週明けの月曜、校舎のガラスは薄く曇っていた。朝の湿気が残っていて、手の甲でなぞると白い膜がすぐに消える。昇降口を抜けると、月曜独特のざわめきが廊下に散っていた。宿題の確認、週末の話題、部活の予定。いつもの音。なのに、今日だけは耳の奥が落ち着かない。

 教室のドアを開けた瞬間、視線が先に陽を見つけた。数人の女子に囲まれて、彼は笑っていた。誰かのスマホを覗き込んで、何かを説明している。笑いは派手じゃない。口元だけ、いつものように浅く上がる。でも、輪の密度がいつもより濃い。彼の肩に誰かの視線がいくつも重なって、そこに居場所ができていた。

 胸がざわつく。音を立てない種類のざわつき。机に鞄を置くふりをして、視線を外す。俺以外の全員が、彼の笑いに参加しているみたいな気がする。気のせいだと分かっていても、体が構える。構えた体は、逃げるのに向いている。だから俺は逃げる。何も言わず、教室を出る。階段を下りる足音が自分のものに聞こえない。踊り場の窓の外は、晴れとも曇りとも言えない白さで、心の居場所のなさだけがはっきりした。

 図書室のドアを押すと、空気が切り替わった。紙の匂いと、静かな温度。それだけで少し落ち着く。窓際のいつもの席に向かう。そこに、薄い栞が一枚置かれていた。黒い縁のシンプルな栞。端に小さく、手書きの文字。

 今日、行けない。ごめん。神崎

 丁寧な字だった。いつも付箋に書くまっすぐな線と同じ、少し力の抜けた、でも読みやすい字。短いのに、きちんと並んだ言葉が、逆に不安を広げた。教室で見た輪の密度が頭の中で増幅する。俺が逃げるみたいにここへ来たことと、彼が来られないことは、つながっていないのに、つながって見える。

 熊谷先生が、カウンターの向こうから「静かにね」と言う。声に救われる。席に座って、問題集を開く。視線は文字の上をなぞるのに、そこから意味が立ち上がってこない。鉛筆の先が紙に点を打つと、胸のざわめきが別の音に置き換わる。点、点、点。意味のない点を三つ。意味を持たせる前に、手を止める。

 ページの角に、栞を差し込む。差し込むだけで、今日の自分をどこかに仮置きできる気がした。ここに置いた。だから、少し離れても戻れる。何度でも。そう自分に言い聞かせて、二ページだけ進めた。進んだという事実を、紙の上に残す。それだけが、今日の成果でもいい。

 帰り際、ドアの前で一度だけ振り返る。窓際の席に光が斜めに差して、机の端が白くなっていた。栞の黒がそこだけはっきりしていた。持ち出すのをやめて、机の上に置いたまま図書室を出る。置いていく。戻る理由が目に見えるほうが、明日が少し楽だ。

 昇降口に近づく途中、遠くで雷に似た小さな音がした。外に出た瞬間、空の色が変わって、雨が落ちてきた。予報にはなかった。傘は持っていない。屋根の下にとどまるべきか、走るべきか。決めないうちに、肩に水が落ちてくる。制服の生地が重たくなる。髪が額に貼りつく。逃げ遅れる。階段の前に立ち尽くしたとき、視界の上から黒い影が滑り込んできた。

 さっと差し出される傘。持ち手のゴムのところに、見慣れた黄色い丸いシール。俺の傘。いや、今は彼の家に預けてあるはずの傘。

 「遅くなった」

 陽の声は、雨音に負けないちょうどの大きさだった。肩越しに雨の線が流れる。傘の内側の暗さが、安心に変わる速度はいつも速い。

 「……女子、人気だね」

 自分の声が思っていたより硬くて、少し驚く。笑いに似せようとして失敗した声。陽は一瞬だけ目を丸くしてから、視線を外に向けた。

 「相談されてただけ。写真のことと、志望校のこと。俺の話もした」

 「何を」

 「湊が傘を貸してくれた話。初めて一緒に帰った日のこと。雨の音」

 具体的すぎて、体の内側の硬さがほどけた。数日前の景色が、匂いまで戻ってくる。黄色いシール。ラムネの味。コンビニの白い光。

 「……なんでそんな話を」

 「好きだったから。あの日のこと」

 好き、という言葉をさらりと置かないのが彼のやり方だ。好きだったから、と、あくまで出来事に向ける。出来事に向けるから、受け取れる。俺は頷く代わりに、歩き出した。駅へ向かう道。傘の内側で、二人の呼吸が重なる。雨の音が外にあるのに、内側の音は静かだ。静かだから、言えそうになる。本当のこと。喉まで上がってきて、引っ込む。

 「湊」

 「なに」

 「今日、図書室行けなくてごめん。呼び止められた。止まるタイミング、失敗した」

 「栞、見た」

 「読んだ?」

 「読んだ。丁寧だった」

 「丁寧、は、下手な謝り方より強いと思って」

 「強かった。だから、逆に不安になった」

 小さく笑う。自分でも面倒な言い方だと分かっている。陽は笑わなかった。ただ、傘の角度を少し俺の方に寄せた。肩に落ちる雨粒が減る。

 「嫉妬、した?」

 たった二文字のくせに、重い。重さに答えが押しつぶされそうになる。押しつぶされた答えは、形を変える。

 「……分からない」

 「分からないなら、分からないって言って」

 「分からない。けど、嫌だった」

 「嫌、でいい」

 嫌、でいい。その肯定が、意外と効く。効いたせいで、言い過ぎないで済む。堤防の高さはそのままで、水だけ静かに引く。

 駅に着くまでの間、雨は強くなったり弱くなったりした。踏切の音が濡れた空気の中で少し低く響く。靴の先が滑らないように、歩幅を自然に揃える。無理をしない速度。電柱の影が足元に薄く落ちて、二人分の影が重なったところだけ濃くなる。

 改札の前で立ち止まると、陽がポケットから折りたたんだ紙を出した。角が小さく丸くなっている。雨で濡れないように、手のひらで覆う。渡された紙は、思っていたより厚手で、筆圧が少しだけ裏に透けていた。

 「俺の気持ちは、見えてる分だけじゃないから」

 メモの真ん中に、その一行。文字はいつもの字。線の太さが少し揺れている気がした。湿気のせいかもしれない。そうじゃないかもしれない。

 「……今、読むの、反則だな」

 「反則、好き」

 「好き、って言うな」

 「出来事に向けて言った」

 ずるい返しだと分かって、笑ってしまう。笑うと、胸の奥のざわつきは音を失う。無音で小さくなる。陽は改札の方を顎で指し示した。行け、という合図ではなく、選べ、という合図に見えた。

 「返事は、明日でいい」

 「今、少しだけ」

 「少しだけ」

 少しだけ、の言葉は俺のほうに返ってきた。言葉の器が同じだと、音は落ち着く。

 「俺の不安も、見えてる分だけじゃない。でも、聞いてくれたら落ち着く」

 口で言って、家で同じ文面でメモを書く、と決めた。口で言うのと、紙に残すのは違う。違うけれど、重ねておくと、あとから支えになる。

 「聞く。何度でも」

 陽は短くそう言って、改札を通った。俺は反対のホームへ向かいながら、雨の匂いをもう一度吸い込む。傘の内側の暗さが、少し残ってついてくる。残っているのは心地よくて、邪魔ではない。

 電車の窓に映る自分の顔は、さっきより柔らかかった。額の髪が少し濡れて、眉の上でまとまっている。車内の明かりに照らされて、紙の白が強く見えた。ポケットからさっきのメモを取り出して、もう一度読む。見えてる分だけじゃない。メモの文字はいつまでも同じ形でそこにあり、俺の読み方だけが変わる。読み方の変化は、信じるに近い。そう思うと、少しだけ眠くなった。

 家に帰ると、部屋の机に栞が一本置いてあった。図書室に置いてきた栞とは違う、家用の栞。黒い縁に銀の細い線が一本走っている。問題集を開き、今日のページに挟み直す。位置を少しだけずらして、指で押さえる。糊のないものは、押さえれば落ち着く。落ち着いた位置を覚えさせるみたいに。

 引き出しから白いメモ用紙を出して、ペンを置く。息を一度整えて、さっき口で言った文をそのまま書く。

 俺の不安も、見えてる分だけじゃない。でも、聞いてくれたら落ち着く

 書いた文字は、俺の字のくせに他人行儀だった。こういう時だけ、字は整う。整う分だけ、体の奥が少し緩む。メモを二つ折りにして、明日の自分の鞄の一番浅いポケットに入れた。浅い場所に入れるのは、自分を忘れないためだ。忘れやすいものほど、浅く置く。

 その夜は、いつもより早く眠れた。眠る前に、天井を見た。天井の白は、昼間の曇りの白と似ていて、でも余計な音がない。瞼を閉じると、雨の内側の暗さが戻ってきた。傘の骨の形。柄の黄色い丸いシール。シールの縁が少しめくれていて、そこを彼が押さえた指先の温度。そんな細かいところばかりが、やけに鮮明に残る。呼ばれた名前は、今日は出てこない。出てこないのに、安心だった。名前を呼ばれない夜も、たまにはいい。

 翌朝。
 教室に入る前、昇降口で靴を履き替えていると、早乙女が階段の上から「おはよう」と言った。手には昨日の写真がプリントされている。コンビニの前、雨で濡れた地面が反射して、二人分の影が薄く重なっているやつだ。

 「昨日の夕方、光がきれいだったから、つい。勝手にごめん」

 「ありがとう」

 「顔、戻ってる」

 「戻ってる?」

 「昨日の朝、固かった。今はいつもの湊。ちょっと眠そうだけど」

 「眠いのは標準」

 早乙女は笑って、写真をしまった。「今日、図書室?」
 「行く」
 「良かった。栞、机の上で寂しそうだった」

 寂しそう。ものに感情をつける言い方は、意外と悪くない。図書室の机に栞を置いてきたのは、確かに自分に寂しさを預けるためだったのかもしれない。

 一時間目の数学は集中できた。昨日の二ページの続きを、頭の中で繋げられた。点から線へ。線から面へ。背中のざわめきはまだ教室のどこかにいるが、距離がある。距離があるから、すぐには届かない。

 放課後、図書室のドアを開けると、空気はいつも通りの温度だった。窓際の席に近づくと、栞が昨日と同じ場所にあって、そこにもう一枚、メモが重なっていた。薄い付箋。昨日の栞よりも軽い黄色。

 聞く、何度でも

 三つの言葉。句読点はない。余白が多い。余白の多さが、効く。効いて、体の内側の角が丸くなる。カウンターの向こうで熊谷先生が自分のマグカップを持ち上げる。先生のマグの底が机に当たって、音が一回鳴った。その一回のために、俺の喉の奥も一回だけ鳴る。

 鞄の浅いポケットから、昨夜のメモを出す。栞に重ねて、同じ位置に挟む。紙と紙が触れる音が、指先で小さく鳴る。席に座ると、陽が静かに隣に座った。今日は向かいじゃなく、隣。窓からの光が二人の机を半分ずつ照らして、境目が曖昧になる。

 「読んだ?」

 「読んだ」

 「返事、聞いた」

 「聞こえた」

 短い会話。短いぶんだけ、余白が残って、そこを埋めるのは紙のほうが早い。紙のほうが早いのに、心に届くのは一番速い。矛盾みたいだが、体感はそうだった。

 鉛筆を取り、問題集を開く。ページの頭に付箋が一枚、今日の印を置く。陽がペン先で「ここ」とだけ指す。ここ。そこ。昨日よりも簡単で、昨日よりも難しいところに点が打たれる。打たれた点を、線にするのは俺の役目だ。役目が決まっていると、人は少し強くなれる。

 途中で、陽が小さな声で言った。

 「昨日の朝の輪、ちょっと後悔した。止まりすぎた」

 「止まるタイミング、失敗したって言ってた」

 「次は、止まる前に手を振る」

 「相手に?」

 「ううん。湊に」

 「教室で?」

 「教室じゃない場所でも」

 教室じゃない場所。踊り場の窓。昇降口。フェンスの端。どの場所にも、名前を置ける。誰かの視線が多い場所も、少ない場所も、内側の合図で場所になる。場所化する、という言い方が頭に浮かんで、すぐに消えた。難しい言葉は、いまは要らない。

 ページが一つ進んだところで、陽がメモをもう一枚、差し出してきた。付箋より厚い紙。端が丸く切られている。

 君の不安、俺の栞に挟んでいい?

 冗談半分、本気半分。そう書いてなくても、分かる。分かるから、笑った。笑ってから、ゆっくり頷いた。頷きは、言葉より遅い。遅い分だけ、長く残る。

 「延長型で」と陽が小さく言う。
 「それ、やめろって言ってる」
 「標準にする」

 まただ。からかうようで、標準にする、と言い切る声は真面目だ。真面目の比率は、いつも彼の中で多めだ。多めでいい。

 夕方、窓の外が薄く橙になる頃まで、俺たちは黙って問題を解いた。解きながら、ときどきメモを見る。見なくてもいい距離に置き、でも見える位置に置く。見えてる分だけじゃない、という言葉が、見えているから届く。届いたものを、紙に戻しておける。戻した紙は、栞といっしょに重ねる。

 帰り際、図書室のドアを押す前に、陽が言った。

 「昨日の雨、たぶんまた降る」

 「予報?」

 「勘」

 「勘、当てるタイプ?」

 「たまに」

 外に出ると、雨は降っていなかった。けれど、匂いがあった。来る前の匂い。風が少し冷たくなって、空の白さが増す。昇降口で傘を取り出す俺を見て、陽が小さく笑う。

 「早い」

 「止まるタイミング、俺も練習する」

 「じゃあ、合図は俺が出す」

 「信じる」

 信じる、はやっぱり静かな動詞だ。静かに言って、静かに戻る。戻ったあと、胸の中に広がる空間は昨日より広かった。広さは無駄じゃない。無駄じゃない空間に、明日の付箋を置く。置いてから、ドアを閉めるみたいに、家路へ向かう。

 家に帰って、机に今日のメモを並べた。神崎の字で書かれた「聞く、何度でも」。俺の字で書かれた「見えてる分だけじゃない。でも、聞いてくれたら落ち着く」。並べてみると、どちらも余白が多い。多いのに、足りない感じがしない。余白が約束の形をしているからだと思った。約束は、音がない。音がないから、騒がしい世界の手前で守れる。

 窓の外で、予報どおり、遅れて雨が降り始めた。屋根を叩く音が少しずつ増える。窓ガラスを走る細い線がいくつも、重なって落ちていく。傘の骨の影を思い出す。内側の暗さ。二人の呼吸。名前を呼ばれた時にできる、心の座標。どれも、小さなものだ。小さいのに、強い。

 俺は机の引き出しに栞をしまいかけて、やめた。明日のページに先に挟んでおく。未来の俺が迷ったときに、ここに戻れるように。栞の黒い縁を指でなぞってから、ライトを消す。部屋が暗くなる瞬間、メモの白だけが少し遅れて暗くなった。暗くなる前の白は、やけにやさしかった。

 布団に潜って目を閉じる。耳の奥に、今日の雨の音が小さく残っている。うるさい世界は、今は遠い。遠いままでいてくれる。胸の内側で、誰かの短い返事がもう一度落ちる。

 聞く、何度でも。

 返す声は、紙より遅くて、心には速い。

 分かった。俺も、何度でも。