深夜まで激しかった嵐は、日の出の頃には嘘のように静かになっていた。
スマホで確認すると、私たちが住む街は今や台風の円の外枠にひっかかる程度になっている。どうやら予報されていた経路が変わったらしい。
病院にいるモーネのことを気にしながら、出勤には何ら問題ないため身支度を始めた。
こんなに身体の重くない朝は、どのくらいぶりだろう。
「今日は絶対残業しない。帰りに病院寄るんだから」
玄関の扉を前にひとつ決意を落として、外へ出た。
*
「状態はとても安定しています。ただ、もう少し体力を回復させる必要はありますね」
目を細めて白猫を見つめた医師の言う通り、再会したモーネは明らかに元気になっていた。
「この仔、あなたを見ると落ち着くようですよ」
「……えっ……そうなんですか?」
「ええ。顔を見ればわかります」
ね、と笑いかける医師に、モーネは何の反応を見せない。
その反応に思わず笑ってしまった。
煌々と照らすライトの下で見る白猫は、夜に会っていたときに感じた神聖さは感じられず、ただただ可愛らしい小さな白猫にしか見えない。
それでも、ついと私を見つめる瞳の奥が鋭く金に光っているように思えた。
「この仔は野良猫さんということですが」
「あっ……はい」
「体の状態は、飼い猫ならば帰宅許可の出る状態です。いかがなさいますか」
「……えっ……」
──『いかがなさいますか』。
医師がいうのはつまるところ「私が引き取りますか」ということだ。
白猫の猫生に責任を持つこと。
私の生活に、私のそばに、モーネを置くということ。
即決できない私を気遣ったのか、医師は柔らかく笑った。
「質問の仕方が悪かったです。……ひとまず数日でも構いません。預かることは可能ですか?」
「えっ?」
「もちろん無理にとは言いません。ですがあなたはこの仔をとても想っている。そしてこの仔も、あなたには心を開いているようですのでひとつの提案として投げかけてみました」
「……私が、あの仔を幸せにできますかね……」
単に、自信がない。
自分自身さえ幸せに生きられるのか不安しかないのに、命をあずかるなんて。
そう思っていたのに。
「……でも……連れて帰りたい気持ちも、本当です」
驚くほど自然にこぼれ落ちていた。
その瞬間、小さく、確かな灯りが胸の奥に灯った気がした。
*
キャリーの中で静かに丸くなったモーネを連れて帰る道は、とても穏やかだった。
夜空も澄んで、星が見える。吸い込む空気が清々しく──それなのに、鼻の奥がツンとして泣きそうになってきた。
『できる検査はすべて行いました。こちらが検査結果です』
モーネを受け取る前に微笑んだ医師を思い出す。
受付のお姉さんが言うには、野良猫を助けてくれた上、責任感の強い人──この人が飼い主となる、という感覚を抱いた場合、サービスとして基本的な検査を行なっているらしい。
その他ウィルス検査などには二ヶ月後くらいがいいとのことで、また仕事帰りに説明を受けることを約束し、改めてモーネの診察券を作ってもらった。
仕事の忙しなさに一瞬不安を抱いたものの、今はそれ以上に「この仔のためにやってみせる」と強い意志が芽生えている。
「……ようこそ、我が家へ」
部屋に入り、私はキャリーの口を開けてそっと離れた。
様子を見守りながらも、無闇に刺激したくない。
白猫はしばらくキャリーの奥でじっとしていたが、数十分経ったのち、ゆらりと白い毛を揺らして歩き出した。
しなやかな動きでゆったりと床を確かめるように進み、LDKの中央あたりまで進む。
……部屋にモーネがいる。
それだけで、空気まで変わる気がした。
音のない風が流れ込むように、室内が息をし始めたような。
「ここが……私の部屋。狭いけど、ゆっくりしてね」
天井を見回していたモーネが、ちらりと私を向く。
目が合った──と思った次の瞬間には、視線を逸らされていた。
それだけでも充分だった。
私は部屋の隅に病院からもらったペット用ベッドにタオルを敷き、薬は白猫が届かない場所へしまっておく。
そして小さな白い皿に用意をすると、ぬるま湯を入れた。
触られたら困るものはすべてクローゼットにしまい、仕事用のノートパソコンだけをテーブルに開く。もちろんすぐに作業を始めるから、白猫がきても大丈夫だ。
こんなふうに誰かのための場所を作ったのは初めてかもしれない。
嬉しさとくすぐったさで頬を緩ませながら、私はモーネに近寄ることなくデスクに座った。
「……私、仕事するね。うちのことを知ってくれると嬉しい」
仕事をすると宣言したのに、心が全然重くない。
不思議な感覚だった。
その上作業は捗り、早めにベッドへもぐりこむことにした。
私は寝室、白猫はリビング。少し離れているはずなのに、気配を感じる。まるで誰かに支えられているような、静かなぬくもりが広がっていく。
眠りに落ちるまでの時間が、久しぶりに短かった。



