土曜の午前、窓の白いカーテンを少し開けると、外は曇りだった。光は弱いのに、部屋はきちんと明るい。母は九時ちょうどに出かける。玄関で靴を履きながら、「お菓子、焦がさないでよ」と俺にだけ言った。俺はうなずく。母は続けて、「信頼してるから鍵は湊に任せる。友達、呼んでいいよ」と言い足す。友達、という言い方のなかに、名前を出さない配慮が入っているのを感じた。俺は玄関のドアが閉まる音を聞いてから、換気扇を回した。油と粉の匂いが混ざり合う前の、乾いた空気の音が好きだ。
十時。チャイムが鳴る。出る前に鏡を見る。前髪が少し浮いている。水をつけて撫でて、手のひらの水気をタオルで拭く。ドアを開けると、神崎陽がいつも通りの軽い笑いで立っていた。紙袋をひとつ持っている。
「おはよう。早乙女は、昼から来るって」
「了解。上がって」
靴を脱ぐときの沈黙が短い。俺は家の匂いを意識する。洗剤と、木の匂い。外から来た人にどう映るか、少し緊張する。陽は廊下に並んだ家族写真をちらりと見て、「湊、小さい頃から顔が変わらない」と言った。からかわれた気もしたが、声は優しい。
「とりあえず、キッチン」
「はい」
キッチンはシンクが狭くて、作業台は古い。けれど、手は覚えている。粉の場所、オーブンの癖、タイマーの音色。俺はボウルを二つ出し、薄力粉と砂糖とバターを並べる。陽は紙袋を開け、中からラムネとココアの粉を取り出した。
「これ、今日のドリンク。甘いの飲むと人に優しくできる」
「じゃあ二杯ずつ作れ」
「了解」
俺はバターを切り、常温に馴染ませる。木べらで押しつぶす感触。最初は重いが、少しずつ柔らかくなる。砂糖を入れて、泡立て器に持ち替える。空気を含ませると、色がほんのわずかに白くなる。そこに卵を溶いて、少しずつ加えていく。分離しないように、手首の角度を変える。粉をふるって、さっくり混ぜる。
「手、貸す?」
「ボウル、押さえて」
「押さえるの、得意」
陽の左手がボウルの外側をしっかり支える。ぶれない。右手で泡立て器を回す俺の動きは、いつもより滑らかだった。混ざる音が、キッチンの白いタイルにやわらかく跳ね返る。陽が言う。
「混ぜるの、上手い」
「褒めてる?」
「ちゃんと。サッカーと同じ。力よりリズム」
「料理でたとえるな」
「褒めてるのに」
口では反論しながら、胸の奥は少し緩む。生地がまとまり、粉っぽさが消えたところで、冷蔵庫から刻んだチョコを出す。半分は混ぜ込み、半分はトッピング用に取っておく。オーブンの予熱を二百度に設定する。余熱の音が低く鳴り、機械の中に熱が生まれる気配が伝わってくる。
天板にクッキングシートを敷き、スプーンですくって落としていく。陽は間隔を測るのがうまい。一枚目の場所を決めると、そこから均等に並べて、全部で二十個。少し押さえて、表面を丸く整える。
「整えるの、得意」
「知ってる」
「知ってるの、嬉しい」
オーブンの扉を開けると、予熱の熱が顔に波のように当たり、頬が一瞬だけ熱くなる。天板を入れて扉を閉める。タイマーを十二分に合わせる。ピッという音が台所の明るさに馴染む。
焼けるまでの時間、俺たちはキッチンに立ったまま、水を飲んだ。陽が持ってきたラムネを一粒ずつ口に入れる。甘さの冷たさが舌の上で溶ける。オーブンの中で生地がふくらむ音はしないのに、ふくらむ気配だけが伝わってくる。匂いはゆっくり出てくる。最初はバター、そのあとに砂糖、最後に小麦粉の甘い蒸気。
「俺、家のこういう音が好き」
陽が言う。換気扇、タイマー、冷蔵庫のモーターの低い唸り。生きてる機械の音。日常の、小さな音。
「うるさくない?」
「うるさくない。試合の前って、家の音が恋しくなる」
「分かる気がする」
「湊は、台所の音が似合う」
「褒めてる?」
「ちゃんと」
いつものやりとりに笑う。笑いは少し小さいが、確かだ。タイマーの残り時間は六分。陽は袖をまくって、シンクに立った。泡立て器を水で流し、洗剤を少し。泡の白が細かく立つ。手の動きは整っていて、無駄がない。スポンジを滑らせる音が小さく続く。
「手際、いいな」
「洗い物、好き」
「珍しい」
「片付けると、次が楽だから」
言いながら、陽は蛇口を締め、布巾で水を切った。動きの最後に小さく息を吐く。俺はその息の形を覚える。覚えることで、あとで寂しくならないように。
タイマーが残り二分になったとき、陽がふいに静かになった。さっきまでの家の音がそのまま続いているのに、彼の沈黙だけがわずかに質を変える。俺はオーブンの小窓を覗くふりをして、彼の視線を受ける準備をする。
「湊」
「なに」
「俺ばっか言ってるけど、湊はどう思ってる? 俺のこと」
あらかじめ用意していた答えはない。用意していないのは、ずっと分かっていた。言えない、で逃げるのは簡単だ。でも、今ここで言わないのは違う気がした。言葉がまだ形になっていないなら、いちばん近いところの言葉を置くしかない。
「……一緒にいると、安心する」
言い終えて、心臓の位置が少しだけ下がる。陽は表情を変えないで、小さく頷いた。その頷き方が、全部の返事の代わりみたいだった。
「それ、最高」
タイマーが鳴った。軽い音が部屋の空気を跳ねさせ、俺たちは同時に笑った。オーブンの扉を開けると、熱と匂いが一気に溢れ出す。天板を取り出し、冷却ラックに移す。焼き色は均一で、チョコのところだけ艶がある。表面を指で軽く触れて、弾力を確かめる。
「きれい」
「丁寧、の味がする」
「それは食べてから決めろ」
「食べる前から分かる」
陽は一枚、俺も一枚。熱いのをふうふうして口に入れる。さくっと音が鳴って、中の柔らかさが少し遅れて舌に乗る。チョコはまだ溶けかけで、甘さは強い。でも、強い甘さの手前に、バターの塩気が小さく立っている。陽が言う。
「うま」
「それ以外の語彙、持て」
「最高、もある」
「便利に使うな」
笑って、もう一枚。熱さが少し和らいで、今度は全体が均一に溶ける。陽はグラスにココアを注ぎ、コースターの上に二つ置く。俺は皿にクッキーを並べ、食卓に置く。二人で向かい合って座る。テーブルの木目は古くて傷が多いが、温度は安定している。陽がグラスを持ち上げる。
「いただきます」
「どういたしまして」
食べながら、勉強会の準備に移る。ノート、問題集、付箋、ペンケース。台所から居間へ。居間の窓際、日が弱く差す場所に座布団を二つ。外はまだ曇りで、時々薄い光が走る。俺は数学、陽は英語。互いに苦手なところを少しずつ出し合って、ヒントだけ置いていく。いつもの方法。いつもの強さ。
昼前、早乙女からメッセージが来た。「午後から合流。差し入れはアイス」。俺たちは同時にスタンプを返す。勉強は淡々と進んだ。途中で、陽がキッチンの方を見る。
「さっきの、続き」
「続き?」
「安心、の話」
胸の奥が一瞬強く鳴る。俺はペンを置いて、息を整える。言葉を選ぶというより、並んでいる言葉のなかからいちばん手前のものを取って、置く。
「俺、言葉にするの遅い。遅いから、先に態度で出る。それを勝手に解釈されたくない」
「分かる」
「だから、合図が欲しい。受け取ったって、返したって、ちゃんと分かる合図」
「じゃあ、合図を標準にする」
「どういう」
「例えば、今みたいに、言葉の前に一回うなずく。それを俺の合図にする。湊の合図は、目を見る時間をほんの少しだけ長くする。どう?」
「分かりやすい」
「延長も可能」
「またそれか」
「癖だから」
俺は笑った。笑いながら、胸の強さが落ち着いていく。合図が決まると、世界の輪郭が少しはっきりする。境界がはっきりすると、守るべき場所が見える。守るために必要な距離も分かる。
チャイムが鳴って、早乙女が来た。紙袋いっぱいのアイスを持っている。バニラ、チョコ、抹茶。三つずつ。乾いた空気に冷気が混ざる。早乙女はキッチンを一目見て、「整ってる」と言った。俺は「陽が片付けた」と答える。早乙女は陽に親指を立てて、「やるじゃん」と笑った。
三人でアイスを食べ、午後の勉強に戻る。早乙女は国語の長文を俺に渡し、陽は英作文を彼女に見せる。三角形みたいに矢印が動く。時々、窓の外から子どもの笑い声が聞こえる。誰かが自転車のブレーキを鳴らして、金属の音が薄く長く伸びる。家の中にいると、外の音がやさしくなる。
三時。小腹が空いて、俺は残りのクッキーを食卓に戻した。早乙女は二枚食べて、「ふつうにうまい」と言った。「最大級」と俺が返すと、陽が静かにうなずく。三人の笑いが短く重なる。その重なり方が、俺には新しかった。外の空はまだ曇りだが、薄い青が混ざってきている。
夕方、勉強は切りがついた。早乙女は写真を数枚撮って、「今日の記録」と言って帰っていった。玄関で靴を履くとき、彼女は振り返って「湊、顔、やわらかい」とだけ言った。俺は返事の代わりに軽く手を振った。ドアが閉まる。静かになる。家の音だけになる。
キッチンに戻ると、陽がまだコップを洗っていた。水の流れ、ガラスが触れ合う小さな音。俺は食器を拭き、戸棚に戻す。作業がひと段落したタイミングで、陽が布巾を畳んだ。
「さっきの、合図の話。もう一個だけ」
「うん」
「言葉にするの、ゆっくりでいい。勝手に奪わないから」
合意の確認、という言い方を頭の中でやめる。言葉よりも先に、胸の奥がほどけるのを感じる。ほどけて、温度が広がる。
「ありがとう」
「こちらこそ」
「次、ちゃんと言葉で返す」
言ってから、心臓が一回だけ強く打った。陽は笑わない。ほんの少しだけ目を細めて、うなずいた。うなずきが、合図だ。俺は目を見る時間を少しだけ長くする。長くして、息を整える。二人だけの標準が、ここでひとつだけ出来上がる。
その時、玄関の方でカサ、と紙の触れる音がした。郵便物が投函されたらしい。ポストから取り出すと、町内会の回覧板と、母宛の封筒が一通。リビングに戻ると、陽は時計を見ていた。もうすぐ夕方のニュースの時間だ。
「そろそろ、帰る」
「駅まで送る」
「いらない。ここ、湊の家だから」
「じゃあ、門まで」
「それは、嬉しい」
靴を履く間、俺は今日の匂いを胸に入れる。バターと砂糖、ココア、洗剤、水の匂い。混ざって、どれでもない家の匂いになる。玄関の鍵を閉めるとき、陽が言った。
「今日のクッキー、名前で保存」
「どういう」
「湊の家、キッチン、約束、ってフォルダ」
「長い」
「長くていい」
門までの道は短い。短いのに、歩く速度はいつもよりゆっくりだった。門の前で立ち止まり、外の空気を吸う。風はまだ冷たく、雲は厚い。陽がポケットから小さな紙を出した。折り目が四つ。俺は受け取って、ゆっくり開いた。
次、湊の言葉で聞きたい。待つ。何度でも。
字はいつもの彼の字だが、筆圧が少し強い。紙の裏側に線の影が出ている。俺は紙をたたみ直し、胸ポケットに入れた。
「送るね、さっきの写真。キッチンのやつと、焼き上がりのやつ」
「お願い。俺も、レスで一枚。湊の横顔」
「勝手に撮るな」
「もう撮った」
「ずるい」
「褒めて」
「褒めない」
笑って、彼は手を振った。いつもの軽い手の振り。だけど、今日のは少しだけ長かった。角を曲がって見えなくなるまで、俺は立っていた。家に戻ると、タイマーの残り時間を無意識に探す。もう何も焼いていないのに、耳が音を待つ。待つ、は悪くない。待つことで、標準が体に馴染む。
居間に戻り、机に座る。ノートを開く。今日の数学の続き。ページの上に、さっきの紙をそっと置く。待つ、何度でも。その言葉は、音がない。音がないのに、胸の中で一番速く届く。俺はペンを取って、余白に小さく書く。
次、言う。
言葉は、今日の俺の力ではここまでだ。でも、ここまでを渡せたから、次が来る。来る約束は、キッチンの匂いと一緒に残る。窓の外は相変わらず曇りで、少しだけ青い。換気扇を止めると、部屋が急に静かになった。静かさの中で、オーブンの中にいたはずの熱が、まだ薄く残っているのを感じる。残り火みたいな体温が、胸の奥で小さく燃えている。
母からメッセージが入る。「今日、どうだった?」俺は「うまくいった。クッキー、成功」とだけ返す。既読がついて、「信頼、続行」と返ってくる。簡単な言葉が、今日の最後の合図になる。机の木目に指をすべらせ、キッチンの方を見やる。片付いたシンク、乾いた布巾、使い終わった天板が立てかけられている。どれもふつうで、ふつうの中に、約束の場所ができている。
夜になって、陽から写真が届く。俺がキッチンでタイマーを見上げている横顔。思っていたよりやわらかくて、少し照れくさい。俺は返す。カーブで目が合った写真をもう一度送る。既読の青が灯って、短いメッセージが戻る。
保存、完了。
ベッドに入る前、胸ポケットの紙をもう一度出して、読み返す。待つ。何度でも。次、俺の言葉で。言葉の形を何度もなぞって、眠る準備をする。目を閉じると、キッチンの音がゆっくり戻ってくる。換気扇、タイマー、冷蔵庫。全部足しても静かで、静かなまま、胸に届く。今日は、よく眠れる。明日は、ちゃんと起きられる。次は、言う。オーブンの熱が完全に消える前に、俺は目を閉じ、約束の場所で深く息をついた。
十時。チャイムが鳴る。出る前に鏡を見る。前髪が少し浮いている。水をつけて撫でて、手のひらの水気をタオルで拭く。ドアを開けると、神崎陽がいつも通りの軽い笑いで立っていた。紙袋をひとつ持っている。
「おはよう。早乙女は、昼から来るって」
「了解。上がって」
靴を脱ぐときの沈黙が短い。俺は家の匂いを意識する。洗剤と、木の匂い。外から来た人にどう映るか、少し緊張する。陽は廊下に並んだ家族写真をちらりと見て、「湊、小さい頃から顔が変わらない」と言った。からかわれた気もしたが、声は優しい。
「とりあえず、キッチン」
「はい」
キッチンはシンクが狭くて、作業台は古い。けれど、手は覚えている。粉の場所、オーブンの癖、タイマーの音色。俺はボウルを二つ出し、薄力粉と砂糖とバターを並べる。陽は紙袋を開け、中からラムネとココアの粉を取り出した。
「これ、今日のドリンク。甘いの飲むと人に優しくできる」
「じゃあ二杯ずつ作れ」
「了解」
俺はバターを切り、常温に馴染ませる。木べらで押しつぶす感触。最初は重いが、少しずつ柔らかくなる。砂糖を入れて、泡立て器に持ち替える。空気を含ませると、色がほんのわずかに白くなる。そこに卵を溶いて、少しずつ加えていく。分離しないように、手首の角度を変える。粉をふるって、さっくり混ぜる。
「手、貸す?」
「ボウル、押さえて」
「押さえるの、得意」
陽の左手がボウルの外側をしっかり支える。ぶれない。右手で泡立て器を回す俺の動きは、いつもより滑らかだった。混ざる音が、キッチンの白いタイルにやわらかく跳ね返る。陽が言う。
「混ぜるの、上手い」
「褒めてる?」
「ちゃんと。サッカーと同じ。力よりリズム」
「料理でたとえるな」
「褒めてるのに」
口では反論しながら、胸の奥は少し緩む。生地がまとまり、粉っぽさが消えたところで、冷蔵庫から刻んだチョコを出す。半分は混ぜ込み、半分はトッピング用に取っておく。オーブンの予熱を二百度に設定する。余熱の音が低く鳴り、機械の中に熱が生まれる気配が伝わってくる。
天板にクッキングシートを敷き、スプーンですくって落としていく。陽は間隔を測るのがうまい。一枚目の場所を決めると、そこから均等に並べて、全部で二十個。少し押さえて、表面を丸く整える。
「整えるの、得意」
「知ってる」
「知ってるの、嬉しい」
オーブンの扉を開けると、予熱の熱が顔に波のように当たり、頬が一瞬だけ熱くなる。天板を入れて扉を閉める。タイマーを十二分に合わせる。ピッという音が台所の明るさに馴染む。
焼けるまでの時間、俺たちはキッチンに立ったまま、水を飲んだ。陽が持ってきたラムネを一粒ずつ口に入れる。甘さの冷たさが舌の上で溶ける。オーブンの中で生地がふくらむ音はしないのに、ふくらむ気配だけが伝わってくる。匂いはゆっくり出てくる。最初はバター、そのあとに砂糖、最後に小麦粉の甘い蒸気。
「俺、家のこういう音が好き」
陽が言う。換気扇、タイマー、冷蔵庫のモーターの低い唸り。生きてる機械の音。日常の、小さな音。
「うるさくない?」
「うるさくない。試合の前って、家の音が恋しくなる」
「分かる気がする」
「湊は、台所の音が似合う」
「褒めてる?」
「ちゃんと」
いつものやりとりに笑う。笑いは少し小さいが、確かだ。タイマーの残り時間は六分。陽は袖をまくって、シンクに立った。泡立て器を水で流し、洗剤を少し。泡の白が細かく立つ。手の動きは整っていて、無駄がない。スポンジを滑らせる音が小さく続く。
「手際、いいな」
「洗い物、好き」
「珍しい」
「片付けると、次が楽だから」
言いながら、陽は蛇口を締め、布巾で水を切った。動きの最後に小さく息を吐く。俺はその息の形を覚える。覚えることで、あとで寂しくならないように。
タイマーが残り二分になったとき、陽がふいに静かになった。さっきまでの家の音がそのまま続いているのに、彼の沈黙だけがわずかに質を変える。俺はオーブンの小窓を覗くふりをして、彼の視線を受ける準備をする。
「湊」
「なに」
「俺ばっか言ってるけど、湊はどう思ってる? 俺のこと」
あらかじめ用意していた答えはない。用意していないのは、ずっと分かっていた。言えない、で逃げるのは簡単だ。でも、今ここで言わないのは違う気がした。言葉がまだ形になっていないなら、いちばん近いところの言葉を置くしかない。
「……一緒にいると、安心する」
言い終えて、心臓の位置が少しだけ下がる。陽は表情を変えないで、小さく頷いた。その頷き方が、全部の返事の代わりみたいだった。
「それ、最高」
タイマーが鳴った。軽い音が部屋の空気を跳ねさせ、俺たちは同時に笑った。オーブンの扉を開けると、熱と匂いが一気に溢れ出す。天板を取り出し、冷却ラックに移す。焼き色は均一で、チョコのところだけ艶がある。表面を指で軽く触れて、弾力を確かめる。
「きれい」
「丁寧、の味がする」
「それは食べてから決めろ」
「食べる前から分かる」
陽は一枚、俺も一枚。熱いのをふうふうして口に入れる。さくっと音が鳴って、中の柔らかさが少し遅れて舌に乗る。チョコはまだ溶けかけで、甘さは強い。でも、強い甘さの手前に、バターの塩気が小さく立っている。陽が言う。
「うま」
「それ以外の語彙、持て」
「最高、もある」
「便利に使うな」
笑って、もう一枚。熱さが少し和らいで、今度は全体が均一に溶ける。陽はグラスにココアを注ぎ、コースターの上に二つ置く。俺は皿にクッキーを並べ、食卓に置く。二人で向かい合って座る。テーブルの木目は古くて傷が多いが、温度は安定している。陽がグラスを持ち上げる。
「いただきます」
「どういたしまして」
食べながら、勉強会の準備に移る。ノート、問題集、付箋、ペンケース。台所から居間へ。居間の窓際、日が弱く差す場所に座布団を二つ。外はまだ曇りで、時々薄い光が走る。俺は数学、陽は英語。互いに苦手なところを少しずつ出し合って、ヒントだけ置いていく。いつもの方法。いつもの強さ。
昼前、早乙女からメッセージが来た。「午後から合流。差し入れはアイス」。俺たちは同時にスタンプを返す。勉強は淡々と進んだ。途中で、陽がキッチンの方を見る。
「さっきの、続き」
「続き?」
「安心、の話」
胸の奥が一瞬強く鳴る。俺はペンを置いて、息を整える。言葉を選ぶというより、並んでいる言葉のなかからいちばん手前のものを取って、置く。
「俺、言葉にするの遅い。遅いから、先に態度で出る。それを勝手に解釈されたくない」
「分かる」
「だから、合図が欲しい。受け取ったって、返したって、ちゃんと分かる合図」
「じゃあ、合図を標準にする」
「どういう」
「例えば、今みたいに、言葉の前に一回うなずく。それを俺の合図にする。湊の合図は、目を見る時間をほんの少しだけ長くする。どう?」
「分かりやすい」
「延長も可能」
「またそれか」
「癖だから」
俺は笑った。笑いながら、胸の強さが落ち着いていく。合図が決まると、世界の輪郭が少しはっきりする。境界がはっきりすると、守るべき場所が見える。守るために必要な距離も分かる。
チャイムが鳴って、早乙女が来た。紙袋いっぱいのアイスを持っている。バニラ、チョコ、抹茶。三つずつ。乾いた空気に冷気が混ざる。早乙女はキッチンを一目見て、「整ってる」と言った。俺は「陽が片付けた」と答える。早乙女は陽に親指を立てて、「やるじゃん」と笑った。
三人でアイスを食べ、午後の勉強に戻る。早乙女は国語の長文を俺に渡し、陽は英作文を彼女に見せる。三角形みたいに矢印が動く。時々、窓の外から子どもの笑い声が聞こえる。誰かが自転車のブレーキを鳴らして、金属の音が薄く長く伸びる。家の中にいると、外の音がやさしくなる。
三時。小腹が空いて、俺は残りのクッキーを食卓に戻した。早乙女は二枚食べて、「ふつうにうまい」と言った。「最大級」と俺が返すと、陽が静かにうなずく。三人の笑いが短く重なる。その重なり方が、俺には新しかった。外の空はまだ曇りだが、薄い青が混ざってきている。
夕方、勉強は切りがついた。早乙女は写真を数枚撮って、「今日の記録」と言って帰っていった。玄関で靴を履くとき、彼女は振り返って「湊、顔、やわらかい」とだけ言った。俺は返事の代わりに軽く手を振った。ドアが閉まる。静かになる。家の音だけになる。
キッチンに戻ると、陽がまだコップを洗っていた。水の流れ、ガラスが触れ合う小さな音。俺は食器を拭き、戸棚に戻す。作業がひと段落したタイミングで、陽が布巾を畳んだ。
「さっきの、合図の話。もう一個だけ」
「うん」
「言葉にするの、ゆっくりでいい。勝手に奪わないから」
合意の確認、という言い方を頭の中でやめる。言葉よりも先に、胸の奥がほどけるのを感じる。ほどけて、温度が広がる。
「ありがとう」
「こちらこそ」
「次、ちゃんと言葉で返す」
言ってから、心臓が一回だけ強く打った。陽は笑わない。ほんの少しだけ目を細めて、うなずいた。うなずきが、合図だ。俺は目を見る時間を少しだけ長くする。長くして、息を整える。二人だけの標準が、ここでひとつだけ出来上がる。
その時、玄関の方でカサ、と紙の触れる音がした。郵便物が投函されたらしい。ポストから取り出すと、町内会の回覧板と、母宛の封筒が一通。リビングに戻ると、陽は時計を見ていた。もうすぐ夕方のニュースの時間だ。
「そろそろ、帰る」
「駅まで送る」
「いらない。ここ、湊の家だから」
「じゃあ、門まで」
「それは、嬉しい」
靴を履く間、俺は今日の匂いを胸に入れる。バターと砂糖、ココア、洗剤、水の匂い。混ざって、どれでもない家の匂いになる。玄関の鍵を閉めるとき、陽が言った。
「今日のクッキー、名前で保存」
「どういう」
「湊の家、キッチン、約束、ってフォルダ」
「長い」
「長くていい」
門までの道は短い。短いのに、歩く速度はいつもよりゆっくりだった。門の前で立ち止まり、外の空気を吸う。風はまだ冷たく、雲は厚い。陽がポケットから小さな紙を出した。折り目が四つ。俺は受け取って、ゆっくり開いた。
次、湊の言葉で聞きたい。待つ。何度でも。
字はいつもの彼の字だが、筆圧が少し強い。紙の裏側に線の影が出ている。俺は紙をたたみ直し、胸ポケットに入れた。
「送るね、さっきの写真。キッチンのやつと、焼き上がりのやつ」
「お願い。俺も、レスで一枚。湊の横顔」
「勝手に撮るな」
「もう撮った」
「ずるい」
「褒めて」
「褒めない」
笑って、彼は手を振った。いつもの軽い手の振り。だけど、今日のは少しだけ長かった。角を曲がって見えなくなるまで、俺は立っていた。家に戻ると、タイマーの残り時間を無意識に探す。もう何も焼いていないのに、耳が音を待つ。待つ、は悪くない。待つことで、標準が体に馴染む。
居間に戻り、机に座る。ノートを開く。今日の数学の続き。ページの上に、さっきの紙をそっと置く。待つ、何度でも。その言葉は、音がない。音がないのに、胸の中で一番速く届く。俺はペンを取って、余白に小さく書く。
次、言う。
言葉は、今日の俺の力ではここまでだ。でも、ここまでを渡せたから、次が来る。来る約束は、キッチンの匂いと一緒に残る。窓の外は相変わらず曇りで、少しだけ青い。換気扇を止めると、部屋が急に静かになった。静かさの中で、オーブンの中にいたはずの熱が、まだ薄く残っているのを感じる。残り火みたいな体温が、胸の奥で小さく燃えている。
母からメッセージが入る。「今日、どうだった?」俺は「うまくいった。クッキー、成功」とだけ返す。既読がついて、「信頼、続行」と返ってくる。簡単な言葉が、今日の最後の合図になる。机の木目に指をすべらせ、キッチンの方を見やる。片付いたシンク、乾いた布巾、使い終わった天板が立てかけられている。どれもふつうで、ふつうの中に、約束の場所ができている。
夜になって、陽から写真が届く。俺がキッチンでタイマーを見上げている横顔。思っていたよりやわらかくて、少し照れくさい。俺は返す。カーブで目が合った写真をもう一度送る。既読の青が灯って、短いメッセージが戻る。
保存、完了。
ベッドに入る前、胸ポケットの紙をもう一度出して、読み返す。待つ。何度でも。次、俺の言葉で。言葉の形を何度もなぞって、眠る準備をする。目を閉じると、キッチンの音がゆっくり戻ってくる。換気扇、タイマー、冷蔵庫。全部足しても静かで、静かなまま、胸に届く。今日は、よく眠れる。明日は、ちゃんと起きられる。次は、言う。オーブンの熱が完全に消える前に、俺は目を閉じ、約束の場所で深く息をついた。



