次の日の朝、私はいつもより早く目が覚めた。



 窓の向こうで、薄い雲がゆっくりと流れている。

 潮の匂いがかすかに漂い、夏がまだ終わらないことを告げていた。



 昨日の海斗の「明日、話す」という言葉が、胸に残ったまま眠れなかった。



 期待と不安が混ざり合い、目を閉じれば何度も同じ光景が蘇る。

 夕暮れの廊下、海斗の表情。その声。その震え。



 ——今日、なにを話すんだろう。



 知りたい。でも知るのが怖い。

 そんな矛盾した気持ちが、私を掴んで離してくれなかった。



 学校につくと、まだ朝の光が廊下に薄く残っていた。

 夏休み明けの校舎は少しざわついていて、どこか落ち着かない。



 靴箱の前で靴を履き替えていると、背中をポンと叩かれた。



 「未来、おはよ!」



 振り返ると、クラスメイトの綾が元気よく笑っていた。

 彼女は私と違って、感情が全部表に出るタイプだ。



 「元気ないけど、どうしたん?」



 「え、別に……」



 「絶対なんかあるやろ、顔してる」



 「……まあ」



 「ふーん……好きな人のこと?」



 その瞬間、靴がひっくり返りそうになった。



 「ち、違うってば」



 「は?絶対そうやん。未来の“何でもない”って、8割方何かあるやつやし」



 「……そんなことないよ」



 綾は「絶対ある」と言いたげにじっと私を見つめた。

 その視線から逃れるように、私は廊下の奥を見た。



 ——そこに、海斗が立っていた。



 彼は校舎の窓から外を眺めていて、相変わらずどこか遠い表情をしていた。

 朝の光が彼の横顔を照らし、髪が少し揺れた。



 その光景を見た瞬間、心臓が跳ねた。

 昨日から続く胸のざわつきが、一気に蘇る。



 綾も彼の存在に気づいたらしく、声を潜めて言った。



 「……未来、あの子。転校生の橘くんやろ?」



 「うん」



「なんか……雰囲気あるよな」



 「そう?」



 「うん。なんか、影みたいなん背負ってるっていうか……」

 綾の言葉が胸に引っかかった。

 影——。

 まさにその通りだと思った。



 そのとき、海斗がこちらに気づいた。

 少し驚いたように目を見開き、そして静かに微笑んだ。

 その笑顔が、昨日の夕暮れよりも少しだけ優しく見えた。



 私は綾に「またね」と言って、海斗の方へ歩き出した。



「おはよう、未来」



「おはよう。……昨日のこと、だけど」



「うん。放課後、話すよ。場所は……後で伝える」



 彼は少し不自然な笑顔を浮かべた。

 その笑みの裏に何があるのか、どうしても知りたかった。



 授業中、私は全く集中できなかった。

 黒板の文字はぼやけ、先生の声は遠く、時間だけが無意味に流れていく。



 そして気づけば、放課後になっていた。



 海斗からメッセージが届いたのは、教室を出ようとした瞬間だった。

 

 「屋上に来て。誰もいない時間を狙ったから」



 心臓が一気に早くなる。



 私は階段を駆け上がり、屋上の扉を開けた。



 海斗は、柵にもたれかかっていた。

 遠くの海を見つめていて、背中越しにその表情が少し緊張していることが分かった。



 「未来。……来てくれて、ありがとう」



 ゆっくり振り返った海斗の顔には、悲しみとも、諦めともつかない影があった。

 私は胸がざわついて、そっと息を吸った。



「話って……」



 海斗は小さく頷いた。



「未来、俺……たぶん、ここに来る前から、君のこと知ってた」



 心臓が止まる。

 時が一瞬だけ静止したみたいだった。



「どういう、こと……?」



「説明すると長くなる。でも……知らないふりしてた。君を知らない転校生でいるべきだと思ったから」



 海風が強く吹いた。



 制服の裾が揺れ、空の色が少し薄くなる。



 海斗は、風に消え入りそうな声で続けた。



「未来。俺、君の写真……ずっと前から見てたんだ」



 私の胸の奥で、何かが強く震える。



「たぶん、君は覚えてない。だけど——」



 海斗が言葉を続けたそのとき、



 バンッ



 屋上の扉が勢いよく開いた。



 「橘!今日こそ、話してもらうぞ!」



 生活指導の先生が怒気を含んだ声で立っていた。



 海斗の顔が、青ざめた。



 「……未来、行かないと。ごめん」



 彼は私に背を向け、先生の方へ歩いて行った。

 その背中は小さくて、でも何か重いものを背負っているように見えた。



 私は、その背中が扉の向こうに消えていくのを、ただ見ていることしかできなかった。



 屋上に残された風が、胸を撫でていく。



 ——海斗は、私の知らない場所で、私の知らない時間を持っている。



 その事実が、胸に重く沈んだ。



 今日、聞けなかった“全部”が、さらに深い場所へ潜っていく気がした。



 けれど。



 私は確かに知った。



 海斗の秘密は、私たちの出会いよりも前にある。

 そして、それがきっと——この夏のどこかで、私を強く揺さぶることになる。




 屋上から海斗が連れ出されていった後、私はしばらく動けなかった。



 風の音がするたび、彼の声が消えていった気がして、胸がざわつく。



 ——海斗は、私を前から知ってた。

 その意味の重さを、私はまだ受け止めきれていなかった。



 夕日が校舎を赤く染めるころ、私はようやく屋上をあとにした。

 階段を下りるたび、胸の奥がきゅっと縮まる。



 全部話すと言った彼が、今日もまた何も言えずに去っていった。



 焦らないで。

 そう言い聞かせても、気持ちは先に走ってしまう。



 次の日。

 私はいつものように教室に入ったが、海斗の席は空のままだった。



 時間が過ぎても、席は埋まらない。

 先生が入ってきても、海斗は来なかった。



 「おい、橘また欠席か?」



 「この前も休んでたよな」



 誰かのそんな声が聞こえた。



 胸がざわついた。

 昨日、先生に呼ばれていった後、海斗に何があったんだろう。



 心配が喉の奥でつかえて、息が少しだけ苦しい。



 放課後、私はいつものように写真部へ向かった。

 今日は誰もいなくて、暗室の赤い光だけが廊下に漏れていた。



 ドアを開けると、乾いた薬品の匂いが広がる。

 その中に、濡れたフィルムが数枚吊るされていた。



 その中に——見覚えのある影があった。



 海斗だった。



 横顔。

 俯いている姿。



 そして、私と並んで歩く後ろ姿もあった。



 「……これ、いつの?」



 私はフィルムにそっと指を伸ばした。

 未来の私たちではない。もっと前の、どこか知らない時間のもの。



 ぞくり、と背中が震えた。



 海斗は、いつから私を知っていたんだろう。

 いつから私を撮っていたんだろう。



 前から知ってたという言葉が、急に重く、現実味を帯びて迫ってくる。



「未来」



 突然、背後から声がした。

 驚いて振り向くと、暗室の入口に海斗が立っていた。



 顔色は悪く、目の下には薄い影が落ちていた。

 でも、その目は真っすぐ私を見ていた。



「ちょっと……来てほしくて」



 彼の声は少し掠れていて、どこか疲れていた。



 私は思わず一歩近づいた。



「大丈夫なの?今日、学校休んで……」



「うん。平気。少し、先生と話が長引いただけ」



 そう言ったけど、その顔は全然平気には見えなかった。



 海斗は私の視線に気づき、少しだけ苦笑した。



「未来。昨日の続き……ちゃんと話すよ」



 私は緊張で喉が鳴った。

 海斗は暗室に一歩踏み込み、吊られたフィルムに目を向けた。



「これ、俺が撮ったんだ。随分前に」



 やっぱり、そうだった。



「……いつ?」



「未来が二年生になる直前。まだ俺、この町に来る前」



 私は息を飲んだ。



「なんで……?」



 海斗はしばらく黙って、息を整えるように深呼吸した。



「未来の写真を最初に見たのは——この町の写真集だった。港の書店で、偶然手に取って……そこに、いたんだよ。君が」



 心臓が一気に跳ねた。



「……私?」



「うん。紫陽花の前で、カメラを構えてる君の横顔が載ってた。すごく静かで、でも、何かに触れようとしてるみたいで……」



 海斗は少し照れたように笑って、でもすぐに真剣な表情になった。



「その写真を見た瞬間……一度でいいから話してみたいって思った」



 胸がじわっと熱くなる。

 でも同時に、不安も膨らんだ。



「じゃあ……どうして、転校してきたとき、知らないふりしたの?」



「……その方がいいと思ったから」



「なんで?」



「未来を巻き込みたくなかったから」



 まただ。

 巻き込みたくない。

 守れない。



 その言葉が何度も胸を刺す。



「海斗。巻き込むって……何に?」



「……言いたい。でも、まだ言えない」



「どうして?」



 海斗は目を閉じ、ゆっくり息を吸った。



「未来に嫌われるのが怖いんだよ」



 その一言で、身体が一瞬止まった。



 胸の奥が、痛いほど熱くなった。

 言葉が喉につかえて出てこない。



「俺、未来の笑顔が好き。写真よりずっと綺麗だと思う。でも……俺を知ったら、その笑顔が俺から離れていく気がして」



 暗室の赤い光が海斗の顔を柔らかく照らしていた。



 でも、その影はいつもより深かった。



「だから、本当は……関わらないつもりだった。でも、それが無理だった」



 未来、と呼ぶ声は震えていた。



「君を好きになりそうで……怖かった」



 その瞬間。

 赤い光が滲んで見えるほど、胸が切なくなった。



 私は小さく息を吸い、勇気を振り絞って言った。



「……もう、なってるよ。好きに」



 海斗が驚いたように目を見開いた。



 暗室で、薬品の匂いが漂う中、風の音もしない静かな世界の中で、 私の言葉だけが静かに落ちた。



 海斗は唇を震わせた。

 目の奥がじんと揺れた。



「未来……やめてよ。そんなこと言われたら……俺、本当に離れられなくなる」



 その声は、切なすぎて胸が締め付けられた。



「離れないでよ」



 気づいたら言っていた。

 心臓の鼓動がうるさくて、自分の声が震えて聞こえた。



 海斗は苦しそうに目を閉じ、そして絞り出すように言った。



「未来……お願いだから、俺から離れないでって……言わせないで」



 暗室の赤い光が、二人の距離を残酷に照らしていた。



 手を伸ばせば届く距離なのに。

 届かない理由を、彼だけが知っている。



 その理由が、海の底のように深く、見えない場所に沈んでいることだけは分かった。




次の日、私はまた朝から頭痛がひどかった。

 寝不足が続いているわけでもないのに、朝から胸が重い。

 それでも、目覚まし時計の音が鳴ると、無理に布団を跳ね除けて身体を起こした。



 どうしてこんなにだるいんだろう。



 気づけば、しばらく体調が優れなかった。

 それでも、自分で何とか乗り越えられると思っていた。

 無理をしなきゃ大丈夫だと。



 でも、今日はどうしても頭の奥が鈍く痛む。

 息が浅く、少し歩いただけでふらふらする。



 気のせいだ。きっと。



 そう、心の中で何度も繰り返していたけれど、体はついてこない。

 制服の上着を羽織りながら、鏡に映る自分の顔が思っていたより青白く見えて、ちょっと驚いた。



 でも、それでも私は無理に笑顔を作って、家を出た。



 学校に着くと、すぐに目に入ったのは海斗だった。

 彼はいつものように、一人でぼんやり窓の外を見ていた。



 その姿を見ると、心の中で何かがゆっくりと溶けるような気がして、少しだけ楽になった気がした。



 でも、やっぱりどこか気になる。

 彼が何かを隠していること、それが気になって仕方がない。

 あんなに親しく話したのに、まだ話しきれていないことがたくさんある。



 そんな思いが胸の奥で重くなって、また少し息がしにくくなった。

 気づけば、そのまま自分の席に座り込んでいた。



 放課後、部活の時間になると、私は部室に向かうために足を運んだ。

 ドアを開けると、いつもの静かな部室が広がっていた。



 だけど、今日は何だかいつも以上に心地よく感じなかった。

 何かが足りないような、沈んだ空気がそこにあった。



「……未来?」



 声が聞こえて、振り向くと、そこには海斗が立っていた。



 その顔は、少し心配そうで、でもどこか距離を置くような表情も見えた。



「海斗、どうしたの?」



「いや、なんか顔色悪いけど、大丈夫か?」



 その言葉が意外にも胸に刺さった。

 海斗に気づかれているんだ。

 無理していることを、バレてしまった。



「大丈夫……ちょっと頭が痛いだけ」



 無理に笑ってみせると、海斗は少しだけ眉をひそめていた。

 けれど、何も言わずに黙ってそばに寄ってきた。



「なんかさ、顔が蒼いよ」



 言葉の重みがズシンと胸に響く。

 そしてその言葉の奥に、海斗の本当の思いが隠れていることに気づいた。



「やっぱり、無理しちゃダメだよ。しんどいときは休んだほうがいい」



 その声には、少しだけ優しさが混じっていた。



 でも、私はそれに甘えることができなかった。

 これ以上、彼に心配をかけたくなかったから。



「大丈夫だよ。ちょっとしたことだし」



 そう言って、私は自分に言い聞かせた。



 その日の夜、私は自分の部屋で布団に入ったものの、眠れなかった。

 眠気が来るのに、どうしても目を閉じることができなかった。

 何度も目をつむっては開けて、また何度も繰り返す。



 こんなこと、初めてだ。



 息が浅くなっていくのを感じながら、時計を見つめていた。

 長い時間が過ぎ、夜が深まると、ようやく目が閉じた。



 次の日、また朝から頭痛と倦怠感に悩まされていた。



 それでも、私は無理をして学校に向かった。



 海斗に会いたいから、という気持ちもあったけれど、どこかで自分を支えるための理由を作っていた。



 このままだと、何も進まない。

 そう思ったから。



 だけど、放課後になると、体調はどんどん悪化していった。

 足元がふらつき、教室の中で立ち上がるのも一苦労だった。



 どうしてこんなに不安定なんだろう。

 そんな思いを抱えながら、私はなんとか部活に向かおうとした。



「未来、ちょっと待って」



 その声に振り向くと、海斗が立っていた。



 「また、顔色悪いけど、大丈夫か?」



 海斗の顔には、昨日とは違う不安が見え隠れしていた。



 「うん、大丈夫。少し疲れてるだけ」



 その言葉を口にした瞬間、また胸が苦しくなった。

 このままじゃいけない。

 でも、彼に迷惑をかけたくないという気持ちが、どうしても強かった。



 海斗は少し黙って、私の表情を見つめた後、ゆっくりと近づいてきた。



 「無理するなよ。今日は、帰ったほうがいい」



 その言葉に、私は少しだけ胸を痛めた。



 「ありがとう。でも、帰れないよ」



 「なんで?」



 「だって……」



 その言葉が出かけたとき、私は思わず口をつぐんだ。

 海斗の目を見つめて、何かを言うことが怖かった。

 彼に見せられないものがあるから。




 教室を出たとき、廊下の蛍光灯が少しだけ滲んで見えた。



 白い光がまっすぐ伸びず、かすかに揺れている。

 私は瞬きを何度かし、そのたびに自分の視界の異常を誤魔化すように歩いた。



 足元が少しふらつく。

 それを悟られないように、ゆっくり、いつもと同じテンポで歩く。



 海斗は、私の後ろから少し距離を置いてついてきた。

 気づかれないようにしているのが、逆に分かる距離感だった。



 「……未来」



 呼ばれた瞬間、歩くのをやめた。

 振り返ると、彼はどこか言いにくそうに眉を寄せていた。



 「帰ろう、一緒に」



 「いいよ、一人で帰れるから」



 「そういう問題じゃないよ」



 海斗の声は静かだった。

 静かだけど、言葉の前に“何か”を選んで飲み込んだような重さがあった。



 「未来、今日の君は……無理してるって顔に書いてある」



 私は言い返せなかった。

 本当は、とっくに限界に近いことくらい、自分が一番分かっていた。



 でも、ここで弱っていい理由を、私は持っていなかった。



 写真も、夏も、海斗との距離も、全部まだ途中だ。

 弱ることは、取りこぼすことになってしまう気がして怖かった。



 だけど。



 海斗の表情を見た瞬間、胸の奥がじんと痛んだ。



 彼の目には、心配だけじゃなく、何かもっと深い影が見えていた。



 ——私の体調より、自分の中の何かと戦っているような目だった。



 そのまま校門を出ると、夏の夕暮れが町を包んでいた。

 風は少し湿っていて、潮のにおいが濃い。



 空は薄い桃色から紫へと変わり、境界がぼんやり溶けていた。



 私たちの影も、地面に長く伸びて揺れている。



 「未来、家……このまま帰ったら、倒れそうだよ」



 海斗が言った瞬間、胸がひやりとした。

 本当に、倒れてしまいそうなくらい、体は重かった。



 でも、それ以上に、言われた言葉の温度が心に響いた。



 こんなふうに誰かに心配されるのは、いつぶりだろう。



 家でも、友達でもなく、海斗にだけ向けられるその言葉は、どうしてこんなにも胸の奥を揺らすんだろう。



「大丈夫ってば」



 小さく笑って返すと、海斗はゆっくり頭を振った。



 「大丈夫じゃないよ。……未来、顔真っ白だ」



 その指摘に、心臓がきゅっと縮んだ。



「……ちょっと、疲れてるだけだよ」



 「そう言って、倒れる人知ってる」



 海斗の声はいつになく尖っていた。

 彼がこんな口調になるのは珍しい。



 私は驚き、思わず立ち止まった。



 海斗はすぐに「あ、ごめん」と苦笑いしたが、その表情はどこか強ばっていた。



「心配なんだ。……未来が、急に消えちゃいそうで」



 その一言が、胸の奥に深く刺さった。



 消えるなんて言わないで。

 そう言おうとして、でも言葉が喉で止まった。



 消えるのは私じゃない。

 本当は、海斗のほうだ。



 ——そんな気がずっとしていた。



「ねえ、海斗」



 私は意を決して口を開いた。



 「昨日の……暗室での話。続き、まだあるんでしょ」



 海斗の肩がわずかに揺れた。



 夕暮れの光が彼の横顔を照らし、その影が長く地面に落ちていた。



「あるよ。……あるけど」



 海斗は言葉を濁し、視線を遠くに逸らした。



「今は言えない。言ったら……未来が苦しむから」



 私の胸がきゅっと締めつけられた。



「苦しんでもいいよ」



 そう言った私に、海斗はすぐに首を横に振った。



「ダメだよ。未来には……笑っててほしいから」



 笑っててほしいって。自分は笑わないでいるくせに。ずるいよ、海斗。



 そう言いたかった。

 でも、言葉が涙になってしまいそうで、喉奥で止めた。



 歩き出した瞬間、視界がふっと揺れた。

 地面が遠く感じる。

 足の力が抜けるような感覚がして、私は立ち止まった。



 海斗がすぐに振り返る。



「未来?」



 その声が遠く聴こえた。

 空気が薄くなった気がして、胸の奥が冷たくなる。



「ごめん……なんか、ちょっと、変で」



 自分で言いながら、身体が傾いた。



 海斗がすぐに腕を伸ばし、私の肩を支えた。

 その手の熱が、妙にはっきり伝わってきた。



「ほら、全然大丈夫じゃない」



 彼は苦しそうな声でつぶやき、そのまま私の肩を抱いて歩き出した。



「家、送るよ」



 「いいよ、自分で帰れる」



 「帰れないよ、今の未来じゃ」



 その言葉に、胸がきゅっと締めつけられた。



 彼の手が、震えていた。

 私を支えている手が。



 心配しているんじゃない。

 もっと別の、深い恐怖を抱えているように感じた。



 家の前に着くころには、空はすっかり青から藍色へ変わっていた。

 風が少し冷えて、潮の匂いも薄くなっていた。



 海斗は、玄関前で立ち止まった。

 手はまだ少し震えていた。



「未来……ほんとに、気をつけて」



 「……うん」



 「何かあったら、すぐ連絡して。夜でもいいから」



 その声は、切実だった。

 今にも泣きそうなほどに。



「海斗?」



 呼ぶと、彼は一瞬だけ目を伏せてから、笑った。



「ごめん。……未来がいなくなる夢、見たからさ」



 嘘だ。

 これは夢の話じゃない。

 現実に見える何かに怯えている目だ。



 でも、私は問い詰められなかった。



「大丈夫だよ。いなくならないよ」



 私がそう言うと、海斗はゆっくり息を吐いた。



「——俺が言いたい言葉、奪わないでよ」



 それだけ言って、海斗は背を向けた。



 夕暮れが完全に消え、夜が落ちていく中、彼の背中はいつもより小さく見えた。

 それが、どうしようもなく不安を誘った。




 翌朝、目が覚めたとき、体が鉛みたいに重かった。



 手を上げるのも億劫で、天井を見つめるだけで精一杯だった。

 視界がぼんやりして、耳の奥で、海の低い音のような響きがずっと鳴っていた。



 昨夜の海斗の「いなくなる夢」という言葉が頭から離れず、胸の奥がじんじんと痛んでいた。



 それでも、学校には行かなくちゃいけなかった。

 行かないと、海斗にまた心配をかけてしまう。



 ……本当は、海斗に会いたかったから。



 体を無理やり起こし、制服に袖を通す。

 鏡を見ると、顔色はやっぱり悪かった。



「やば……」



 小さく呟いても、誰に聞かせるでもない。

 頬を軽く叩いてみたけれど、逆に痛みだけが増した。



 登校中、海の匂いがやけに強く感じられた。

 いつもなら夏が近いな。と思う程度なのに、今日は喉に張りつくような重たさがあった。



 潮風に当たるたび、胸がきゅっと締まった。



 階段を上がるとき、息が切れて立ち止まる。

 手すりを掴んだ指先に、冷たい汗がにじんでいた。



 こんなに体がいうことを聞かないなんて、ちょっとおかしい。



 でも、まだ誰にも話すつもりはなかった。

 違和感は不安に変わり、ついでに小さな恐怖も背中に張り付いたまま。



 教室に入ると、海斗がすでに来ていた。

 窓側の席に座り、頬杖をついて外を見ていた。



 光の当たり方のせいか、彼の横顔がほんの少し影って見えた。



 私が席に向かうと、海斗が視線を上げる。

 その瞬間、目が合った。



 ——あ、気づいた。



 彼の表情が、一瞬だけ固まった。



「未来……?」



 ゆっくりと席を立ち、こちらへ歩いてきた。

 教室の中の音が遠のく。



「ちょっと、顔……やばいよ。大丈夫?」



 その声に、胸がきゅっとなる。

 心配されるのは嬉しいのに、同時に申し訳なくて、痛かった。



「昨日より、大丈夫だから」



 笑おうとした。

 でも海斗の顔が曇った。



「未来、無理してる」



 「大丈夫」



 「大丈夫じゃない」



 海斗の声が低く落ちる。



 ほんの数秒の沈黙が、やけに長かった。



 その間に、また視界が揺れた。

 海斗の肩が二重に見える。



 ——まずい。



 そう思った瞬間、右手で机を掴んでいた。



「未来……?」



 彼の声が焦りを帯びる。

 私は深呼吸を試みたが、吸い込む空気が薄くて胸が苦しい。



「ごめん、ちょっと……めまいがして」



「保健室、行こう」



 海斗が私の腕を掴んだ。

 その手は熱く、微かに震えていた。



 「大丈夫……自分で——」



「ダメだって!」



 海斗が声を荒げた。



 教室の空気が揺れた。



 海斗がこんな声を出すのは初めてだった。



 驚いて見上げると、彼は唇を噛みしめていた。

 今にも泣きそうな目で。



「未来が倒れたら……俺、どうしていいかわかんない」



 そう言う海斗の声は、震えていた。



 私は、言葉を失った。



 結局、保健室に連れて行かれ、ベッドで横になった。

 天井の白い光がぼんやり滲む。



 保健の先生が脈を測りながら言った。



「疲れがかなり溜まってるね。しばらく休んでいきなさい」



 私はゆっくり頷いた。



 ベッド脇には海斗が座っていた。

 腕を組んで、膝を揺らしながら落ち着かない様子で。



「ほんと……無理しないでよ」



 海斗は、どこか怒っていた。

 でも、その怒りは全部心配でできているのが分かった。



「……ごめんね」



「謝らなくていい。でも……怖かった」



 小さな声だった。



 保健室の静けさの中で、海斗の言葉だけがはっきり耳に残った。



 私は布団の上で手を握りしめた。

 心臓の鼓動が、いつもより早い。



「ねえ、海斗」



 「なに」



「もし、私が……ほんとにどこか悪かったら、どうする?」



 海斗の肩がびくっと揺れた。

 それを見て、胸の奥がざわりと波立った。



 彼の顔色が一瞬で変わる。



「……いやだよ」



 短いけれど、その言葉は重かった。



「未来がどこか悪いなんて……考えたくない」



 海斗は両手を組み、顔を伏せた。



「……だって、未来までいなくなったら、俺……」



 そこで言葉が途切れた。



 沈黙が落ちた。

 海斗は何かを言いかけ、飲み込んだ。



 本当に言いたかったことは、きっと別にある。

 でも、それはまだ口にしてはいけないものだと、本人が一番分かっていた。



 隠してる。

 ずっと。

 私からも、自分からも。



 その日の下校時、私は歩けるくらいに回復していた。

 でも、海斗は最後までそばを離れなかった。



 夕暮れの町を歩きながら、私はずっと思っていた。

 海斗は、どうしてこんなにも私の消えることを恐れているんだろう。

 まるで——予兆を知っているみたいに。



 その疑問が、胸に重たく沈んだまま消えなかった。



 海風が髪を揺らし、紫に沈む空が広がっていた。



 海斗は前を向いたまま、小さく言った。



「未来。……明日、時間ある?」



「うん。あるよ」



「話したいことがある。ちゃんと。逃げないで聞いてほしい」



 その声には、決意と恐怖が混ざっていた。



「海斗……?」



 彼は答えずに歩きながら言った。



「逃げたいのは……俺だよ。でも、逃げたらきっと後悔する」



 どこか遠くを見るような目だった。



「未来がいなくなるほうが……ずっと、怖い」



 その言葉が、胸の深いところに落ちた。



 未来だけじゃない気がした。

 ——海斗自身も、消えかけている。




次の日の放課後、空は一日中曇っていて、夕暮れになっても太陽が姿を見せなかった。



 光の薄い校庭に、風だけが通り過ぎていく。



 私は部室に向かう途中、胸の奥がやけに重く感じていた。

 体調は昨日よりマシになっていたけれど、完全ではなかった。

 身体の芯に冷たいものがずっと居座っているようで、息を吸うたびにそれが広がった。



 海斗は約束通り、部室の前で待っていた。

 いつもより姿勢が硬い。

 私を見ると、少し安心したように笑った。



「来てくれたんだ」



「来るよ、約束したし」



 海斗は小さく頷き、部室のドアを開けた。

 中には誰もいない。

 夕方の弱い光が差し入り、赤い夕日と蛍光灯の白さがゆっくり混ざっていた。



「未来」



 海斗が名前を呼ぶ。

 その声だけで、胸がぎゅっとなる。



「今日こそ……ちゃんと話すよ」



 「うん」



 「逃げないでね」



 「逃げないよ」



 海斗は少し息を吐き、目線を床に落とした。

 いつもより弱く見えた。



「俺が未来に隠してたこと……ずっと言えなかったこと……全部、今日言うって決めてきた」



 その言い方に、胸の奥が冷たくなる。

 全部という言葉が重かった。



「でも、その前に……未来、体調はどう?」



 「昨日よりは、だいぶ」



「嘘だ」



 海斗はすぐに言った。

 優しいけれど、逃げ道を塞ぐような声。



「未来は、ずっと無理してる。俺、気づいてたよ」



 「……そんなに心配しなくても」



 「するよ。当たり前だろ」



 その言葉の温度が、胸に染みた。

 海斗の目は真剣で、揺れていて、何かを恐れている。



「未来がいなくなったら……俺、平気じゃいられない」



 その一言が、空気の中に落ちて響いた。



 夕日が完全に沈んだころ、部室は薄闇に包まれた。

 蛍光灯の白い光は冷たく、窓の外には夜が広がりはじめていた。



 海斗は一度深呼吸をした。

 手は震えていた。



「未来に言うべきじゃないと思ってた。言ったら未来が苦しむって、分かってたから」



 「苦しむのは……私が決めるよ」



 そう返すと、海斗は目を細めた。

 その目は、泣きそうに見えた。



「未来は……俺が思ってるよりずっと強いね」



 「そんなことないよ」



 「あるよ。俺なんかよりずっと」



 なぜ、そんなふうに言うの。



 海斗は窓のそばまで歩き、外を見た。

 海の暗い影が学校の先に広がっている。

 波の音はここまで届かないのに、耳の奥で微かに響いていた。



「未来に、嘘をついてた」



 「……知ってるよ」



 思わず言ってしまうと、海斗は驚いて振り返った。



「知ってた?」



 「なんとなく、ね…。海斗、時々すごく遠いもん」



 「遠かった?」



 「うん。手を伸ばしたら霧みたいに消えそうで……」



 海斗は、その言葉に反応するように歩み寄ってきた。

 気づけば、手が触れそうな距離まで近づいていた。



「消えないよ」



 海斗は静かに言った。



 「未来が触れたいなら……消えない」



 胸が、痛いほど熱くなった。



 でも、その目の奥にある影は、確かに消えそうなものだった。



「未来。本当は……俺、ここに来ちゃいけなかったんだ」



 その言葉が、世界の音を全部止めた。



 心臓がひりついた。

 呼吸が浅くなる。



「……どういうこと?」



 声が震えた。



 海斗は唇を噛み、言葉を探していた。

 言えば壊れると分かっているものを、掴んでいるみたいに。



「俺ね……未来に会うために来たんじゃないんだ」



 「じゃあ……何のために?」



 「未来に……さよならを言うために来たんだ」



 空気が崩れる音がした気がした。



 胸の奥が、深いところから沈んでいく。



 海斗は続けた。



「でも、会ったら無理だった。未来を見たら……さよならなんて言えるわけなかった」



 海斗の声は震えていた。

 涙が落ちる寸前の声だった。



「だから、逃げた。隠した。未来の横で笑って、誤魔化して……でも、本当はずっと怖かった。未来が俺を知ったら、きっと……未来が壊れるって」



 私は言葉を返せなかった。

 返したら、何かが崩れてしまいそうだった。



 海斗はゆっくりと私のほうへ歩き、すぐ目の前で立ち止まった。



「未来。……本当は今日、全部話すつもりだった」



 私の胸が強く脈打つ。



 海斗は震える手をそっと伸ばし、私の肩に触れた。

 その触れ方は、いなくなるものに触れるように優しかった。



「でも、ごめん。やっぱりまだ言えない。今言ったら、未来の体が……心が、きっと耐えられない」



 その瞬間、私の胸に鋭い痛みが走った。



 私の体調のことまで……見透かしてるみたいに。



「海斗……どうしてそんなこと——?」



「未来の体、もう限界に近いでしょ」



 息が止まった。



 どうして分かるの。

 どうして言えるの。



 海斗は苦しそうに微笑んだ。



「分かるよ。……俺は、未来の全部を見てたから」



 その言葉が、夜の部室に静かに落ちた。



 私は声を出そうとした。

 でも、喉の奥で言葉が震えて、そこから進まなかった。



 海斗は小さく「ごめん」と呟いて、私の手を軽く握った。



「未来。……今日のところは帰って。ゆっくり休んで」



「いやだよ。海斗、話して——」



「今言ったら……未来がいなくなる」



 海斗の声は切実だった。

 命綱のように脆く、強く。



「だから……俺が壊れる前に、今日は帰って」



 その言葉に、私は何も言えなくなった。



 部室のドアを出る直前、海斗が小さく呼んだ。



「未来」



 振り返ると、海斗は窓辺に立っていた。

 外の闇が彼の背中を囲み、輪郭を溶かしていく。



「……明日、また会おう」



 「うん」



 「約束だからね。絶対来て」



 「行くよ。行くから」



 海斗は微笑んだ。



 その笑顔は、どこか儚くて、まるで夜の海の上で揺れている光みたいだった。



「——未来。ほんとは、俺がいなくなるはずだった」



 その一言だけが、確かな傷となって胸に残った。