夏休みまであと十日。

放課後の部室には扇風機の回る低いうなりと、現像液の匂いが満ちていた。



未来はプリントを洗いながら、ちらりと横目で海斗を見る。

窓辺に腰かけて、こちらに背を向けたまま海を見下ろしている。

光の当たり方のせいか、肩のラインが少し細く見えた。



「……また、見てる」



小さく呟いたつもりなのに、海斗が振り返る。



「え? 何か言った?」



「な、なんでもないよ!」



慌てて声を上げると、海斗はふっと笑う。

その笑顔が、ほんの一瞬だけ影を落としたように感じて、未来の胸がざわついた。



「未来ってさ、嘘つくの下手だよな」



「い、いいでしょ別に……!」



タオルで手を拭きながら頬を膨らませると、海斗は窓のところから降りてくる。

机に手をついて覗き込むように言った。



「さっきの写真、できたら見せてよ。文化祭の候補でしょ?」



「う、うん。でもまだ全部は……」



言いかけたところで、海斗が未来の手をそっと取った。



「見たいんだ。未来が撮った世界」



急に触れられて、未来の心臓が跳ねた。

海斗の手はひんやりしているのに、指先だけかすかに熱を帯びていて、その矛盾が妙に切なかった。



「……じゃあ、ちょっとだけ」



二人で並んで写真を並べる。

校舎裏の紫陽花、下校途中のカモメ、夏祭りの準備をする商店街の人たち——。

どれも未来が大切に撮った、大事な瞬間。



海斗は一枚一枚を丁寧に眺め、まるで触れたら壊れる宝物みたいに息をひそめていた。



「未来って、人のことよく見てるな」



「そう……かな」



「うん。俺が知らなかった景色、いっぱい見せてくれる」



海斗は指を止める。

それは、未来が撮った彼の横顔の写真だった。



放課後の屋上、夕焼けの光を受けて、海斗が手すりの向こうを眺めている瞬間。

未来がシャッターを切ったとき、彼は気づかなかった。



「これ……俺、こんな顔してたんだな」



写真の海斗は、寂しさと優しさが同時に滲んでいた。

どこかに置き忘れてきた何かを探すみたいな横顔。



「ごめん……勝手に撮って」



「いいよ。むしろ、撮ってくれてありがとう」



海斗は微笑む。

けれどその笑みは、未来が知っている“明るい海斗”のものじゃない。

もっと、深いところに沈んだ笑顔だった。



「未来に、残してもらえてよかった」



“残す”という言葉に未来は引っかかった。

まるでこれが最後みたいな、そんな言い方をするから。



「……海斗、なんか変だよ。最近、無理してない?」



「え?」



未来は思わず続けていた。



「笑ってても、なんか遠いっていうか……。どっか行っちゃいそうで……私……」



言いながら、自分でも驚くくらい声が震えていた。

海斗が困ったように目を伏せる。



「……未来は、ほんと鋭いんだな」



しばらく沈黙が落ちたあと、海斗はゆっくり顔を上げた。



「なあ未来。もしさ……俺が急にどっか行くって言っても、怒る?」



「……どこかって、どこ……?」



答えのかわりに、海斗は未来の頭にそっと手を置いた。

優しい、でもどこか悲しみを滲ませた仕草。



「未来の写真、全部好きだよ。けど……俺のこと、撮るのは——」



言いかけ、海斗は小さく息を呑んだ。

未来の目が、涙をこらえるように揺れていたからだ。



「……撮っちゃダメなの?」



未来の声はかすれていた。

海斗は一瞬迷って、でもゆっくりと首を振った。



「違うよ。未来が撮ってくれるのは……嬉しい。ほんとに」



「じゃあ……」



「でも、未来がそれを忘れられなくなるのが……俺は、怖い」



未来は一歩近づいた。

逃げるように視線をそらした海斗の腕を、そっと掴む。



「忘れないよ。そんなの、無理だよ」



海斗の肩がわずかに揺れた。



「……ほんと、優しいよな。未来は」



その言い方がまるでさよならの前置きみたいで、胸がきゅっと痛んだ。



未来は強く言葉を押し出した。



「優しいとかじゃなくて……海斗がいなくなるなんて、考えたくない」



海斗がゆっくりと未来を見る。

その瞳の奥、未来の知らない暗い影が揺れている。



部室の扇風機が静かに回り続ける音が、妙に遠く感じた。



「未来」



海斗は呼んだ。

まるで覚悟のような声で。



「……夏休みが終わる前に、言わなきゃいけないことがある」



未来の心臓が大きく脈を打った。



彼がこれから言う言葉が、

未来の世界を変えてしまう気がして——。

怖くて、でも聞きたくて、逃げられなくて。



海斗は唇を震わせ、続けようとした――。



その瞬間。



「おーい未来ー!プリント終わった?!」



部室のドアが勢いよく開いて、同じ部の後輩が顔を出した。

空気が一気に壊れ、未来も海斗も弾かれたように距離を取る。



海斗は小さく笑って肩をすくめる。



「……また後で、話すよ」



そう言って、片手を軽く上げると部室を出ていった。

未来は呆然とその背中を見送る。



また後で。



その言葉が、嫌に不安を含んで胸に残った。




夕陽は屋上のフェンスに触れ、海斗の影を長く引き伸ばす。



風が、少しひんやりと混じった夏の終わりの匂いを運んできた。



未来はその場に立ち尽くしていた。胸の奥が締め付けられ、涙が頬を伝う。海斗の存在は、確かにそこにあるはずなのに、時折ふわりと薄くなるのを感じた。



「未来……」



その声が、風の中で揺れる。



未来は小さく息を吸い、振り返った。海斗はフェンスにもたれ、少し前かがみになっている。



光が差し込むたび、横顔が淡く揺れ、時折消えそうになる。



「海斗……本当に、消えるの?」



未来の声は震えていた。胸が痛くて、言葉が詰まる。



「うん……」



海斗は目を伏せ、ゆっくりと息を吐く。



夕陽の光が彼の髪を金色に染め、影を屋上に長く落とす。



「未来……お願いなんだ」



その声が、風に溶けるように小さい。未来は息を呑む。



「忘れて……」



その言葉に、未来の胸が凍りついた。



「忘れて……くれたら……」



海斗は目を閉じ、唇をかすかに震わせた。胸の奥で何かが張り裂けそうになる。



「海斗……そんなこと……できないよ!!」



未来は走り寄り、彼の手を握った。指先が震え、握り返す力が弱くなった海斗の手を支える。



「でも……俺が消えたら、未来に迷惑をかけることになる」



海斗の声は、胸に刺さる刃のように痛かった。存在の薄さと同時に、優しさが押し寄せる。



「迷惑なんかじゃない!そんなこと、言わないでっ!!」



未来の声は、涙で震え、風にかき消されそうになる。それでも言わずにはいられない。



「未来……俺、君に会えてよかった……」



海斗の手がわずかに震え、指先が少しだけ光を透かす。未来はその温もりを必死に握りしめる。



「海斗……私も……会えてよかった。だから……忘れてなんか……できるわけない……」



声はかすれて、涙で濡れた未来の頬を伝い、胸の奥に届く。



海斗は目を開け、未来を見つめる。瞳が光を宿し、切なさと優しさが入り混じった色になる。影が少し揺れ、屋上の光と混ざる。



「……ありがとう、未来」



小さく呟く声。消えそうで、でも確かにここにある。未来は胸を押さえ、涙をこらえようとする。



風が二人の間を吹き抜ける。潮の匂い、夏の終わりの空気、夕陽の光。すべてが、二人だけの時間を包んでいた。



「未来……俺が消えても……君の中に……残っててほしい」



海斗の声が揺れる。未来はその言葉を胸に刻み、さらに強く手を握り返す。



「忘れない……絶対に、忘れない……でも……」



未来の声は震える。胸が張り裂けそうで、涙が止まらない。



「……海斗、お願い……もう少し、ここにいて……」



その瞬間、海斗は微笑む。儚くて、切なくて、でも暖かい笑顔。消えそうで、消えない。



「未来……少しだけ……」



その声が風に溶け、夕陽に溶け、波の音と混ざる。未来は涙を流しながら、胸の奥に決意を抱く。



——忘れられるはずがない。消える存在だとしても、私の中には確かに残る。



屋上の風が、二人の思い出をそっと抱きしめる。潮の匂いが強まり、世界は静かに呼吸する。海斗の存在はもう完全ではないけれど、未来の胸には確かに息づいていた。



「未来……」



海斗の声が最後に揺れる。未来は強く頷き、手を握ったまま、涙をこらえ、そっと呟く。



「忘れてなんか……できない……海斗……絶対に」



光と影が交錯する屋上で、夏の終わりは静かに、でも鮮烈に二人を包んでいた。




文化祭の準備は、町全体の空気をほんのり染めていた。



写真部の部室も賑やかで、机や椅子が並べ替えられ、壁には二人で撮った写真が展示されていた。



未来はカメラを肩にかけ、並べた写真を微調整しながら、無意識に海斗の顔を探していた。



「未来、手伝ってくれる?」



部長の真帆の声に振り返ると、海斗は窓際で写真を壁に掛けていた。光が差し込み、髪が金色に輝く。未来は思わず息を飲む。



——もうすぐ、消えるかもしれない。



「……この角度の方が映えると思うんだ」



海斗が写真の位置を直す。



その仕草ひとつひとつが、未来の胸をぎゅっと締めつける。笑顔はいつもより柔らかく、でもどこか切ない。



展示が完成すると、二人は少しの間、屋上に上がった。



夕陽が校舎を赤く染め、海の向こうの空がオレンジから紫に変わる。海斗はそっと未来の隣に座り、手元のカメラをいじる。



「未来……」



「ん?」



「文化祭って……なんだか特別だよね」



声は小さく、でも胸に響く。未来は目を細め、うなずいた。



「うん……特別」



シャッターを押す。今この瞬間を閉じ込めたい——時間が永遠じゃないから。



「未来、あのさ……」



海斗が指差すのは、前に未来が撮った彼の笑顔の写真だった。



「……これ、俺?」



「うん、好きな瞬間だったから」



少し照れた笑顔。子どもっぽくもあり、優しくて切ない。未来はその笑顔を胸に刻む。



夏祭りの日がやってきた。町中が赤や金の光で彩られ、屋台の匂いが立ち込める。未来は海斗の手をしっかり握りながら歩いた。風が二人の影を揺らす。



「未来……楽しい?」



「うん……でも、ちょっと切ない」



「わかるよ……」



海斗は少し沈黙し、でもその手は離さない。



花火が上がる。夜空を大輪の光が染め、二人の影が波のように揺れる。未来はカメラを構えたまま、シャッターを押せずにいた——撮っても、永遠にはできないと知っていたから。



「未来……」



海斗の声が震える。未来は彼の顔を見上げる。光に透け、ほんの少し薄く見える。



「俺……もうすぐ消える」



——その言葉を、未来はしっかり受け止める。胸が張り裂けそうだ。



「海斗……お願い……忘れてなんか……」



未来の声が震え、涙が頬を伝う。



「忘れないで……」



海斗はかすかに笑った。儚くて、切なくて、でも確かにここにいる。手を握る力は弱く、しかし未来には温もりが残る。



花火の音が大きく響く中、海斗はゆっくり息を吐いた。次第に、影が消えていく——。屋上の風が巻き上げる煙と光の中で、淡く、透明になっていく。



「未来……」



その声が最後に残る。未来は手を握り返す。涙が止まらない。



——海斗が消えても、ここにいた証は残る。胸に、手の感触に、声に——。



花火が夜空で散り、町の光が瞬く。屋上には未来の涙と、夏の匂いと、少し冷たい風だけが残った。海斗はもういない。けれど未来は、確かに感じていた——彼がここに生きていたことを。



「海斗……忘れない……絶対に」



未来はそっと空を見上げる。夏の終わりの空に、淡く消えゆく光と、永遠に消えない思い出が重なった。




夏祭りが過ぎてから、町は少しずつ静けさを取り戻していった。



港にはまだ祭りの残り香が漂い、赤い提灯が少しずつ夜風に揺れている。未来は写真部の部室に入ると、まだあの日の屋上の光が残っているような気がした。



——海斗……。



手を伸ばしても、そこには誰もいない。

カメラのシャッターを押しても、もう彼は映らない。写真の中にすら、あの日の姿はない。



それでも、未来は毎日、海斗と過ごした夏を思い返した。



夕陽の色、潮の匂い、屋上で手を握り合った感触——そのすべてが胸に刻まれている。消えることのない光のように。



日々は淡々と流れた。学校では友達と笑い、文化祭の準備や写真部の活動に追われる。でも、夜になると海斗の声が耳に蘇る。



「未来……忘れないで」



「未来……俺に会えてよかった」



涙をこらえながらも、未来は少しずつ受け入れていく。

海斗はもう、この世界に存在していないけれど、彼の思いは未来の中で生き続ける。



ある日の放課後、未来は一人で港へ向かった。波の音が静かに響く。風がそっと頬を撫で、海斗と歩いた坂道を思い出させる。



未来はカメラを取り出し、あの夏の最後の写真を撮った——空の色、波の光、そして自分の影。



シャッターを切った瞬間、胸の奥で、微かに海斗の声が聞こえたような気がした。



——「未来……ちゃんと生きて」



未来は涙を流しながら、でも笑顔を作った。



「うん……生きるよ、海斗」



季節が進み、夏は完全に終わった。町の色が変わり、空気もひんやりとしてきた。



未来は毎日を丁寧に生き、写真に思い出を閉じ込める。その中には、消えてしまった海斗も含まれている。



冬が来て、雪が町を覆う日も、未来は屋上に上がった。風が冷たく、手がかじかむけれど、海斗と過ごしたあの夏の温もりを感じることができる。



「海斗……」



未来はそっとつぶやく。



空には淡く朝焼けの光が差し込み、港の波が静かに輝く。



その光景の中で、未来は確かに知っていた——海斗はもうここにいないけれど、存在は消えていない。胸の奥に、永遠に残っている。



未来はカメラを肩にかけ、深呼吸する。



——前に進もう。海斗と過ごした時間を胸に、毎日を大切に生きよう。



笑顔を作り、歩き出す未来の背中に、冬の光がそっと当たる。波の音が、彼女の心に静かに寄り添う。



——海斗、忘れない。そして、私は前に進む⋯⋯。