「えっ……? どういうこと……」
「だからさ、気付かれなくなっていったら……どんな感じになるか……もう君は見てるだろ?」
「……」
「本当に鈍いな……香織ちゃんは」

「あああっ……!!!!」
わたしは、ようやく気がついた。目の前にいる黒猫のこと――

「……お兄ちゃん……?」
「……」
「ねえ? もしかして……あなた……お兄ちゃんなの?」
ふぅとため息とも取れるような息を吐き出し、黒猫は言った。

「そうだよ」
「やっと分かったのかよ」

「そんな……」
奥の部屋にずっと閉じこもっているお兄ちゃん……まさか……こんな……信じられない……

「こうなるよ。香織も。きっと」
「……」
「言ってる意味……分かるか?」
「……うん」

もうわたしは、お兄ちゃんの顔も思い出せない。いや……もしかしたら……思い出したくないのかも知れない。

「だから、今、俺は……みんなから『気付かれていない』だろ」
「そんな……」

お兄ちゃんも使っていた。砂時計を。もうわたしはお兄ちゃんがずっと引き籠っている理由をまったく覚えていない……

「お前もこうなるぞ?s」
「それでも良いのか?」

抑揚のない、感情が籠っていないかのような声に聞こえる。

「わたしは……大丈夫だもん……」
「本当か?」
「……」
「お前が、俺のことを気にかけたこと……一度でもあったか?」
「……」
「俺のこと、気にして、部屋に来たこと……一度でもあったか?」
「ごめん……」
「謝らなくて良いって」
「……」
「俺が言いたいのは……そういうことじゃない」

「俺が言いたいのは……お前もこうなるぞってことだ」
わたしは何も言い返すことができなかった。

「戻った方が良い。砂時計……使えよ」
「えっ……嫌だよ」
「俺の言ってること、理解できないのかよ」
先ほどは打って変わり、黒猫は感情的な目になった。眉がハの字になっている。

「言ってることは分かるよ……」
「じゃあ、使えって。その方が良いって」
「……でも、あんな人生に戻りたくないもん……」
「俺みたいになって良いのかよ」
「じゃ、どうすれば良いのよ!! わたし!」

つい感情的になって、立ち上がってしまった。でも黒猫は落ち着いたまま……微動だにしない。

「お前はさ、俺の妹だから……俺みたいになって欲しくないんだよ」
「だから言ってる」
「まだ間に合うから。やり直せ」

嫌だ……嫌だ……あんな毎日……もう味わいたくないよ……

「嫌だ!!」
「わたしは……自分を変えるよ!!」
勢いよくバン!とドアを開け、わたしは奥の部屋へ早足で近づいた。

「お兄ちゃん!? 開けるよ!?」
どきどきする……何年振り?この光景。何年振り……?このノブに触れるのは……

(行けわたし! ……未来を変えるんだ!!!)

わたしは一気にドアを開いた。
電気は消され……真っ暗な部屋の中。中央には煌々とパソコン画面が輝いている。

「お兄ちゃん……?」
「……やっと『気付いてくれた』のかよ」
「お兄ちゃん……」
「……遅せぇよ。どんだけ待ったと思ってんだよ……」
「うわあああ……」
わたしは泣いた。今までの自分がしてきたこと……お兄ちゃんのわたしへの想い……すべてが入り混じった感情が噴き出してくる……

「ごめんなさい……」
わたしは膝から崩れ落ちるようにしゃがんだ。

「……良いよ。香織が悪いわけじゃないだろ」
「……でも……」
「気付いてくれて……ありがとな」
「……うん」

そうだ。これまでの人生だって……もちろん原因はわたしだ。でも……その根本は、わたしが自分のことばかり考えていて……人の気持ちなんか、何一つ考えなかったのがいけないんだ……

お兄ちゃんのお陰で、やっと分かったよ……わたし。

「わたし……砂時計、もう使わないから……」
「知らないぞ。……俺みたいになっても」
「大丈夫。ちゃんと人の気持ち……考えられる人間になるもん……」
「……そっか。じゃあ返してよ。それ」

お兄ちゃんは砂時計をわたしから受け取ると、ハンマーで砕いた。パリン!と勢いよく音がして……すべてが終わったような感じがした。

――

――

――

「ね! 今度の休みさ、ドライブ行きたい!」
「えー? お父さんだって疲れるんだから……無理言わないの」
「ははっ……良いじゃないか。行きたいとこでもあるのか?」
「んー……公園」
「公園? 何だそりゃ」
「みんなで……全員でのんびりしたいんだよ」
「変な子ねぇ……」
「ね! そう思わない? 健二もさ、お兄ちゃんも!」

家族5人で食卓を囲む――
一体、いつ以来だろう?そもそも……わたしが生まれてから、一度でもあったのかな。

それはわたしにも分からない。
でも分かったこともある。
積極的にみんなと関わって……ちゃんと人の気持ちを考えること。

そうすれば、誰ひとりとして忘れられることはないってこと。

ようやく分かったよ。
もうわたしの部屋には黒猫は現れない。
庭をうろついていることもない。

きっとどこかの誰かの家の窓から
今日も入り込んでいるんだと思う――


【完】