朝から風が強かった。校門の上で紅白の旗が細く鳴って、空は雲を薄く引き延ばした色をしている。校庭に置かれたテントの屋根がときどき波打ち、そのたびに拍手みたいな布の音が起きる。俺は腕章を巻いて、首からカメラを下げ、配られたプログラムに赤ペンで印をつけた。写真担当。競技より前に並ぶ、影の係。誰に見られるわけでもないのに、やることは多い。

 開会式の整列で、クラスの列は半歩ずれていた。先生がメガホンで指示を飛ばす。曲がる、詰める、前を向く。朝の空気は体温の前でかたく、靴底のゴムが土に鳴らす音が妙に大きい。隣で早乙女が手を振った。「今日の風、いいよ。写真、光が転がるから」。俺は頷いて、ファインダーを覗くふりをした。覗くふりをすると、体の緊張が少し薄くなる。枠があると、世界は扱いやすい。

 午前の競技は、結果だけ言えば最下位だった。綱引きは力の出しどころを間違え、玉入れはかごの高さに風がいたずらして玉がことごとく逸れた。先生は「午後で巻き返す」と言ったが、巻き返しという言葉は、期待と焦りの両方を呼ぶ。クラスメイトは表情を変えないようにして変えていた。笑う角度が浅くなった。比べなければ気づかない差だが、写真にすると分かる。顔の筋肉は光に正直だ。

 俺は望遠の世界に逃げていた。逃げて、守っていた。被写体に近づかなくても、寄れる。寄って、でも触れない。安全な距離。シャッターを切ると、音が小さく背中に返ってきて、そこにだけ自分のいる証拠ができる。午前の最後の競技で陽を見つけたとき、彼は白のゼッケンに「2」をつけて、スタートのラインを踏む練習をしていた。足首の角度。地面を掴む癖。目線の高さ。横から見ると、彼の集中は静かで、かたちに無駄がなかった。

 昼休み、テントの陰で水を飲みながら、俺はレンズを拭いた。早乙女はパンを片手にスマホで午前の写真を確認している。「湊、こっち見て笑って」と言われて、ほんの少し口角を上げる。すぐに戻る。笑い慣れない顔は、すぐに元に戻る。早乙女は「まあそれも湊」と言って、パンをもう一口食べた。「午後三番、リレーだね。風、まだ残ってる。陽、外に流されないといいけど」「流されても戻せるだろ」「戻す前提で走る人は、速いんだよね」

 アナウンスが午後の開始を告げる。赤土の匂いが日差しに温められて、土曜日のグラウンドと近い匂いになった。各クラスの旗が、風にあおられて音を立てる。テントの中で応援の手が叩かれるたび、思い思いのリズムが重なって、少しだけずれる。ずれた音は、胸に残る。

 午後三番、クライマックスみたいに呼ばれているリレーの順番が回ってくる。コース脇は人で埋まった。俺はフェンスの切れ目に立ち、白線からほんの少し離れた位置に足を置く。レンズを望遠に替え、絞りを決める。シャッタースピードは、いつもより速め。陽のゼッケンの白が光を拾って、まぶしい。

 スタート。各クラスが一走目を送り出し、歓声が一段上がる。砂ぼこりが薄く舞い、足音が揃って鳴る。バトンが一つ、二つ、手から手へ渡っていく。その金属の細い音は、歓声の中でかすかに聞き取れる。俺はファインダーの中で視界を切り分け、陽のチームの走者を追いかけた。二走目の子が直線で詰め、三走目で差が縮まる。白線のカーブで、空の色がレンズの端に入り込む。

 陽は四走目。アンカーの手前。位置は三位で受けそうだ。前の走者の肩の位置、呼吸の間隔、手の開き。彼の体はもう次の動きを始めていて、まだバトンは手前の誰かの指の間にある。渡される直前、彼は目を一度閉じた。閉じた一瞬が、俺には見えた。見えたと確信できるくらい、近かった。

 バトンを受けた瞬間、歓声の音量が上がる。音の形が変わる。高く、速くなる。陽は最初の三歩で体を前に倒し、地面を蹴る。蹴る音は聞こえないのに、見える。直線を半分使ってトップスピードに乗せ、そのままカーブに入る。カーブは風の通り道だ。強すぎると押される。弱いと沈む。陽は風と同じ速度で体を傾け、白線ぎりぎりを走る。外側にいる二位の走者が流されて、ほんの少し膨らんだ。その瞬間、陽が内側から肩を並べる。

 俺はシャッターを切る。切る、切る、切る。連写じゃない。自分のリズムの間隔で三回。三回目が鳴ったあと、音が一度遅れて返ってきた。返ってくるまでのわずかな遅れに、胸がうずく。うずく間に、陽が一瞬だけこちらを見た。カーブの途中。視線が重なる。見た、というより、ぶつかった。ぶつかって、そのまま走っていった。ファインダーの中で、彼の目の色が明るくなる。

 最後の直線に入る。前は一位の背中。距離は人ひとり分より少し広い。追いつけないかもしれない、と誰かの声が言った。俺の声かもしれないし、誰かの声かもしれない。風の中の声は混ざる。混ざる声の上で、陽が笑った。笑うな、と言いかけて言わないうちに、彼は伸びた。全身の線が一本になって、地面とほぼ平行に滑った。最後の最後、爪の先みたいな差で胸がテープを切る。白い帯が弾け、空気がはっきり変わった。歓声が爆発する音じゃなく、地面がほっとしたみたいな音だった。

 俺は息を吐いた。ファインダー越しに吐くと、画面が一瞬白く曇った気がして、目をまた開いた。陽は両手を握って一度だけ上げ、それからすぐ周りに飲み込まれた。肩を叩かれ、頭を撫でられ、背中を押される。輪の中心に彼がいて、その外側にクラスがいる。最下位の午前は、もう過去形になりかけていた。

 片付けの時間になる。テントのポールを外し、旗を巻き、ベンチを寄せる。空は午前より青く、光が少し柔らかい。俺は望遠をしまい、標準レンズに戻す。肩にかけていたタオルで汗を拭いたとき、視界の端から白いシャツが近づいてきた。陽だ。首元のタオルが汗で重い。息は整っている。走った直後の呼吸の速さはもう残っていない。

 「今の、撮れた?」

 「たぶん」

 「見せて」

 すぐには見せられなくて、メモリの中を探す手が少しだけ遅くなる。スクロールの途中で、ゴールの瞬間にぴたりと合った写真が見つからないことに気づく。テープと腕と笑い声に押されて、俺のレンズはわずかに外れた。代わりに、カーブの途中で彼がこちらを見た顔だけが、はっきり残っていた。集中の途中に生まれた余白みたいな、短い視線の重なり。

 「……ゴールじゃなくて、カーブの顔しかない」

 「それ、欲しい」

 即答だった。俺は画面を明るくして、もう一度表示する。彼が覗き込む。肩が俺に触れる。少しだけ。汗の湿りが布ごしに伝わる。午後の太陽より熱いものが、触れたところにだけ残る。

 「湊が見てる瞬間が、俺には一番大事だったから」

 言い方は静かで、声は高くない。言葉が地面に落ちずに、まっすぐ届く。俺は返事を探しながら、指先で画面を拡大した。瞳の中に小さく俺がいる。ファインダーの枠も、望遠の黒い円も、そこにはない。あるのは、目の中の光と、風の角度だけ。

 「ゴールの写真、ほかの誰かが撮ってるよ」と陽が続けた。「先生とか、親とか。あれは誰でも撮れる。カーブのこれは、湊しか持ってない」

 言葉が心臓の内側に貼りつく。剥がすつもりはない。貼ったまま歩く。歩幅は彼に合わせた。合わせたのに、苦しくない。むしろ、歩きやすい。

 片付けがひと段落して、人が捌けた校庭の端で、俺たちは日陰に入った。風がまだ残っていて、テントの紐が時々震える。早乙女が少し離れたところで写真を撮って、こちらに親指を立てた。「午後三番、最高」と口だけで言う。俺はうなずく。うなずきは小さくても、通じることがある。

 「午前の最下位、消えた?」と陽。

 「消えてはない」

 「重み、変わった?」

 「変わった。持てる重さになった」

 陽はそれで満足したように頷いた。言葉のやりとりで重さが分配されるとき、世界は少し持ちやすくなる。持ちやすくなった分だけ、次の何かを持てる余地ができる。

 帰り道、テントをしまう先生の声が背中に遠ざかる。ポールがぶつかる金属音が乾いて響く。砂の上に残ったスパイクの跡が風でぼやけていく。白線は薄くなり、夕方の色がそれを上書きする。校門の前で、陽が立ち止まった。

 「これ、陸上部のカメラ係に送って。俺、もらい方分からないから」

 「了解」

 「あとで、俺にも。カーブの」

 「分かった」

 「名前で保存したいから」

 名前で、という言葉に、胸の柱が一本立つ。立った柱は視線の高さを少し上げる。上がった視線の先に、今まで見えなかったものが増える。増えた分だけ、わずかに怖い。でも、増えたこと自体が嬉しい。

 改札の手前、陽がふいに俺のカメラを指さした。「今日の湊、肩の力抜けてた。望遠に逃げたって言っても、逃げ方がうまかった。逃げてるのに、見てた。そういうの、得意だよね」

 「褒めてる?」

 「ちゃんと」

 「じゃあ、延長で」

 「標準で」

 いつものやり取りに、今日の熱が薄く混ざる。混ざったまま、俺たちは別方向のホームに進む。ホームの風は朝と違って柔らかい。汗の匂いも、砂の匂いも薄くなって、電車の金属の匂いが強くなる。スマホが震く。クラスのグループ。午後三番のゴールの写真が流れてくる。別の角度から撮られた陽の笑顔。スタンプがつき、歓声の絵文字が重なる。

 俺は画面を閉じて、カメラの再生ボタンを押す。カーブの顔が出る。目が合う。あの一瞬の重なりが、胸の奥でまた音もなく起きる。競争じゃなく、視線の重なりで勝った午後。その言葉を、誰にも見せないメモに書いておこうと思う。紙の余白に小さく書いて、栞にはさむ。負けた午前も、勝った午後も、同じ紙に挟んでおく。挟んだ紙は、軽いのに、たしかに重い。

 家に戻ると、カメラからパソコンにデータを移す。ファイル名を考える。午後三番_ゴール、ではなく、午後三番_カーブ。さらにもう一つ、陽_視線。文字を打つ指が少しだけ震える。震えは短く、すぐ収まる。画像を開くと、画面の中で陽がまだ走っている。時間は止まっているのに、走る気配だけは残っている。そういう写真は、あとで見返したとき、体温を戻してくれる。

 送信の準備をしながら、机の上のメモ用紙に、今日の一文を置く。

 湊が見てる瞬間が、俺には一番大事だったから

 そのままの言葉で書くと、自分の字なのに他人の告白みたいに見えた。見えるのに、嫌ではない。紙を栞に重ね、閉じる。閉じた手に、午後の太陽の残りを感じる。外はもう夕方の色で、風はさっきより弱い。窓を少し開けると、遠くの運動部の声が遅れて届く。今日の歓声は、もう誰のものでもなく、薄い風に切り刻まれて町に混ざっていく。

 ベッドに横になり、目を閉じる。ファインダーの枠は、まぶたの裏にも残っていた。枠の内側に、彼の横顔。枠の外側に、クラスの輪。走っているのは一人なのに、見ているのはたくさん。その全部を一枚に入れられなくても、カーブの一瞬があれば十分だ。十分、と思えた日の夜は、眠りに落ちるまでが短い。

 明日、プリントした一枚を渡す。名前で保存してもらう。競争の外で、視線の重なりだけを確かめる。回数を重ねれば、標準になる。標準になったら、もう奇跡ではなくなるのかもしれない。でも、今日の午後三番は、奇跡でいい。爪の先みたいな差の勝ちでも、視線の重なりの勝ちでも、呼び方はどちらでもいい。呼び方が増えるのは、悪くない。

 目を閉じたまま、小さく口に出してみる。午後三番の奇跡。音は軽いのに、胸に残る。残るから、名前になる。名前になったものは、何度でも呼べる。呼ぶたびに、今日の風が少しだけ戻ってくる。テントの布の音。土の匂い。シャッターの遅れ。全部まとめて、ひとつの午後。そこに俺がいて、彼がいた。勝ったのは、あの一瞬の見つけ合い。そう信じられる夜は、静かで、長い。