君が待ちわびる黄昏で

 僕は大学内のアトリエに籠っていた。
 日本画専攻の生徒の中で個人のアトリエを持たせてもらっているのは僕だけだ。
 すでに画家として一定の地位を確立している茅野結陽を大学に招致した学長からの配慮だった。

 目の前のキャンバスに、ペタペタと絵の具を塗り込む。
 手を動かしているはずなのに、一向に仕上がらない。

(いつもならもっと早いペースで仕上がるのに、今回の絵は進みが悪いな)

 気持ちが向いていないから。
 理由なんか明白すぎて、溜息も出ない。

 最後に仕上げようと思っていた、今回の個展の目玉作品は、ほとんど描き上がっている。
 大好きなモチーフだけを詰め込んだ世界に没頭した理由は、現実を忘れるためだった。
 なのに。

(描けば描くほど、夏希君ばかり頭に浮かぶ。当たり前だ。夏希君をイメージした絵なんだから)

 初めて出会った薄暗がりの黄昏、季節で移ろう青空、甘くて痛い雨、それに夏希自身。
 真っ白なのは、夏希の顔だ。どんな表情にするかを、決められない。
 結局、悩みながら今は、別の絵を描いている。

 ――――コン、コン。

 滅多に他人が来ないアトリエのドアが、ノックされた。

「はい、どうぞ」

 短く返事する。
 ドアを開けたのは、知らない男子だった。

(知らない……、いやでも、見覚えがある気がする。それに、あの制服)

 夏希と同じ高校の制服だ。
 そういえば、何度か神社の周囲で姿を見かけた気がする。

「初めまして、こんにちは。天才画家の茅野結陽先生。この度はうちの学校法人系列の大学に御入学いただき、ありがとうございます」

 言葉とは裏腹に、目付も態度も、なんとも高圧的だ。

(うちの学校法人。てことは、東野さんの息子さんか。次男のほうだな)

 僕を大学に誘った東野建一には、確か二人の息子がいる。
 武蔵埜森美大二年生で油絵専攻の長男、東野建優とは顔見知りだ。

「初めまして。僕をご存じなんですね。君は、東野理事長の息子さんですか?」
「そうですよ。親父と兄貴は知ってるだろうけど、俺は芸術方面まるっきりなんで、知らないっしょ」

 何故か、睨まれた。
 お世話になった恩人といえど、家族の顔や経歴までは流石に把握していない。

「申し訳ありません。息子さんが二人いらっしゃるのは、知っていたんですが」
「俺は次男の東野健太、だけど別に知らなくていいよ。俺がアンタを気に入らないのは、別の理由だし」

 はっきりと気に入らないと言われた。
 ここまで、あからさまな敵意を向けられるのは、久しい感覚だ。

(嫉妬や妬みで敵意を向けられたり嫌がらせされるのは、よくあるけど)

 若い才能への嫉妬は年齢問わず、芸術の世界では猶更、質が悪い。そういうのは散々経験してきた。
 目の前の彼は芸術には無関係なようだし、そういう方面ではないらしい。
 そうなると、思い当たる理由は一つしかない。

(同じ高校みたいだし、夏希君かな。もしかして、夏希君に告白したのは彼、とか?)

 夏希に会っている時、時々境内を覗いている男の子がいたのは気が付いていた。
 会っていない時も、神社周辺で夏希と同じ制服の男子と時々、すれ違った。
 ただの通学路で偶然、通りかかっているだけだと思っていたが、そうではなかったらしい。

「夏希が泣きながら俺に相談してきた。アンタに振られたって。どう責任取ってくれんの?」

 はっきりと夏希の名を出されて、結陽は息を飲んだ。

(泣いたのか、夏希君)
 
 一瞬、浮かんできた夏希の顔を消すように、結陽は目を閉じた。
 さよならを告げた時の夏希は、まるでいつもの夏希らしくなく、感情的だった。

「責任取れないから、恋人にはなれないって伝えたんです。もう会う気もありません」

 結陽は顔を上げた。
 目の前の彼が夏希を好きなら、幸せにしてくれたらいい。
 自分では、それができない。

「じゃぁ、何で好きだなんて伝えたんだよ。中途半端に期待させるような言い方、すんなよ。そうやって夏希の心を縛って、満足かよ」

 健太の目が結陽を睨む。
 その怒りはもっともだ。言い返す言葉もない。

「その通りですね。僕が軽率でした。だから、夏希君とは、もう……」

 会わないのがいい。
 会わなければ、お互いにきっと忘れられる。