揺れるしっぽは幸せのしるし



 今日も朝から流れが悪かった。
 会議の準備を任されていたのに、資料の一部が更新されていなかった。確認したはずだったのに、肝心な部分を見落としていたらしい。その場で上司に強く指摘され、空気が冷えていく。
 更新したはず、確認したはず。
 だけど、全部に証拠はない。
 連日の残業で疲れていたせいだろうと言われて、否定もできない。
 私はただ身体を直角に曲げて、頭を下げ続けることしか出来なかった。

「白石さん、少し休んだほうがいい。顔が真っ白だよ」

 デスクに戻った私を見て、佐伯はそう声をかけてくれた。
 彼は別案件に忙しく、(くだん)の会議には出ていない。

「ありがとうございます。大丈夫です」
「それは鏡を見てから言ってください。いいから休んで」
「……すみません」

 佐伯以外の同僚からも「今日は早退したら」と言われつつも、結局会社を出たのは18時過ぎだった。
 でもここ数ヶ月の中では早い帰宅時間だから、感覚的には早退みたいなものかもしれない。
 周囲の景色もずいぶん違って見える。
 まっすぐ帰ればいいのに、帰ってノートパソコンを前にすると仕事を思い出してしまう。
 それを自分が一番わかっていて、何となく帰路から外れた道を歩いていた。
 ふらふらと歩いてたどり着いたのは、駅前のロータリーだった。丸いベンチがいくつか並んでいて、平日の15時前後は小学生たちがランドセルを置いて宿題をしていたり、週末には年配の方々が世間話に花を咲かせている憩いの場所だ。
 平日の夜は、妙な静けさを保っている。
 もう少し遅くなれば酒の入った会社員たちなんかが座っていることもあるけど、何と言うか、暗黙の了解のように『市民たちにとって綺麗に使う場所』といったイメージかもしれない。
 私はそこに腰を起こし、深く息をついた。
 強くない夜風が頬を冷やし、鼻先はほんの少しだけ痛い。
 外灯の白い光が、夕方に降っていた雨上がりの舗道に薄く滲んでいた。
 ず、と鼻をすすって視線を落とす。すると――

「……モーネ……?」

 あの白猫が、ロータリーの外からゆっくりと歩いてくるのを見つけた。
 ぽてりぽてりと愛らしい、でもしっかりと近づいてくるその足取りはまるで、

「……会いにきてくれたの……?」

 そう思うくらい迷いがなかった。
 掠れた声が(モーネ)に届いたはずはないけど、猫は私から視線を外すことなく小さく鳴いた。
 猫は私から一定の距離を保ったまま、ベンチの下で座り込む。 
 触れるには少し遠い。でも、離れているというには近い。
 ぬくもりが伝わるほど近くはない。でも、風に揺れる毛並みもあたたかな(からだ)も確かにそこにある。

「……今日はちょっと、しんどかったんだ」

 気づけばこぼれていた。
 猫は反応するでもなく、ただ顔を上げ、その大きな瞳を私へ向ける。そこには当然あの人(上司)たちのように責める色も、問いかける影もない。

「今回は……まあ、私の責任も否定しないけど、全部が全部私だけの落ち度に見られて。私が悪くない時も全く同じ責め方してくるんだけど……途中から何に対して怒られてるのかわからなくなって……」

 答えがあるはずもない。
 でも、心が落ち着いていく。

「……不思議な子だね。どうして、こんな時ばかり現れるの?」

 (モーネ)は何を言うわけでもなく、ただしっぽを揺らしていた。
 細い鳴き声が聞こえた気がして私は猫を見る。
 すると、猫はもう一度鳴いてベンチの上に飛び乗り、手は届かない距離で夜空を見上げた。
 つられて私も空を仰ぐと、薄い雲の隙間から満ちかけの月が顔を出していた。ほんの少し欠けているのに、ほとんど満月といっていいほど明るい光だ。
 猫の白い毛並みがそれを受けて淡く浮かび上がった。

「ねえ……」

 (モーネ)が私を見る。 

「次に会えたときは……さわっても、いい?」

 猫は答えない。
 ただ、月光に照らされながら、静かに瞬きをした。
 いいよ、と言われた気がした。
 妄想だと思われてもいい。仕事に疲れたアラサー女が野良猫に癒されるなんて、今時漫画でも描かれないくらいよくありそうな話。
 私はベンチの背にもたれて、改めて空を見上げる。
 (モーネ)の気配がすぐそばにあるというだけで、夜風に吹かれる冷たさが消えて身体の芯から温まっていくような気がした。
 満ちていく月は、雲間を抜けるたびに光を強めているように見えた。
 その光を浴びる(モーネ)は、まるで夜に浮かぶ小さな灯りのようだった。
 気づけば胸に澱んでいた痛みは薄れている。
 あんなに重かった身体が少し軽い。
 ――やがて、猫が静かに立ち上がった。しなやかな(からだ)をゆったりと伸ばし、そして歩き始める。

「……じゃあ、またね」

 引き留めることは浮かばなかった。 
 猫は振り返ることも、逃げるように早足になるわけでもなく、まるで月の(もと)へ戻っていくようにさえ見えた。