土曜の朝、校門に向かう道はいつもより静かだった。住宅街の犬が二回吠えて、その音が空気に吸い込まれる。雲は薄くて、日差しは弱い。運動場の赤土は昨日の夜の湿りを少しだけ残していて、踏みしめるたびに靴底が低く鳴った。
 観に行くつもりは、なかった。
 でも、早乙女が俺の腕を引いて、予定表に小さく丸をつけるみたいに言った。
 「午前の二本目が見どころなんだって。行こ」
 断る言葉より、頷く方が今日の俺には簡単だった。頷くと、早乙女は満足げに前を向いた。髪をひとつにまとめ、首の後ろのほくろが陽を受けて小さく光る。
 グラウンドへ近づくにつれて、声が重なってくる。スパイクの音、笛の長い音、コーチの短い指示。ベンチの前ではタオルが何度も振られて、水のボトルがリレーのように回る。
 フェンスの端に立つ。
 観客席は簡易ベンチが数脚。親らしき人たちの固い視線が揺れない。俺はそこから少し離れて、フェンスの網の目からピッチを覗いた。網の交点が視界に残って、ピントの奥が一瞬だけ揺れる。
 緑化された人工芝は均一な色で、白いラインがくっきり走っている。ユニフォームの青と白がぶつかって、光のきらめきが小さく跳ねた。
 陽は、遠目でもすぐに分かった。
 走るたびに歓声が少し大きくなる。ボールを受ける前の一歩、受けた瞬間の体の向き、次の人へ送る視線の角度。どれも、見ている側の呼吸を勝手に整える。大きなドリブルはしない。必要なところだけ速く、必要じゃないところは減速する。無駄がない。だから、周りが動きやすい。
 「うま」「パスがきれい」という声が背中から聞こえる。
 俺は拍手をためらいがちに一度だけした。音が自分の掌で跳ね返って、少しだけむずがゆい。
 早乙女はカメラを構えている。望遠ではない。いつものミラーレスで、連写は使わない。
 「声、出さない応援のやり方、知ってるから」
 振り向かないまま、彼女が言った。
 「指先で、撮るだけ。見すぎないで、見てる」
 前半。
 点は入らない。入らないけれど、悪くない。相手のセンターバックが強くて、正面は固い。陽はサイドに少し流れて、ワンツーで抜ける形を二度つくる。最後の一歩で相手がうまく足を出して、シュートは打てない。観客の息が同じタイミングで止まって、また動く。
 俺はフェンス越しに、その止まる息まで見えるような気がした。見えないはずのものが、見えるときがある。名前で呼ばれた日から、そういう見え方が時々増えた。
 笛。
 ハーフタイム。
 ピッチの端に座って、選手たちは水を飲む。タオルで汗を拭き、首にかけ、誰かの肩を叩く。コーチの手は早口だ。ボードに矢印が増える。
 陽は前を向いて頷き、立ち上がる前に視線をふと上げた。フェンスの端を、まっすぐ見た。
 見つけた。
 陽が手を振る。
 「来てくれた」
 フェンス越しに口の形だけで言って、笑う。
 「早乙女が」と俺が返すと、陽は首を横に振った。
 「でも、嬉しい」
 俺の拍手は、拍手じゃない形でそこで鳴った。胸の奥の方で、目に見えない掌が一回だけ打ち合わされ、音にならずに消えた。
 後半。
 相手が先に一点取った。センターライン付近からのスルーパス。こぼれ球を押し込まれて、ネットが静かに揺れた。歓声とため息が交互に起こる。
 俺はフェンスの網に指先を当てた。金属の冷たさが皮膚に移る。
 ベンチの前で、コーチが声を張る。陽は頷いて、ポジションを少し下げた。ボールを引き出す形。受けて、はたき、また受ける。サイドが動いて、中央が空く。
 右からのクロスは少し長くて、そのまま流れた。流れた先で、陽が走っていた。誰も届かないと思ったボールに、陽だけが届く。右足の外側で、触る。強さは弱い。弱さが正解の触り方だ。ボールはラインぎりぎりで生きて、中央へ緩く転がる。
 走り込んだ味方が、左足で合わせた。
 ネットが、今度は大きく揺れた。
 歓声が本物の大きさで起きる。俺は反射で手を叩いた。ためらいがちではない拍手。音が、掌からフェンスに渡って、網の向こうへ滑っていく。
 「アシスト」と早乙女が小さく言う。
 「逆転の一歩目」
 点を取った彼が真っ先に陽へ走って、胸と胸を一度だけぶつけた。体の衝撃が、見ているこっちまで伝わってくる。空気に一瞬だけ匂いが増した。汗と芝の匂い。
 そのあと、試合は早くなった。リズムがずれると、時間もずれる。目の前の時間だけ速くなって、自分の時間は遅くなる。俺はフェンスを軽く握り直す。
 残り十分。
 タッチライン際のスローイン。陽が受けて背中で相手を一人消し、くるりと半回転させる。足裏で止めて、出す。真ん中、二人の間。通らないと思った隙間に、通った。
 受けた子がスルーし、もう一人が走る。
 キーパーが前に出る。
 浮かせたボールが、キーパーの指先をかすめて、ゆっくりネットへ落ちる。
 逆転。
 歓声の質が、さっきと違う。喜びより、安堵が少し勝っている。勝ちを想像した声だ。
 陽は両手を握って一度だけ突き上げ、それからすぐ背中を軽く叩かれて輪の中に消えた。歓声の中でも、彼の笑い方だけは遠くからでも分かった。歯を見せず、口角だけで笑う。思い切り喜ばないのは、試合が終わっていないからだ。
 それでも、俺は笑っていた。フェンスに額を一瞬だけ触れて、誰にも見られない笑い方をした。
 試合が終わる頃、雲はさらに薄くなっていた。表彰の音楽なんてない、練習試合の終わり方。握手。お互いのベンチへ戻る足音。スパイクの歯に、小さな砂粒が少しだけ引っかかる。ベンチでタオルを頭からかぶっている誰か。笑い声。ため息。
 俺はフェンスから離れ、早乙女と門の近くで待った。早乙女は撮った写真を確認している。画面の中の人の顔に光が乗っていた。
 「午後の光、やっぱりいい」
 「うん」
 「帰り、一緒に帰りたいなら、コンビニで待機が正解。ここで突っ立ってると、コーチに捕まる」
 「経験者の言うことは聞く」
 「えらい」
 コンビニの前には、いつもの黄色いティッシュと雑誌の棚。ガラスに夕方の色が薄く映る。冷蔵ケースの前でスポーツドリンクを二本取る。レジの音は小さい。ポイントカードは訊かれなかった。袋いりますか、と訊ねられて、いりません、と言う。
 外に出ると、陽がちょうどこちらに向かって歩いてきた。首元のタオルが汗を吸って重い。髪は少し濃く見える。
 「おつかれ」
 言うと、彼は笑って、受け取ったボトルのキャップを開けた。一口で、半分まで飲む。喉仏が上下するたびに、試合の時間が喉の奥を通っていくように見えた。
 「冷た」
 息を一度整え、呼吸の回数が落ち着いたところで言う。
 「湊が見てると、いい意味で緊張する」
 反射で否定しかけて、やめた。
 否定は簡単だ。簡単な言葉は、時々正しさに見える。その正しさが邪魔をするときもある。
 「じゃあ、また観に行く」
 「約束」
 約束、は短いのに強い。外側で誰かが解釈できない強さが、内側でだけ固まる。
 俺は頷いた。頷いた拍子に、ポケットのスマホが震いた。画面を見て、指が止まる。
 クラスのグループから、スクショが回ってきていた。
 神崎、誰と帰ってた?
 文字の軽さは、いつも通り簡単だ。簡単なものほど、重さがないから拡散する。
 心がざわつく。ざわつく、の音は自分にしか聞こえない。
 画面を閉じようとしたとき、陽が俺の視線の角度で気づいた。
 「見せて」
 躊躇して、見せる。文字と、笑いマークと、スタンプ。一つ一つは軽いのに、合わせると重く見える。
 陽は短く息を吐いて、スマホをそっと下ろした。
 「俺のこと、信じられなくなったらすぐ言って」
 声は低くなかった。大きくもない。短い。
 信じる、って、思っていたより静かな動詞だ。
 俺は頷く。頷いた瞬間、うるさい世界が少し遠のいた。
 「ここで言葉増やすと、崩れるから」と陽が続ける。
 「崩していいときは、俺が合図する」
 「自分で合図するのか」
 「うん。湊のペースを待つ合図も俺が出す。今日の試合も、そうした」
 「どういう」
 「前半、無理に狙わなかった。半歩だけ待った。待ったら、味方が見えた」
 後半のアシストの前の、弱い触り方を思い出す。弱い、が正しかった場面。
 「待つのって、じれったくないのか」
 「じれったいけど、守れる」
 「なにを」
 「続き。続きがあるやつ」
 コンビニの横のベンチに並んで座る。スポドリのボトルが半分だけ軽くて、指の間で少し形を変える。ベンチの下に、ラムネの包み紙がひとつ。昨日の誰かの甘さの残り。
 早乙女が少し離れたところで空を撮っている。反射で光る看板と、雲。彼女はこっちを見ない。押すだけ。形にしない押し方は、今日も変わらない。
 「噂、しばらく続くと思うよ」と陽。
 「分かってる」
 「じゃあ、合図もう一つ」
 「なに」
 「名前で呼ぶ練習、ここでも有効」
 「ここ、って」
 「場外。今日の試合、場外の応援が一番効いた」
 俺は彼の顔を見た。汗の粒がこめかみに一つ残っている。指で拭くほどの距離じゃない。目で拭ける距離。
 「陽」
 呼ぶと、彼は目だけで笑った。
 「はい」
 「さっきのアシスト、かっこよかった」
 「ありがとう」
 「また同じこと言う」
 「延長型で」
 「それ、やめろって言ったろ」
 「じゃあ、標準で」
 信号が青に変わる音がして、俺たちは立ち上がる。歩幅を合わせるのに、今日は意識がいらない。自然に揃う。揃う、が標準になっていく。
 駅へ向かう道、陽がポケットからタオルを出して首にかけ直す。湿り方が落ち着いて、匂いが少し薄くなる。
 「次の練習試合、再来週。朝早いけど、来る?」
 「行く」
 言い終える前に、スマホがまた震いた。さっきと同じグループ。別のスクショ。
 神崎、今日さ、フェンスのとこで誰に手振ってた?
 軽い。軽いけど、さっきより輪郭がくっきりしている。
 俺は足を止めない。止めなかった自分に、少し驚く。
 「送ってきて」と陽が言う。
 「いいのか」
 「いい。俺が返すわけじゃない。ただ、湊がどう感じてるか、共有したい」
 共有、は短いけれど、内側の温度が変わる言葉だ。
 「ざわついた」
 「だよね」
 「でも、今は、前ほどじゃない」
 「合図、届いた?」
 頷く。
 たぶん、届いた。届いて、俺の中の何かが位置を変えた。付箋の位置を貼り直すみたいに。明日は栞、で挟む。
 「信じる、の練習、続ける?」
 「練習?」
 「名前の練習と同じ。回数が支える」
 「回数か」
 「今日一回。次の試合でもう一回。足りなかったら、また」
 「延長型」
 「それは俺が言う台詞」
 駅に着く。改札の前で、俺たちはいつものように短く手を上げる。
 「また」
 「また。湊」
 名前を呼ばれることは、合図の最短距離だ。
 改札を抜けて、ホームの風を受けながら、スマホの画面をもう一度見る。噂はまだ動いている。動いているけれど、画面の明るさを下げたら、少し弱く見えた。
 そこへ、陽からメッセージ。
 今日の応援、場外最優秀。
 俺は短く返す。
 次も、延長型で。
 既読の青が点いて、すぐに返ってきた。
 了解。標準にする。
 電車に乗る。窓に自分の顔が映る。汗は引いて、目の色が落ち着いた。額に少し髪が貼りつく。指で上げる。反射で、今日のアシストの瞬間が頭の中で再生される。弱い触り方。必要な弱さ。
 必要な弱さは、信じるのとよく似ている。力を抜くのに、力がいる。
 家に着いてカメラを机に置き、ストラップを外す。パソコンに取り込んで、写真を並べる。花壇の色、フェンス越しの視線、逆転の前の瞬間、タオルの重さ、コンビニの白い光。
 一枚だけ、陽の横顔に星をつける。
 ファイル名を、少し迷ってから打つ。
 陽_場外アシストの前。
 名前で保存。
 保存の音はしない。無音のまま、画面の文字が確定する。
 静かな動詞は、いつも無音で完了する。
 俺は椅子にもたれて、天井の白を見る。
 試合の喧騒は遠くて、目の前の白は近い。
 内緒の箱の中に、今日の場外応援がひとつ入った。
 箱は少し重くなったけれど、持てる重さだ。
 次の土曜、また持ち出せる。
 フェンスの端で、拍手しすぎない拍手を、一度だけ。
 それで合図は伝わる。
 多分、十分に。
 標準になるまで、回数をかける。
 信じる、も、応援も、練習で強くなる。
 名前と同じ手順で。
 俺は目を閉じ、弱さの位置をそっと確かめて、眠りに入った。