その朝は、会社に入る前から胸にざらざらした予感がまとわりついていた。
お天気お姉さんが「気持ちのいい朝ですね」と可愛い笑顔を見せてくれていた数十分前を思い出す。
空を仰ぐと、間違いなく気持ちのいい晴天だった。
なんだか申し訳なくなりながらビルに入り、オフィスへ近づいていく。
エレベーターを降りると、フロアの雰囲気がいつもよりざわついていることに気づいた。
誰かが小さくため息をつき、別の誰かが急いでデスクに駆けていく。こんな空気の朝は、大抵ろくなことがない。
自分のデスクに着いてPCを起こすと、上司から社内チャットが飛んできていた。
《至急 来てください A1会議室》
必要以上に短い。
胸を抑えて呼吸を整えてから、指定された会議室へ向かった。
そこにはすでに数名が座っていて、誰も声を発しない。ようやく絞り出した「お疲れ様です」の声は、会釈で受け流される。
大きなテーブルには資料が広げられ、スクリーンには見慣れたプロジェクト画面が映し出されていた。
目で追う私の喉の奥がきゅっと締まる。
──納期がズレている。まさか、どうして。
「呼び出しの意味をご理解いただけましたか」
満足そうな、それでいて険のある上司の声が耳を刺した。
「……はい」
「当案件は我が社の部署を跨いでのプロジェクトです。連携の齟齬を避けるための確認を怠った結果でしょう。まだ間に合う今、気がついて不幸中の幸いでした」
「こちらの最終チェックはどなたが?」
「……私です」
追い討ちのような鋭い視線が突き刺さる中、深く頭を下げる。
今は何を言っても言い訳としか受け取られない。
こういう時は、頭を下げて嵐が過ぎるのを待つしかできない。
「大変申し訳──」
「ちょっと待ってください」
その時、大きな音と共に誰かが飛び込んできた。
「白石さんひとりの責任ではありません。他部署や外部との連携確認は、各チーム複数人に共有していたはずでしょう」
佐伯だった。
プロジェクトには携わっていなかったはずなのに、どうして。
そう思ったのは私だけじゃなかったらしい。
「佐伯は関係ないだろう」
「確かにプロジェクトには携わっていません。ですが、以前にも似たトラブルがあった際今後同じことが起きないよう、社内での共有事項・連携確認は必須としたでしょう」
冷静に事実だけを並べる佐伯に、上司は返す言葉もないようだ。
感謝以上に申し訳なさが押し寄せる。
本当なら私が抗議すべきことだったのに、『言い訳するな』と言われてしまうんじゃないかと怖くなって口を噤むしかなくなっていたことを佐伯に言わせてしまった。
少しの沈黙が降りたあと、上司のさらに上役が短く咳払いをする。
その後の会議は淡々と──佐伯も続けて同席の上で、私だけが責められることはないまま工程確認作業へ移っていった。
*
「申し訳ありませんでした」
件の会議が終わりデスクへ戻り、立ったまま佐伯を待つ。
そして軽い微笑みと共に腰を下ろそうとした佐伯に、深く頭を下げた。
佐伯は心底不思議とばかりに手を振って、私に顔をあげるよう促す。
「どうして白石さんが謝るの」
「本当にすみません、私のせいで」
「俺は事実を述べただけだよ。それに何より『せい』なんて言葉を自分に向けないほうがいい」
「でも……私がもっとしっかりしていたら、佐伯さんに気を遣わせることはなかったですし」
「白石さん」
話しているうちますます俯いてしまった私に、佐伯さんの鋭くも優しい声が遮った。
「俺はただ、現場で決めたことを知ろうともせず責任を被りたくない連中が嫌いなだけ」
「……ありがとうございます……」
「あ、でも。少しでも俺に申し訳ないという気持ちがあるなら、今日はもう帰ろう」
「……えっ」
「白石さんに必要なのは休息だよ。大丈夫、プロジェクトっていうのは沢山の人で成り立ってるんだからさ」
「そうそう」
向かい側から聞こえた声に顔を上げると、同僚たちが頷いていた。
……私、今まで一体何を見てたんだろう。
佐伯にかぎらず声をかけてきてくれた同僚たちはいたのに、自分ばっかりしんどいつらいになっていた。
私は深く頭を下げ、諸々の確認作業を終わらせたのち、早退することにした。
陽が高い時間にロータリーへ向かうのは初めてだ。
とはいってもほぼ無意識に足が動いていたというのが正しい。
そこには親子連れも年配の方々もおらず──白猫もいなかった。
ベンチも街灯も当たり前にあの夜と同じなのに、ひとつ足りない。
「……頼りにしすぎてたのかも」
私はベンチに座ることさえできず、ただ立ち尽くしてしまった。
足元に広がる鋪道がいつもより冷たく見える。
あの小さなぬくもりが、心の避難所みたいになっていたのを嫌でも自覚する。
──ぽつり。
肩に小さな感触が落ちた。
雨だった。晴れていたはずなのに。
ぽつり、ぽたりと続いた雫の音があっという間に満ちていく。
傘を出す気力さえなくなっていた私は濡れそぼり、ふう、とため息が漏れた。
野良猫は自由で気まぐれで、約束をすることなんてない。
今まで落ち込んだ日に会えていたのはあくまで偶然だということを思い知らさせた。
雨で髪もコートも重くなったころ、私はようやく歩き出した。
帰り道には誰もいない。
足元に寄ってくる影も、呼びかければ小さく返してくれる鳴き声もない。
ただ、雨だけが静かに降り続けていた。



