【こちらのデザイン、前回当方より提案させていただいたものと意図がずれているように感じます。
修正方針をご理解なさっているでしょうか】
月曜の朝。
並んだ文面を見て、私は大きなため息をついた。
予感はしていたのだ。というより、もはや習慣のようになっていたから予測できたといった方が正しい。
週明け月曜は必ずと言っていいほどどこかの誰かが不機嫌になっている。
今日はクライアントだった。ただそれだけだ。
深呼吸をして目を閉じる。怒りよりも先に、疲労が来た。
どう考えても私は指示を正確に反映した修正デザインを再提出したはずだ。
以前と同パターンなら、別部署の人間がクライアントに送った資料との食い違い。もしくは先方が修正内容を勘違いしているか。
でも、状況を説明しようとしてもまずは謝罪から入らなくてはならない。
閉じていた目を開けると同時に立ち上がり、上司の元へ向かう。
今一度他部署とのすり合わせが必要だとあくまで低姿勢で指示を仰ぎ、クライアントの担当者へ改めて電話で謝罪をしておく。
そうして淡々と──粛々と修正に取り掛かる準備をするのだ。
自分の中に広がっていく、慣れてしまった『痛み』を押し込んだまま。
何時間経っただろうか。
休憩のタイミングを掴めないままPCに向かっていると、先輩デザイナーである佐伯が近づいてきた。
「白石さん。俺コンビニまで出てくるけど、何か欲しいものある?」
軽い調子なのに、どこかこちらを気遣っているのが伝わる。
けれど、私は反射的に笑ってしまった。
「いえ、大丈夫です。本当に」
笑顔が固いのは、自分でもわかっていた。
気遣いを受け取る余裕がないとき、私は表情管理が絶望的に下手になる。
「そっか。じゃあまたあとで。……休める時に休みなよ?」
佐伯はそう言って去っていった。
きっと、「キャンペーンやってた」とか「安かったから」と言ってコーヒーをくれる。
彼はずっとこうだ。
小さな気遣いをくれるのに、タイミングが悪くて──いや。私がただ素直に受け取ることができない。
佐伯の背中を見送りながら、胸の奥に小さな痛みを覚えた。
*
その日の終業はいつもより遅くなってしまった。
社内や先方とのやり取りに時間がかかり、ようやく形になったのは夜の九時前。
疲れ切った頭でPCを閉じて、私は会社を出た。
「もはや痛いんだけど……」
夜風が少し強い。耳に当たる冷たさが心地よいとも思えず、ただ体の熱を奪っていく。
今日は駅まで真っすぐ帰るつもりだった。
裏道に行けば、モーネのことを思い出してしまうから。
あの夜、私をじっと見つめていた白い猫。
泣いた私を置いていかなかった猫。
あれは全部偶然だったんだと頭ではわかっていても、もしかしたらと思ってしまう。
意識的に大通りを歩いていたはずなのに、信号を渡った先で、脚が自然と例の住宅街へ抜ける道へ向かっていることに気づいた。このまま歩いていけば、同じ場所へ辿り着く。
理屈じゃないのかもしれない。
また会いたい。あの猫に。
でも、期待すればそれが叶わなかった時の寂しさが倍以上になってしまう。
どちらの気持ちもない混ぜになりながら、それでも私の脚は止まらなかった。
いないだろうと思っているのに、もしもという期待を捨てきれない。そんな自分が滑稽に思えた。
月は、細い弓のように光っている。
もう月明かりとは呼べない力しか放っていないはずのその光が、路地の奥を示すように照らしているように見えた。
その時、奥に白い影がゆっくりと動いた気配がした。
「……え……」
声がこぼれ落ちて、心臓が跳ねる。
目を凝らすまでもなく、その白さには覚えがあった。
──モーネ。
心の中で呼んだ瞬間、白猫が振り向いた。
路地の奥からゆっくりと、優雅に歩み寄ってくる。
逃げるどころか、私がここに来ることをわかっていて出迎えるかのように。
「……また、会えたね」
そう呟くと、猫は短く小さな声で鳴いた。
返事のように聞こえた。
近づきすぎない距離に座り、尾をゆらりと揺らしている。その姿を見ていると、今日の重さがほどけていくようだった。
私はあの夜と同じようにしゃがみ込み、手を伸ばす。
猫も前と同じように、私の指先からほんの一歩ぶんだけ離れた場所で止まった。
触れられない距離。
けれど、拒まれているわけではない距離。
その曖昧さが、今の私にはちょうどよかった。
「今日も疲れちゃったよ。……また、理不尽なことでね」
猫に向かって話しかけることに、羞恥はなかった。
モーネは静かに瞬きをする。ゆっくりと、ふたつぶんのリズムで。
その仕草が、なぜか肯定されているように見えた。
「あなたは……ここに住んでるの?」
もちろん答えは返ってこない。
でも、問いかけてみたかった。
猫は小さく体を丸めて、前足を揃えたまま座った。
どこか品があるその姿勢。野良のはずなのに、不思議なほどの落ち着き。
「……野良ちゃんだもんね。きっといくつか居場所があるのかな」
今度は両目を細めた。
肯定とも否定とも取れない動きだけど、可愛らしい顔に頬が緩む。
その時、月が雲に隠れて暗くなった。
猫の輪郭が──白い毛が闇に吸い込まれるように感じた。
それでも瞳だけは夜に溶けず、確かな光を宿している。
……どのくらい座り込んでいたのだろう。
さすがに冷えを感じてきた私は、小さく身震いをして立ち上がった。
猫は動かない。まるで私が帰るのを見届けようとしているかのようだった。
「ありがとう。……また、来るかもしれない」
そう言って歩き出すと、猫は小さく尻尾を振った。
ただそれだけでホッとする。
今の私にとって、白い野良猫との時間が癒やしであることを否が応でも自覚した。
裏道を抜けて、明るい大通りへ出る。
ビルのガラスに映る自分の顔は職場を出てきた時よりも明らかに穏やかで、一日の苦味が薄らいでいるのがわかった。
帰りの満員に近い電車にイライラすることも、揺れに必要以上体をかたくすることもなく……なんと言ったら良いのだろう。毒気が抜けたような、そんな感じ。
開閉ドア付近に立って外をぼんやり眺めていると、流れていく黒い雲の隙間から細い月が顔を出した。
つい数十分前に路地で見た光と同じ色。
「……また、会えるよね」
ささやかな期待が、胸の内で静かに灯る。
叶わなかった時の寂しさを怖れずに期待したことなんて、生まれて初めてだった。
修正方針をご理解なさっているでしょうか】
月曜の朝。
並んだ文面を見て、私は大きなため息をついた。
予感はしていたのだ。というより、もはや習慣のようになっていたから予測できたといった方が正しい。
週明け月曜は必ずと言っていいほどどこかの誰かが不機嫌になっている。
今日はクライアントだった。ただそれだけだ。
深呼吸をして目を閉じる。怒りよりも先に、疲労が来た。
どう考えても私は指示を正確に反映した修正デザインを再提出したはずだ。
以前と同パターンなら、別部署の人間がクライアントに送った資料との食い違い。もしくは先方が修正内容を勘違いしているか。
でも、状況を説明しようとしてもまずは謝罪から入らなくてはならない。
閉じていた目を開けると同時に立ち上がり、上司の元へ向かう。
今一度他部署とのすり合わせが必要だとあくまで低姿勢で指示を仰ぎ、クライアントの担当者へ改めて電話で謝罪をしておく。
そうして淡々と──粛々と修正に取り掛かる準備をするのだ。
自分の中に広がっていく、慣れてしまった『痛み』を押し込んだまま。
何時間経っただろうか。
休憩のタイミングを掴めないままPCに向かっていると、先輩デザイナーである佐伯が近づいてきた。
「白石さん。俺コンビニまで出てくるけど、何か欲しいものある?」
軽い調子なのに、どこかこちらを気遣っているのが伝わる。
けれど、私は反射的に笑ってしまった。
「いえ、大丈夫です。本当に」
笑顔が固いのは、自分でもわかっていた。
気遣いを受け取る余裕がないとき、私は表情管理が絶望的に下手になる。
「そっか。じゃあまたあとで。……休める時に休みなよ?」
佐伯はそう言って去っていった。
きっと、「キャンペーンやってた」とか「安かったから」と言ってコーヒーをくれる。
彼はずっとこうだ。
小さな気遣いをくれるのに、タイミングが悪くて──いや。私がただ素直に受け取ることができない。
佐伯の背中を見送りながら、胸の奥に小さな痛みを覚えた。
*
その日の終業はいつもより遅くなってしまった。
社内や先方とのやり取りに時間がかかり、ようやく形になったのは夜の九時前。
疲れ切った頭でPCを閉じて、私は会社を出た。
「もはや痛いんだけど……」
夜風が少し強い。耳に当たる冷たさが心地よいとも思えず、ただ体の熱を奪っていく。
今日は駅まで真っすぐ帰るつもりだった。
裏道に行けば、モーネのことを思い出してしまうから。
あの夜、私をじっと見つめていた白い猫。
泣いた私を置いていかなかった猫。
あれは全部偶然だったんだと頭ではわかっていても、もしかしたらと思ってしまう。
意識的に大通りを歩いていたはずなのに、信号を渡った先で、脚が自然と例の住宅街へ抜ける道へ向かっていることに気づいた。このまま歩いていけば、同じ場所へ辿り着く。
理屈じゃないのかもしれない。
また会いたい。あの猫に。
でも、期待すればそれが叶わなかった時の寂しさが倍以上になってしまう。
どちらの気持ちもない混ぜになりながら、それでも私の脚は止まらなかった。
いないだろうと思っているのに、もしもという期待を捨てきれない。そんな自分が滑稽に思えた。
月は、細い弓のように光っている。
もう月明かりとは呼べない力しか放っていないはずのその光が、路地の奥を示すように照らしているように見えた。
その時、奥に白い影がゆっくりと動いた気配がした。
「……え……」
声がこぼれ落ちて、心臓が跳ねる。
目を凝らすまでもなく、その白さには覚えがあった。
──モーネ。
心の中で呼んだ瞬間、白猫が振り向いた。
路地の奥からゆっくりと、優雅に歩み寄ってくる。
逃げるどころか、私がここに来ることをわかっていて出迎えるかのように。
「……また、会えたね」
そう呟くと、猫は短く小さな声で鳴いた。
返事のように聞こえた。
近づきすぎない距離に座り、尾をゆらりと揺らしている。その姿を見ていると、今日の重さがほどけていくようだった。
私はあの夜と同じようにしゃがみ込み、手を伸ばす。
猫も前と同じように、私の指先からほんの一歩ぶんだけ離れた場所で止まった。
触れられない距離。
けれど、拒まれているわけではない距離。
その曖昧さが、今の私にはちょうどよかった。
「今日も疲れちゃったよ。……また、理不尽なことでね」
猫に向かって話しかけることに、羞恥はなかった。
モーネは静かに瞬きをする。ゆっくりと、ふたつぶんのリズムで。
その仕草が、なぜか肯定されているように見えた。
「あなたは……ここに住んでるの?」
もちろん答えは返ってこない。
でも、問いかけてみたかった。
猫は小さく体を丸めて、前足を揃えたまま座った。
どこか品があるその姿勢。野良のはずなのに、不思議なほどの落ち着き。
「……野良ちゃんだもんね。きっといくつか居場所があるのかな」
今度は両目を細めた。
肯定とも否定とも取れない動きだけど、可愛らしい顔に頬が緩む。
その時、月が雲に隠れて暗くなった。
猫の輪郭が──白い毛が闇に吸い込まれるように感じた。
それでも瞳だけは夜に溶けず、確かな光を宿している。
……どのくらい座り込んでいたのだろう。
さすがに冷えを感じてきた私は、小さく身震いをして立ち上がった。
猫は動かない。まるで私が帰るのを見届けようとしているかのようだった。
「ありがとう。……また、来るかもしれない」
そう言って歩き出すと、猫は小さく尻尾を振った。
ただそれだけでホッとする。
今の私にとって、白い野良猫との時間が癒やしであることを否が応でも自覚した。
裏道を抜けて、明るい大通りへ出る。
ビルのガラスに映る自分の顔は職場を出てきた時よりも明らかに穏やかで、一日の苦味が薄らいでいるのがわかった。
帰りの満員に近い電車にイライラすることも、揺れに必要以上体をかたくすることもなく……なんと言ったら良いのだろう。毒気が抜けたような、そんな感じ。
開閉ドア付近に立って外をぼんやり眺めていると、流れていく黒い雲の隙間から細い月が顔を出した。
つい数十分前に路地で見た光と同じ色。
「……また、会えるよね」
ささやかな期待が、胸の内で静かに灯る。
叶わなかった時の寂しさを怖れずに期待したことなんて、生まれて初めてだった。



