午前から始まった会議が終わったときには、すでに午後になっていた。
例の件から随分と社内の風通しはよくなってきた実感はありつつも、一部上司からのチクチク口撃にうんざりしながらプロジェクトは進んでいる。
1日有給を取っただけで何か変わったかといえば、忙しなさそのものに変化はない。
「白石さん」
デスクに戻ったところで、背後から声をかけられた。
ちょうど朝にコンビニで買っておいたおにぎりを取り出した私の手元を見た佐伯は、どこか安心したように笑う。
「ランチ取るところだったんだ」
「はい。……どれだけ遅くなっても、一応食べようと思いまして」
「それはよかった」
そして佐伯は、手にある紙コップのうちひとつを私に差し出した。
「どうぞ」
「えっ」
「気にしないで。みんなで買ってきたんだ」
佐伯の視線の先を辿ると、プロジェクトに携わっていない同僚たちが皆紙コップを持っていた。
そして今の佐伯と同じように、同じデスクにいる各同僚たちへ手渡している。
「会議が長引いてんねえって言っててね。あったかいもの飲むと多少の疲れが取れる気がしない? まあ、気がするだけだけど」
「あ……ありがとうございます」
ここで遠慮するのは不自然な上、失礼だ。
佐伯は一瞬のためらいをすぐに察したようだったけど、受け取るために手を差し出した私へ改めて頬を緩めた。
「謝られてばかりより、そっちの方が嬉しいよ」
「……え?」
「白石さんは人に気を遣われることに対して罪悪感がうまれるタイプのようだけど、仕事なんてみんな支え合いなんだから」
「…………はい」
「あ。もしそれでも悪いなって思うようなら、次俺が煮詰まった時にコーヒー差し入れてくれたら嬉しいです」
冗談まじりに肩をすくませて笑った佐伯に、私は数ヶ月ぶりに心から笑えた気がした。
*
駅へ向かう人々のざわめきも、車の往来も、今夜は心地よく通り過ぎていく。
相変わらず残業はして身体は疲弊から重い。
違うのは気持ちだ。全然違った。
困ったことも嫌なこともある。なくなったわけじゃない。
それでも、こんなふうに、引きずるように帰る気分じゃなくなったことは大きな変化だった。
「……あれ……?」
その時、路地の入り口に辿り着いていたことに気づいた。
勝手に足が向かっていたらしい。
そして路地の奥にいたのは──
「……こんばんは」
モーネだ。
ほっとしたような、嬉しくて仕方ないような、不思議に浮かれた私は立ち止まる。
白猫は一歩だけ近づいて、止まった。
私はその場にしゃがみ込んで、そっと手を伸ばす。
モーネは小さく鳴き、さらに一歩近づいてくる。
そうして自然に──本当に自然に、私の指先に鼻を寄せた。
逃げないばかりか、モーネから寄り添ってくれることに嬉しくてたまらない。
──と思ったら、次の瞬間には目の前から白猫が消えていた。
少し目を離したばかりにと周囲を見渡すと、数メートル先の段差の上にちょこんと座って私を見つめている。
猫の俊敏さといえばそれまでだけど、さすがに驚く。
「早いねぇ……」
思わずつぶやいた声に白猫は応えることはなく、ただしっぽを揺らしている。
「……遊んでくれてるの? というか……あなたって、私を見守ってくれてるみたいだよね」
暗闇に光る金の瞳を見つめながら、ふと思いついたことを問いかけた。
笑ってしまいそうなほどの自意識過剰とはわかっているけど、言わずにはいられなかった。
白猫は目を細め、風のように足元へ戻ってくる。
今度は私のつま先へ静かに身を寄せてきた。
まるで「その通りだよ」と答えてくれているようで、胸がきゅうっと締めつけられる。
私はそうっと膝をつき、モーネのそばに座ってみた。
揺れるしっぽが私の太ももにリズムよく触れて、私はその小さな温かさに心からの落ち着きを覚える。
どれほどそうしていたんだろう。
気づいたときにはまたモーネが立ち上がり、路地の奥へ向かって歩き出していた。
「ありがとう。また会おうね」
返事の代わりに、モーネのしっぽが大きく揺れる。
また会えた。ふれさせてもらえた。
そしてモーネから、ふれてきてくれた。
彼が──あるいは彼女がずっとそばにいてくれたら。
そんな淡い願いを心の隅に感じながら、私は帰路についた。



