*
天気予報では、数日前から強い雨風が予想されていた。
でも、その予報よりもずっと早い段階から空は重く、押し黙るような濃い色をまとっていた。
午前中にはまだ弱かった風が昼を過ぎた頃から窓を激しく叩くほど強くなり、夕方に差し掛かるころには、ビル全体が揺れているのではと思うほどになっていた。
そんな日に限って、職場ではトラブルが重なる。
私のプロジェクトとは別件──佐伯が携わる案件において外部との連携が急に止まり、手つかずで宙ぶらりんになる。別部署からの問い合わせも山のように積み上がり、誰もが急かされ、誰もが余裕をなくしていった。
私も例外ではなかった。
佐伯への例も兼ねてコーヒーの差し入れはしつつも、目の前のタスクを片付けるたび、新しい問題が生まれる。
優先順位を決断する気力も薄れていき、頭が熱くなっていく感覚。
「白石さん、大丈夫?」
「……なんとか。佐伯さんこそ、人を気遣っている場合ではないんじゃないですか」
「手厳しいけどその通りだよ。でも──」
そこで一度外を見遣った佐伯は、ふう、とため息をついて続ける。
「今日は早く帰ったほうがよさそうだ。電車もじきに止まる」
「わかってるんですけど……でも、今帰ったら明日の自分がもっと大変そうで……」
「気持ちはすごいわかる。わかるけど、帰ろう。フロアで寝るには寒すぎる」
気づけば20時を過ぎていた。
後ろ髪を引かれる思いで各所への連絡を済ませ、無理やり仕事を切り上げる。
ビルを出ると、子どもの頃に読んだ絵本のワンシーン──『暗闇の中、海が唸っている』状況を思い出した。
地面に叩きつけられる雨が勢いよく跳ね上がって足元を濡らし、向かい風が私の身体を押し戻す。
駅どころか家に着くまでの道が、いつもの3倍は遠く感じられた。
……こんな日に、あの仔はどうしているんだろう。
それが過ぎった瞬間、背中に冷や汗が流れていく。
どんな日でもどこからか現れていた野良猫。
でも、こんな嵐じゃ……
気づけば私は駆け出していた。
路地へ。あの白い影を探しに。
嵐の夜の街は、どこもかしこも歪んで見えた。
傘を差そうとしても反り返って役に立たず、結局ずぶ濡れのまま足早に駆け抜けていく。
路地へ近づくにつれて、いつもと違う景色に戸惑った。
いつもより圧倒的に暗い。
ささやかな光を放っていたはずの街灯は強い雨にのまれ、あたりは底のない暗闇だ。
「モーネ……? どこ……!?」
叫んでいるはずの声さえ風に消えていく気がする。
必死にモーネを呼びながら、生い茂った草の間まで掻き分けていく。
──と、そこに、小さな白い影が倒れているのが見えた。
心臓が凍りつき一瞬足を止めかけ、すぐに持ち直して駆け寄る。
「モーネ……!」
そこいたのは、間違いなくモーネだった。
でも、違う。身体を丸める余裕もなく、ただ横たわっていただけ。
迷いなく小さな躯に触れると、真っ白でふわふわだった毛は濡れそぼって重くなり、私をあたためてくれた体温はなくなっている。雨に打たれた毛が重たくはりつき、うっすら開いている目は焦点があっていないようだ。
私は迷わず抱き上げた。
あまりに軽い白猫に涙があふれてくる。
「大丈夫、大丈夫だから。ごめんね、来るのが遅くなって」
「大丈夫だからね」
「負けないで」
「私まだ、ちゃんとお礼ができてない」
「がんばって、がんばって」
何度も呼びかけ、手から伝わる弱々しいモーネの鼓動がいつ途切れてしまうのか恐怖を覚えながら、見覚えある動物病院まで必死で走り続けた。
病院に飛び込んだ私を、受付のお姉さんが驚いた目で見つめ返す。
「ど、どうしましたか」
「こっこの仔が、嵐の中にいて──」
胸元におさめていた白猫を取り出すと、お姉さんは「先生!」と奥へ呼びかけながら立ち上がる。
その時、小さな躯が微かに動いた。
そして──短く、弱い声で鳴いた。
ゴロ……というには小すぎる。
それでも、確かに私へ向けてくれた声だった。
「……大丈夫……大丈夫だからね、モーネ……」
慌てた様子で現れた医師がモーネを優しく受け取ると、診察室へと運んで行った。
その後ろ姿が消えた瞬間、私は自分の手が震えているのに初めて気がついたのだった。
*
待合室のあかりはやけに明るく、外ではそれに似合わない嵐が唸り続けている。
どれだけ待っているのかわからない。
医師が戻ってきたのは、随分とあとのように感じた。
「命に別条はありません。ただ体力は落ちているので、数日は安静が必要です。今夜はこちらで預かりますね」
その言葉を聞いた瞬間、腰が抜けて待合の椅子にへたりこむように座ってしまった。
「よかった……本当によかった……」
視界が滲む。
もう大丈夫だという実感が胸の奥からじわじわと広がり、息が震えた。
医師は優しそうな垂れ眉をさらに八の字にしながら続ける。
「ええ。あなたが見つけてすぐに連れてきてくれたのが大きいですよ」
「……ありがとうございます……」
「あの仔のお名前は?」
「……モーネ、って呼んでいます」
「……野良猫さんなんですね」
「はい。……だから、勝手につけただけなんですけど……」
「とても素敵な名前だと思いますよ。月の子ですか?」
「……そう、かもしれません……」
掠れた答えが医師には届かなかったらしく、少しだけ首を傾げられた。
医師にしてみたら、単なる由来からの質問だろう。
でも私は、あの子を月の子だと思っている。
あの仔の白さも纏う静けさも、月を連想させたから。
「……明日、様子を伺いにきてもいいですか?」
「もちろんですよ。お待ちしていますね」
「お帰りですか? 少しはよくなってきましたが、どうかお気をつけて」
医師の優しい言葉と、受付のお姉さんの明るい笑顔に見送られて──そして傘を借りて、私は病院を出た。
お姉さんの言う通り、外の風は随分とマシになっていた。
ただ雨は相変わらずひどく、体温を奪うほどに冷たい。
だけど私は、そんな雨の中でも温かさを感じていた。
モーネが生きている。
明日も会える。
小さく喉を鳴らして応えてくれた小さな白猫を思い出すだけで、心の中に確かな灯りがともっているのを感じていた。



