翌日は、初めて有給を取った。
昨日のうちに社内外問わずプロジェクト関係者には連絡をし、内心はともかくとして表向きは快諾してもらえた。
「大人になって、休むことに対するハードルが高くなりすぎてるのかも……」
いつだったか、高校時代の先生が言っていた気がする。
当時は右から左へ流してしまったけど、今になって身に沁みる。
『休むことも立派な仕事のひとつです』
「……だね」
それでも、家にいると間違いなく思考は仕事漬けになりそうなこともわかっている。
誰よりも自分を一番理解しているから、昼過ぎまで寝た上で部屋の大掃除を行い、気分をさっぱりさせた。
しかも久しぶりに空腹を感じることができて、昔見つけたお気に入りの喫茶店へ赴き、「おなかがすいた」の感覚でごはんを食べる幸福を味わえた。
空は遠慮がちな薄曇りで反射する光はなかったものの、振りきって外へ出てよかった。
心の底からそう思えた。
いつの間にか夜になり、私は自然とあの場所へ向かっていた。
初めて白猫と出会った、あの場所だ。
路地の入口から私は自然と歩みをゆるめ、「また会えないかも」という小さながっかりが頭を過ぎる。
──月は、ない。
空を仰いでそれを確認した瞬間、奥で何かが動いた気がした。
ほぼ暗闇の中、ふわっと浮かびあがる白が見える。
「……モーネ……?」
声にしたつもりはなかったけど、自然とこぼれ落ちていたらしい。
すると、白い何かが振り向いた。
間違いない。あの仔だ。
モーネはゆっくりと歩き出し、私との距離を少しずつ詰めてくる。
前よりもずっと、迷いのない足取りで。
それを認識した瞬間、じわりとあたたかな感覚が胸を満たしていく。
しゃがみこみ、できるだけそうっと、猫をびっくりさせないよう手を差し出した。
ニャアン、と細く小さな声が応える。
「……会いたかったあ」
私の掠れ声が夜に吸い込まれた。
少し手前でぴたりと立ち止まった猫の瞳が、金色に光る。
「次会えたらさわらせてねって言ったけど……無理しなくていいよ」
そう言いながらも、指先がかすかに期待で震えているのがわかった。
隠しきれていない。
モーネが小さく鼻を鳴らした、次の瞬間だった。
白い躯が、ためらいがちに一歩近づいてくる。
一歩、また一歩。
私はそれ以上何も言えずに、ただ待った。
猫はゆっくりと──でも確実に頭を下げ、差し出されたままの私の手に、そっと鼻先を寄せてきた。
指先に柔らかな湿度を感じたそのとき、私のすべてがほどける感覚がした。
もう一度にゃあん、と小さく鳴くと、猫はするりと離れていく。
それでも逃げることはない。
すぐそばに座り込み、しっぽをゆったりと揺らしながら私を見つめている。
「……ありがと」
私は地面に座り込んで、膝を抱えた。
モーネはしっぽを自分の身体に巻きつけ、昔見たアニメのように丸くなっている。
月の光はどこにもないのに、この白い猫だけがあたりを照らしているように見えた。
心地の良い沈黙。
やがて、猫が小さく伸びをした。
そして立ち上がり、ちらりと私を見遣ったあと、路地の奥へと向き直る。
「帰る時間なの?」
にゃあ、と小さな鳴き声。
「ん……また、会おうね」
モーネが振り返ることはなかった。
その自由さに愛おしさを覚え、同時に羨ましさを感じていたことを自覚する。
私も立ち上がり、服についた草や砂を軽く払った。
頬を撫でる夜風は気持ちよくて、なんだか気分が清々しい。
落ち込んだ日に初めて出会った白猫。
私の気持ちが上向いていけば、猫と会える頻度が増えたり、もしかしたらもっと触れ合えるのかもしれない、なんて。
そんなことを思いながらの帰り道は、久しぶりに足取りが軽くなっていた。



