修学旅行が終わり無事に日常生活に戻ってきた。と思っていたが、自分の行動が明らかに通常通りではない。
「朱里危ない!」
「うえ?」
──ゴチン。
「いっ、たー」
前を歩く碧くんから声がかかるが時すでに遅し、柱にぶつかってしまう。最近は考えごとしたりボーっとしている自覚はあり、その原因も何となくわかっているつもりだ。
誰かに離した方がすっきりするだろうが、巻き込まれたらと思うと話すことはできない。
「朱里大丈夫? 思いっきりぶつけてたけど。おでこ赤くなってるね、つき添うから保健室行こう」
「……1人で大丈夫。碧くんは先に理科室行って」
僕は碧くんから逃げるように1人で保健室に向かった。保健の先生に氷を貰って、体調が悪いと言って寝かしてもらった。
(身体がだるいから嘘はついていないけど、サボってる気がして罪悪感すごいな)
目を閉じると宇治洲との記憶が蘇ってくる。それが夢として再生され、ハッと目を覚ました時には息が荒く涙を流していた。
「お、起きたか」
「にい、ちゃん……」
ベッドのそばに静かに書類とにらめっこしていた兄ちゃんは、僕が起きたことに気づき声をかけてきた。
「お前熱あるんだって。それに気づかないって相当大きい悩みがあるらしいな」
「……」
兄ちゃんは僕の過去を知っているのもあって、宇治洲と再会したことを拙くだが話した。
「そうだったんだな。おれの方でも警戒しておくから、とりあえず今は回復することを優先に考えなさい」
時計を見たら5時間目の授業だけをサボるつもりが、放課後になっていた。それに気づかず寝ていたということは相当悪かったとみえる。
「兄ちゃん車を前に移動させてくるから、用意したら降りてきてな」
「うん、ありがとう」
兄ちゃんは一足先に保健室から出て行った。僕は布団から出て立ち上がると、少しは足が軽くなっていることを感じる。
誰もいない教室の扉を開けると、ただ1人だけ音を立てずに座っていた。
「碧くん、残ってたんだ」
「朱里! 大丈夫? 休憩時間に保健室行ったんだけど、信代先生から熱あるって聞いたから心配で」
心配で僕が教室に来るまで残っていたのか、もうすぐ夕日が沈もうとして低くなっているのに。
「心配してくれて残って待っててくれてありがとう。一旦は落ち着いたから帰ろうと思って」
「そうなんだね。あ、家まで送ろうか」
「兄ちゃんが車で来てて、乗せて帰ってくれるんだって。待っててくれたお礼に送ってもらえるように頼んでみるよ」
スマホを取りだし連絡しようとしたが、碧くんに断られてしまった。昇降口前には既に車が回されていて、僕は乗り込んだ。
「おやすみ、碧くん」
「お大事にね。また明日」
言葉を交わしてすぐ車が発車し、帰宅した。その後はあまり覚えてないけど、少ししたら気絶するように眠った。
──次の日。
昨日は一時的に回復したから学校に行けるだろうと思っていたが、風邪をこじらせたらしい。
「ゴホッゴホッ」
「朱里大丈夫? 久々に熱出したわね。病院に連れて行きたいけど、今日パートで連れて行けないし……」
測り終わった体温計を手渡し、表示された数字を見て不安そうに話すマスク姿のお母さん。
「仕事行ってきていいよ。薬飲んで寝てれば治るよ」
「そうは言ってもねぇ……。とりあえず卵とじうどん作ってくるから待ってなさい。出る前にも声かけるわね」
いつまで経っても子供扱いをしてくるお母さんは、ベッドで寝ている僕の頭をそっと優しく撫でて部屋を出ていった。
──ピロン。
ベッドの横にあるチェストに置いていたスマホから通知音が鳴った。重く感じる腕を動かしてスマホを取って画面を開いた。
連絡をくれたのはきぃちゃんからで、『風邪だって? 安静にして早く治してね』と気遣う言葉が送られてきていた。そしてもう1通『大丈夫?』とひと言だけ綴られているメッセージがあった。
「え、碧くんから!?」
連絡先を交換しているとはいえ、メッセージを送られてくることは初めてだった。SNSのDM(ダイレクトメッセージ)ではなく、チャットで連絡が来ていることが現実に思えなくて1度画面を伏せる。
数回深呼吸して落ち着いてから画面を見直すが、やはり碧くんから僕宛に届いたメッセージで間違いなさそうだった。
同じファンにはない“友達”かつ“告白してきた人”という枠に、優越感と嬉しさが芽生える。
「特別なファンって個人的に連絡とってもいいんだ。いや、僕は友達なだけだからさほど特別ってわけじゃないか」
よく考えると、周りのクラスメイトやきぃちゃんと同じ立場だから特別じゃないことを悟り落ち込んだ。勝手に想像して期待して、本当にバカだな。
(多分熱があるから変な思考になっちゃうんだ。さっさと返事だけしよう)
僕は『心配してくれてありがとう。熱下がれば明日にでも学校行けると思う』と文章を打つが、眠気が襲いかかり送る手前で気絶するように寝てしまった。
◇
「──やめる」
誰かの声で目を開けると真っ暗な空間に僕が1人。
パチッという音と共に光りだした1本のスポットライトが遠く離れた誰かを照らす。そこにいるのは、顔に少しもやがかかっている女性とその人の肩を抱いている碧くん。
「碧くん? どうしてそこに……。というかその女の人って一体……」
碧くんは口をパクパクさせて何かを伝えようとしているように見えた。だけど、声は僕のいるところまでは届かず、何を言っているのか、何を伝えないのかわからない。
近づいていくにつれクリアに聞こえてくる碧くんの声。
「──やめる」
「え? なんて言ったの?」
「だから、俺はもう朱里といる意味がなくなったから友達も朱里を好きなこともやめる。朱里もきいや俺以外の友達作った方がいいよ。あ、でも作れないか。朱里って、人嫌いだもんね」
「え?」
僕は動揺した。碧くんには打ち明けていない過去を、目の前にいる碧くんはなぜか知っているようだった。
いつもの優しい本物の碧くんではないとわかっている。だけどショックを受けないわけじゃない。
「ど、どうしてそんなこと言うの……? あ、これドッキリとか?」
「そんな風に見える?」
信じたくなくて誤魔化してみるけど、冷たく放たれたひと言で本音なんだと悟った。
(あ……。碧くんにとって僕は、そんなにあっけなく切り捨てることができる人物だったんだ……)
涙が溢れ、次から次へ落ちていく。碧くんは隣にいた女性を連れて、無言で僕の横を通り過ぎる。すぐに振り返るが、碧くんの姿はもうどこにもなかった。
「うぅ……、碧くん……」
身体を小さく縮こまらせて鼻をすする。いつもなら寄り添ってくれる碧くんは、もうすでに遠くに行っている。
「自然にファンである僕を受け入れてくれてたから、碧くんの気持ちに全然気づかなかった。本当は心のどこかで面倒くさい奴とか思われてたんだな。それが今わかっただけで……」
「碧くんはそんなこと言わない!」と自信を持って言えたらいいのに。そう言い切れないのは、どこかで僕も碧くんを信用してないと言っているのと同じだ。
「ごめん、ごめんね碧くん……」
僕は泣きじゃくりながら目を瞑る。するといつの間にか意識が遠のき、灯っていたスッポットライトも静かに消えた。
──コンコン。
部屋のドアがノックする音で僕は目を覚ました。
(あれ……、ここ僕の部屋?)
さっきまでの景色とうって変わり、ToRiくんのグッズで飾られた自室だった。
「朱里、入るわね」
ドア越しに聞こえる声はお母さんのもの。目からは涙が伝い、拭いながらいつものように「いーよ」と返す。
「具合はどう? さっきも様子見に来たんだけど、ぐっすり眠っていたから起こさなかったの」
そう言えば、寝る前にご飯を作ってくると部屋を出て行ったのを思い出した。口調からして1度持って来てくれたんだろう。
「寝る前よりも身体が軽くなった気がする。熱は……まだ下がってないけど」
苦笑まじりに応えると、お母さんは自分の額と僕の額に手を置いて確認する。
「確かにまだ少し熱いわね。もう1回ご飯作ってくるから食べて安静にしてなさい。あ、そうだわ。朱里にお見舞いに来てくれた子がいるの!」
「お見舞い……」
口には出さなかったものの、心の中では「そんな友達いたっけ?」と疑問に思っている自分がいた。
「リビングで待ってくれているから呼んでくるわね」
お母さんはいきなり手を叩き、いい音を出した。それに僕は身体をビクつかせた。
「あ、でも僕がリビングにーって行っちゃった」
「風邪うつるだろうから、僕がリビングに行った方がいいんじゃない」と言いたかったのに、母さんは足早に部屋を出て行ってしまった。
待っている間に身体を預けるように再びベッドの上に倒れこんだ。
(今日の授業は何したんだろう。明日碧くんに聞こうかな。あ、でも……)
ふと夢のことを思い出した。夢だけど現実味のある内容。違うってわかっているのに悪い方を信じそうになるし、好きだと言われたことさえ疑ってしまう。
(碧くんには深く関わらないようにするから、どうか夢から覚めて僕を開放して……)
ベッドの上で布団を被り、身体を丸く縮こませた。するとまたドアをノックする音が聞こえ、どうせお母さんだろうと僕は返事をしなかった。
するとドアは勝手に開き、人の気配が少しずつ感じ取れるくらい近くまできている。
──トントン。
ベッドの軋む音が聞こえ、布団越しから腹部あたりを軽く叩かれる。僕はお母さんが呼びに来たのかと思って、ぶっきらぼうに言葉を発した。
「ごめん。気分悪くなっちゃったから、見舞いに来てくれたって人にも帰ってもらった方がいいかも」
僕の声に反応しない静かすぎる部屋に奇妙な感じに違和感を覚えた。お母さんであれば何か話しながら入ってくるはず。だけどその声さえなかった。
(どうして返事がないんだろう。確かに触られた気がしたんだけど……)
熱のせいか、また悪い方へ考えてしまい緊張感に包まれる。
(この部屋に来るにはリビングを通らないといけない。今この部屋にいるのがお母さんじゃないなら……。もしかしてもうすでに何か起ったか?)
冷や汗が背中を伝い、段々と体温が低くなっていく気がする。お母さんが心配になって、部屋に武器になりそうなものを思い出し覚悟を決めて勢いよく起き上がる。
「この悪質犯めー! よくもお母さんをぉ……って、え?」
起き上がった先にいたのは、お母さんではなく驚いた顔をしてベッドに腰かけている碧くんだった。
「お、おはよう。朱里」
「え、あうん。おはよう? ……いやいや違うくて、どうして碧くんがここにいるの?」
「どうしてって今日休んでたし、連絡したけど既読ついたまま返事なかったから。それくらいヤバいのかなって心配で」
「連絡は返して……あれ?」
急いでベッドの横のチェストに置かれてあるスマホを取り、チャット画面で碧くんの名前を探す。送っていると思っていた文章が下書きの状態で残っている。
「あ、送れてない。そういえばあの時、急に眠気襲ってきて寝たから……。ごめんね、メッセージ送ってくれてたのに」
「大丈夫だよ。もし返事あってもお見舞いに行こうとは思ってたから」
推しがお見舞いに来てくれるなんて本当に幸せだなと感じながら、感謝した。さっきまでの緊張感が嘘のように自然と笑顔が溢れた。
やっぱり僕を元気にしてくれるのは碧くんだけだと改めてそう思った。
「熱あるって朱里のお母さんから聞いたんだけどツラい? 無理せず寝ていいからね?」
「心配してくれてありがとう。でも朝より熱は下がったし、ずっと寝てたから今は少し起きてたくて」
というのも本当だけど、碧くんがいるのに寝てはいられない。それに僕の部屋に推しがいる光景を1秒でも多く目に焼きつけておきたい。
「朱里がツラいこのタイミングで言うのはどうかと思うんだけど、グッズの量すごいね」
「すごいでしょ! 今まで行ったToRiくんのライブで販売したグッズ、全部あるよ! 特にこれはレアじゃないかな? ステージ上から投げられたサインボールとか」
「え、全部!? それにサインボールって最初の1、2回でしかプレゼントしてないやつ……。ってことは、ライブ全通してくれたってこと?」
“全通“とはライブやイベントに全部通ったことの略称で、アイドルや歌い手の界隈ではよく使われている言葉だ。
「えへへ、まぁね」
僕は鼻の下を指でこすった。僕の中で唯一自信を持って紹介できる趣味の1つだから、こうして驚いてくれると自慢しがいがあって嬉しいものだ。
「普段はSNSで投稿される写真でしかみんなの推し活事情は知らないから、こうやって自分の目で飾っているところが見れるなんて不思議な気分だよ」
感動している碧くんを見て、僕たちファンが自己満足で上げているような投稿にも目を通してくれているように見える。
「普段ファンの投稿見たりするんだね」
「もちろん。タグづけ、ハッシュタグがついている投稿は基本全部見てるよ。もちろん朱里がしてくれた生誕祭の写真やライブレポもちゃんと見てるよ」
「え! 僕変なこと書いてないよね?!」
「書いてないと思うよ? 朱里の言葉は、いつも俺を幸せな気持ちにしてくれるから気にしたことないや」
碧くんがにこやかな笑顔を見せると、窓から入ってきた光が後光のように差しこんで直視できない。
「碧くんが幸せならなによりです」
本人が見ているかもしれないとはハッシュタグをつけた地点で覚悟していたけど、全部見られているとは思わなかった。
もしこれからも呟くことがあるならよーく言葉を選んで見直して……と思ったけど投稿することはもうないかもしれない。だけど今日みたいにチャットでのやり取りをするときには気をつけよう。
「朱里はどういう時に幸せを感じる?」
話は変わり、急に碧くんがこんな質問をしてきた。どうしてそんなことを聞くのかと思ったが僕は当たり前のように答えた。
「そうだなぁ、僕はToRiくんを推している時が1番幸せ」
僕は心の底からそう思っていた。だって幸せをくれたあの空間が今でも忘れられず、それ以上の幸せを知らないのだから。
碧くんを見ると少しショックを受けたような、申し訳なさそうな顔をしている。
(もしかして今の会話に地雷あった? どうしよう)
どう声をかけたらいいのかわからず、お互いが黙り込んでしまい少し気まずい空気が流れる。
僕はこの空気感を変えるために、この際だからと勇気を出して聞いてみた。
「そういえば碧くんは、ToRiくんはどうして引退することになったの?」
「え?」
引退報告を受けた時は、事務所の事情とごまかされ隠されていた。でも聞くことができるなら、僕は本当の理由を知りたい。
普段なら推しを困らせる行動はしないけど、知ることでもっと近づける気がした。
「こんなこと聞いてごめん。詮索しちゃいけないってわかってるけど、どうしても気になっちゃって」
出来心で聞いてみた質問だけど、「本当に答えられない理由だったらどうしよう」という恐怖心もあり、「どんな理由であれ受け止めるよ」というファン心理な気持ちが廻る。
「えー、これは言ってもいいのかな」
困った表情を見せた碧くん。そんな顔をされるとは思わなくて急いで弁明する。
「もし無理なら言わなくていいよ。碧くんのこと、困らせたくないから」
僕は布団をギュッと握った。たとえ言いずらい答えが来ようとも僕は受け入れる覚悟だ。
「──引退したのは好きな子のそばに、朱里のそばにいられる自分になりたくて。隣で朱里の笑顔を見たいなーって思った不純な理由かな。……あー、恥ずい。これ誰にも言っちゃダメだからね。俺と朱里の秘密だよ」
耳や顔を真っ赤に染めながら言う碧くんの姿は可愛かった。それに僕が理由って恥ずかしいけど、それより嬉しい気持が勝つ。
(こんな理由、周りに話せないよ)
僕の耳も熱が帯びているような気がした。さっき聞かれた幸せを1番感じる時は推してる時じゃないかもしれない。碧くんが僕に好きだと伝えてくれる今が1番幸せだ。
(僕は碧くんのこと、どう思ってるんだろう。今まで推しとしてしか好きと思ったことないから真剣に考えたい)
僕は知りたい。碧くんの気持ちに応えることができる自分であるのか、そうでないのかを。
「ねぇ、俺からも朱里に聞いていい?」
「え、うん」
「どうして朱里は俺を、ToRiを推すようになってくれたの?」
碧くんは僕に純粋な瞳を向けてくる。でも僕はスッと話せなくて言葉が詰まる。
「あ……、えっと」
見ていた夢を思い出し、話すことで碧くんに突き放されたらどうしようという不安な気持ちが襲いかかってくる。
(僕の暗い過去を話して、嫌われたりしないかな。こんな理由で推されてたって知ったら軽蔑するかな)
すぐに話す勇気を持てないまま長く悩んでいると、碧くんは僕の手を取った。
「朱里さっき俺に「無理なら言わなくていいよ」って言ったよね? それは俺も同じ。それに朱里にとって思い出したくないことなら尚更無理しないで。でも、自分勝手な話だけど俺はどんなことでも朱里を知りたい。そう思ってる」
(さっき僕が思っていたのと一緒だ。碧くんも僕のこと知ろうとしてくれているのに、僕の気持ちを優先して気を遣ってくれている)
真摯に向けられた目が熱を帯びている。本当はあの時のことを思い出したくもない。
でも僕の心が死にそうになっていた時に救世主が現れたことは、たとえツラくなったとしても碧くんに聞いてほしい。
「──大丈夫、聞いてほしい。僕がToRiを推すきっかけになった出来事を」
◇
ToRiくんとの出会いは4年前、中学1年生の時に遡る。
地元の中学校に入学して半年経ったある日、当時まだ少し女の子っぽい面影が残っていた僕をターゲットに、クラスでいじめが始まった。
机に落書き、教科書が破られる、靴が隠されたり捨てられたり。マンガで見るようないじめだったから、されること全てが予想できる範疇だった。
当時いじめにも屈しない謎の心の強さを持っていた僕は、はじめの方は、「すぐに飽きて終わる」「相談しなくても解決できる」そんな生ぬるいことを考えていた。
でも予想は外れ、エスカレートしていくいじめにクラスメイトは助けてくれず見てみぬふりをする。
「前から思ってたけど朱里って女みたいだよな。実は女なんじゃね?」
「違う、僕は男だ」
「じゃあ証明してみろよ。そうだな、ここでズボン降ろせたら男として認めてやるよ」
教室で始まった悪質なる公開いじめ。いじめに加担していた男子らだけは手拍子して「ぬーげ」とコールしている。
周りで見ていた気の強い女子が「宇治洲くん、止めなよ」と言うが、手拍子で掻き消されて届くはずがなく。さすがの僕も気圧されて声が小さくなってしまう。
「やめてよ……」
「はぁ?」
機嫌の悪い顔を表に出してこちらに向けられる。今まで感じなかった怖いという感情が溢れ出てきた。
「おい、こいつ抑えてろ」
「うっす」
同い年なのに逞しい体格を持つ男子2人に両腕を固定され、動けない状況を作られた。すると、主犯の宇治洲は僕のカッターシャツをズボンから出して、手に持ったハサミでチョキチョキと音を立てて切って上半身が露わになっていく。
(僕がお前らに何をしたよ)
刃物を持っているから、下手に抵抗すれば刺されたりするのではないかとヒヤヒヤしてならなかった。
「お次はズボンかな。傷つけられたくなかったら大人しくしてろよ?」
宇治洲の手がベルトに触れ、あっけなくズボンから取られてしまう。そしてボタンを外されチャックが降ろされようとしていた。
「やめっ……」
──ガラッ。
「何してるんだ、お前ら!」
勢いよく教室の扉が開き、先ほどまで騒がしかった声が一斉に静まり返った。入ってきた先生たちの視線は僕とその周辺に集まる。
涙目になりながら、上の服がハサミで切られズボンを降ろされそうになっている僕。ハサミを持って僕のズボンに手を掛けている宇治洲。宇治洲の命令でずっと僕のことを抑えている加担者の2人。
「お前ら今すぐやめろ。その手を離せ」
「もう大丈夫だからね」
男の先生はいじめ宇治洲と加担者を僕から引き離し、女の先生は僕を抱きしめた。僕は安心を確信したからか、抱きしめてくれた女の先生の胸で声をあげて泣いた。
「怖かったよね。ごめんね、遅くなって」
「ううぅ……」
それから僕は、あとから教室にやってきた養護教諭の先生と共に保健室へ移動して保護された。
「カーテン閉めておくから、新品の制服に着替えておいで」
「はい……」
渡された制服にゆっくりと袖を通す。買って半年しか着ていない制服がズタボロの状態になってしまい可哀想な姿になってしまった。
(僕がいじめられていることを意地張らずに先生に言っていたら、こんなことにはなってなかったんだ)
「お母さんになんて謝ろう……」
着替えが終わりカーテンを開けると、先生が温かい飲み物を準備してくれていた。ありがたく頂戴していると、温かさから涙が溢れてきた。すると廊下からドタドタと足音が聞こえてくる。
──ガラガラッ。
「朱里! あー、よかった無事で」
慌てた様子で保健室に入ってきたのはお母さんだった。お母さんは僕をぎゅっと抱きしめると、泣きながら「気づけなくてごめんね」と謝り続ける。
僕にも言わなかった罪があると知っているから、お母さんの謝罪になんと返事をすればいいのかわからず、「僕は大丈夫……」と伝えた。
しばらくすると、先生達も入ってきて現在の状況を教えてもらった。いじめの主犯である宇治洲は母親と担任、それと校長先生を交えて話しているらしい。
義務教育の範囲である中学には退学の制度は設けられていない。転校、もしくは相当の処罰が下るだろうと保健室に来た先生たちは言った。
「今日はこのまま帰宅してもらって大丈夫ですが、信代くんどうする?」
「──帰ります、帰りたいです」
先生が出してくれた選択肢に甘えて帰ることに決めた。僕は荷物を取りに教室へ向かう。だが、中に入ろうと扉に手をかけかけた途端、恐怖心から手が震えて拒絶反応を起こし過呼吸になってしまった。
息の仕方を忘れたかのように、短い息遣いになっていく。お母さんの背中を撫でられる手に安心を感じる。
たまたま扉の近くにいた女子に先生が鞄を取るように言って、取ってきてもらった。
(ありがとうって言わないと。でも今はごめん、伝えられないや)
すぐに戻ってしまった彼女に向けて心の中で、直接伝えることができなかった感謝を述べておいた。
お母さんと車で帰宅すると、午前授業で先に帰っていた高校2年生の兄、紫吹がリビングにあるソファに寝転がってスマホゲームをしながらくつろいでいた。
「ただいまー、お兄ちゃんに頼まれてたアイス買ってきたよ」
「サンキュ……え、朱里? 学校は?」
「早退して帰ってきたの」
「なんだ、熱でも出たのか?」
本来ならいるはずのない僕が、一緒に帰ってきていたらそりゃあ驚くだろう。ブラコン気味の兄ちゃんはスマホを置いて起き上がり、僕の肩やら顔周りやらあちこち触って確かめてくる。
少しうざったいが、長年こうされていると自然と慣れてきてしまうもので。でも今日は気分的に早く放してほしい。
「朱里、先に着替えておいで」
「うん」
お母さんは僕の心情を組んでくれたのか、はたまた表情に出ていたのかわからないが兄ちゃんから引き離してくれた。
僕は兄ちゃんから伸ばされていた手をすり抜けて、2階にある自室へ向かった。
部屋に入ると、ようやく力が抜けてベッドに倒れ込んだ。今日のことを思い出すと恐怖心が込み上げてきて震えが止まらない。はじめにあった心の強さはへし折られ、カッターシャツのようにズタボロになって弱くなった。
僕はお母さんに、兄ちゃんに気づかれないよう気持ちを抑えながら静かに泣いた。
翌日、僕はいつものように目覚めてすぐクローゼットを開けた。制服を出すも取りだす手が強張り、着替えるのを止めて先にご飯を食べようとリビングへ移動した。
「おはよう朱里、もうすぐご飯できるからね」
「おはよう! 今日も可愛いな」
リビングにはいつもと変わらない温かい光景が広がっていた。
「お、はよう」
テーブルには兄ちゃんの食べかけているご飯と既に食べ終わって重なっているお父さんの皿が並んでいる。兄ちゃんの隣に座ると、言っていた通りすぐにご飯が出てきた。
鮮やかな緑のサラダと焼きたての鮭、湯気が立っている味噌汁とホカホカの白米が前に並ぶ。
「いただきます」
僕は手を合わせてから箸を持ってご飯を食べた。心温まるごはんが染みて泣きそうになった。
(昨日から涙腺や気持ちが不安定になってる。早く切り替えないと……)
「朱里、無理しないでいいからね」
気を遣ってくれているのを身で感じ、昨日のことが夢じゃないんだと改めて感じた。その言葉で自分の中で必死に蓋をしていた本当の気持ちが込み上げてきた。
「学校、行きたくないな……」
ガシャンとキッチンで皿を落としたお母さん、隣にいた兄ちゃんを見ると目を見開いている。
「朱里、学校行きたくない?」
「え」
(もしかして声に出してた? だから2人はあんな顔をしたのか)
お母さんは申し訳なさそうに眉間にしわを寄せて聞いてくる。昨日からずっと気にしてくれていたんだと感じた。
「……行きたくない。って言ったら迷惑でしょ。行くよ、学校」
残っているご飯を食べようと箸を持ったが、わかりやすく手が震えている。震えを抑えようともう片方の手で押さえるけど、止まりそうにない。
「朱里、昨日のこと母さんから聞いた。あんなことがあったんだ、行きたくないと思うのは普通だと思う。兄ちゃんたちは迷惑に思わないから、今日は休もう? それで、朱里が行けると思った時に行こう」
「兄ちゃん……」
その日から僕は学校に行かなくなった。というか行けなくなった。
学校に行きたいという意思はあったけど、考えるだけでいじめられたことを思い出して過呼吸や震えでどうにもならなくなって諦めるしかなかった。
だけど僕は、不登校だからと何もできないと思われたくなかったから、勉強は怠らなかったしオンライン授業できる塾に通ってみたり、兄ちゃんに教えてもらったりと自分なりに色々工夫した。
家にいるのも退屈ではなかった。それは、兄ちゃんがずっとそばで僕のことを気にして色々と楽しませてくれていたから。
そんなある日、兄ちゃんが“キャスタイプ”という配信アプリを勧めてきた。
「これ、女子の間で歌い手? っていう人がいるのを聞いてさ。最近、推し作ってなかったみたいだし、気分変えるために探してみたらどうだ?」
「推しってアニメキャラじゃダメなの?」
「ダメってわけじゃないけど、女子曰く『生配信してるから、コメントに反応してくれるんだよ! わかりやすく言うと、アイドルとコメントを通じて会話できるみたいな?』だって」
教えてくれた女子の真似をしているのか、声高くして僕にわかりやすく説明する。その姿ははっきり言って似ていないように感じたが、面白くてふふっと笑ってしまった。
(最近は勉強ばかりだったから。推しって存在を意識してなかった気がする。てか、冷静に考えて推しがいるのになんのメリットがあるんだろう)
そんなつまらないことを考えていると、兄ちゃんからキャスタイプアプリのURLが送られてきた。
「え、なんで。僕入れるって言ってない」
「いいから、いいから。配信見てみて無理そうならアカウント消してアンインストールしたらいいから。な? 試しにさ」
兄ちゃんが親切で言ってくれているとわかっているから、言われるがままにインストールしてみる。アカウント登録を済ませるとすぐに配信を見れるらしい。
試しに配信している枠に入ってみると、配信主が「いらっしゃいませー」と歓迎の声をかけてくれる。だけど、企画の内容やその人のキャラクター性が僕には合わなかったようで、すぐに枠から抜けた。
「合わなかったか?」
「微妙かな。もう1人見てみるけど今度こそ合わないと思ったら消すよ」
僕は配信アプリを閉じて勉強に取りかかった。
勉強をして夜ご飯を食べて、お風呂を終えて部屋で1人いた時、配信のことを思いだしてキャスタイプを起動させる。昼間とは違うタイプの人達が配信をしているということが一目でわかる。
自分に合いそうな人を、タグを使って探してみると1人だけ気になる人を見つけた。
サムネイルに映っていたのは、襟足が少し伸びている銀髪に宝石のようなエメラルドの瞳、大きめのパーカーを着ている大人っぽい長身イケメンの立ち絵。一目見て好きだと思ったが、1番目を引いたのはタグに『#あなたに寄りそう』と書かれていたことだった。
興味を持った僕はその人の配信を覗いてみることにした。画面を軽くタップするとすぐにその人の配信枠に入ることができた。
『こんばんはー、あ、初見さんだ。えーっと“しゅり”さんいらっしゃい。ゆっくりしていってね』
“しゅり”と名付けたのは兄ちゃん。名前のまま“あかり”と使うのは身バレする可能性が高いからやめた方がいいみたいで、呼び方を変えただけのアカウントネームだ。
普段言われ慣れない名前に少しそわそわしてしまう。
(それにしてもイラストに似つかない若い声だなぁ。名前は……ToRiさん?)
受け答えで笑う声に爽やかさがありつつ、普通に話す声は上品さを含んでいた。
『今日は悩み相談しようかな。時間ある限り答えていくので、もしよかったら概要欄に貼ってあるURL先の質問箱に投げてくださいね』
僕も試しに軽い気持ちで質問してみようと思って、指定されたURLを開いて文字を打ってみた。
【僕は学校でいじめられてから不登校になり、頑張って行こうとしても拒絶反応が出てしまって、半年行くことができていません。どうしたら行くことができるのでしょうか?】
思い切って送信のボタンを押すと受付完了のマークが出てくる。
(軽い気持ちでとか言いながら、結構マジな内容を送ってしまった。この人が見たら絶対面倒だと思われてそうだな)
質問を消そうにも、取り消しボタンがわからず仕方なくそのまま配信を見ることにした。配信画面に戻ると『じゃあそろそろ答えていこうかな』と雑談しながら待っていたToRiくんが、質問に答えようとしていた。
『じゃあまずは──』
次々と答えていく質問。僕みたいに真面目なものから面白がった内容まで様々だった。質問の数が多かったのか、一向に読まれない質問に送らなきゃよかったかもと再び後悔していた。
『そろそろ終わりの時間なので最後の質問を取り上げたいと思います。えーっと、【僕は学校でいじめられて不登校になり、頑張って行こうとしても拒絶反応を出してしまって、半年行くことができていません。どうしたら行くことができるのでしょうか?】と言ったお悩み相談です』
(あ、これ僕のお悩みだ)
最後の最後に選ばれたのもあって、どんな答えが返ってくるのか耳を澄ませながら聞いた。謎の緊張感があって少しドキドキしている。
『そうだなー。俺自身に不登校の経験がないから下手なこと言って余計傷つけたら申し訳ないけど、俺ならまず「頑張ったね」ってその人を褒めてあげたい。それに俺的解釈になっちゃうけど不登校は、頑張った後の休憩。自分が大丈夫と思える時まで待ってもいいと思うな』
学校に行けなくなった当時、兄ちゃんにも同じようなことを言われたのを思い出した。あの時は安心したけど、この人の言葉はちょっと違う。
表示されているイラストは動かないはずなのに、笑顔を見せた気がした。実際に微笑みながら言われているみたいで、心がポカポカになって……。
──ポタッ、ポタッ。
『どうしても嫌なことがあった時は、俺の配信に来て。話を聞いてあげるし、笑顔になってもらえるように楽しい空間を作るから。だから1人で抱え込まないで。キミは1人じゃないよ』
「うっ……うん」
鼻をズビッと鳴らし僕は泣いた。僕は1人じゃないんだとToRiくんは教えてくれた。
その日を境に、“ToRi”という歌い手の存在は、僕の中で大きくなっていき推しになった。寝ても覚めてもずっと考えてる。嫌なことがあってもToRiくんの存在があるだけで乗り越えられるくらい、人生に欠かせないものになった。
だから僕は、1年半ぶりに学校へ行こうと決意して次の日には行動していた。教室には行けなかったけど、先生たちは温かく迎えてくれた。
「信代、よく来てくれたな」
「先生。あの時は、迷惑かけてしまってごめんなさい」
「あんなことがあったんだ、仕方ない。先生たちこそ気づかなくて悪かったな」
先生は頭を下げて謝ってくれた。
何も起こらない安心な場所とわかってからは普通に通学することができた。教室まではいけないけど、養護教諭の先生が来ているときは保健室に、いないときや保健室に生徒が多く来ているときは生徒指導室で過ごしていた。
保健室や生徒指導室に来ることができるようになったのは、ToRiくんの存在が勇気をくれたから。
(どうしたらToRiくんに感謝の気持ちを届けたらいいんだろう。手紙書いて送りたいけど、送ることはできるのかな?)
歌い手の存在にまだ知識が潤っていないこともあって、どうすればいいのかわからない。でもいつかは、この口から直接感謝を伝えたい、そう思った。
「ただいまー」
学校から帰宅すると、カレーの匂いを漂わせたキッチンでお母さんが晩御飯を作っていた。
「おかえりなさい。どうだった、学校」
リビングに直行し荷物をソファに置いて弁当箱を水に濡らしていると、僕の顔色を窺いながら聞いてきた。その時のお母さんの表情は心配の色を含んでいる。
「同級生に合わないように先生も配慮してくれてるし大丈夫だったよ」
「そう。朱里がまた学校に通えるなんて夢みたいだわ」
「そうだね、僕もそう思うよ」
──ピロン。
ポケットに入れていたスマホから通知音が響いた。スマホの画面を覗くと、キャスタイプからToRiくんの配信予定の連絡だった。僕は一瞬にして笑顔になった。
「お母さん今日配信あるからご飯早めにお願い!」
「はいはい。またトーリくんね」
「僕、お風呂入ってくる」
僕のことを理解してくれているお母さんは、名前を出さずともToRiくんだとわかってくれる。
僕は荷物を持って1度部屋に戻り、着替えを持って風呂場に向かう。お風呂から上がれば、お母さんが用意してくれたカレーを食べて部屋に籠った。
配信時間少し前、部屋にあるパソコンを起動させてヘッドホンをつけ待機した。そして配信時間丁度、真黒な画面から明るい緑色の背景に変わり立ち絵が浮かびあがる。
「始まった!」
『こんばんは。今日は何しようか』
ToRiくんの配信を何度も見ていてわかったことは、基本的にはリスナーのしてほしいリクエストを聞いて自身の気分と合うものをするシステムだった。
大体の配信者は自身の企画を目玉にして行うが、リクエスト性にしている人はToRiくん以外見たことがない。
今日の配信もみんなコメントで、【雑談しよう!】【今日は歌ってー】【またお悩み相談会してほしい】など次々にリクエストを送っていた。
僕は基本的には流れてくるコメント欄を見て、同調してコメントすることが多い。だけどこの日はどうしてだか歌声を聞きたかったから、自分の言葉でコメントを打つ。
【ToRiくんの歌声が聞きたい気分です】
コメントを読むには多少ラグがあり、何が選ばれるかドキドキして待つ。しばらくすると深呼吸した声が聞こえて発表が近いと悟る。
『じゃあ、今日は歌おうかな。たくさんのリクエストありがとうね』
その日は僕のコメント(その他)がたまたま当たり、歌枠の時間になった。
(僕のコメント読んでくれたように思ったけど、勘違いだよね。他の人のコメントとたまたまタイミングが重なっただけ。僕のに反応してくれたんじゃないから勘違いしちゃダメ!)
僕は頬をパンッと叩いて煩悩を払拭した。自分の世界に浸っていたら、『それじゃあ、始めるね』と言って1曲目が始まろうとしていた。今日の歌枠はバラード曲多めらしい。
──♪
ToRiくんが歌うと全ての曲が神曲に聞こえる。滑らかに発音される英語や、感情に合わせて歌う声は涙を誘ってきていつも涙腺が緩んでしまう。
『ふぅ、もう終わる時間だね。早いなー。じゃあ、遅くまでつき合ってくれてありがとう、おやすみ』
みんなはToRiくんの言葉に返すように【おやすみ】とコメント欄に流れる。だけど僕は反応してくれたらともう一言加えて、【喉ケアして寝てね。おやすみ】と打って送った。
するとToRiくんは『ありがとう。ケアして寝るね』と僕のコメントに気づいて読んでくれた。
(今のは、絶対勘違いじゃない!! 確実に僕のコメントを読んだ! 良かった、画録(画面録画)してて。あとで見返そう!)
僕の気持ちは最高潮に達し、完全に配信が終わるとSNSでコメントを読まれたことを投稿した。するとその投稿に同じToRiファンの人がいいねや拡散をしてくれた通知が届き「おめでとう!」とお祝いの言葉をくれた。
「優しい世界だなぁ」
そう思いながら、僕はふとToRiくんについて強い興味が湧いた。何も知らないわけじゃないけど、今アドレナリンが出ているうちにちゃんとした情報を掴んでおきたくなった。オタクからオタクへ流れてる情報じゃなく、公式が発表していることを知れば想いが伝えられるかもしれないと思った。
僕は【ToRi プロフィール】とキーボードで打ち検索をかけた。すると、トップページには所属している事務所のホームページが出てきた。
迷わずそこをクリックすると、華やかな演出から見知った顔ぶれの歌い手のイラストが現れた。当然ToRiくんも並んでいる。
「ToRiくんのプロフィール……。あ、これだ」
所属歌い手から探し、再びクリックすると『あなたに寄り添い人生楽しく』と一言メッセージが音声で流れた。
「わぁー、この音声録画してアラームに設定して毎日これで起きたい! でも録音は許可ないとダメだから我慢、我慢……」
我慢してスクロールしていくと名前、誕生日、身長、体重、趣味など知りたかった情報が明記されていた。それと同時に本当に事務所に入っているんだと実感した。
「デビュー日は去年の11月30日。あれ、僕が推し始めたのも11月30日だったはず……。やっぱりそうだ! これは奇跡じゃない!?」
偶然すぎる奇跡に疑いを持ってしまうが、僕は信じて飛び跳ねて喜んだ。その続きに書かれていた生年月日に不思議と目がいった。
「あれ、ToRiくんって僕と同じ15歳なんだ。大人っぽい声だからてっきり年上だと思ってたや。じゃあ、同じ学校にいたりしてー、なんて。それより手紙書かなきゃ。そのために調べたんだから」
僕はのちに同じ学校に通うことになるとは知らず手紙の送り先を調べ、気持ちの赴くままに便箋と封筒を取り出して思いの丈を書き綴った。
初めて配信を見たのがToRiくんのお悩み相談で、その時の配信の時にかけてもらった言葉で学校に行けたようになったこと。そして大好きって気持ちも一緒に込めて封をした。
(あれ、よく考えれば男からの手紙って向こうは嬉しいものなのかな? でも僕は“しゅり”って名前にしているから女の子と思って受け取ってもらえるかもしれないよね)
書いてしまった手前、捨てるより送って幻滅されたほうがいいと考えた。
「よし! 明日出す」
僕は書き終わった手紙を机に置いて覚悟を決めた。どんな反応されたって、僕は僕なんだから。
布団に入るとなぜかToRiくんが夢に出てきた。同じ学校で、同じクラスで、はたまた隣の席にいて笑っている、そんなあり得ない夢。
◇
──さらに1年後。
高校1年生に上がったToRiくんは、配信という枠を超えて事務所が定期的に開催している対面ライブにも出るようになった。
人気アーティストなどが行うドームライブとは違って、こじんまりとしたライブハウスでのライブが主だった。
僕は実際にToRiくんを見ることができるならと場所なんて問わなかった。そうしていたら、ファーストライブの報告を受けた日から現在までずっとライブ会場に足を運んでいる。
推し歴2年目ともなると歌い手のファンには、推し方が大まかにわけて3つにわかれているのだと知った。
1つ目は配信でのみ応援するタイプ。SNSではよくある応援方法で、現実の姿を見て幻滅したくない人やライブまでは行けそうにない学生がその分類に入る。
2つ目は配信で追っていたものの、ライブで姿を見た瞬間幻滅する夢見がちタイプ。歌い手の仕事道具である声とその人の理想の姿を表しているイラストで勝手にイメージを膨らませ高い理想を作り、いざライブなどの対面イベントで会うと理想が崩れて推すのを辞めてしまう。
3つ目は配信の時から推して、ライブに行って姿を見ても幻滅しないで変わらず推し続ける純粋タイプ。好きになったきっかけは声なのだから、大事なのは姿ではないと呈し、その人が頑張っているなら応援したいと思う人が集まる。
他にも同担拒否や箱推しなど色々な推し方の人がいるが、僕は3つ目と同じ推し続ける純粋タイプだ。
どうしてそう思うのか、それはファーストライブの交流会での話だった。
ライブでステージに上がってきたToRiくんは、僕の周りでは見たことのない多分イケメンに入る部類の端正な顔立ち。
ライトで輝く銀髪はとても綺麗で見惚れるほど。髪の間からちらつく緑の瞳は、色気があってずっとは見ていたら喰われてしまう、そんな罪深き男がToRiくんだった。
交流会でもそう。初めて対面で話せる交流会が開催されることになったが、5000円と高額なお金を払って3分しか話せないという現実に初めは不満を持っていた。
だけど実際に経験すると充実しすぎる3分間で、5000円以上の価値があった。それに、初めて参加した交流会で僕が“しゅり”だってことを明かしたのもいい思い出。
交流会はライブが終わってから1時間後くらいに行われる。本当はToRiくんも疲れているはずなのに、僕たちファンと交流してくれる優しさが詰まった神イベントだ。
入場チケットがあれば、1周し終わった後、追加でお金を払えば時間いっぱい何周もしていいシステムだった。
僕は贅沢言わず、1回会って話ができたらそれでいいと思っていたから待っている間はずっとドキドキしっぱなしだ。
(何を話そう? まずは「ライブお疲れ様」でしょ。それで「ずっとあの言葉に支えられて」とか? でも3分だしもっとまとめて伝えた方が……)
考えている間に1人また1人とパーテーションの中に入っていき、僕の番が徐々に迫ってくる。
「次の方、お入りください」
「……は、はい!」
気がつけば僕の番になっており、スタッフさんに中へ入るよう案内される。緊張して震えている足を前へ前へと踏み出し、パーテーションで囲まれている中へ入った。
目の前にいるのは、ずっと会いたかったToRiくんだ。彼との距離はゼロに近く、さっきまで考えていたことがパッと消えて頭が真っ白になる。
「こんにちはー、今日は来てくれてありがとう。もう少しこっちにおいで」
「は、はい……」
入口で立ち止まっていた僕にToRiくんは手招きする。ハッとした僕は、言われた通りもっと近くに歩み寄った。既にタイマーで計っていると考えたらいてもたってもいられなくて、勢いよく話し始めた。
「聞き飽きちゃったかもしれないんですけど今日のライブ、見惚れちゃうほどとても素敵でした! さすがToRiくんって感じでした。特に3曲目が僕は好きで、──」
僕はライブの感想を述べているとスタッフさんから「残り1分です」と声がかかった。他に何か言うことはないかと焦り出したものがファンとしてのこと。
「僕今日楽しみにしてきたんですけど、周りに可愛い女の子たちばっかりで……。僕みたいな男性リスナー少なかったから場違いかなって思ってしまって。ToRiくんも男性リスナーに押されて迷惑ですよね、すみません」
「迷惑だなんて思ってないよ。俺の存在は、男女関係なしに推してくれてるファンのみんながいるからこそだから感謝しかないよ。女の子ばかりの会場で入りにくかったと思うのに、足を運んでくれてありがとう!」
ToRiくんは高い背を屈ませ、僕と目線を合わせながら笑顔で伝えてくれた。この顔はライブ中にも見た惚れ惚れする魅力的な笑顔。
「全然、入りにくくなかったです。それよりも会えることが楽しみだったので、それどころではなかったです。あ、最後にこれ渡したくて。受け取ってもらえますか?」
僕は配信でToRiくんが好きと言っていたものを詰め合わせたプレゼントと、いつもより1層気持ちを込めた手紙を一緒に入れた紙袋を渡した。
「え、いいの? プレゼント嬉しい! 帰ったらゆっくり開封するね」
「高額な物じゃないんですけど、配信で好きって言ってたものを集めたので喜んでくれたら嬉しいです」
「マジ?! 本当ありがとう。あ、手紙まで添えてくれて……え」
僕は嬉しそうにしているのを見ている間に、ToRiくんは紙袋の中に入っていた手紙を取り出し、裏に書かれている名前を見ていた。
「これはキミの名前?」
「あ、はいそうです。本当は朱色の朱に里って書いて『あかり』って読むんですけど、兄ちゃんが身バレ防止として考えた名前がしゅりで」
「なるほど。そういえば俺、しゅりさんからの手紙事務所軽油でいっぱい貰ってると思うんだけど、そのしゅりさんで合ってる?」
「そ、そうです! 迷惑ばりに何通も手紙書いて事務所に送らせていただいているしゅりです! 届いていたんですね」
「もちろん。みんなからの手紙は1つ残らずちゃんと読んでるよ。もちろん、しゅりさんのも。俺、キミにずっとお礼言いたかったんだよね。いつも愛ある手紙をありがとう!」
手紙にチュっとキスをしてお礼を言うToRiくん。それを見ていた僕は、顔を赤くするほど照れて視線を逸らしてしまった。
「喜んでくれたならよかったです。これからも書き続けます」
「うん、待ってる。でも俺、勝手にしゅりさん女の人だと決めつけてったからびっくりした。そろそろ時間だね、今日会いに来てくれたからもうしゅりさんのこと忘れないね」
ToRiくんは手紙を大事そうに渡した紙袋に入れた。僕はその一言に注目してしまった。だってそれは──。
「え、認知ですか?」
「ん? そうだよ?」
認知とはファンからの一歩通行な認識ではなく、推し側が推してくれているファンのことを認識し覚えることを指している。推しから認知されることはファンからすれば、嬉しいことの1つ。
(ToRiくんに認知されるなんて思ってもなかった。今日は本当に忘れられない日だ!)
僕は認知してもらえたことが心の底から嬉しかった。
「失礼します。交代の時間です」
「あ」
スタッフさんから終わりを宣言されると、ToRiくんは僕の手を握り、「次のライブも来てくれる?」と首をかしげて聞いてくる。カクンと首を傾かせて僕の顔を覗くその姿は、カッコいいではなく可愛いという言葉が出てきてしまう。
「もちろんです! 絶対に来ます!」
「やった! じゃあ俺はステージからしゅりさん探してファンサするから見ててね」
「は、はい……!」
僕の手は微かに震えだし、心はドキドキして鳴りやまない。僕が倒れる前に手を離してほしいと思う反面、ずっと握っていてほしいと思った。
だけどそろそろ本当にお別れ。手は願いとは裏腹にあっけなく離れてしまった。寂しいけど順番があるのだから仕方ない。
「じゃあ、また」
「うん、待ってるね」
僕は荷物を持って出口に向かうが、最後に顔が見たいと足を止めて振り返る。するとToRiくんもこちらを向いていて、笑顔で手を振ってくれている。
(あぁ、この人に惹かれないなんて世の中のみんな損してる)
僕はそれに返すように手を振り返した。
会場の外に出てすぐ、交流会のことを忘れないように思い返しながらSNSに感想を打ち込んでいた。
プレゼントに喜んでもらえたこと、僕が送った手紙を見てくれていたこと、送っていた手紙のおかげで認知してもらえていたこと。すべてが上手くいき過ぎて怖くなる。
「さっき手を握られたよね。夢じゃない?」
歌い手界隈では握手会というイベントがない限り、接触禁止という暗黙のルールが存在する。もちろんファンから触れるのはご法度だし、推しから触れるのもよろしくなかった気がする。
触れられていた手を見つめると、微かに感覚が残っている気がした。この感覚が残るように永久保存できたらいいのにと思ってしまう。
「ねぇ、あなた」
「……え、僕?」
会場前でスマホを触っていると、地雷系の服を着た女の子に肩を軽く叩かれ声をかけられる。
「あなた今ここから出てきたわよね? もしかしてToRiのファン?」
「そ、そうですけど……」
(どう見ても僕とは系統が違う彼女がどうして僕に話しかけてくるんだろう)
周りを寄せつけない雰囲気と1人でいたところから、この子は同担拒否のタイプだと感じ取った。同担拒否とは、自分と同じ推しを持つファンと交流したくない、関わりたくないというタイプの推し方をする人のこと。
(そんな子が僕に何の用事が? もしかして男だから来ないで的なことを言われるんじゃ……)
何を言われてしまうのかわからなかった僕は、内心焦りと不安が募りまくっていた。だが彼女から出た言葉は思いもよらないものだった。
「よかったら私と友達になってくれない?」
「……え、友達?」
「そうよ」
まさかの言葉に僕は驚いた。そして思わずどうしてなのか聞いてしまった。
「どうして僕に? 他にも同性のファンがいるのに」
彼女はうーんと悩む仕草をしているのを見ると、これといって深い意味はないように思えた。
「どうもきぃは、同性とは合わないみたいなの。どうしてかしら。同性が合わないからって、異性で友達探してたんじゃないわよ? たまたまあなたの姿を見て、可能性を抱いたの」
「可能性って、どんな?」
「それはね、同じものを好きなものを持つきぃと仲良くなれる可能性!」
喉を鳴らして聞いた彼女の可能性の話が、予想外かつ可愛らしいもので力が抜けてしまった。
どうして同性の子とは上手くいかないのか気になるが追々わかってくるだろうし、それ以前に僕もいつかは同じ推しを持つ友達がほしいと思っていた。だからこうやって声をかけてもらえることは絶好の機会とも言える。
「聞いてもなお可能性については理解できそうにないけど、そこは後々わかっていけばいい。僕でよければよろしくお願いします」
僕は彼女に手を差し出した。彼女は嬉しそうな笑みを浮かべて勢いよく僕の手を取る。
「僕は信代朱里です。高校1年生です」
「私は絲井きい。同じく高校1年生よ。よろしくね、朱里」
早速呼び捨てで呼んできたきぃちゃん。僕は名前を呼び合うような友達ができたことに嬉しさが募った。きぃちゃんが先に名前を呼んでくれたおかげで、僕も自然と「こちらこそよろしくね、きぃちゃん」と呼ぶようになった。
これが僕ときぃちゃんの出会い。きぃちゃんと過ごしていくとわかったことは性格が真逆なこと。心のどこかで長く続かないと思っていたけど、予想を大いに超えて今では大親友になっていった。
◇
「──と、まぁ長くなったけど兄ちゃんがキャスタイプを教えてくれなきゃToRiくんを知ることはなかったし、推すこともなかったんだろうなって」
僕が話している間、碧くんは真剣な面持ちで静かに聞いてくれていた。僕がうすら笑いをしても笑うことをせず、ずっと聞き耳を立ててくれていた。だから正直に僕も話すことができた。
「交流会でも伝えたことあるかもしれないけど、僕に希望を与えてくれてありがとう。ToRiくん大好き」
体調崩しているせいか過去の話や素直に感謝の言葉がスッと出てきて、冷静になって考えると恥ずかしくなってくる。
「朱里にとっては思い出したくない過去のはずなのに、教えてくれてありがとう」
碧くんはそっと僕の手を両手で包み込んだ。
「俺も本当の言うとね、しゅりくんからの手紙が1番嬉しくて、いつも楽しみにしてた。だから俺の方こそ見つけてくれて、推してくれてありがとう」
碧くんはいつものように目尻を垂らして笑顔を見せる。この笑顔は初めてライブで見た時とずっと変わらない。
「──僕、好きだよ」
「え」
碧くんは目が飛び出そうなほど驚いた顔をしている。「朱里、それは……」という声を遮って僕は続けてこう伝えた。
「碧くんの笑顔。見てるとつられて笑顔になれるから魔法みたいなんだよね」
「え、あ、笑顔ね。なんだ、あははは……」
さっきまでの驚いた顔とは打って変わって動揺がにじみ出ていた。僕が「どうしたの?」と聞いたけど、「いやなんでもないよ」と隠されてしまった。
「長居してごめん。帰るからゆっくり休んで」
「帰っちゃうんだ。それならお見送りする」
ベッドから立ち上がろうとしたがまだ少しフラッとして足がもつれてしまう。
「朱里また顔赤くなってるよ。熱上がってきたんじゃない?」
「え?」
碧くんに寝るよう促され、大人しく寝転がって布団を被った。碧くんの手がおでこに当てられる。手の冷たさを感じて、自分が熱を出していたことを忘れて熱弁していたことに気がついた。
(手が冷たくて気持ちいい。ずっと当てていてほしい)
僕は碧くんの手に触れて、おでこから頬へずらす。
「え、朱里?! どうした?!」
「少しだけこのままで──」
僕はその気持ちよさに目を瞑り、眠ってしまった。
「朱里ってたまに小悪魔だよね。さっきも「好き」って言われて思わず俺も好きって言いそうになったし。……早く俺と同じ好きだって言って」
記憶の遠い場所で、碧くんが僕の寝顔を見ながらそう言っているのを聞こえた気がした。それが夢なのか現実なのか、今は判断つかないけど、どこかで現実であってほしいと思う自分がいた。
僕が自分の気持ちに気づくまで、もう少しだけ待ってね。
「朱里危ない!」
「うえ?」
──ゴチン。
「いっ、たー」
前を歩く碧くんから声がかかるが時すでに遅し、柱にぶつかってしまう。最近は考えごとしたりボーっとしている自覚はあり、その原因も何となくわかっているつもりだ。
誰かに離した方がすっきりするだろうが、巻き込まれたらと思うと話すことはできない。
「朱里大丈夫? 思いっきりぶつけてたけど。おでこ赤くなってるね、つき添うから保健室行こう」
「……1人で大丈夫。碧くんは先に理科室行って」
僕は碧くんから逃げるように1人で保健室に向かった。保健の先生に氷を貰って、体調が悪いと言って寝かしてもらった。
(身体がだるいから嘘はついていないけど、サボってる気がして罪悪感すごいな)
目を閉じると宇治洲との記憶が蘇ってくる。それが夢として再生され、ハッと目を覚ました時には息が荒く涙を流していた。
「お、起きたか」
「にい、ちゃん……」
ベッドのそばに静かに書類とにらめっこしていた兄ちゃんは、僕が起きたことに気づき声をかけてきた。
「お前熱あるんだって。それに気づかないって相当大きい悩みがあるらしいな」
「……」
兄ちゃんは僕の過去を知っているのもあって、宇治洲と再会したことを拙くだが話した。
「そうだったんだな。おれの方でも警戒しておくから、とりあえず今は回復することを優先に考えなさい」
時計を見たら5時間目の授業だけをサボるつもりが、放課後になっていた。それに気づかず寝ていたということは相当悪かったとみえる。
「兄ちゃん車を前に移動させてくるから、用意したら降りてきてな」
「うん、ありがとう」
兄ちゃんは一足先に保健室から出て行った。僕は布団から出て立ち上がると、少しは足が軽くなっていることを感じる。
誰もいない教室の扉を開けると、ただ1人だけ音を立てずに座っていた。
「碧くん、残ってたんだ」
「朱里! 大丈夫? 休憩時間に保健室行ったんだけど、信代先生から熱あるって聞いたから心配で」
心配で僕が教室に来るまで残っていたのか、もうすぐ夕日が沈もうとして低くなっているのに。
「心配してくれて残って待っててくれてありがとう。一旦は落ち着いたから帰ろうと思って」
「そうなんだね。あ、家まで送ろうか」
「兄ちゃんが車で来てて、乗せて帰ってくれるんだって。待っててくれたお礼に送ってもらえるように頼んでみるよ」
スマホを取りだし連絡しようとしたが、碧くんに断られてしまった。昇降口前には既に車が回されていて、僕は乗り込んだ。
「おやすみ、碧くん」
「お大事にね。また明日」
言葉を交わしてすぐ車が発車し、帰宅した。その後はあまり覚えてないけど、少ししたら気絶するように眠った。
──次の日。
昨日は一時的に回復したから学校に行けるだろうと思っていたが、風邪をこじらせたらしい。
「ゴホッゴホッ」
「朱里大丈夫? 久々に熱出したわね。病院に連れて行きたいけど、今日パートで連れて行けないし……」
測り終わった体温計を手渡し、表示された数字を見て不安そうに話すマスク姿のお母さん。
「仕事行ってきていいよ。薬飲んで寝てれば治るよ」
「そうは言ってもねぇ……。とりあえず卵とじうどん作ってくるから待ってなさい。出る前にも声かけるわね」
いつまで経っても子供扱いをしてくるお母さんは、ベッドで寝ている僕の頭をそっと優しく撫でて部屋を出ていった。
──ピロン。
ベッドの横にあるチェストに置いていたスマホから通知音が鳴った。重く感じる腕を動かしてスマホを取って画面を開いた。
連絡をくれたのはきぃちゃんからで、『風邪だって? 安静にして早く治してね』と気遣う言葉が送られてきていた。そしてもう1通『大丈夫?』とひと言だけ綴られているメッセージがあった。
「え、碧くんから!?」
連絡先を交換しているとはいえ、メッセージを送られてくることは初めてだった。SNSのDM(ダイレクトメッセージ)ではなく、チャットで連絡が来ていることが現実に思えなくて1度画面を伏せる。
数回深呼吸して落ち着いてから画面を見直すが、やはり碧くんから僕宛に届いたメッセージで間違いなさそうだった。
同じファンにはない“友達”かつ“告白してきた人”という枠に、優越感と嬉しさが芽生える。
「特別なファンって個人的に連絡とってもいいんだ。いや、僕は友達なだけだからさほど特別ってわけじゃないか」
よく考えると、周りのクラスメイトやきぃちゃんと同じ立場だから特別じゃないことを悟り落ち込んだ。勝手に想像して期待して、本当にバカだな。
(多分熱があるから変な思考になっちゃうんだ。さっさと返事だけしよう)
僕は『心配してくれてありがとう。熱下がれば明日にでも学校行けると思う』と文章を打つが、眠気が襲いかかり送る手前で気絶するように寝てしまった。
◇
「──やめる」
誰かの声で目を開けると真っ暗な空間に僕が1人。
パチッという音と共に光りだした1本のスポットライトが遠く離れた誰かを照らす。そこにいるのは、顔に少しもやがかかっている女性とその人の肩を抱いている碧くん。
「碧くん? どうしてそこに……。というかその女の人って一体……」
碧くんは口をパクパクさせて何かを伝えようとしているように見えた。だけど、声は僕のいるところまでは届かず、何を言っているのか、何を伝えないのかわからない。
近づいていくにつれクリアに聞こえてくる碧くんの声。
「──やめる」
「え? なんて言ったの?」
「だから、俺はもう朱里といる意味がなくなったから友達も朱里を好きなこともやめる。朱里もきいや俺以外の友達作った方がいいよ。あ、でも作れないか。朱里って、人嫌いだもんね」
「え?」
僕は動揺した。碧くんには打ち明けていない過去を、目の前にいる碧くんはなぜか知っているようだった。
いつもの優しい本物の碧くんではないとわかっている。だけどショックを受けないわけじゃない。
「ど、どうしてそんなこと言うの……? あ、これドッキリとか?」
「そんな風に見える?」
信じたくなくて誤魔化してみるけど、冷たく放たれたひと言で本音なんだと悟った。
(あ……。碧くんにとって僕は、そんなにあっけなく切り捨てることができる人物だったんだ……)
涙が溢れ、次から次へ落ちていく。碧くんは隣にいた女性を連れて、無言で僕の横を通り過ぎる。すぐに振り返るが、碧くんの姿はもうどこにもなかった。
「うぅ……、碧くん……」
身体を小さく縮こまらせて鼻をすする。いつもなら寄り添ってくれる碧くんは、もうすでに遠くに行っている。
「自然にファンである僕を受け入れてくれてたから、碧くんの気持ちに全然気づかなかった。本当は心のどこかで面倒くさい奴とか思われてたんだな。それが今わかっただけで……」
「碧くんはそんなこと言わない!」と自信を持って言えたらいいのに。そう言い切れないのは、どこかで僕も碧くんを信用してないと言っているのと同じだ。
「ごめん、ごめんね碧くん……」
僕は泣きじゃくりながら目を瞑る。するといつの間にか意識が遠のき、灯っていたスッポットライトも静かに消えた。
──コンコン。
部屋のドアがノックする音で僕は目を覚ました。
(あれ……、ここ僕の部屋?)
さっきまでの景色とうって変わり、ToRiくんのグッズで飾られた自室だった。
「朱里、入るわね」
ドア越しに聞こえる声はお母さんのもの。目からは涙が伝い、拭いながらいつものように「いーよ」と返す。
「具合はどう? さっきも様子見に来たんだけど、ぐっすり眠っていたから起こさなかったの」
そう言えば、寝る前にご飯を作ってくると部屋を出て行ったのを思い出した。口調からして1度持って来てくれたんだろう。
「寝る前よりも身体が軽くなった気がする。熱は……まだ下がってないけど」
苦笑まじりに応えると、お母さんは自分の額と僕の額に手を置いて確認する。
「確かにまだ少し熱いわね。もう1回ご飯作ってくるから食べて安静にしてなさい。あ、そうだわ。朱里にお見舞いに来てくれた子がいるの!」
「お見舞い……」
口には出さなかったものの、心の中では「そんな友達いたっけ?」と疑問に思っている自分がいた。
「リビングで待ってくれているから呼んでくるわね」
お母さんはいきなり手を叩き、いい音を出した。それに僕は身体をビクつかせた。
「あ、でも僕がリビングにーって行っちゃった」
「風邪うつるだろうから、僕がリビングに行った方がいいんじゃない」と言いたかったのに、母さんは足早に部屋を出て行ってしまった。
待っている間に身体を預けるように再びベッドの上に倒れこんだ。
(今日の授業は何したんだろう。明日碧くんに聞こうかな。あ、でも……)
ふと夢のことを思い出した。夢だけど現実味のある内容。違うってわかっているのに悪い方を信じそうになるし、好きだと言われたことさえ疑ってしまう。
(碧くんには深く関わらないようにするから、どうか夢から覚めて僕を開放して……)
ベッドの上で布団を被り、身体を丸く縮こませた。するとまたドアをノックする音が聞こえ、どうせお母さんだろうと僕は返事をしなかった。
するとドアは勝手に開き、人の気配が少しずつ感じ取れるくらい近くまできている。
──トントン。
ベッドの軋む音が聞こえ、布団越しから腹部あたりを軽く叩かれる。僕はお母さんが呼びに来たのかと思って、ぶっきらぼうに言葉を発した。
「ごめん。気分悪くなっちゃったから、見舞いに来てくれたって人にも帰ってもらった方がいいかも」
僕の声に反応しない静かすぎる部屋に奇妙な感じに違和感を覚えた。お母さんであれば何か話しながら入ってくるはず。だけどその声さえなかった。
(どうして返事がないんだろう。確かに触られた気がしたんだけど……)
熱のせいか、また悪い方へ考えてしまい緊張感に包まれる。
(この部屋に来るにはリビングを通らないといけない。今この部屋にいるのがお母さんじゃないなら……。もしかしてもうすでに何か起ったか?)
冷や汗が背中を伝い、段々と体温が低くなっていく気がする。お母さんが心配になって、部屋に武器になりそうなものを思い出し覚悟を決めて勢いよく起き上がる。
「この悪質犯めー! よくもお母さんをぉ……って、え?」
起き上がった先にいたのは、お母さんではなく驚いた顔をしてベッドに腰かけている碧くんだった。
「お、おはよう。朱里」
「え、あうん。おはよう? ……いやいや違うくて、どうして碧くんがここにいるの?」
「どうしてって今日休んでたし、連絡したけど既読ついたまま返事なかったから。それくらいヤバいのかなって心配で」
「連絡は返して……あれ?」
急いでベッドの横のチェストに置かれてあるスマホを取り、チャット画面で碧くんの名前を探す。送っていると思っていた文章が下書きの状態で残っている。
「あ、送れてない。そういえばあの時、急に眠気襲ってきて寝たから……。ごめんね、メッセージ送ってくれてたのに」
「大丈夫だよ。もし返事あってもお見舞いに行こうとは思ってたから」
推しがお見舞いに来てくれるなんて本当に幸せだなと感じながら、感謝した。さっきまでの緊張感が嘘のように自然と笑顔が溢れた。
やっぱり僕を元気にしてくれるのは碧くんだけだと改めてそう思った。
「熱あるって朱里のお母さんから聞いたんだけどツラい? 無理せず寝ていいからね?」
「心配してくれてありがとう。でも朝より熱は下がったし、ずっと寝てたから今は少し起きてたくて」
というのも本当だけど、碧くんがいるのに寝てはいられない。それに僕の部屋に推しがいる光景を1秒でも多く目に焼きつけておきたい。
「朱里がツラいこのタイミングで言うのはどうかと思うんだけど、グッズの量すごいね」
「すごいでしょ! 今まで行ったToRiくんのライブで販売したグッズ、全部あるよ! 特にこれはレアじゃないかな? ステージ上から投げられたサインボールとか」
「え、全部!? それにサインボールって最初の1、2回でしかプレゼントしてないやつ……。ってことは、ライブ全通してくれたってこと?」
“全通“とはライブやイベントに全部通ったことの略称で、アイドルや歌い手の界隈ではよく使われている言葉だ。
「えへへ、まぁね」
僕は鼻の下を指でこすった。僕の中で唯一自信を持って紹介できる趣味の1つだから、こうして驚いてくれると自慢しがいがあって嬉しいものだ。
「普段はSNSで投稿される写真でしかみんなの推し活事情は知らないから、こうやって自分の目で飾っているところが見れるなんて不思議な気分だよ」
感動している碧くんを見て、僕たちファンが自己満足で上げているような投稿にも目を通してくれているように見える。
「普段ファンの投稿見たりするんだね」
「もちろん。タグづけ、ハッシュタグがついている投稿は基本全部見てるよ。もちろん朱里がしてくれた生誕祭の写真やライブレポもちゃんと見てるよ」
「え! 僕変なこと書いてないよね?!」
「書いてないと思うよ? 朱里の言葉は、いつも俺を幸せな気持ちにしてくれるから気にしたことないや」
碧くんがにこやかな笑顔を見せると、窓から入ってきた光が後光のように差しこんで直視できない。
「碧くんが幸せならなによりです」
本人が見ているかもしれないとはハッシュタグをつけた地点で覚悟していたけど、全部見られているとは思わなかった。
もしこれからも呟くことがあるならよーく言葉を選んで見直して……と思ったけど投稿することはもうないかもしれない。だけど今日みたいにチャットでのやり取りをするときには気をつけよう。
「朱里はどういう時に幸せを感じる?」
話は変わり、急に碧くんがこんな質問をしてきた。どうしてそんなことを聞くのかと思ったが僕は当たり前のように答えた。
「そうだなぁ、僕はToRiくんを推している時が1番幸せ」
僕は心の底からそう思っていた。だって幸せをくれたあの空間が今でも忘れられず、それ以上の幸せを知らないのだから。
碧くんを見ると少しショックを受けたような、申し訳なさそうな顔をしている。
(もしかして今の会話に地雷あった? どうしよう)
どう声をかけたらいいのかわからず、お互いが黙り込んでしまい少し気まずい空気が流れる。
僕はこの空気感を変えるために、この際だからと勇気を出して聞いてみた。
「そういえば碧くんは、ToRiくんはどうして引退することになったの?」
「え?」
引退報告を受けた時は、事務所の事情とごまかされ隠されていた。でも聞くことができるなら、僕は本当の理由を知りたい。
普段なら推しを困らせる行動はしないけど、知ることでもっと近づける気がした。
「こんなこと聞いてごめん。詮索しちゃいけないってわかってるけど、どうしても気になっちゃって」
出来心で聞いてみた質問だけど、「本当に答えられない理由だったらどうしよう」という恐怖心もあり、「どんな理由であれ受け止めるよ」というファン心理な気持ちが廻る。
「えー、これは言ってもいいのかな」
困った表情を見せた碧くん。そんな顔をされるとは思わなくて急いで弁明する。
「もし無理なら言わなくていいよ。碧くんのこと、困らせたくないから」
僕は布団をギュッと握った。たとえ言いずらい答えが来ようとも僕は受け入れる覚悟だ。
「──引退したのは好きな子のそばに、朱里のそばにいられる自分になりたくて。隣で朱里の笑顔を見たいなーって思った不純な理由かな。……あー、恥ずい。これ誰にも言っちゃダメだからね。俺と朱里の秘密だよ」
耳や顔を真っ赤に染めながら言う碧くんの姿は可愛かった。それに僕が理由って恥ずかしいけど、それより嬉しい気持が勝つ。
(こんな理由、周りに話せないよ)
僕の耳も熱が帯びているような気がした。さっき聞かれた幸せを1番感じる時は推してる時じゃないかもしれない。碧くんが僕に好きだと伝えてくれる今が1番幸せだ。
(僕は碧くんのこと、どう思ってるんだろう。今まで推しとしてしか好きと思ったことないから真剣に考えたい)
僕は知りたい。碧くんの気持ちに応えることができる自分であるのか、そうでないのかを。
「ねぇ、俺からも朱里に聞いていい?」
「え、うん」
「どうして朱里は俺を、ToRiを推すようになってくれたの?」
碧くんは僕に純粋な瞳を向けてくる。でも僕はスッと話せなくて言葉が詰まる。
「あ……、えっと」
見ていた夢を思い出し、話すことで碧くんに突き放されたらどうしようという不安な気持ちが襲いかかってくる。
(僕の暗い過去を話して、嫌われたりしないかな。こんな理由で推されてたって知ったら軽蔑するかな)
すぐに話す勇気を持てないまま長く悩んでいると、碧くんは僕の手を取った。
「朱里さっき俺に「無理なら言わなくていいよ」って言ったよね? それは俺も同じ。それに朱里にとって思い出したくないことなら尚更無理しないで。でも、自分勝手な話だけど俺はどんなことでも朱里を知りたい。そう思ってる」
(さっき僕が思っていたのと一緒だ。碧くんも僕のこと知ろうとしてくれているのに、僕の気持ちを優先して気を遣ってくれている)
真摯に向けられた目が熱を帯びている。本当はあの時のことを思い出したくもない。
でも僕の心が死にそうになっていた時に救世主が現れたことは、たとえツラくなったとしても碧くんに聞いてほしい。
「──大丈夫、聞いてほしい。僕がToRiを推すきっかけになった出来事を」
◇
ToRiくんとの出会いは4年前、中学1年生の時に遡る。
地元の中学校に入学して半年経ったある日、当時まだ少し女の子っぽい面影が残っていた僕をターゲットに、クラスでいじめが始まった。
机に落書き、教科書が破られる、靴が隠されたり捨てられたり。マンガで見るようないじめだったから、されること全てが予想できる範疇だった。
当時いじめにも屈しない謎の心の強さを持っていた僕は、はじめの方は、「すぐに飽きて終わる」「相談しなくても解決できる」そんな生ぬるいことを考えていた。
でも予想は外れ、エスカレートしていくいじめにクラスメイトは助けてくれず見てみぬふりをする。
「前から思ってたけど朱里って女みたいだよな。実は女なんじゃね?」
「違う、僕は男だ」
「じゃあ証明してみろよ。そうだな、ここでズボン降ろせたら男として認めてやるよ」
教室で始まった悪質なる公開いじめ。いじめに加担していた男子らだけは手拍子して「ぬーげ」とコールしている。
周りで見ていた気の強い女子が「宇治洲くん、止めなよ」と言うが、手拍子で掻き消されて届くはずがなく。さすがの僕も気圧されて声が小さくなってしまう。
「やめてよ……」
「はぁ?」
機嫌の悪い顔を表に出してこちらに向けられる。今まで感じなかった怖いという感情が溢れ出てきた。
「おい、こいつ抑えてろ」
「うっす」
同い年なのに逞しい体格を持つ男子2人に両腕を固定され、動けない状況を作られた。すると、主犯の宇治洲は僕のカッターシャツをズボンから出して、手に持ったハサミでチョキチョキと音を立てて切って上半身が露わになっていく。
(僕がお前らに何をしたよ)
刃物を持っているから、下手に抵抗すれば刺されたりするのではないかとヒヤヒヤしてならなかった。
「お次はズボンかな。傷つけられたくなかったら大人しくしてろよ?」
宇治洲の手がベルトに触れ、あっけなくズボンから取られてしまう。そしてボタンを外されチャックが降ろされようとしていた。
「やめっ……」
──ガラッ。
「何してるんだ、お前ら!」
勢いよく教室の扉が開き、先ほどまで騒がしかった声が一斉に静まり返った。入ってきた先生たちの視線は僕とその周辺に集まる。
涙目になりながら、上の服がハサミで切られズボンを降ろされそうになっている僕。ハサミを持って僕のズボンに手を掛けている宇治洲。宇治洲の命令でずっと僕のことを抑えている加担者の2人。
「お前ら今すぐやめろ。その手を離せ」
「もう大丈夫だからね」
男の先生はいじめ宇治洲と加担者を僕から引き離し、女の先生は僕を抱きしめた。僕は安心を確信したからか、抱きしめてくれた女の先生の胸で声をあげて泣いた。
「怖かったよね。ごめんね、遅くなって」
「ううぅ……」
それから僕は、あとから教室にやってきた養護教諭の先生と共に保健室へ移動して保護された。
「カーテン閉めておくから、新品の制服に着替えておいで」
「はい……」
渡された制服にゆっくりと袖を通す。買って半年しか着ていない制服がズタボロの状態になってしまい可哀想な姿になってしまった。
(僕がいじめられていることを意地張らずに先生に言っていたら、こんなことにはなってなかったんだ)
「お母さんになんて謝ろう……」
着替えが終わりカーテンを開けると、先生が温かい飲み物を準備してくれていた。ありがたく頂戴していると、温かさから涙が溢れてきた。すると廊下からドタドタと足音が聞こえてくる。
──ガラガラッ。
「朱里! あー、よかった無事で」
慌てた様子で保健室に入ってきたのはお母さんだった。お母さんは僕をぎゅっと抱きしめると、泣きながら「気づけなくてごめんね」と謝り続ける。
僕にも言わなかった罪があると知っているから、お母さんの謝罪になんと返事をすればいいのかわからず、「僕は大丈夫……」と伝えた。
しばらくすると、先生達も入ってきて現在の状況を教えてもらった。いじめの主犯である宇治洲は母親と担任、それと校長先生を交えて話しているらしい。
義務教育の範囲である中学には退学の制度は設けられていない。転校、もしくは相当の処罰が下るだろうと保健室に来た先生たちは言った。
「今日はこのまま帰宅してもらって大丈夫ですが、信代くんどうする?」
「──帰ります、帰りたいです」
先生が出してくれた選択肢に甘えて帰ることに決めた。僕は荷物を取りに教室へ向かう。だが、中に入ろうと扉に手をかけかけた途端、恐怖心から手が震えて拒絶反応を起こし過呼吸になってしまった。
息の仕方を忘れたかのように、短い息遣いになっていく。お母さんの背中を撫でられる手に安心を感じる。
たまたま扉の近くにいた女子に先生が鞄を取るように言って、取ってきてもらった。
(ありがとうって言わないと。でも今はごめん、伝えられないや)
すぐに戻ってしまった彼女に向けて心の中で、直接伝えることができなかった感謝を述べておいた。
お母さんと車で帰宅すると、午前授業で先に帰っていた高校2年生の兄、紫吹がリビングにあるソファに寝転がってスマホゲームをしながらくつろいでいた。
「ただいまー、お兄ちゃんに頼まれてたアイス買ってきたよ」
「サンキュ……え、朱里? 学校は?」
「早退して帰ってきたの」
「なんだ、熱でも出たのか?」
本来ならいるはずのない僕が、一緒に帰ってきていたらそりゃあ驚くだろう。ブラコン気味の兄ちゃんはスマホを置いて起き上がり、僕の肩やら顔周りやらあちこち触って確かめてくる。
少しうざったいが、長年こうされていると自然と慣れてきてしまうもので。でも今日は気分的に早く放してほしい。
「朱里、先に着替えておいで」
「うん」
お母さんは僕の心情を組んでくれたのか、はたまた表情に出ていたのかわからないが兄ちゃんから引き離してくれた。
僕は兄ちゃんから伸ばされていた手をすり抜けて、2階にある自室へ向かった。
部屋に入ると、ようやく力が抜けてベッドに倒れ込んだ。今日のことを思い出すと恐怖心が込み上げてきて震えが止まらない。はじめにあった心の強さはへし折られ、カッターシャツのようにズタボロになって弱くなった。
僕はお母さんに、兄ちゃんに気づかれないよう気持ちを抑えながら静かに泣いた。
翌日、僕はいつものように目覚めてすぐクローゼットを開けた。制服を出すも取りだす手が強張り、着替えるのを止めて先にご飯を食べようとリビングへ移動した。
「おはよう朱里、もうすぐご飯できるからね」
「おはよう! 今日も可愛いな」
リビングにはいつもと変わらない温かい光景が広がっていた。
「お、はよう」
テーブルには兄ちゃんの食べかけているご飯と既に食べ終わって重なっているお父さんの皿が並んでいる。兄ちゃんの隣に座ると、言っていた通りすぐにご飯が出てきた。
鮮やかな緑のサラダと焼きたての鮭、湯気が立っている味噌汁とホカホカの白米が前に並ぶ。
「いただきます」
僕は手を合わせてから箸を持ってご飯を食べた。心温まるごはんが染みて泣きそうになった。
(昨日から涙腺や気持ちが不安定になってる。早く切り替えないと……)
「朱里、無理しないでいいからね」
気を遣ってくれているのを身で感じ、昨日のことが夢じゃないんだと改めて感じた。その言葉で自分の中で必死に蓋をしていた本当の気持ちが込み上げてきた。
「学校、行きたくないな……」
ガシャンとキッチンで皿を落としたお母さん、隣にいた兄ちゃんを見ると目を見開いている。
「朱里、学校行きたくない?」
「え」
(もしかして声に出してた? だから2人はあんな顔をしたのか)
お母さんは申し訳なさそうに眉間にしわを寄せて聞いてくる。昨日からずっと気にしてくれていたんだと感じた。
「……行きたくない。って言ったら迷惑でしょ。行くよ、学校」
残っているご飯を食べようと箸を持ったが、わかりやすく手が震えている。震えを抑えようともう片方の手で押さえるけど、止まりそうにない。
「朱里、昨日のこと母さんから聞いた。あんなことがあったんだ、行きたくないと思うのは普通だと思う。兄ちゃんたちは迷惑に思わないから、今日は休もう? それで、朱里が行けると思った時に行こう」
「兄ちゃん……」
その日から僕は学校に行かなくなった。というか行けなくなった。
学校に行きたいという意思はあったけど、考えるだけでいじめられたことを思い出して過呼吸や震えでどうにもならなくなって諦めるしかなかった。
だけど僕は、不登校だからと何もできないと思われたくなかったから、勉強は怠らなかったしオンライン授業できる塾に通ってみたり、兄ちゃんに教えてもらったりと自分なりに色々工夫した。
家にいるのも退屈ではなかった。それは、兄ちゃんがずっとそばで僕のことを気にして色々と楽しませてくれていたから。
そんなある日、兄ちゃんが“キャスタイプ”という配信アプリを勧めてきた。
「これ、女子の間で歌い手? っていう人がいるのを聞いてさ。最近、推し作ってなかったみたいだし、気分変えるために探してみたらどうだ?」
「推しってアニメキャラじゃダメなの?」
「ダメってわけじゃないけど、女子曰く『生配信してるから、コメントに反応してくれるんだよ! わかりやすく言うと、アイドルとコメントを通じて会話できるみたいな?』だって」
教えてくれた女子の真似をしているのか、声高くして僕にわかりやすく説明する。その姿ははっきり言って似ていないように感じたが、面白くてふふっと笑ってしまった。
(最近は勉強ばかりだったから。推しって存在を意識してなかった気がする。てか、冷静に考えて推しがいるのになんのメリットがあるんだろう)
そんなつまらないことを考えていると、兄ちゃんからキャスタイプアプリのURLが送られてきた。
「え、なんで。僕入れるって言ってない」
「いいから、いいから。配信見てみて無理そうならアカウント消してアンインストールしたらいいから。な? 試しにさ」
兄ちゃんが親切で言ってくれているとわかっているから、言われるがままにインストールしてみる。アカウント登録を済ませるとすぐに配信を見れるらしい。
試しに配信している枠に入ってみると、配信主が「いらっしゃいませー」と歓迎の声をかけてくれる。だけど、企画の内容やその人のキャラクター性が僕には合わなかったようで、すぐに枠から抜けた。
「合わなかったか?」
「微妙かな。もう1人見てみるけど今度こそ合わないと思ったら消すよ」
僕は配信アプリを閉じて勉強に取りかかった。
勉強をして夜ご飯を食べて、お風呂を終えて部屋で1人いた時、配信のことを思いだしてキャスタイプを起動させる。昼間とは違うタイプの人達が配信をしているということが一目でわかる。
自分に合いそうな人を、タグを使って探してみると1人だけ気になる人を見つけた。
サムネイルに映っていたのは、襟足が少し伸びている銀髪に宝石のようなエメラルドの瞳、大きめのパーカーを着ている大人っぽい長身イケメンの立ち絵。一目見て好きだと思ったが、1番目を引いたのはタグに『#あなたに寄りそう』と書かれていたことだった。
興味を持った僕はその人の配信を覗いてみることにした。画面を軽くタップするとすぐにその人の配信枠に入ることができた。
『こんばんはー、あ、初見さんだ。えーっと“しゅり”さんいらっしゃい。ゆっくりしていってね』
“しゅり”と名付けたのは兄ちゃん。名前のまま“あかり”と使うのは身バレする可能性が高いからやめた方がいいみたいで、呼び方を変えただけのアカウントネームだ。
普段言われ慣れない名前に少しそわそわしてしまう。
(それにしてもイラストに似つかない若い声だなぁ。名前は……ToRiさん?)
受け答えで笑う声に爽やかさがありつつ、普通に話す声は上品さを含んでいた。
『今日は悩み相談しようかな。時間ある限り答えていくので、もしよかったら概要欄に貼ってあるURL先の質問箱に投げてくださいね』
僕も試しに軽い気持ちで質問してみようと思って、指定されたURLを開いて文字を打ってみた。
【僕は学校でいじめられてから不登校になり、頑張って行こうとしても拒絶反応が出てしまって、半年行くことができていません。どうしたら行くことができるのでしょうか?】
思い切って送信のボタンを押すと受付完了のマークが出てくる。
(軽い気持ちでとか言いながら、結構マジな内容を送ってしまった。この人が見たら絶対面倒だと思われてそうだな)
質問を消そうにも、取り消しボタンがわからず仕方なくそのまま配信を見ることにした。配信画面に戻ると『じゃあそろそろ答えていこうかな』と雑談しながら待っていたToRiくんが、質問に答えようとしていた。
『じゃあまずは──』
次々と答えていく質問。僕みたいに真面目なものから面白がった内容まで様々だった。質問の数が多かったのか、一向に読まれない質問に送らなきゃよかったかもと再び後悔していた。
『そろそろ終わりの時間なので最後の質問を取り上げたいと思います。えーっと、【僕は学校でいじめられて不登校になり、頑張って行こうとしても拒絶反応を出してしまって、半年行くことができていません。どうしたら行くことができるのでしょうか?】と言ったお悩み相談です』
(あ、これ僕のお悩みだ)
最後の最後に選ばれたのもあって、どんな答えが返ってくるのか耳を澄ませながら聞いた。謎の緊張感があって少しドキドキしている。
『そうだなー。俺自身に不登校の経験がないから下手なこと言って余計傷つけたら申し訳ないけど、俺ならまず「頑張ったね」ってその人を褒めてあげたい。それに俺的解釈になっちゃうけど不登校は、頑張った後の休憩。自分が大丈夫と思える時まで待ってもいいと思うな』
学校に行けなくなった当時、兄ちゃんにも同じようなことを言われたのを思い出した。あの時は安心したけど、この人の言葉はちょっと違う。
表示されているイラストは動かないはずなのに、笑顔を見せた気がした。実際に微笑みながら言われているみたいで、心がポカポカになって……。
──ポタッ、ポタッ。
『どうしても嫌なことがあった時は、俺の配信に来て。話を聞いてあげるし、笑顔になってもらえるように楽しい空間を作るから。だから1人で抱え込まないで。キミは1人じゃないよ』
「うっ……うん」
鼻をズビッと鳴らし僕は泣いた。僕は1人じゃないんだとToRiくんは教えてくれた。
その日を境に、“ToRi”という歌い手の存在は、僕の中で大きくなっていき推しになった。寝ても覚めてもずっと考えてる。嫌なことがあってもToRiくんの存在があるだけで乗り越えられるくらい、人生に欠かせないものになった。
だから僕は、1年半ぶりに学校へ行こうと決意して次の日には行動していた。教室には行けなかったけど、先生たちは温かく迎えてくれた。
「信代、よく来てくれたな」
「先生。あの時は、迷惑かけてしまってごめんなさい」
「あんなことがあったんだ、仕方ない。先生たちこそ気づかなくて悪かったな」
先生は頭を下げて謝ってくれた。
何も起こらない安心な場所とわかってからは普通に通学することができた。教室まではいけないけど、養護教諭の先生が来ているときは保健室に、いないときや保健室に生徒が多く来ているときは生徒指導室で過ごしていた。
保健室や生徒指導室に来ることができるようになったのは、ToRiくんの存在が勇気をくれたから。
(どうしたらToRiくんに感謝の気持ちを届けたらいいんだろう。手紙書いて送りたいけど、送ることはできるのかな?)
歌い手の存在にまだ知識が潤っていないこともあって、どうすればいいのかわからない。でもいつかは、この口から直接感謝を伝えたい、そう思った。
「ただいまー」
学校から帰宅すると、カレーの匂いを漂わせたキッチンでお母さんが晩御飯を作っていた。
「おかえりなさい。どうだった、学校」
リビングに直行し荷物をソファに置いて弁当箱を水に濡らしていると、僕の顔色を窺いながら聞いてきた。その時のお母さんの表情は心配の色を含んでいる。
「同級生に合わないように先生も配慮してくれてるし大丈夫だったよ」
「そう。朱里がまた学校に通えるなんて夢みたいだわ」
「そうだね、僕もそう思うよ」
──ピロン。
ポケットに入れていたスマホから通知音が響いた。スマホの画面を覗くと、キャスタイプからToRiくんの配信予定の連絡だった。僕は一瞬にして笑顔になった。
「お母さん今日配信あるからご飯早めにお願い!」
「はいはい。またトーリくんね」
「僕、お風呂入ってくる」
僕のことを理解してくれているお母さんは、名前を出さずともToRiくんだとわかってくれる。
僕は荷物を持って1度部屋に戻り、着替えを持って風呂場に向かう。お風呂から上がれば、お母さんが用意してくれたカレーを食べて部屋に籠った。
配信時間少し前、部屋にあるパソコンを起動させてヘッドホンをつけ待機した。そして配信時間丁度、真黒な画面から明るい緑色の背景に変わり立ち絵が浮かびあがる。
「始まった!」
『こんばんは。今日は何しようか』
ToRiくんの配信を何度も見ていてわかったことは、基本的にはリスナーのしてほしいリクエストを聞いて自身の気分と合うものをするシステムだった。
大体の配信者は自身の企画を目玉にして行うが、リクエスト性にしている人はToRiくん以外見たことがない。
今日の配信もみんなコメントで、【雑談しよう!】【今日は歌ってー】【またお悩み相談会してほしい】など次々にリクエストを送っていた。
僕は基本的には流れてくるコメント欄を見て、同調してコメントすることが多い。だけどこの日はどうしてだか歌声を聞きたかったから、自分の言葉でコメントを打つ。
【ToRiくんの歌声が聞きたい気分です】
コメントを読むには多少ラグがあり、何が選ばれるかドキドキして待つ。しばらくすると深呼吸した声が聞こえて発表が近いと悟る。
『じゃあ、今日は歌おうかな。たくさんのリクエストありがとうね』
その日は僕のコメント(その他)がたまたま当たり、歌枠の時間になった。
(僕のコメント読んでくれたように思ったけど、勘違いだよね。他の人のコメントとたまたまタイミングが重なっただけ。僕のに反応してくれたんじゃないから勘違いしちゃダメ!)
僕は頬をパンッと叩いて煩悩を払拭した。自分の世界に浸っていたら、『それじゃあ、始めるね』と言って1曲目が始まろうとしていた。今日の歌枠はバラード曲多めらしい。
──♪
ToRiくんが歌うと全ての曲が神曲に聞こえる。滑らかに発音される英語や、感情に合わせて歌う声は涙を誘ってきていつも涙腺が緩んでしまう。
『ふぅ、もう終わる時間だね。早いなー。じゃあ、遅くまでつき合ってくれてありがとう、おやすみ』
みんなはToRiくんの言葉に返すように【おやすみ】とコメント欄に流れる。だけど僕は反応してくれたらともう一言加えて、【喉ケアして寝てね。おやすみ】と打って送った。
するとToRiくんは『ありがとう。ケアして寝るね』と僕のコメントに気づいて読んでくれた。
(今のは、絶対勘違いじゃない!! 確実に僕のコメントを読んだ! 良かった、画録(画面録画)してて。あとで見返そう!)
僕の気持ちは最高潮に達し、完全に配信が終わるとSNSでコメントを読まれたことを投稿した。するとその投稿に同じToRiファンの人がいいねや拡散をしてくれた通知が届き「おめでとう!」とお祝いの言葉をくれた。
「優しい世界だなぁ」
そう思いながら、僕はふとToRiくんについて強い興味が湧いた。何も知らないわけじゃないけど、今アドレナリンが出ているうちにちゃんとした情報を掴んでおきたくなった。オタクからオタクへ流れてる情報じゃなく、公式が発表していることを知れば想いが伝えられるかもしれないと思った。
僕は【ToRi プロフィール】とキーボードで打ち検索をかけた。すると、トップページには所属している事務所のホームページが出てきた。
迷わずそこをクリックすると、華やかな演出から見知った顔ぶれの歌い手のイラストが現れた。当然ToRiくんも並んでいる。
「ToRiくんのプロフィール……。あ、これだ」
所属歌い手から探し、再びクリックすると『あなたに寄り添い人生楽しく』と一言メッセージが音声で流れた。
「わぁー、この音声録画してアラームに設定して毎日これで起きたい! でも録音は許可ないとダメだから我慢、我慢……」
我慢してスクロールしていくと名前、誕生日、身長、体重、趣味など知りたかった情報が明記されていた。それと同時に本当に事務所に入っているんだと実感した。
「デビュー日は去年の11月30日。あれ、僕が推し始めたのも11月30日だったはず……。やっぱりそうだ! これは奇跡じゃない!?」
偶然すぎる奇跡に疑いを持ってしまうが、僕は信じて飛び跳ねて喜んだ。その続きに書かれていた生年月日に不思議と目がいった。
「あれ、ToRiくんって僕と同じ15歳なんだ。大人っぽい声だからてっきり年上だと思ってたや。じゃあ、同じ学校にいたりしてー、なんて。それより手紙書かなきゃ。そのために調べたんだから」
僕はのちに同じ学校に通うことになるとは知らず手紙の送り先を調べ、気持ちの赴くままに便箋と封筒を取り出して思いの丈を書き綴った。
初めて配信を見たのがToRiくんのお悩み相談で、その時の配信の時にかけてもらった言葉で学校に行けたようになったこと。そして大好きって気持ちも一緒に込めて封をした。
(あれ、よく考えれば男からの手紙って向こうは嬉しいものなのかな? でも僕は“しゅり”って名前にしているから女の子と思って受け取ってもらえるかもしれないよね)
書いてしまった手前、捨てるより送って幻滅されたほうがいいと考えた。
「よし! 明日出す」
僕は書き終わった手紙を机に置いて覚悟を決めた。どんな反応されたって、僕は僕なんだから。
布団に入るとなぜかToRiくんが夢に出てきた。同じ学校で、同じクラスで、はたまた隣の席にいて笑っている、そんなあり得ない夢。
◇
──さらに1年後。
高校1年生に上がったToRiくんは、配信という枠を超えて事務所が定期的に開催している対面ライブにも出るようになった。
人気アーティストなどが行うドームライブとは違って、こじんまりとしたライブハウスでのライブが主だった。
僕は実際にToRiくんを見ることができるならと場所なんて問わなかった。そうしていたら、ファーストライブの報告を受けた日から現在までずっとライブ会場に足を運んでいる。
推し歴2年目ともなると歌い手のファンには、推し方が大まかにわけて3つにわかれているのだと知った。
1つ目は配信でのみ応援するタイプ。SNSではよくある応援方法で、現実の姿を見て幻滅したくない人やライブまでは行けそうにない学生がその分類に入る。
2つ目は配信で追っていたものの、ライブで姿を見た瞬間幻滅する夢見がちタイプ。歌い手の仕事道具である声とその人の理想の姿を表しているイラストで勝手にイメージを膨らませ高い理想を作り、いざライブなどの対面イベントで会うと理想が崩れて推すのを辞めてしまう。
3つ目は配信の時から推して、ライブに行って姿を見ても幻滅しないで変わらず推し続ける純粋タイプ。好きになったきっかけは声なのだから、大事なのは姿ではないと呈し、その人が頑張っているなら応援したいと思う人が集まる。
他にも同担拒否や箱推しなど色々な推し方の人がいるが、僕は3つ目と同じ推し続ける純粋タイプだ。
どうしてそう思うのか、それはファーストライブの交流会での話だった。
ライブでステージに上がってきたToRiくんは、僕の周りでは見たことのない多分イケメンに入る部類の端正な顔立ち。
ライトで輝く銀髪はとても綺麗で見惚れるほど。髪の間からちらつく緑の瞳は、色気があってずっとは見ていたら喰われてしまう、そんな罪深き男がToRiくんだった。
交流会でもそう。初めて対面で話せる交流会が開催されることになったが、5000円と高額なお金を払って3分しか話せないという現実に初めは不満を持っていた。
だけど実際に経験すると充実しすぎる3分間で、5000円以上の価値があった。それに、初めて参加した交流会で僕が“しゅり”だってことを明かしたのもいい思い出。
交流会はライブが終わってから1時間後くらいに行われる。本当はToRiくんも疲れているはずなのに、僕たちファンと交流してくれる優しさが詰まった神イベントだ。
入場チケットがあれば、1周し終わった後、追加でお金を払えば時間いっぱい何周もしていいシステムだった。
僕は贅沢言わず、1回会って話ができたらそれでいいと思っていたから待っている間はずっとドキドキしっぱなしだ。
(何を話そう? まずは「ライブお疲れ様」でしょ。それで「ずっとあの言葉に支えられて」とか? でも3分だしもっとまとめて伝えた方が……)
考えている間に1人また1人とパーテーションの中に入っていき、僕の番が徐々に迫ってくる。
「次の方、お入りください」
「……は、はい!」
気がつけば僕の番になっており、スタッフさんに中へ入るよう案内される。緊張して震えている足を前へ前へと踏み出し、パーテーションで囲まれている中へ入った。
目の前にいるのは、ずっと会いたかったToRiくんだ。彼との距離はゼロに近く、さっきまで考えていたことがパッと消えて頭が真っ白になる。
「こんにちはー、今日は来てくれてありがとう。もう少しこっちにおいで」
「は、はい……」
入口で立ち止まっていた僕にToRiくんは手招きする。ハッとした僕は、言われた通りもっと近くに歩み寄った。既にタイマーで計っていると考えたらいてもたってもいられなくて、勢いよく話し始めた。
「聞き飽きちゃったかもしれないんですけど今日のライブ、見惚れちゃうほどとても素敵でした! さすがToRiくんって感じでした。特に3曲目が僕は好きで、──」
僕はライブの感想を述べているとスタッフさんから「残り1分です」と声がかかった。他に何か言うことはないかと焦り出したものがファンとしてのこと。
「僕今日楽しみにしてきたんですけど、周りに可愛い女の子たちばっかりで……。僕みたいな男性リスナー少なかったから場違いかなって思ってしまって。ToRiくんも男性リスナーに押されて迷惑ですよね、すみません」
「迷惑だなんて思ってないよ。俺の存在は、男女関係なしに推してくれてるファンのみんながいるからこそだから感謝しかないよ。女の子ばかりの会場で入りにくかったと思うのに、足を運んでくれてありがとう!」
ToRiくんは高い背を屈ませ、僕と目線を合わせながら笑顔で伝えてくれた。この顔はライブ中にも見た惚れ惚れする魅力的な笑顔。
「全然、入りにくくなかったです。それよりも会えることが楽しみだったので、それどころではなかったです。あ、最後にこれ渡したくて。受け取ってもらえますか?」
僕は配信でToRiくんが好きと言っていたものを詰め合わせたプレゼントと、いつもより1層気持ちを込めた手紙を一緒に入れた紙袋を渡した。
「え、いいの? プレゼント嬉しい! 帰ったらゆっくり開封するね」
「高額な物じゃないんですけど、配信で好きって言ってたものを集めたので喜んでくれたら嬉しいです」
「マジ?! 本当ありがとう。あ、手紙まで添えてくれて……え」
僕は嬉しそうにしているのを見ている間に、ToRiくんは紙袋の中に入っていた手紙を取り出し、裏に書かれている名前を見ていた。
「これはキミの名前?」
「あ、はいそうです。本当は朱色の朱に里って書いて『あかり』って読むんですけど、兄ちゃんが身バレ防止として考えた名前がしゅりで」
「なるほど。そういえば俺、しゅりさんからの手紙事務所軽油でいっぱい貰ってると思うんだけど、そのしゅりさんで合ってる?」
「そ、そうです! 迷惑ばりに何通も手紙書いて事務所に送らせていただいているしゅりです! 届いていたんですね」
「もちろん。みんなからの手紙は1つ残らずちゃんと読んでるよ。もちろん、しゅりさんのも。俺、キミにずっとお礼言いたかったんだよね。いつも愛ある手紙をありがとう!」
手紙にチュっとキスをしてお礼を言うToRiくん。それを見ていた僕は、顔を赤くするほど照れて視線を逸らしてしまった。
「喜んでくれたならよかったです。これからも書き続けます」
「うん、待ってる。でも俺、勝手にしゅりさん女の人だと決めつけてったからびっくりした。そろそろ時間だね、今日会いに来てくれたからもうしゅりさんのこと忘れないね」
ToRiくんは手紙を大事そうに渡した紙袋に入れた。僕はその一言に注目してしまった。だってそれは──。
「え、認知ですか?」
「ん? そうだよ?」
認知とはファンからの一歩通行な認識ではなく、推し側が推してくれているファンのことを認識し覚えることを指している。推しから認知されることはファンからすれば、嬉しいことの1つ。
(ToRiくんに認知されるなんて思ってもなかった。今日は本当に忘れられない日だ!)
僕は認知してもらえたことが心の底から嬉しかった。
「失礼します。交代の時間です」
「あ」
スタッフさんから終わりを宣言されると、ToRiくんは僕の手を握り、「次のライブも来てくれる?」と首をかしげて聞いてくる。カクンと首を傾かせて僕の顔を覗くその姿は、カッコいいではなく可愛いという言葉が出てきてしまう。
「もちろんです! 絶対に来ます!」
「やった! じゃあ俺はステージからしゅりさん探してファンサするから見ててね」
「は、はい……!」
僕の手は微かに震えだし、心はドキドキして鳴りやまない。僕が倒れる前に手を離してほしいと思う反面、ずっと握っていてほしいと思った。
だけどそろそろ本当にお別れ。手は願いとは裏腹にあっけなく離れてしまった。寂しいけど順番があるのだから仕方ない。
「じゃあ、また」
「うん、待ってるね」
僕は荷物を持って出口に向かうが、最後に顔が見たいと足を止めて振り返る。するとToRiくんもこちらを向いていて、笑顔で手を振ってくれている。
(あぁ、この人に惹かれないなんて世の中のみんな損してる)
僕はそれに返すように手を振り返した。
会場の外に出てすぐ、交流会のことを忘れないように思い返しながらSNSに感想を打ち込んでいた。
プレゼントに喜んでもらえたこと、僕が送った手紙を見てくれていたこと、送っていた手紙のおかげで認知してもらえていたこと。すべてが上手くいき過ぎて怖くなる。
「さっき手を握られたよね。夢じゃない?」
歌い手界隈では握手会というイベントがない限り、接触禁止という暗黙のルールが存在する。もちろんファンから触れるのはご法度だし、推しから触れるのもよろしくなかった気がする。
触れられていた手を見つめると、微かに感覚が残っている気がした。この感覚が残るように永久保存できたらいいのにと思ってしまう。
「ねぇ、あなた」
「……え、僕?」
会場前でスマホを触っていると、地雷系の服を着た女の子に肩を軽く叩かれ声をかけられる。
「あなた今ここから出てきたわよね? もしかしてToRiのファン?」
「そ、そうですけど……」
(どう見ても僕とは系統が違う彼女がどうして僕に話しかけてくるんだろう)
周りを寄せつけない雰囲気と1人でいたところから、この子は同担拒否のタイプだと感じ取った。同担拒否とは、自分と同じ推しを持つファンと交流したくない、関わりたくないというタイプの推し方をする人のこと。
(そんな子が僕に何の用事が? もしかして男だから来ないで的なことを言われるんじゃ……)
何を言われてしまうのかわからなかった僕は、内心焦りと不安が募りまくっていた。だが彼女から出た言葉は思いもよらないものだった。
「よかったら私と友達になってくれない?」
「……え、友達?」
「そうよ」
まさかの言葉に僕は驚いた。そして思わずどうしてなのか聞いてしまった。
「どうして僕に? 他にも同性のファンがいるのに」
彼女はうーんと悩む仕草をしているのを見ると、これといって深い意味はないように思えた。
「どうもきぃは、同性とは合わないみたいなの。どうしてかしら。同性が合わないからって、異性で友達探してたんじゃないわよ? たまたまあなたの姿を見て、可能性を抱いたの」
「可能性って、どんな?」
「それはね、同じものを好きなものを持つきぃと仲良くなれる可能性!」
喉を鳴らして聞いた彼女の可能性の話が、予想外かつ可愛らしいもので力が抜けてしまった。
どうして同性の子とは上手くいかないのか気になるが追々わかってくるだろうし、それ以前に僕もいつかは同じ推しを持つ友達がほしいと思っていた。だからこうやって声をかけてもらえることは絶好の機会とも言える。
「聞いてもなお可能性については理解できそうにないけど、そこは後々わかっていけばいい。僕でよければよろしくお願いします」
僕は彼女に手を差し出した。彼女は嬉しそうな笑みを浮かべて勢いよく僕の手を取る。
「僕は信代朱里です。高校1年生です」
「私は絲井きい。同じく高校1年生よ。よろしくね、朱里」
早速呼び捨てで呼んできたきぃちゃん。僕は名前を呼び合うような友達ができたことに嬉しさが募った。きぃちゃんが先に名前を呼んでくれたおかげで、僕も自然と「こちらこそよろしくね、きぃちゃん」と呼ぶようになった。
これが僕ときぃちゃんの出会い。きぃちゃんと過ごしていくとわかったことは性格が真逆なこと。心のどこかで長く続かないと思っていたけど、予想を大いに超えて今では大親友になっていった。
◇
「──と、まぁ長くなったけど兄ちゃんがキャスタイプを教えてくれなきゃToRiくんを知ることはなかったし、推すこともなかったんだろうなって」
僕が話している間、碧くんは真剣な面持ちで静かに聞いてくれていた。僕がうすら笑いをしても笑うことをせず、ずっと聞き耳を立ててくれていた。だから正直に僕も話すことができた。
「交流会でも伝えたことあるかもしれないけど、僕に希望を与えてくれてありがとう。ToRiくん大好き」
体調崩しているせいか過去の話や素直に感謝の言葉がスッと出てきて、冷静になって考えると恥ずかしくなってくる。
「朱里にとっては思い出したくない過去のはずなのに、教えてくれてありがとう」
碧くんはそっと僕の手を両手で包み込んだ。
「俺も本当の言うとね、しゅりくんからの手紙が1番嬉しくて、いつも楽しみにしてた。だから俺の方こそ見つけてくれて、推してくれてありがとう」
碧くんはいつものように目尻を垂らして笑顔を見せる。この笑顔は初めてライブで見た時とずっと変わらない。
「──僕、好きだよ」
「え」
碧くんは目が飛び出そうなほど驚いた顔をしている。「朱里、それは……」という声を遮って僕は続けてこう伝えた。
「碧くんの笑顔。見てるとつられて笑顔になれるから魔法みたいなんだよね」
「え、あ、笑顔ね。なんだ、あははは……」
さっきまでの驚いた顔とは打って変わって動揺がにじみ出ていた。僕が「どうしたの?」と聞いたけど、「いやなんでもないよ」と隠されてしまった。
「長居してごめん。帰るからゆっくり休んで」
「帰っちゃうんだ。それならお見送りする」
ベッドから立ち上がろうとしたがまだ少しフラッとして足がもつれてしまう。
「朱里また顔赤くなってるよ。熱上がってきたんじゃない?」
「え?」
碧くんに寝るよう促され、大人しく寝転がって布団を被った。碧くんの手がおでこに当てられる。手の冷たさを感じて、自分が熱を出していたことを忘れて熱弁していたことに気がついた。
(手が冷たくて気持ちいい。ずっと当てていてほしい)
僕は碧くんの手に触れて、おでこから頬へずらす。
「え、朱里?! どうした?!」
「少しだけこのままで──」
僕はその気持ちよさに目を瞑り、眠ってしまった。
「朱里ってたまに小悪魔だよね。さっきも「好き」って言われて思わず俺も好きって言いそうになったし。……早く俺と同じ好きだって言って」
記憶の遠い場所で、碧くんが僕の寝顔を見ながらそう言っているのを聞こえた気がした。それが夢なのか現実なのか、今は判断つかないけど、どこかで現実であってほしいと思う自分がいた。
僕が自分の気持ちに気づくまで、もう少しだけ待ってね。



