君が待ちわびる黄昏で

「八月の中頃に、個展を開くんだ。その準備が忙しくなってきてね。個展は八月いっぱいだから、終わるまでは、来れそうにない」
「そうなんだ」

 ちょっとショックだった。
 この場所で結陽と会うのは特別で、この時だけは結陽を独占できる時間だから。

(学生なのに個展を開けちゃうくらい、実力のある画家なんだな)

 もしかしたら結陽は、本当なら会うこともできないくらいの、住む世界が違う人間なのかもしれない。

「じゃぁ、夏休み、和歌山には帰れないね」
「それは構わないんだ。帰るつもりは、最初からなかったから。そういうつもりで、こっちに出てきたからね」

 スケッチブックにサラサラと線を滑らせる結陽の顔は穏やかだ。
 なのにどこか、陰が降りて見える。

(地元にあまり良い思い出がないのかな)

 それもきっと、聞いても教えてくれないんだろう。
 夏希の中に、言い知れぬモヤモヤが溜まっていく。
 自分の中の嫌な感情は見て見ぬ振りをして、切り替えた。

「個展、行ってもいい?」
「来てくれるの? 嬉しいな。実は今日、チケットを渡すつもりでいたんだ。夏希君が興味あるか、ちょっと不安だったんだけどね」

 結陽がガサゴソと鞄を漁る。

(だから、絵に興味あるかって聞いたのか。そんなの、今更過ぎる)

 結陽の絵に興味がないはずがない。
 好きな人の個展なら、絶対に行きたい。

(あんなにはっきり好きって伝えたのに。もしかして、俺が本気だって思ってないのかな)

 ちょっと不安になってきた。
 結陽に告白した時は夏希も混乱していたし、何を話したのかよく覚えていない。

(もっとちゃんと告白した方がいいのかな。けど、友達でいようって言われちゃってるし、今更もう一度告白はできないよな)

 考えあぐねる俺に、結陽がチケットを差し出した。

「はい、これ。個展は二週間くらいだけど、夏休み中だよ。時間がある時にでも、来てね」

『茅野結陽 絵画展』と書かれたチケットを二枚、渡された。
 受け取ったチケットを眺める。
 やっぱり違う世界の人なんだと感じる気持ちを押し殺した。

「ありがと。絶対行くね」

 チケットを大事に仕舞った。
 一通りスケッチを終えたのか、結陽がスケッチブックを閉じた。

「え? 見せてくれないの?」
「んー、今度、かな」

 ちょっと考える仕草をして、結陽が笑んだ。

「ちゃんと清書した絵を見てほしいから、今は内緒」

 人差し指を口元に翳す結陽が、艶っぽくて格好良い。

「楽しみに、してます」
「うん。楽しみに待っててね」

 それしか言えなかった。

「さて、そろそろ黄昏だね。帰りの準備かな」

 荷物を詰め込んで、椅子を畳む。
 夏至を過ぎて陽が伸びたから、一緒にいられる時間が増えた。
 薄暗くぼんやりした夕暮れに、二人の影が淡く伸びる。

「結陽さん、あのさ」
「うん?」

 片付けをしながら、何気なく声をかけた。

「俺、今でも結陽さんが好きだよ。けど、結陽さんが望まないなら、今のまま友達でいる。友達でも恋人でも、肩書は何でもいいんだ。けど、俺が結陽さんを好きってことだけは、ちゃんと覚えていてね」

 畳んだ椅子を袋に詰めて、結陽に手渡す。
 結陽が困った笑みで俺を見詰めていた。

「逃がしてくれないんだね」
「逃げたいなら、俺のこと、ちゃんと振ってよ。そうしたらもう、結陽さんに近付かない」

 受け取った椅子を地面において、結陽の手が夏希を掴んだ。
 引き寄せて腰を抱く。
 唇が、ふわりと重なった。

「必要以上に近寄るなって言いながら、手放したくないなんて、狡いよね。ごめん」

 俺の肩に結陽が顔を埋めた。

「やっぱり何も、教えてくれないんだね」

 好意を伝えながら友達を希望する理由も、結陽の本当の気持ちも。何一つ聞いていない。

(自分からキスするくらいには、好きだと思ってくれてるって、俺が期待する。こんなの、まるで……)

 まるで結陽にとって都合のいい存在のようで、モヤモヤする。
 答えを待っても、結陽から返事はなかった。
 だから、モヤモヤが爆発した。

「結陽さんにとって、俺は都合よく使える人間? 自分の愉悦さえ満たせればいい存在?」
「違う! それは絶対に違う! そうじゃないから、そうしたくないから……」

 普段の結陽からは想像もできないくらい、鋭い声だった。
 後悔が滲んだ表情が、痛々しい。

「ごめん、言い過ぎた。そういうこと、言いたいんじゃない。ただ、結陽さんにとって俺って、どんな存在なのか、知りたくて」

 結陽の煮え切らない態度に焦って、言葉が口を突いた。
 言った言葉を瞬時に後悔した。
 慌てて謝る夏希に向かって、結陽が首を振った。

「いや、いいんだ。夏希君が正しい。だから、やっぱり終わりにしよう」
「……え?」

 さっと血の気が下がった。
 もしかしたら自分は、取り返しのつかない発言をしたのかもしれない。

「僕は夏希君が好きだ。だけど夏希君の気持ちに応えられない。その時点で、君から離れるべきだった。君といると楽しくて、ずるずるしちゃったけど。個展で来られなくなるし、いい機会だよ。今日で終わりにしよう」
「ちょっと……、ちょっと待ってよ。俺は別に、不満があるんじゃなくて。どんな存在かなんて、結陽さんが言いたくないなら聞かない。ただ、俺の気持ちは知っていてほしいって、それだけで」
「わかってるんだ。夏希君の気持ちも、自分の気持ちも。だから、夏希君には幸せになれる相手を選んでほしいんだ」

 結陽が荷物を持って、背を向ける。

「幸せって、何? 俺のこと好きって言いながら、他の人と幸せになれって言うの? そんなの、意味わかんない。俺は結陽さんが好きなんだ。他の人じゃ、満たされないよ!」
「僕は夏希君を満たせない。……ごめんね。今まで、ありがとう」

 戸惑いも迷いもなく結陽が神社を出て行った。
 黄昏の薄暗がりに飲まれて消えた背中を、追いかけることはできなかった。