朝になり目を開けると、いつもと違うことに気づいた。
身体が軽い。
頭も痛くない。
眠れなかった記憶が、ひどく遠くに感じる。
ふと横を見ると、ベッドの隅で白猫が丸くなっていた。
柔らかな白さが朝の光に溶けて、静かな呼吸がゆっくりと上下している。
「……おはよう、モーネ」
静かに呼びかけると、モーネはぴくりと耳を動かした。
それだけなのに、胸がじんわりと温かくなる。
私は身支度を整えてから軽く朝食を食べ、モーネのごはんを準備してから、声をかけて出勤した。
「行ってくるね。すぐ帰ってくるから」
返事なんてあるはずがない。
それでも、部屋を出るとき、背中越しに不思議な安心感があった。
──私の居場所は、ここにある。
*
職場に着いた瞬間、佐伯が私を見て目を瞬いた。
「白石さん、なんか元気だね」
「え?」
「顔色がいいというか……」
「あっ、そうなんです。自分でも不思議なくらい寝れました」
「それはよかった」
「はい」
脳裏にモーネの寝息が蘇る。
あの小さな存在が私の眠りを変えたなんて、とも思うけど事実だ。
佐伯は安心したように笑う。
「それならもうひとがんばり、気合い入れてこっか」
「はい!」
モーネを迎えて、ようやく深く呼吸ができるようになった。
もしかしたら、と気づく。
──もしかしたら、私は家に帰りたくなかったのかもしれない。
仕事がつらいなら「早く帰りたい」と願い、他でもない「自宅」で癒され、充電して、また職場へ戦いに行く。
そのサイクルができずに、削られ続けていたんじゃないか。
今は、帰りたい場所がある。
私の帰りを待っている、小さな命がいる。
どんなに仕事がしんどくても頑張って仕上げて、早く帰ろうと思える。
今日も残業は1時間までにとどめ、足早に家へ向かった。
ドアを開けた瞬間、ペット用ベッドで丸まっていた白猫が、ゆっくりと顔を上げた。
にゃあ、と小さく鳴き、ゆっくりと立ちあがる。
その姿を目にすると、なぜか無性に泣きたくなってきた。
「ただいま……」
その声に、モーネは軽くしっぽを揺らす。
ほんの少し動いただけなのに、信じられないほど嬉しかった。
私はそうっとモーネの隣に座り、手を伸ばした。
モーネは一瞬ためらいながらも、鼻先を寄せてくれる。
その温度が、モーネの白い躯から伝わる体温が、1日の疲れを静かに確かに消し去っていった。
初めての共同生活が始まり、静かに、確かなかたちで、私の心は再生していた。
モーネを迎えて3日が経つころには、部屋の空気はすっかり『共に暮らす』色に染まりつつあった。
最初の夜はほとんど眠り続けていたモーネも、今では部屋中をゆっくり歩き回り、少し高い場所に乗る余裕さえ見せるようになった。
朝、目を開けると、すぐそばで丸くなっていたモーネが伸びをして、静かに私を見つめる。
モーネと見つめ合うだけで、心がやわらかく温まっていくのを感じた。
私も、そしてモーネも、確実に快復してきていた。
仕事は相変わらず繁忙期が続き、雑務にトラブルにと次々に押し寄せてくる。
それでも、以前のような切羽詰まった焦燥感は、少し薄らいでいることに自分でも気がついていた。
その日、午前の会議が終わったころ。
佐伯が資料をまとめながら私の顔を見て、笑う。
「最近、表情が柔らかくなったね。大変さは変わらないはずなのに」
「そんなことあります?」
「あるよ。無理してる感じがなくなったというか」
その言葉に、はっとした。
確かに、仕事中に呼吸が苦しくなるような瞬間が、ここ数日ほとんどない。
忙しさは変わらないのに、耐え方が変わったような、不思議な感覚。
帰れば、モーネが待っている。
ただそれだけのことが、心がこんなにも軽くなるなんて。
「……そうかも、しれません……」
「すごく良いことだと思う。もうちょっと、頑張ろうな」
佐伯は、それ以上は何も聞かなかった。
変に踏み込まない距離感が心地よくて、私も自然と微笑んでいた。
気を遣ってもらうことに対して、以前なら反射的に「すみません」「ごめんなさい」と口から飛び出していたのに、素直に会話ができた。素直に、笑うことができた。
きっとモーネという存在が、私の心のどこか──例えるなら底から支えてくれているような気がする。
*
仕事を終えて部屋に戻ると、モーネは窓際のふちに座り、外の景色を眺めていた。
当然陽はすっかり落ちていて、街灯のささやかなオレンジ色が薄く差し込んでいる。
「ただいま」
モーネは振り向き、静かに瞬きをした。
その仕草だけで疲れが一気になくなっていく。
私は荷物をおくといつものようにキッチンでコップに水を注ぎ、うがいをする。
その間、モーネは近寄りもせず、離れもしない。
窓辺と私の間のちょうど真ん中の距離を保ちながら、こちらの様子を見ていた。
「本当に元気になったね。よかった」
声に出すと、モーネは首をかしげるようにして、やっぱりまた瞬きをする。
毎日の小さな変化が全部嬉しい。そして、愛おしかった。
帰宅すればモーネがいる。
眠れば、そばで丸くなる気配がする。
どんなに疲れて帰っても、モーネが私を見てくれる。
──このままずっと、モーネの飼い主として生きていきたい。
強い意志が固まると同時に──いや、それ以上に、私は小さな不安と申し訳なさも感じている。
モーネから自由を奪ってしまうのでは? ……と。
今まで野良として好きな場所で生きてきた猫を、人間の意思で狭い場所に閉じ込めてしまうことになるんじゃないか。
外の世界より安全かもしれない。
だけど、窮屈かもしれない。
そんな思いに押しつぶされそうなときもある。
──それでも。
夜が深まり、部屋の空気が静けさに沈んだころ、窓の向こうに丸いものが顔を出した。
満月だ。
雲ひとつない空に、あまりに澄んだ光を放っている。
月の光が床に落ちて、モーネの白い毛を淡く照らす。
それを浴びたモーネは、夜の中でそっと呼吸するだけの、光のかたまりのように見えた。
ふいに、モーネがこちらを向いた。
ただ見るだけではなく、まるで確認するように、選ぶように、静かに、迷いのない瞳で私を見ていた。
金色の瞳が月光を帯びたように細くなり、揺れる。
「……ねえ、モーネ。私はあなたと生きていきたいんだ。……いいかな」
掠れた声で問いかけると、しばらくのあいだ静寂が落ちた。
そしてモーネは、ゆっくりと立ち上がる。小さな白い躯が、近づいてくる。
路地の奥で会っていた時と同じように。
いや、違う。
モーネは私の足元まで確かに歩いてくると、両足を包むようにくるりとしっぽを擦りつけてきた。
グル……と小さく鳴きながら。
「……ありがとう」
私はしゃがみこんで、柔らかく温かな躯に触れる。
逃げる気配があるはずもなく、グルル、と甘えるようにまた鳴いた。
「私がずっと、守るからね」
そう言葉にした瞬間、涙があふれてきてしまった。
本当に守られているのは私の方だ。
眩しすぎないのに圧倒的な存在感を誇る月のように、私にとってあの場所で会える野良猫は絶対的な存在だった。
私が私に戻るために必要だった触れ合いだった。
だからせめて、私はモーネがよりよく生きられるよう、物理的に守っていく。
モーネはもう一度喉を鳴らし、私の涙をぺろりと舐めとった。
そしてゆらゆらと楽しそうにしっぽが揺れる。
まるで「よろしくお願いされてあげるね」と言われているようで、思わず笑った。



