翌朝、目が覚めたとき、部屋の中が薄い霧に包まれたみたいに見えた。
正確には霧じゃない。視界が霞んでいた。
起き上がろうとした瞬間、こめかみの奥で鈍い痛みが弾ける。
無理に体を起こしたら、胸のあたりがぎゅっと縮む。
……まただ。
ここ数日、体が勝手に悲鳴を上げることが増えていた。
海斗には笑ってごまかしたけれど、本当は昨日より悪い。
制服のボタンをはめる手が、かすかに震える。
冷たい汗が背中を伝い、膝が軽く抜けた。
「大丈夫、大丈夫……」
自分に言い聞かせても、声がかすれて頼りなかった。
学校へ向かう途中、海風が吹いた。
その匂いが、今日はやけに胸を刺す。
港のほうからカモメの声が聞こえた。
いつもなら、写真を撮りたいと思うのに、今日はカメラを持つ手を上げる気力すらなかった。
通学路の紫陽花が濃く色づいていた。
雨が近いのか、空気が湿って重い。
足が止まる。
少し呼吸を整えてから歩き出す。
こんなこと、誰にも言えない。
特に海斗には。
海斗はきっと、自分のことでいっぱいのはずだ。
あのいなくなるはずだった。という言葉が、胸にしがみついたまま離れない。
校門をくぐると、海斗が立っていた。
私を見るとすぐに駆け寄ってきて、眉をひそめた。
「未来……ほんとに大丈夫?」
「うん、ほんとに……ちょっと寝不足なだけだよ」
「いつもより顔色悪いよ」
彼は私の額の横に手を伸ばそうとして――途中で止めた。
触れたいのに、触れられない。
そんな迷いが、手の震えから伝わってきた。
「……今日、授業きつかったら無理しなくていいから」
「ありがとう。平気だよ」
本当は平気じゃない。
でも海斗に言ったら、彼は昨日以上に苦しむ気がした。
嘘をつくのは嫌いなのに、彼の前だけはうまく嘘がつけてしまう。
それが痛かった。
授業中、教室の光がやけに白く見えた。
黒板の文字が二重になったり、急に遠くへ滑っていったりする。
ノートに鉛筆を走らせようとしても、字がまっすぐ書けない。
指先がしびれて、ペンが滑る。
そのたびに海斗がこちらをちらっと見た。
隣の席からの視線に気づくと、心臓の鼓動が早まる。
見られていると思うだけで、隠していた不安が表面に出てきそうだった。
授業が終わると、海斗がノートを閉じながら小声で言った。
「ねえ、未来……ほんとに、ほんとに無理してない?」
「海斗、心配しすぎ」
「心配するよ。当たり前だよ」
その声は、怒っているようで、泣きそうでもあった。
昼休み。
私は弁当を半分食べたところで、胃の奥がぎゅっと痛んだ。
海斗は私の表情を見るなり、箸を置いた。
「食べきらなくていい」
「ううん……食べたいんだよ」
「未来」
名前を呼ぶ声が、胸の奥を優しく締めつける。
「今日の放課後、どこか静かなところ行こう」
「静かなところ?」
「海の近く……あの、防波堤のところ。話したいこともあるし」
その言い方は、不思議なほど静かで決意があった。
昨日と言えなかったことを、今日こそ言うつもりなんだと思った。
胸がざわついた。
本当に、聞く覚悟があるのかな。
聞いてしまったら、もう戻れないのに。
放課後。
空はどこか薄暗く、雲が低く垂れていた。
海斗と二人で校門を出る。
歩くスピードはゆっくりだった。
私が早く歩けないことを、海斗は気づいている。
「未来、ほら――」
そう言って、そっと手首を支えてくれた。
触れた瞬間、体の奥の不安が少し和らぐ。
海へ向かう坂道を下りる途中で、再び軽いめまいがした。
足元がぐらりと揺れる。
「未来!」
海斗がすぐに支えてくれる。
彼の手は熱かった。
脈が伝わってくるほど強く握ってくれていた。
「……ごめん、ちょっとふらって」
「いい。謝らないで」
海斗の声は、まるで震えていた。
私よりも、私の体を恐れているみたいだった。
二人で防波堤に立つと、波の音が大きく聞こえた。
水平線の向こうは灰色の空。
風が濃くなり、海の匂いが胸に刺さる。
「未来」
海斗が静かに言った。
「どこから……話すべきかな」
彼は空を見つめたまま動かない。
風で前髪が揺れているのに、手で直そうともしない。
「昨日言えなかったこと……全部言おうとしてる?」
私が尋ねると、海斗はゆっくり頷いた。
「うん。でも……未来の顔色見てたら、ほんとは言っちゃいけない気もしてて」
「私のせいで言えないなら、言って」
「違うよ」
即答だ。
「未来が壊れるのが怖いんだよ。俺が言うことで」
海斗の声が、海よりも深く沈んでいく。
「だって未来、最近ずっと体調悪いのに……どうして誰にも言わないの」
息が止まった。
「言えばいいのに。俺だけじゃなくて、先生でも、家族でも……誰かに言えばいいのに……」
海斗は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「未来が苦しいとき、俺……何もできない。見てるだけで、息が詰まる。未来が倒れたら……ほんとに、俺、どうしたらいいのか――」
「海斗」
私は彼の手をそっと握った。
「大丈夫だよ」
「未来……」
「大丈夫だから。海斗がそばにいるだけで」
そう言った瞬間、海斗の表情が崩れた。
そして小さな声で呟いた。
「……それが、一番怖いのに」
風が吹き、海斗の横顔が陰に沈む。
「未来が俺に頼ってくれるのは……嬉しいよ。でも……俺は、いつ未来の横から消えるか分からないんだよ」
胸が凍りついた。
「未来。俺……もうすぐあの日が来る」
「あの日?」
海斗は目を閉じ、深く息を吸った。
「消える日だよ」
その言葉は、波の音にも負けないほどはっきり響いた。
私は返事ができなかった。
目の前の海が、歪んで見えた。
海斗は私の反応を待たず、続けた。
「俺……ここに長くいられない。本当は未来に関わっちゃいけなかった。でも……未来に会ったら、もう離れられなかった」
海斗は胸に手を当てた。
そこを押さえていないと、何かが崩れ落ちるみたいに。
「だから……未来には、絶対に壊れてほしくないんだよ……」
その声は、海に溶けていくみたいに弱かった。
私は一歩だけ近づいた。
「海斗」
風に揺れる声で呼ぶ。
「……いつ、消えるの?」
海斗は少しの間、空を見つめていた。
言うか言わないか迷う沈黙が続いた。
そして、唇を震わせながら答えた。
「……夏が終わる前。未来と出会った季節が……俺の終わりの季節なんだ」
世界が止まった。
海が遠くに聞こえる。
風の音も、全部、薄い膜の向こうみたい。
夏が終われば、海斗はいない。
「嫌だ……嫌だよ」
気づいたら、そう言っていた。
海斗は私の肩を抱いて、そっと額を寄せた。
触れたところが熱くて、泣きそうだった。
「未来。
……ごめん。
本当は、未来が俺を忘れてくれたら……いちばん楽なんだ」
その言葉は残酷なのに、優しさでできていた。
私は海斗の胸にしがみついた。
「忘れられるわけないよ……忘れたくないよ……」
「未来」
「だって、好きなんだよ……海斗のこと……」
その瞬間、海斗の息が止まった。
彼は顔を上げ、私の頬を両手で包んだ。
目が、痛いほど優しかった。
「……俺もだよ」
「海斗……」
「でも未来……好きだからこそ、未来の時間を奪うわけにはいかないんだよ」
海斗は言葉を震わせ、私の額にそっと触れた。
「だから未来。
俺が消えても、生きてほしい。
……未来は未来の時間を進んでほしい」
涙が止まらなかった。
未来と海斗の間に、二人だけの時間が落ちていく。
消えゆくものと、生き続けるものの線が、はっきりと引かれてしまった瞬間だった。
その夜、私は部屋で泣いた。
泣き疲れても、涙は止まらなかった。
海斗の言葉が、胸の深いところで何度も繰り返された。
夏が終わる。
海斗が消える。
その現実が、私の世界の色をひとつずつ奪っていった。
でも、私はまだ知らなかった。
海斗が“消える理由”が、
私の体調不良と、同じ根っこに繋がっていることを。
八月の終わりが近づくと、町がすこしずつざわめき始めた。
港では白いテントが並び、漁師たちが声を張り上げて準備を急いでいる。
商店街には赤い提灯が吊られ、昼間でもどこか祭りの匂いがした。
けれど私の胸の中は、あの賑やかさとはまったく違う波を立てていた。
海斗の最近の言葉の断片が、ずっと心に引っかかっていた。
「未来の声がしないと、不安になる」
「たまにさ、立ってる場所がゆっくりずれていくような気がするんだ」
「うまく説明できないけど……意識が、ふっと遠くなって」
それがただの比喩なのか、疲れなのか、
それとも——もっと別の何かの兆しなのか。
考え始めると、夏の空気より重い何かが胸にのしかかった。
私は、ここ数日ずっと微熱みたいなだるさが続いていた。
立ち上がると少し眩暈がする。
でも誰にも言わなかった。
海斗のほうが、もっと気になる。
あの人の影が、少しずつ薄くなっているようで怖かった。
その日、写真部の部室には、夕陽の色が深く差し込んでいた。
窓から吹き込む風は潮の匂いを運び、赤い暗室ランプの光を揺らしていた。
「未来、これ……落ちてた」
一年生の黒川が、現像が終わったばかりの写真を数枚手渡してきた。
白い指先に、まだ薬品の匂いが残っている。
「ありがとう。……あれ?」
写真を確認して、私は息を呑んだ。
屋上で撮ったあの日の写真。
海斗と並んで、笑っているはずのカット。
一枚だけ、海斗の姿が消えていた。
空白になっている場所だけ、光が抜け落ちている。
風で髪が揺れたはずの影も、シャツの白さも、そこにはなかった。
「海斗……これ」
「ん?」
部室の隅でロッカーに荷物をしまっていた彼がこちらを見た。
「これ……海斗が写ってない」
差し出した写真を、海斗はしばらくじっと見ていた。
驚いているようにも見えたし、逆に、知っていたようにも見えた。
「本当だ。……消えてるね」
写ってないじゃなく消えてると言った。
その言い方に、胸がざわついた。
「ほら、風で……光がぶれただけじゃない?」
「ううん。これは違う」
海斗は写真の角をそっと押さえた。
指先が、ほんの少し震えていた。
「未来の写真は、全部正確なんだ。だからごまかせない」
「ごまかせない……って?」
尋ねる私の声より、海斗の視線のほうが揺れていた。
夏の終わりの光が、彼の瞳の奥で反射して、
なんだか痛いほど透明だった。
そのとき、大きな風が部室に吹き込み、
机の上のプリントがばらばらと舞い上がった。
カーテンが大きく揺れ、暗室ランプの赤い光が、まるで息をしているみたいに脈打った。
「未来!」
風に煽られたプリントを追いかけようとした瞬間、目の前が急に白くぼやけた。
胸がざわっとして、足もとが揺れる。
ふらついた私の肩を、海斗が素早く支えてくれた。
「大丈夫? 未来、最近ずっと調子悪いだろ」
「……平気。ちょっと、眩しくなっただけ」
本当は、さっきから息が浅かった。
でも、それよりも海斗の手の温度が少し冷たいことのほうが気になった。
「未来」
名前を呼ばれて顔を上げると、海斗の表情はどこか切なそうで、戸惑っているようで、それでいて、何かを決めた人の顔だった。
「……もし俺がいなくなっても」
心臓が跳ねた。
世界が止まる。
「君の撮った夏は、ちゃんと残るよ」
「いなくなるって……どういう意味?」
問い詰めたいのに、声が震えてしまう。
海斗は笑った。
夕焼けの光の中で、その笑顔が少しだけ透けて見えた。
「未来。君といると、俺……ここに留まれる気がするんだ」
「留まるって、どこに?」
「わからない。でも……」
彼は写真に触れながら、ゆっくり言った。
「君が呼んでくれると、ちゃんとここに戻ってこれる」
その台詞は、意味がわからないのに、
なぜか胸に深く刺さって抜けなかった。
窓の外では夕陽が海の向こうに沈みかけ、
オレンジ色が部室の床を長く染めていた。
海斗はその光の中で目を細めた。
まるで、太陽と一緒に薄くなっていくみたいに見えた。
「未来」
静かに名前を呼ばれる。
「俺は……君に会えてよかった」
その言葉は、どんな風よりどんな波より、ずっと深いところに落ちていった。
私は、何も言えなかった。
涙がこぼれそうで、声が出なかった。
海斗はそっと笑って、夕焼けの色の中で、ほんの少しだけ霞んだ。
八月の夕暮れは、いつ見ても少し切ない。
空気が熱を抱いたまま冷めていくときの、あの胸の奥がじわりと掴まれるような感覚。
それがこの数日は、いつもより強く感じられた。
学校から家に向かう道で、ふと足を止める。
風鈴の音が遠くで揺れ、紫陽花はすっかり色を失いかけ、 街灯の下に伸びた自分の影が、妙に頼りなかった。
少し、頭が重い。
階段を上がるたびに息が浅くなるのを感じている。
でも、誰にも言っていない。
家でも、部活でも。
海斗にも。
言えば、彼の顔が曇る気がしたからだ。
スマホを見ると、海斗から短いメッセージが来ていた。
『今日、屋上にいる』
それだけ。
なのに、その文字を見ただけで胸が熱くなる。
会いたいって、こんなにも簡単で、こんなにも残酷な気持ちなんだと知る。
夏の屋上は、ちょっとした魔法みたいだった
屋上への扉を押すと、湿った風がふっと頬を撫でた。
夕陽と夜の境界線が、空の真ん中で揺れている。
あの時間だけは、たった数十分だけは、世界がゆっくり呼吸しているみたいだった。
「未来」
名前を呼ばれて振り返ると、海斗がフェンスにもたれて空を見ていた。
夕陽の光が彼の横顔を滑っていく。
「大丈夫?なんか……今日も、顔色悪い」
「大丈夫。ちょっと暑さに負けただけ」
嘘だ。
でも、それを言うとまた体調が悪くなる気がして、笑ってみせた。
海斗はしばらく黙っていた。
夕陽に目を細めて、風に髪を揺らされながら。
その沈黙が、妙に胸を締めつけた。
「未来ってさ」
彼は空から視線を外さずに言った。
「強いよね」
「そんなことないよ」
「あるよ。俺よりずっと。……だからかな、安心する」
その声は強がりでできていた。
その強がりの裏にある薄い痛みを、私はどうしても見逃せなかった。
私たちの間に風が吹く。
潮の匂いと、夏の終わりの気配が混ざる。
海斗の影が、また揺れた
「海斗、さ」
言葉にする前に、胸の奥がきゅっと痛んだ。
体調のせいなのか、不安のせいなのか、わからない。
「最近、ほんとに大丈夫なの?」
彼は少しだけ驚いた顔をした。
でもすぐにやわらかく笑った。
「未来には隠せないね」
「隠せてないよ」
風が吹いて、二人の影が細長く伸びた。
その影の端が、ふいに薄くなる。
私のではない。
海斗の影——だった。
目の錯覚だと思いたかった。
太陽が沈む光の角度のせいだと。
でも、胸のどこかが小さく強く警告していた。
——まただ。
——また、薄くなった。
「……未来?」
呼ばれて、はっと息を吸った。
「ごめん。ちょっと眩しくて」
また嘘だ。
でも本当のことなんて言えない。
あなたの影が薄れていくのが、怖いなんて。
そんなこと、言えるわけがない。
「祭り、行く?」
海斗がぽつりと聞いた。
「え?」
「来週の夏祭り。……一緒に行けたらいいなって」
花火の音と、海斗の消えてしまうかもしれない影が重なる。
胸の奥が痛んだ。
「行く。行きたい。絶対」
「そっか。……よかった」
海斗の笑顔が夕陽に溶けていく。
その笑顔が、一瞬だけ透けて見えたような気がした。
「未来、」
海斗は少しだけ声を落とした。
「俺……夏祭りまで、ちゃんといられたらいいな」
いられたら。
その言い方だけが、世界から色を奪った。
「……ねえ、それってどういう意味?」
問いかける声が震えていた。
海斗は、夕陽の沈む方向を見て小さく笑った。
「未来なら、わかると思ってた」
「わからないよ」
「ううん。君は気づいてる。俺の……姿が、時々、薄くなること」
夕風の中で、海斗の影はまた揺れた。
海斗の言葉が空気に落ちた瞬間、屋上の時間がゆっくり止まった気がした。
——未来なら気づいてる。
——俺の姿が、時々、薄くなること。
それは、冗談の言い方じゃなかった。
誰にも言えなかった秘密が、形になってしまったような声音だった。
「……気づいて、たよ」
言葉にすると胸が苦しくなった。
風の音さえ遠くなる。
「でも、本当に……海斗が薄くなるなんて、そんなの信じたくないに決まってるじゃん……」
自分の声が震えているのがわかった。
泣きそうなのをごまかすために笑おうとしたけれど、うまくできなかった。
海斗はゆっくり、私の近くに歩み寄った。
足音がひどく静かだった。
「未来」
その一言が、胸の奥をぎゅっと掴んだ。
「俺……どこにも行きたくないんだよ」
夕陽の光が、彼の瞳に反射して揺れた。
その揺れが、痛いほど綺麗で、息が止まりそうだった。
「でもね、未来。ほんとにもう、あんまり時間がないんだ」
「……時間って、何の?」
「…………俺のここにいられる時間だよ」
海斗は空を見上げた。
夏の終わりの薄橙色が、彼の横顔を染めていた。
「たぶん……もうすぐ、消える」
その言い方はあまりに静かで、聞き間違えたんじゃないかと、一瞬思った。
「消えるって……転校するって意味じゃなくて?」
違うと言ってほしかった。
どんな嘘でもいいから、笑ってほしかった。
でも海斗は首を横に振った。
「違う。俺は、そういう存在なんだよ、未来」
胸の奥がざわざわし、息がうまく吸えなくなった。
心臓が早くなる。
視界が少し揺れる。
体調の悪さが重なって、地面がふわっと沈むような感覚がした。
「未来、座ろう」
海斗が肩に触れた瞬間、
その手の温度がいつもより冷たかった。
まるで、もう半分この世界にいないみたいな温度だった。
「未来は……俺を普通の人だと思ってるでしょ?」
「思ってるよ。だって海斗は海斗だよ」
「ありがとう。でも——」
海斗はゆっくり息を吸い、吐いた。
決心した人の声だった。
「俺ね……生まれたんじゃないんだ」
心臓が跳ねた。
「未来の町に来たのは、転校だからじゃない。俺は、ある人たちの記憶から、だんだん消えていって……最後に、ここに流れ着いた」
夕風が吹き、彼の髪を揺らした。
その姿が一瞬、ほんの一瞬だけ薄れた。
フェンスの向こうに溶けそうになって、また戻ってくる。
私は思わず手を伸ばした。
確かめるように彼の袖を掴む。
手が震えていた。
「消えないで。 ねえ、消えるって何?どこに行くの……?」
「わからないよ」
海斗は悲しそうに笑った。
「でも、最初に言っただろ。俺ってさ……どこか遠くを見ちゃうって」
あれは癖じゃなかった。
意識が、この世界から少しずつ離れている合図だったのか。
「未来」
海斗が私の手を握った。
その感触があまりに頼りなくて、胸が締めつけられる。
「ごめん。言うつもりなかったんだ。言ったら、きっと泣かせるってわかってたから」
「泣かないよ……泣かないから……」
でも、涙は溢れていた。
止めたくても止まらなかった。
海斗は優しく拭ってくれた。
指の動きが静かで、丁寧で、今触れた瞬間が最後になるかもしれないような触れ方だった。
「未来のこと……好きになったせいで、余計に消えにくくなったんだと思う」
その声が震えていた。
「だから……怖くなったんだ。消えるとき、君を置いていくのが」
涙が落ちて止まらなかった。
海斗が顔を上げ、かすかに笑う。
「でも……言えて、よかった」
夏の終わりの風が吹く。
日が沈みかけ、屋上の光が揺れ始める。
その光の中で、
海斗の姿が一瞬——透けた。
私は息を呑んで、強く手を握り返した。
「海斗、まだ言わないで。消えるとか、やめてよ……」
「未来」
その声は、波の音より優しかった。
「君に出会えて、ほんとによかった」
私の涙が落ちる。
屋上の床に、ぽたりと落ちて消えた。
海斗の姿も、夕陽に溶けるように、
すこしだけ淡く揺らいだ。
屋上の風は、先ほどより少し冷たくなった。
夕陽の光が、海斗の輪郭を黄金色に染める。
でも、その輪郭のどこかが、ほんの少しだけ、揺らいでいる。
「未来……」
海斗が私の手を握ったまま、静かに息をつく。
肩の力が抜けたように見えるその姿に、胸が痛くなる。
「俺ね……生まれたときから、ずっとこうだった」
そう言って、海斗は少し笑った。
でも、その笑顔はどこか寂しげで、温度が薄い。
「俺は、消えていく存在なんだ。この世界の時間や人の記憶の中で、だんだんと薄れて、最後には、誰の目にも触れられなくなる」
その言葉が、屋上の空気に重く落ちた。
胸の奥がぎゅっと締め付けられ、息をするのも忘れそうになる。
「でも……未来にだけ、会えたんだ」
海斗は微かに笑った。
「君の目には、俺が見える。君の心には、俺が残る。だから……ここに、こうしているんだ」
私の手のひらに、海斗の手の温もりがある。
でも、確かに薄い。
ふわりと指先から消えてしまいそうな、不思議な軽さがあった。
「だから……お願い、未来」
海斗の瞳は真剣で、少し震えていた。
「俺が消えても、君の中にいる俺を、忘れないでほしい」
私は言葉が出なかった。
ただ、涙が次々と頬を伝う。
口を開くと、声が震えてしまう。
「海斗……どうして、もっと早く……教えてくれなかったの……?」
海斗は小さくうつむく。
風が彼の髪を揺らし、光が時折、透けたように見えた。
「怖かったんだ……。ほんとに。……未来に迷惑をかけたくなかった」
その言葉に、胸の奥がさらに痛む。
どうして、こんなにも優しくて、切ない存在なんだろう。
「でも……好きになった。好きになったせいで、もっとここにいたくなった」
彼の声が小さく震える。
「君に会えたから、最後まで……消えたくなかった。ごめん」
私はその手を握り返す。
強く、離さないように。
もう二度と、離さないように。
未来の心が、ひどく揺れる。
でも、言葉にできるのはただ一つ。
「海斗……私も、好き……」
その瞬間、海斗の目が少し潤んだ。
光の中で揺れるその瞳は、夕陽の波と同じ色で、消えてしまいそうで、胸が締めつけられる。
海斗は私の肩に頭をもたれかける。
ふわりと、ほんの少し、存在が薄れるような感覚。
でも、私の心にははっきりと存在している。
「未来……俺、消えるとき、君のこと……ちゃんと覚えていたい」
私は強く首を振る。
「忘れない……絶対に忘れないから」
屋上に、静かな時間が流れる。
遠くでカモメが鳴き、港の波が光を反射する。
潮の匂いが、少し濃くなって、世界を包んでいる。
海斗の存在は、もう普通の時間にはない。
でも、私の心に、確かに、深く残る。
指先に残る手の温もり、肩に感じる体温、そしてその声。
それだけで、十分すぎるほど、ここにいると感じられる。
夕陽が完全に沈む頃、海斗はそっと離れる。
それでも、瞳は私を見つめていた。
「じゃあ……また、明日」
その声が、波の音に消えていく。
私はその場に立ち尽くす。
心が張り裂けそうで、でも少し温かい。
涙が止まらないけれど、もう怖くはなかった。
——海斗が消えてしまうとしても、私の中には、確かに、存在している。
そして、私はそっと呟く。
「海斗……」
潮の匂いの中で、静かに、。屋上の風が二人の思い出を抱きしめていた。
夏休みの終わりが近づく頃、学校は文化祭の準備でざわついていた。
写真部の部室も、机や椅子が並べ替えられ、壁には展示用の写真が並び始めている。
私はカメラを肩にかけ、写真の位置を微調整していた。
その手は自然に震えることもあった。
海斗のことを思うと、胸の奥が少し熱くなるのだ。
「未来、手伝ってくれる?」
声をかけたのは部長の真帆だった。
ふと振り向くと、海斗が窓際で手伝いをしている。
光が差し込んで、彼の髪が金色に光っていた。
私は思わずシャッターを切りそうになる。
でも今は、ただそっと見ているだけで十分だった。
「……この角度の方が写真が映えると思うんだ」
海斗が小さく笑いながら、壁に掛ける写真の位置を直す。
その笑顔は、いつもより柔らかくて、そして少し切ない。
みんなの前では明るく振る舞うけれど、こうして二人きりになると、目の奥に何かが隠されているのがわかる。
私はカメラを持った手を握りしめた。
——どうしても、この横顔を、笑顔を、閉じ込めておきたい。
展示が完成するまでの時間は、あっという間に過ぎていった。
写真の前で、友達やクラスメイトが感想を言い合う声。
海斗と目が合うたび、心臓が少しだけ早くなるのを感じた。
放課後、屋上で二人だけになる。
夏の夕陽が校舎を赤く染める。
海斗は私の隣に座り、手元のカメラをいじっていた。
「ねえ、未来」
「ん?」
「文化祭って、なんだか特別だよね」
小さな声。だけど、なぜか胸に響いた。
彼はどこか遠くを見つめるように、でも優しく微笑んでいる。
「うん……特別だと思う」
私は答えながら、そっと彼の写真を撮る。
今この瞬間も、すぐに過ぎ去ってしまうから。
海斗は一枚の写真を指差した。
それは、前に私が撮った彼の笑顔の写真だった。
「……これ、俺?」
「うん、撮ったのは私。好きな瞬間だったから」
海斗は少し照れたように笑った。
その表情は、ほんの少し子どもっぽく、でもとても優しく見えた。
私はそっと、心の中で思う。
——消える前に、できるだけたくさんの思い出を刻もう。
——笑顔も、横顔も、言葉も、全部。
夕陽が沈み、海の向こうが少しずつ紫に染まる。
風が、私たちの間に柔らかく吹き込む。
その瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
文化祭の準備、展示の成功、放課後のひととき——。
すべてが、私たちの夏を形作っている。
そして、海斗がまだここにいる、という事実だけで、世界は少しだけ輝いていた。
夕陽が沈みきる前、屋上の風が少し冷たくなった。
夏の空気がまだ重たく残っているのに、どこか秋の気配が混じっている。
そんな時間帯だった。
「未来」
海斗の声は、ほんの少しだけ震えていた。
けれど、その震えを隠すように、いつもと同じ笑顔を見せる。
「やっぱり今日、言いすぎちゃったかも」
「……ううん。言ってくれて、よかったよ」
本当は、胸がまだ痛い。
でもそれを表に出してしまえば、彼が自分を責めるとわかっていた。
「未来はさ、強いよね」
「そんなわけ……ないよ」
笑いながら言うと、海斗はゆっくり首を振った。
「強いよ。俺よりずっと。だって、俺が言ったこと……ちゃんと全部受け止めてくれたじゃん」
その言い方があまりに優しくて、私は視線をそらした。
夕陽の赤が彼の横顔を照らし、その輪郭はかすかに揺れて見える。
——薄れているわけじゃない。
ただ、光がそう見せているだけ。
そう思いたかった。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「……怖い?」
彼は一瞬だけ目を伏せて、ゆっくりと笑った。
「怖いよ?ほんとに。未来の前で消えるのだけは……いやだ」
風が吹き、彼のシャツが揺れる。
その風の冷たさで、私はようやく気づいた。
——海斗はまだ、ここにいる。
——まだ、消えていない。
今はまだ、触れられる。
話せる。
一緒にいられる。
それだけで胸がじんと熱くなる。
「海斗」
「なに?」
「ちゃんと……明日も会えるよね?」
彼は少し驚いたように目を丸くして、次の瞬間、優しく笑った。
「もちろん。会いたいよ。明日も、あさっても。ずっと⋯⋯」
「じゃあ……私も。会う」
「約束?」
「約束」
海斗は微笑み、手を伸ばしてきた。
私はそっとその手を握る。
あたたかい。
まだ、確かに生きている温度をしている。
「未来がいてくれると……消えない気がするんだ」
「消えないよ。絶対」
「根拠ある?」
「ない!」
「はは、正直だ」
二人で笑ったその瞬間、夕陽が海の向こうに沈んだ。
空は藍色に染まり、学校の灯りがぽつりと点る。
「そろそろ帰ろっか」
「うん」
屋上の扉に向かおうとした時、海斗が立ち止まった。
振り向いた彼の瞳は、夕陽の残光よりもずっとやさしかった。
「未来」
「なに?」
「……ありがとう。言えてよかった」
胸が温かくなって、私は小さく笑う。
「言ってくれて、ありがとう」
今夜、海斗は消えなかった。
怖い気持ちも、泣きたくなる想いもあった。
でも全部、今日、ちゃんと二人で受け止めた。
だからきっと、
——明日も、あさっても、会える。
屋上をあとにする足取りは、思っていたより軽かった。
その背中越しに感じたのは、風と潮の匂いと、そして確かに隣にいる海斗の温度だった。
正確には霧じゃない。視界が霞んでいた。
起き上がろうとした瞬間、こめかみの奥で鈍い痛みが弾ける。
無理に体を起こしたら、胸のあたりがぎゅっと縮む。
……まただ。
ここ数日、体が勝手に悲鳴を上げることが増えていた。
海斗には笑ってごまかしたけれど、本当は昨日より悪い。
制服のボタンをはめる手が、かすかに震える。
冷たい汗が背中を伝い、膝が軽く抜けた。
「大丈夫、大丈夫……」
自分に言い聞かせても、声がかすれて頼りなかった。
学校へ向かう途中、海風が吹いた。
その匂いが、今日はやけに胸を刺す。
港のほうからカモメの声が聞こえた。
いつもなら、写真を撮りたいと思うのに、今日はカメラを持つ手を上げる気力すらなかった。
通学路の紫陽花が濃く色づいていた。
雨が近いのか、空気が湿って重い。
足が止まる。
少し呼吸を整えてから歩き出す。
こんなこと、誰にも言えない。
特に海斗には。
海斗はきっと、自分のことでいっぱいのはずだ。
あのいなくなるはずだった。という言葉が、胸にしがみついたまま離れない。
校門をくぐると、海斗が立っていた。
私を見るとすぐに駆け寄ってきて、眉をひそめた。
「未来……ほんとに大丈夫?」
「うん、ほんとに……ちょっと寝不足なだけだよ」
「いつもより顔色悪いよ」
彼は私の額の横に手を伸ばそうとして――途中で止めた。
触れたいのに、触れられない。
そんな迷いが、手の震えから伝わってきた。
「……今日、授業きつかったら無理しなくていいから」
「ありがとう。平気だよ」
本当は平気じゃない。
でも海斗に言ったら、彼は昨日以上に苦しむ気がした。
嘘をつくのは嫌いなのに、彼の前だけはうまく嘘がつけてしまう。
それが痛かった。
授業中、教室の光がやけに白く見えた。
黒板の文字が二重になったり、急に遠くへ滑っていったりする。
ノートに鉛筆を走らせようとしても、字がまっすぐ書けない。
指先がしびれて、ペンが滑る。
そのたびに海斗がこちらをちらっと見た。
隣の席からの視線に気づくと、心臓の鼓動が早まる。
見られていると思うだけで、隠していた不安が表面に出てきそうだった。
授業が終わると、海斗がノートを閉じながら小声で言った。
「ねえ、未来……ほんとに、ほんとに無理してない?」
「海斗、心配しすぎ」
「心配するよ。当たり前だよ」
その声は、怒っているようで、泣きそうでもあった。
昼休み。
私は弁当を半分食べたところで、胃の奥がぎゅっと痛んだ。
海斗は私の表情を見るなり、箸を置いた。
「食べきらなくていい」
「ううん……食べたいんだよ」
「未来」
名前を呼ぶ声が、胸の奥を優しく締めつける。
「今日の放課後、どこか静かなところ行こう」
「静かなところ?」
「海の近く……あの、防波堤のところ。話したいこともあるし」
その言い方は、不思議なほど静かで決意があった。
昨日と言えなかったことを、今日こそ言うつもりなんだと思った。
胸がざわついた。
本当に、聞く覚悟があるのかな。
聞いてしまったら、もう戻れないのに。
放課後。
空はどこか薄暗く、雲が低く垂れていた。
海斗と二人で校門を出る。
歩くスピードはゆっくりだった。
私が早く歩けないことを、海斗は気づいている。
「未来、ほら――」
そう言って、そっと手首を支えてくれた。
触れた瞬間、体の奥の不安が少し和らぐ。
海へ向かう坂道を下りる途中で、再び軽いめまいがした。
足元がぐらりと揺れる。
「未来!」
海斗がすぐに支えてくれる。
彼の手は熱かった。
脈が伝わってくるほど強く握ってくれていた。
「……ごめん、ちょっとふらって」
「いい。謝らないで」
海斗の声は、まるで震えていた。
私よりも、私の体を恐れているみたいだった。
二人で防波堤に立つと、波の音が大きく聞こえた。
水平線の向こうは灰色の空。
風が濃くなり、海の匂いが胸に刺さる。
「未来」
海斗が静かに言った。
「どこから……話すべきかな」
彼は空を見つめたまま動かない。
風で前髪が揺れているのに、手で直そうともしない。
「昨日言えなかったこと……全部言おうとしてる?」
私が尋ねると、海斗はゆっくり頷いた。
「うん。でも……未来の顔色見てたら、ほんとは言っちゃいけない気もしてて」
「私のせいで言えないなら、言って」
「違うよ」
即答だ。
「未来が壊れるのが怖いんだよ。俺が言うことで」
海斗の声が、海よりも深く沈んでいく。
「だって未来、最近ずっと体調悪いのに……どうして誰にも言わないの」
息が止まった。
「言えばいいのに。俺だけじゃなくて、先生でも、家族でも……誰かに言えばいいのに……」
海斗は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「未来が苦しいとき、俺……何もできない。見てるだけで、息が詰まる。未来が倒れたら……ほんとに、俺、どうしたらいいのか――」
「海斗」
私は彼の手をそっと握った。
「大丈夫だよ」
「未来……」
「大丈夫だから。海斗がそばにいるだけで」
そう言った瞬間、海斗の表情が崩れた。
そして小さな声で呟いた。
「……それが、一番怖いのに」
風が吹き、海斗の横顔が陰に沈む。
「未来が俺に頼ってくれるのは……嬉しいよ。でも……俺は、いつ未来の横から消えるか分からないんだよ」
胸が凍りついた。
「未来。俺……もうすぐあの日が来る」
「あの日?」
海斗は目を閉じ、深く息を吸った。
「消える日だよ」
その言葉は、波の音にも負けないほどはっきり響いた。
私は返事ができなかった。
目の前の海が、歪んで見えた。
海斗は私の反応を待たず、続けた。
「俺……ここに長くいられない。本当は未来に関わっちゃいけなかった。でも……未来に会ったら、もう離れられなかった」
海斗は胸に手を当てた。
そこを押さえていないと、何かが崩れ落ちるみたいに。
「だから……未来には、絶対に壊れてほしくないんだよ……」
その声は、海に溶けていくみたいに弱かった。
私は一歩だけ近づいた。
「海斗」
風に揺れる声で呼ぶ。
「……いつ、消えるの?」
海斗は少しの間、空を見つめていた。
言うか言わないか迷う沈黙が続いた。
そして、唇を震わせながら答えた。
「……夏が終わる前。未来と出会った季節が……俺の終わりの季節なんだ」
世界が止まった。
海が遠くに聞こえる。
風の音も、全部、薄い膜の向こうみたい。
夏が終われば、海斗はいない。
「嫌だ……嫌だよ」
気づいたら、そう言っていた。
海斗は私の肩を抱いて、そっと額を寄せた。
触れたところが熱くて、泣きそうだった。
「未来。
……ごめん。
本当は、未来が俺を忘れてくれたら……いちばん楽なんだ」
その言葉は残酷なのに、優しさでできていた。
私は海斗の胸にしがみついた。
「忘れられるわけないよ……忘れたくないよ……」
「未来」
「だって、好きなんだよ……海斗のこと……」
その瞬間、海斗の息が止まった。
彼は顔を上げ、私の頬を両手で包んだ。
目が、痛いほど優しかった。
「……俺もだよ」
「海斗……」
「でも未来……好きだからこそ、未来の時間を奪うわけにはいかないんだよ」
海斗は言葉を震わせ、私の額にそっと触れた。
「だから未来。
俺が消えても、生きてほしい。
……未来は未来の時間を進んでほしい」
涙が止まらなかった。
未来と海斗の間に、二人だけの時間が落ちていく。
消えゆくものと、生き続けるものの線が、はっきりと引かれてしまった瞬間だった。
その夜、私は部屋で泣いた。
泣き疲れても、涙は止まらなかった。
海斗の言葉が、胸の深いところで何度も繰り返された。
夏が終わる。
海斗が消える。
その現実が、私の世界の色をひとつずつ奪っていった。
でも、私はまだ知らなかった。
海斗が“消える理由”が、
私の体調不良と、同じ根っこに繋がっていることを。
八月の終わりが近づくと、町がすこしずつざわめき始めた。
港では白いテントが並び、漁師たちが声を張り上げて準備を急いでいる。
商店街には赤い提灯が吊られ、昼間でもどこか祭りの匂いがした。
けれど私の胸の中は、あの賑やかさとはまったく違う波を立てていた。
海斗の最近の言葉の断片が、ずっと心に引っかかっていた。
「未来の声がしないと、不安になる」
「たまにさ、立ってる場所がゆっくりずれていくような気がするんだ」
「うまく説明できないけど……意識が、ふっと遠くなって」
それがただの比喩なのか、疲れなのか、
それとも——もっと別の何かの兆しなのか。
考え始めると、夏の空気より重い何かが胸にのしかかった。
私は、ここ数日ずっと微熱みたいなだるさが続いていた。
立ち上がると少し眩暈がする。
でも誰にも言わなかった。
海斗のほうが、もっと気になる。
あの人の影が、少しずつ薄くなっているようで怖かった。
その日、写真部の部室には、夕陽の色が深く差し込んでいた。
窓から吹き込む風は潮の匂いを運び、赤い暗室ランプの光を揺らしていた。
「未来、これ……落ちてた」
一年生の黒川が、現像が終わったばかりの写真を数枚手渡してきた。
白い指先に、まだ薬品の匂いが残っている。
「ありがとう。……あれ?」
写真を確認して、私は息を呑んだ。
屋上で撮ったあの日の写真。
海斗と並んで、笑っているはずのカット。
一枚だけ、海斗の姿が消えていた。
空白になっている場所だけ、光が抜け落ちている。
風で髪が揺れたはずの影も、シャツの白さも、そこにはなかった。
「海斗……これ」
「ん?」
部室の隅でロッカーに荷物をしまっていた彼がこちらを見た。
「これ……海斗が写ってない」
差し出した写真を、海斗はしばらくじっと見ていた。
驚いているようにも見えたし、逆に、知っていたようにも見えた。
「本当だ。……消えてるね」
写ってないじゃなく消えてると言った。
その言い方に、胸がざわついた。
「ほら、風で……光がぶれただけじゃない?」
「ううん。これは違う」
海斗は写真の角をそっと押さえた。
指先が、ほんの少し震えていた。
「未来の写真は、全部正確なんだ。だからごまかせない」
「ごまかせない……って?」
尋ねる私の声より、海斗の視線のほうが揺れていた。
夏の終わりの光が、彼の瞳の奥で反射して、
なんだか痛いほど透明だった。
そのとき、大きな風が部室に吹き込み、
机の上のプリントがばらばらと舞い上がった。
カーテンが大きく揺れ、暗室ランプの赤い光が、まるで息をしているみたいに脈打った。
「未来!」
風に煽られたプリントを追いかけようとした瞬間、目の前が急に白くぼやけた。
胸がざわっとして、足もとが揺れる。
ふらついた私の肩を、海斗が素早く支えてくれた。
「大丈夫? 未来、最近ずっと調子悪いだろ」
「……平気。ちょっと、眩しくなっただけ」
本当は、さっきから息が浅かった。
でも、それよりも海斗の手の温度が少し冷たいことのほうが気になった。
「未来」
名前を呼ばれて顔を上げると、海斗の表情はどこか切なそうで、戸惑っているようで、それでいて、何かを決めた人の顔だった。
「……もし俺がいなくなっても」
心臓が跳ねた。
世界が止まる。
「君の撮った夏は、ちゃんと残るよ」
「いなくなるって……どういう意味?」
問い詰めたいのに、声が震えてしまう。
海斗は笑った。
夕焼けの光の中で、その笑顔が少しだけ透けて見えた。
「未来。君といると、俺……ここに留まれる気がするんだ」
「留まるって、どこに?」
「わからない。でも……」
彼は写真に触れながら、ゆっくり言った。
「君が呼んでくれると、ちゃんとここに戻ってこれる」
その台詞は、意味がわからないのに、
なぜか胸に深く刺さって抜けなかった。
窓の外では夕陽が海の向こうに沈みかけ、
オレンジ色が部室の床を長く染めていた。
海斗はその光の中で目を細めた。
まるで、太陽と一緒に薄くなっていくみたいに見えた。
「未来」
静かに名前を呼ばれる。
「俺は……君に会えてよかった」
その言葉は、どんな風よりどんな波より、ずっと深いところに落ちていった。
私は、何も言えなかった。
涙がこぼれそうで、声が出なかった。
海斗はそっと笑って、夕焼けの色の中で、ほんの少しだけ霞んだ。
八月の夕暮れは、いつ見ても少し切ない。
空気が熱を抱いたまま冷めていくときの、あの胸の奥がじわりと掴まれるような感覚。
それがこの数日は、いつもより強く感じられた。
学校から家に向かう道で、ふと足を止める。
風鈴の音が遠くで揺れ、紫陽花はすっかり色を失いかけ、 街灯の下に伸びた自分の影が、妙に頼りなかった。
少し、頭が重い。
階段を上がるたびに息が浅くなるのを感じている。
でも、誰にも言っていない。
家でも、部活でも。
海斗にも。
言えば、彼の顔が曇る気がしたからだ。
スマホを見ると、海斗から短いメッセージが来ていた。
『今日、屋上にいる』
それだけ。
なのに、その文字を見ただけで胸が熱くなる。
会いたいって、こんなにも簡単で、こんなにも残酷な気持ちなんだと知る。
夏の屋上は、ちょっとした魔法みたいだった
屋上への扉を押すと、湿った風がふっと頬を撫でた。
夕陽と夜の境界線が、空の真ん中で揺れている。
あの時間だけは、たった数十分だけは、世界がゆっくり呼吸しているみたいだった。
「未来」
名前を呼ばれて振り返ると、海斗がフェンスにもたれて空を見ていた。
夕陽の光が彼の横顔を滑っていく。
「大丈夫?なんか……今日も、顔色悪い」
「大丈夫。ちょっと暑さに負けただけ」
嘘だ。
でも、それを言うとまた体調が悪くなる気がして、笑ってみせた。
海斗はしばらく黙っていた。
夕陽に目を細めて、風に髪を揺らされながら。
その沈黙が、妙に胸を締めつけた。
「未来ってさ」
彼は空から視線を外さずに言った。
「強いよね」
「そんなことないよ」
「あるよ。俺よりずっと。……だからかな、安心する」
その声は強がりでできていた。
その強がりの裏にある薄い痛みを、私はどうしても見逃せなかった。
私たちの間に風が吹く。
潮の匂いと、夏の終わりの気配が混ざる。
海斗の影が、また揺れた
「海斗、さ」
言葉にする前に、胸の奥がきゅっと痛んだ。
体調のせいなのか、不安のせいなのか、わからない。
「最近、ほんとに大丈夫なの?」
彼は少しだけ驚いた顔をした。
でもすぐにやわらかく笑った。
「未来には隠せないね」
「隠せてないよ」
風が吹いて、二人の影が細長く伸びた。
その影の端が、ふいに薄くなる。
私のではない。
海斗の影——だった。
目の錯覚だと思いたかった。
太陽が沈む光の角度のせいだと。
でも、胸のどこかが小さく強く警告していた。
——まただ。
——また、薄くなった。
「……未来?」
呼ばれて、はっと息を吸った。
「ごめん。ちょっと眩しくて」
また嘘だ。
でも本当のことなんて言えない。
あなたの影が薄れていくのが、怖いなんて。
そんなこと、言えるわけがない。
「祭り、行く?」
海斗がぽつりと聞いた。
「え?」
「来週の夏祭り。……一緒に行けたらいいなって」
花火の音と、海斗の消えてしまうかもしれない影が重なる。
胸の奥が痛んだ。
「行く。行きたい。絶対」
「そっか。……よかった」
海斗の笑顔が夕陽に溶けていく。
その笑顔が、一瞬だけ透けて見えたような気がした。
「未来、」
海斗は少しだけ声を落とした。
「俺……夏祭りまで、ちゃんといられたらいいな」
いられたら。
その言い方だけが、世界から色を奪った。
「……ねえ、それってどういう意味?」
問いかける声が震えていた。
海斗は、夕陽の沈む方向を見て小さく笑った。
「未来なら、わかると思ってた」
「わからないよ」
「ううん。君は気づいてる。俺の……姿が、時々、薄くなること」
夕風の中で、海斗の影はまた揺れた。
海斗の言葉が空気に落ちた瞬間、屋上の時間がゆっくり止まった気がした。
——未来なら気づいてる。
——俺の姿が、時々、薄くなること。
それは、冗談の言い方じゃなかった。
誰にも言えなかった秘密が、形になってしまったような声音だった。
「……気づいて、たよ」
言葉にすると胸が苦しくなった。
風の音さえ遠くなる。
「でも、本当に……海斗が薄くなるなんて、そんなの信じたくないに決まってるじゃん……」
自分の声が震えているのがわかった。
泣きそうなのをごまかすために笑おうとしたけれど、うまくできなかった。
海斗はゆっくり、私の近くに歩み寄った。
足音がひどく静かだった。
「未来」
その一言が、胸の奥をぎゅっと掴んだ。
「俺……どこにも行きたくないんだよ」
夕陽の光が、彼の瞳に反射して揺れた。
その揺れが、痛いほど綺麗で、息が止まりそうだった。
「でもね、未来。ほんとにもう、あんまり時間がないんだ」
「……時間って、何の?」
「…………俺のここにいられる時間だよ」
海斗は空を見上げた。
夏の終わりの薄橙色が、彼の横顔を染めていた。
「たぶん……もうすぐ、消える」
その言い方はあまりに静かで、聞き間違えたんじゃないかと、一瞬思った。
「消えるって……転校するって意味じゃなくて?」
違うと言ってほしかった。
どんな嘘でもいいから、笑ってほしかった。
でも海斗は首を横に振った。
「違う。俺は、そういう存在なんだよ、未来」
胸の奥がざわざわし、息がうまく吸えなくなった。
心臓が早くなる。
視界が少し揺れる。
体調の悪さが重なって、地面がふわっと沈むような感覚がした。
「未来、座ろう」
海斗が肩に触れた瞬間、
その手の温度がいつもより冷たかった。
まるで、もう半分この世界にいないみたいな温度だった。
「未来は……俺を普通の人だと思ってるでしょ?」
「思ってるよ。だって海斗は海斗だよ」
「ありがとう。でも——」
海斗はゆっくり息を吸い、吐いた。
決心した人の声だった。
「俺ね……生まれたんじゃないんだ」
心臓が跳ねた。
「未来の町に来たのは、転校だからじゃない。俺は、ある人たちの記憶から、だんだん消えていって……最後に、ここに流れ着いた」
夕風が吹き、彼の髪を揺らした。
その姿が一瞬、ほんの一瞬だけ薄れた。
フェンスの向こうに溶けそうになって、また戻ってくる。
私は思わず手を伸ばした。
確かめるように彼の袖を掴む。
手が震えていた。
「消えないで。 ねえ、消えるって何?どこに行くの……?」
「わからないよ」
海斗は悲しそうに笑った。
「でも、最初に言っただろ。俺ってさ……どこか遠くを見ちゃうって」
あれは癖じゃなかった。
意識が、この世界から少しずつ離れている合図だったのか。
「未来」
海斗が私の手を握った。
その感触があまりに頼りなくて、胸が締めつけられる。
「ごめん。言うつもりなかったんだ。言ったら、きっと泣かせるってわかってたから」
「泣かないよ……泣かないから……」
でも、涙は溢れていた。
止めたくても止まらなかった。
海斗は優しく拭ってくれた。
指の動きが静かで、丁寧で、今触れた瞬間が最後になるかもしれないような触れ方だった。
「未来のこと……好きになったせいで、余計に消えにくくなったんだと思う」
その声が震えていた。
「だから……怖くなったんだ。消えるとき、君を置いていくのが」
涙が落ちて止まらなかった。
海斗が顔を上げ、かすかに笑う。
「でも……言えて、よかった」
夏の終わりの風が吹く。
日が沈みかけ、屋上の光が揺れ始める。
その光の中で、
海斗の姿が一瞬——透けた。
私は息を呑んで、強く手を握り返した。
「海斗、まだ言わないで。消えるとか、やめてよ……」
「未来」
その声は、波の音より優しかった。
「君に出会えて、ほんとによかった」
私の涙が落ちる。
屋上の床に、ぽたりと落ちて消えた。
海斗の姿も、夕陽に溶けるように、
すこしだけ淡く揺らいだ。
屋上の風は、先ほどより少し冷たくなった。
夕陽の光が、海斗の輪郭を黄金色に染める。
でも、その輪郭のどこかが、ほんの少しだけ、揺らいでいる。
「未来……」
海斗が私の手を握ったまま、静かに息をつく。
肩の力が抜けたように見えるその姿に、胸が痛くなる。
「俺ね……生まれたときから、ずっとこうだった」
そう言って、海斗は少し笑った。
でも、その笑顔はどこか寂しげで、温度が薄い。
「俺は、消えていく存在なんだ。この世界の時間や人の記憶の中で、だんだんと薄れて、最後には、誰の目にも触れられなくなる」
その言葉が、屋上の空気に重く落ちた。
胸の奥がぎゅっと締め付けられ、息をするのも忘れそうになる。
「でも……未来にだけ、会えたんだ」
海斗は微かに笑った。
「君の目には、俺が見える。君の心には、俺が残る。だから……ここに、こうしているんだ」
私の手のひらに、海斗の手の温もりがある。
でも、確かに薄い。
ふわりと指先から消えてしまいそうな、不思議な軽さがあった。
「だから……お願い、未来」
海斗の瞳は真剣で、少し震えていた。
「俺が消えても、君の中にいる俺を、忘れないでほしい」
私は言葉が出なかった。
ただ、涙が次々と頬を伝う。
口を開くと、声が震えてしまう。
「海斗……どうして、もっと早く……教えてくれなかったの……?」
海斗は小さくうつむく。
風が彼の髪を揺らし、光が時折、透けたように見えた。
「怖かったんだ……。ほんとに。……未来に迷惑をかけたくなかった」
その言葉に、胸の奥がさらに痛む。
どうして、こんなにも優しくて、切ない存在なんだろう。
「でも……好きになった。好きになったせいで、もっとここにいたくなった」
彼の声が小さく震える。
「君に会えたから、最後まで……消えたくなかった。ごめん」
私はその手を握り返す。
強く、離さないように。
もう二度と、離さないように。
未来の心が、ひどく揺れる。
でも、言葉にできるのはただ一つ。
「海斗……私も、好き……」
その瞬間、海斗の目が少し潤んだ。
光の中で揺れるその瞳は、夕陽の波と同じ色で、消えてしまいそうで、胸が締めつけられる。
海斗は私の肩に頭をもたれかける。
ふわりと、ほんの少し、存在が薄れるような感覚。
でも、私の心にははっきりと存在している。
「未来……俺、消えるとき、君のこと……ちゃんと覚えていたい」
私は強く首を振る。
「忘れない……絶対に忘れないから」
屋上に、静かな時間が流れる。
遠くでカモメが鳴き、港の波が光を反射する。
潮の匂いが、少し濃くなって、世界を包んでいる。
海斗の存在は、もう普通の時間にはない。
でも、私の心に、確かに、深く残る。
指先に残る手の温もり、肩に感じる体温、そしてその声。
それだけで、十分すぎるほど、ここにいると感じられる。
夕陽が完全に沈む頃、海斗はそっと離れる。
それでも、瞳は私を見つめていた。
「じゃあ……また、明日」
その声が、波の音に消えていく。
私はその場に立ち尽くす。
心が張り裂けそうで、でも少し温かい。
涙が止まらないけれど、もう怖くはなかった。
——海斗が消えてしまうとしても、私の中には、確かに、存在している。
そして、私はそっと呟く。
「海斗……」
潮の匂いの中で、静かに、。屋上の風が二人の思い出を抱きしめていた。
夏休みの終わりが近づく頃、学校は文化祭の準備でざわついていた。
写真部の部室も、机や椅子が並べ替えられ、壁には展示用の写真が並び始めている。
私はカメラを肩にかけ、写真の位置を微調整していた。
その手は自然に震えることもあった。
海斗のことを思うと、胸の奥が少し熱くなるのだ。
「未来、手伝ってくれる?」
声をかけたのは部長の真帆だった。
ふと振り向くと、海斗が窓際で手伝いをしている。
光が差し込んで、彼の髪が金色に光っていた。
私は思わずシャッターを切りそうになる。
でも今は、ただそっと見ているだけで十分だった。
「……この角度の方が写真が映えると思うんだ」
海斗が小さく笑いながら、壁に掛ける写真の位置を直す。
その笑顔は、いつもより柔らかくて、そして少し切ない。
みんなの前では明るく振る舞うけれど、こうして二人きりになると、目の奥に何かが隠されているのがわかる。
私はカメラを持った手を握りしめた。
——どうしても、この横顔を、笑顔を、閉じ込めておきたい。
展示が完成するまでの時間は、あっという間に過ぎていった。
写真の前で、友達やクラスメイトが感想を言い合う声。
海斗と目が合うたび、心臓が少しだけ早くなるのを感じた。
放課後、屋上で二人だけになる。
夏の夕陽が校舎を赤く染める。
海斗は私の隣に座り、手元のカメラをいじっていた。
「ねえ、未来」
「ん?」
「文化祭って、なんだか特別だよね」
小さな声。だけど、なぜか胸に響いた。
彼はどこか遠くを見つめるように、でも優しく微笑んでいる。
「うん……特別だと思う」
私は答えながら、そっと彼の写真を撮る。
今この瞬間も、すぐに過ぎ去ってしまうから。
海斗は一枚の写真を指差した。
それは、前に私が撮った彼の笑顔の写真だった。
「……これ、俺?」
「うん、撮ったのは私。好きな瞬間だったから」
海斗は少し照れたように笑った。
その表情は、ほんの少し子どもっぽく、でもとても優しく見えた。
私はそっと、心の中で思う。
——消える前に、できるだけたくさんの思い出を刻もう。
——笑顔も、横顔も、言葉も、全部。
夕陽が沈み、海の向こうが少しずつ紫に染まる。
風が、私たちの間に柔らかく吹き込む。
その瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
文化祭の準備、展示の成功、放課後のひととき——。
すべてが、私たちの夏を形作っている。
そして、海斗がまだここにいる、という事実だけで、世界は少しだけ輝いていた。
夕陽が沈みきる前、屋上の風が少し冷たくなった。
夏の空気がまだ重たく残っているのに、どこか秋の気配が混じっている。
そんな時間帯だった。
「未来」
海斗の声は、ほんの少しだけ震えていた。
けれど、その震えを隠すように、いつもと同じ笑顔を見せる。
「やっぱり今日、言いすぎちゃったかも」
「……ううん。言ってくれて、よかったよ」
本当は、胸がまだ痛い。
でもそれを表に出してしまえば、彼が自分を責めるとわかっていた。
「未来はさ、強いよね」
「そんなわけ……ないよ」
笑いながら言うと、海斗はゆっくり首を振った。
「強いよ。俺よりずっと。だって、俺が言ったこと……ちゃんと全部受け止めてくれたじゃん」
その言い方があまりに優しくて、私は視線をそらした。
夕陽の赤が彼の横顔を照らし、その輪郭はかすかに揺れて見える。
——薄れているわけじゃない。
ただ、光がそう見せているだけ。
そう思いたかった。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「……怖い?」
彼は一瞬だけ目を伏せて、ゆっくりと笑った。
「怖いよ?ほんとに。未来の前で消えるのだけは……いやだ」
風が吹き、彼のシャツが揺れる。
その風の冷たさで、私はようやく気づいた。
——海斗はまだ、ここにいる。
——まだ、消えていない。
今はまだ、触れられる。
話せる。
一緒にいられる。
それだけで胸がじんと熱くなる。
「海斗」
「なに?」
「ちゃんと……明日も会えるよね?」
彼は少し驚いたように目を丸くして、次の瞬間、優しく笑った。
「もちろん。会いたいよ。明日も、あさっても。ずっと⋯⋯」
「じゃあ……私も。会う」
「約束?」
「約束」
海斗は微笑み、手を伸ばしてきた。
私はそっとその手を握る。
あたたかい。
まだ、確かに生きている温度をしている。
「未来がいてくれると……消えない気がするんだ」
「消えないよ。絶対」
「根拠ある?」
「ない!」
「はは、正直だ」
二人で笑ったその瞬間、夕陽が海の向こうに沈んだ。
空は藍色に染まり、学校の灯りがぽつりと点る。
「そろそろ帰ろっか」
「うん」
屋上の扉に向かおうとした時、海斗が立ち止まった。
振り向いた彼の瞳は、夕陽の残光よりもずっとやさしかった。
「未来」
「なに?」
「……ありがとう。言えてよかった」
胸が温かくなって、私は小さく笑う。
「言ってくれて、ありがとう」
今夜、海斗は消えなかった。
怖い気持ちも、泣きたくなる想いもあった。
でも全部、今日、ちゃんと二人で受け止めた。
だからきっと、
——明日も、あさっても、会える。
屋上をあとにする足取りは、思っていたより軽かった。
その背中越しに感じたのは、風と潮の匂いと、そして確かに隣にいる海斗の温度だった。



