたんだ」

 あの言葉を取り消したい。無かったことにしたい。
 そんなことはできないとわかっていても、後悔が拭えない。

 夏希はベッドで項垂れた。
 さっきまで流れていた涙も、今は出てこない。
 いっそ夏の夕立みたいに激しい雨で、胸の中の後悔もモヤモヤも、全部流してくれたらいいのに。
 そう思うのに、空を見る気にすらなれなかった。