おなかの奥に重しを抱えたような感覚を持ったまま、私はビルを出た。
夜の空気はひんやりとしていて、思わずマフラーで口元を覆い隠す。
頭を冷やせばこの胸の内も同じように落ち着くかと思ったけど、そんなに簡単な話ではなかった。
「……無理」
自然と口からこぼれ出る。
今日も同じだった。変わらなかった。
理不尽な叱責と、言い分の通らないやり取り。クライアントの要求に応えようとすると、別の部署から横槍が入っておかしくなる。そしてうまくいかないと私のミスのように扱われる。何度経験しても慣れることなんてなかった。
辞めてしまえ。
頭の中の私はそう言い続けている。
友達に相談されたら、間違いなくそう声をかける。
でも辞められない。仕事は好きだから。大好きだから。頑張って頑張って、やっと入れた会社だから。
だから就業時間は心を機械にしようと決めていた。
最寄りに向かう途中のコンビニそばで、信号が赤に変わった。
短い行列のように立ち止まった人たちの輪に加わりながらも、胸の奥に確かに宿る痛みを感じる。
あの場で言い返せなかった自分への悔しさと、言い返したところでどうせ何も変わらないという諦めが入り混じっている。
信号が青になり、一斉に歩き出した人たちからやや遅れて足を踏み出した。
流れから離れて逆の細い裏道へ入っていく。明かりの少ない、住宅街へ抜ける近道だ。街灯が少なく少し心許ないけど、気分的に人の気配から遠ざかりたかった。
自分の呼吸がやけに大きく聞こえる。
イヤなことがあった日はいつもこうだ。簡単な動作さえ──身体そのものを重く感じる。
今日は、特別心がくたびれてるだけ。 少し休めばきっとまた明日から頑張れる。
自分に言い聞かせながら裏道の角を曲がって少しひらけた場所へ出ると、古い住宅と空き家の隙間のようなスペースに弱々しく灯る街灯にたどり着いた。見慣れた淡い光に照らされた路地を通っていけばまた大通りに戻るのだけど──そこに、いつもは見ない影があった。
「……ねこ……?」
間違いない。猫だ。
ここを通るのは初めてじゃないけど初めて見た。
白い毛並みがふわりと灯りを受けて、少し光っているように見える。
おすわりの姿で、間違いなく私を見ていた。
足を止めて、猫と距離を保つ。逃げる様子はなかった。
「……こんばんは」
控えめに声をかけてみたけど、特に反応もない。
でも、じいっと私を見ている。
まるで私がここを通ることを知っていたかのように、ただ静かに座って私を見つめ続けている。
視線が交わり、数秒──いや、数分の間そうしていただろうか。
胸の奥が、ふうっとほどける感覚があった。胸の痛みが緩まり、ほっと息を吐く。
まるでこの猫に見守られて安心したような、そんな感じ。
そんなわけないと思うのに、目の前の猫の瞳は「大丈夫」とでも言うように穏やかで泣きたくなってきた。
ゆっくりと、でも確実に近づいてみる。まだ逃げない。
距離にして1メートルほどのところまで近づいた時、猫がふわりとしっぽを動かした。ただそれだけなのに、たまらなく胸があたたかくなっていく。また泣きそうだ。
しゃがみ込んで手を伸ばしてみる。触れられない距離ではない。
でも、これ以上踏み出したら逃げてしまいそうな、絶妙な間合いだった。
「……こんなところで、何してるの?」
猫は瞬きをするだけで動かない。
私はそこで、力が抜けたように腰をおろした。地面は当然冷えきっていて、パンツスーツ越しでも容赦なく体温を奪っていく気配がする。それでもよかった。立っているより、今はこの体勢が楽になっていた。
猫は少しだけ首を傾げて、私を眺めている。
『人間こそ何してるの? どうしたの?』
そんなふうに訊ね返された気がして、目の端が熱くなっていく。
いつも家に帰れば翌日の仕事が頭に浮かぶだけで、どんなに理不尽な目に遭っても泣いたことなんて一度もない。泣いたところで意味がないから、何も変わらないから。
そう思っていたはずなのに、この仔の前にいると、胸の奥に溜め込んでいた感情があふれ出しそうになった。
「……ちょっと、疲れた……な……」
言葉にしてしまった声と一緒に、ぽたりぽたりと涙が落ちた。
猫はぴくりと耳を動かしたけど、それでも逃げずにそこにいる。
ぽたりとまた、涙が地面に染みては消えていく。また落ちる。また消える。止めようとすると、逆に溢れてきた。
夜、野良猫の前で泣く女。
はたから見れば終わっている。でも、この仔の前では取り繕う必要はない。
疲れたら泣いてもいいんだと──そんなふうに思えたのは初めてだった。
どのくらいそうしていただろう。
鼻をすすり顔をあげると、猫はすっと立ち上がり、私へ2歩だけ近づいてきた。
それ嬢は来ない。でも、確かに距離は縮まっていた。
まるで『ここにいるね』と教えてくれるかのように。
「……ありがと……」
涙で声は掠れていたけど、猫はまたゆっくりと瞬きを返してきた。
その時、ふと雲間から月が姿を見せた。
満ちてはいないものの柔らかな光が差し込んでくる。猫の白い毛がきらりと照らされて淡く光る。
野良猫が月の光に包まれる光景が、私に刺さった。
……モーネ。
そっと心の中で呼んでみる。
子どもの頃に憧れて大好きだったシェードの名前にあった、月を意味する言葉。
声に出したはずはないのに、猫はしっぽをゆっくりと揺らした。
私も立ち上がり、トートバッグを肩に抱え直す。名残惜しさはあるけど、帰らなくちゃいけない。
「また……会えるかな」
そう言いかけて飲み込んだ。
期待すると裏切られる。
そんな思いが胸に住み着いてしまって久しいことに気づいた。
だけど、猫はまるで返事のように短く鳴いた。小さくて、可愛らしい声だった。
惜しむ気持ちを抱えながら、その場を離れていく。
振り返ると猫はまだこちらを見ていた。月明かりに溶けていきそうなくらい、眩しかった。
その夜私は、数ヶ月ぶりに朝まで起きることなく眠った。



