君が待ちわびる黄昏で

 健太が、あからさまに舌打ちした。

「あんたさ、自分が今、どんな顔してるか、わかってる?」
「……へ?」

 健太がアトリエの中をぐるりと見回した。

「描いてる絵も、その顔も、未練垂れ流しすぎ。わかりやすすぎ」

 それも、反論できない。
 個展に向けて描いた絵のほとんどが夏希と、夏希が好きな空をモチーフにした絵だ。
 自分でも未練がましいと思う。

「俺、将来は兄貴みたいな芸術家じゃなくて、親父の経営を継ぐ予定なんだよね。だから仕事の話も多少、今から勉強してる」
「そうなんですね。向いていそうです」

 兄の建優は名前の通り優しい芸術家肌の人だ。
 はっきりした物言いをする健太のほうが、経営には向いていそうだ。

「あんたの事情、全部知ってるわけじゃないけどさ。親父から、関東に来た経緯は多少、聞いてるよ」

 ドクリと、心臓が下がった。
 嫌な汗が背中を伝う。

「他人様の個人的な事情だし、当然夏希には話してない。引き合いに出す気もねぇけど、もしその事情が夏希を振った理由と関係あるなら、許せねぇと思っただけ」
「許せない……?」

 和歌山にいた頃の、あの時の事件を、健太に許せないなどと言われる筋合いはない。
 あれは僕にとって、忘れたくても忘れられない、消せない汚点だ。

「夏希をその程度だと思ってる奴には渡さねぇ。夏希のファーストキス奪ったのは、俺だから」
「やっぱり、君ですか」

 じんわりと怒りが湧き上がった。
 あの雨の日、夏希に話を聞いた時と同じだ。自分では抑えきれない感情が湧き上がって、夏希に告白してキスした。
 他の男に先に奪われたのが悔しくて、唇を奪わずにはいられなかった。

(僕に、こんな感情を抱く資格はない。僕は自分から夏希君を遠ざけたんだから)

 何とか気持を抑えて、顔を上げた。

「なら君が、夏希君を幸せにしてあげてください。夏希君の側に、彼を想ってくれる人がいて、良かった」
「思ってもいないコト、言うなよ」

 間髪入れずに全否定されて、言葉を失った。

「芸術家って、みんな顔に出やすいんかね。その割、気持ちを隠したがる。うちの兄貴も、そうなんだよね。嘘つきたいなら、上手に嘘つく練習したほうがいいよ」

 トドメを刺されたような気持になって、僕は黙り込んだ。

「まぁでも、アンタが何もしないなら、俺は夏希を奪い易いけどね。今の夏希、弱ってるから、優しくしたらすぐに靡くかも」
「そんな言い方っ。君は夏希君を好きなんじゃないんですか。大事にする気はないんですか」

 少し棘のある言い方をした。
 苛々しているのは、自分でもわかるが、止められない。

「大事にするよ。少なくとも今のアンタよりは大事に出来る。夏希も俺を信頼してる」

 健太が、ぴらりと紙を出した。
 僕の個展のチケットだ。

「それ……」

 恐らく、僕が直接、夏希に渡したチケットだ。
 夏希に渡したのは一般来場チケットではなく、特別来場分だ。枚数も限られる。
 
(東野理事長の息子さんなら持っている可能性は高いけど、きっと違う。あのチケットの色は、僕が会場にいる日限定の分だから)

 特別来場分の中でも更に枚数が少ない、本人だけが捌ける枚数限定のチケットだった。

「夏希がくれた。夏休みに絵画展デートしようって。二人で遊びに行くから、接待よろしく、茅野センセ」

 健太がニヤリと笑む。
 悔しいと思ってしまう自分自身に嫌気がさした。

「二人で出かけるなら、何も僕の個展に来なくても。他にいくらでも遊べる場所があるのではないですか?」
「仕方ねぇじゃん、夏希が行きたいっていうんだから。付き合うのも優しさだろ」

 結陽は、ぐっと息を飲んだ。

「二十三日、二人で行くからさ。人払いして待っててよ。先生の本気が見られるの、楽しみにしているからさ」

 健太が結陽に背を向けた。

「君は、何がしたいんですか? 僕は夏希君を諦めると伝えました。今更こんな、かき乱すような真似をして、楽しいですか?」

 背を向けた健太が、アトリエ内の絵を流し見た。
 一枚の絵に歩み寄り、目を落とした。

「本気で諦めたんなら、絡みになんか来ねぇよ。アンタが中途半端にしてるから、俺が完膚なきまでに引導渡してやろうとしてんの。俺の大事な夏希を泣かせたんだ。後始末まで責任取れよ」

 健太の指が絵に伸びる。
 輪郭を辿るように宙を動いた手が、離れた。

「この絵を見れば、アンタがどれだけ夏希を好きか、よくわかる。俺の知らない夏希を、アンタは知ってる」
「え?」

 小さな声で零れた言葉が意外過ぎて、上手く理解できなかった。

「だから、消えるんなら夏希が未練、残さねぇくらい完璧に振れよ。その後は、もう二度と夏希の前に現れんな」

 僕をひと睨みして、健太が部屋から出て行った。
 ぴしゃりと締まった扉を見詰める。

「僕は……」

 過去や今や、先々、色んな思いが錯綜する。
 頭を抱えて、蹲った。