(……あっ)

気が付くと、飲みかけの牛乳、そして食べ終わったプラスチック容器が目に入った。

(そうか、戻ってきたんだ……)

「何―? どうしたの? 急に」
同じ班の沙英ちゃんだ……わたしに話かけてくれている。

「えっ……? あっ、何でもないよ! ははっ……」
「変なの。ま、何でもないなら……良いけど」

(えっ? えっ? 沙英ちゃんが話かけてくれてる……!?)

沙英ちゃんは、2年生になってから同じクラスになったけど、これまで一度も話なんかしたことはなかった。「わざと……?」と勘繰ったりして、沙英ちゃんをもう一度見てみる。

「……ん? どうしたの?」
「あっ、いや……何でもないよ……」
ちらりと向けた視線がバレた。わたしは慌てて取り繕う。でも沙英ちゃんは特段気にしている様子はない。

(変わったってことかな……? だよね? だよね……?)

確かめるために、美紀ちゃんにも話かけてみることにした。美紀ちゃんも2年生になってから一度も話をしたことはない。それどころか……いつも冷ややかな視線を浴びせてきていた女子の一人。毎日の視線を思い出して……何だか緊張する。


「ね、美紀ちゃん?」
左を向いて、小声で申し訳程度に話かけてみた。

「ん? どうしたの?」
「あっ……えっと、次の時間の授業……何だっけ? って思って」
「次? 確か理科じゃ無かったかな?」
「あっ……、そっか。理科かぁ! あははっ……忘れてたよ!」
「何よ? それ。今日、何だかいつもと違うよね」

やっぱりそうだ! 
みんな……「普通」だ!
普通に話ができる…!

(やった……やった……)

「えっ? 香織ちゃん? ……どうしたの……」
沙英ちゃんが驚くように言った。それもそのはず……わたしはこぼれ落ちる涙を、止めることができなかったから――

「香織ちゃん、帰ろうよ」

何年振りに聞いたのだろう……真衣ちゃんの言葉。
何年振りに会話したっけ……? 
もう、あんまり覚えてないよ……

「うん。帰ろう!」

昇降口で上履きを履き替え、1年振りに真衣ちゃんと並んで歩く。こんなに……嬉しいだなんて。夢みたいだ……。

「真衣ちゃん」
「何? どうしたの?」
「……」
「何よー? 何かあったの?」
真衣ちゃんの笑顔はとっても眩しい。わたしが……あの日、あんなことをしなければ。毎日こうやって帰ることができたのに。

「え……? 何? 何かあった?」
「いや……今まで、ごめんなさい」
「はぁ……? 何かあったの……?」
「へへっ……何でもないよ! 言いたかっただけ!」
わたしは笑いながら前を向いた。もう、この生活を手放したくない。余計なことは言わないぞと心に誓った。

「ただいまぁー!」
玄関でついいつもより大きな声を出してしまった。仕方ない。天に上るような気持ちなんだから。それに変なことを口走っているわけでもないし。

(んっ……?)

「ただいま!」
わたしはもう一度声を出した。お母さんのサンダルがあるから……いるはずなんだけどと思いながら。

(いつもと違うサンダルで、どっか行った……?)

靴を脱ぎ、リビングへと向かう。部屋の奥からテレビの音がするから、たぶん誰かいる。うちの家族はテレビの消し忘れなんかしたこと無かったから。

(ん? ……あぁ、お母さんいるじゃん)

ソファーに座り、洗濯物を畳みながらテレビを垂れ流していた。

「ただいまぁ~?」
ちょっと探るような声色でお母さんに向かって言った。お母さんは私に気付いていないようで、考え事でもしているかのように洗濯物を畳む。

「ね! お母さん!」
「わ……! ちょっと……驚かさないでよ……」
ようやくお母さんが気付いた。本当に気付いていなかったようで、わたしの声にかなり驚いている。

「さっきから言ってたじゃん。『ただいま』って」
「あら? そう……? 全然気付かなかったわよ……」
「珍しいね。お母さんがそんなに考え事するなんてさ。何かあった?」
「何よそれ。色々あるのよ。晩御飯のおかずの事とか……あなたの成績の事とか」
「あ、良いです。聞きたくないですー!」
わたしは笑いながら、2階へと上っていった。

「でね、今日スーパーに行ったら……田中さんに会って」
「へえ。田中さん? 俺も最近全然会ってないなぁ」
「元気そうだったわよ?」
夕食の時も、少し変だった。お母さんとお父さん。そして弟の健二はいつも通りに見えたけど……。

何だか、わたし……蚊帳の外に置かれているような気がした。

「田中さんも、頑張ってんのかな」
「ええ、そんな感じの事……言ってたわ」
田中さん。わたしが小さい頃に、近所に住んでた人だ。

「田中さんて、あの眼鏡かけてた人?」
お父さんとお母さんに聞いてみた。

「今は、何やってるって?」
「パソコン関係のお仕事みたいね……」
「そうかぁ。確か大学もパソコン関連って言ってたよなぁ」

わたしの言葉を流すように、お父さんとお母さんが田中さんの会話を続ける。健二はスマホを見ながら無言。

「ね! ねえってば!」
ちょっと声を大きくした。

「あっ、香織か」
「何よ。『香織か』じゃないわよ。わたし……さっきから言ってるじゃない」
「えっ? 何を」
「『田中さんって眼鏡かけてた人?』って。言ったじゃん」
「そうか? 言ってたか?」
「言ったよ」
「気付かなったな。ごめんごめん」
「……もう……」

学校から帰ってきた時のお母さんも、ご飯食べてる時のお父さんも……何か少し変。健二がしゃべらないのは、いつもと同じか。

ちょっと気にはなるけど……真衣ちゃんとのことが嬉し過ぎる。些細なことは気にならないようになっていた。

「ごちそうさま」
箸を置くと、わたしは跳ねるように2階へと上がっていった――