昼休みのチャイムが鳴ると、教室の空気は一斉に立ち上がった。
 パンの袋が開く音、椅子の脚が鳴る音、笑い声の粒。音の隙間を縫うみたいにして、俺はカメラを首から下げ、窓の外の明るさを一度だけ確かめる。雲は薄く、春の手前の光。撮るにはちょうどいい。
 校庭の片隅、体育館の陰になっている花壇は、いつ見ても人が少ない。パンジーとビオラが混じって咲いていて、色の組み合わせが日によって違って見える。風が弱い日は、花の縁の揺れが小さい。シャッタースピードを落としてもぶれにくいから、午後の白い光をそのまま拾える。
 屈んで、ファインダーを覗く。息を一度止めて、ピントの輪が花びらの縁に吸い付いていくのを待つ。シャッターを切る瞬間だけ、世界の音が一度薄くなる。音が戻ると、写真はもう出来上がっていて、たった今の光の形を持っている。

 背後から、名前が飛んできた。

 「湊」

 名前で呼ばれると、身体が先に反応する。振り向くと、神崎陽がいつもより近い距離に立っていた。
 すぐ手を伸ばせば触れられそうな間合い。制服の肩が、光を受けて少し白い。髪の端が昼の風をひとつ掬って、落とす。そのごく小さな動きまで、目に入る。

 「下の名前、もっと呼んでいい?」

 「別に」

 「別にってことは、いい?」

 詰められて、頷いた。頷く首筋に、名前の音がもう一度触れた。
 「湊」
 二度目は、さっきより少し低い声だった。体温が、名前の形で入ってくる。皮膚より内側、胸の真ん中にすっと置かれる感じがした。置かれたものは軽いのに、確かにそこにある。

 「写真、今日も?」

 「昼の光、好きだから」

 「ふうん。見てもいい?」

 「見る、だけ」

 条件をつけると、陽は小さく笑って「了解」と言った。俺はカメラの再生ボタンを押し、さっきの花壇を見せた。液晶の上で、紫と黄が並ぶ。
 陽は画面を覗き込みながら、ほんの少しだけ顔を近づけた。呼吸の温度が動く。
 「湊は、寄るのうまいね」
 「寄る?」
 「ぎりぎりまで寄って、でも花の形を壊さないで止まる。今の距離感、いい」
 「人にそういうこと言うな」
 「褒めた」
 「分かってる」

 名前で呼ばれているせいで、会話の重心がいつもより真ん中にある気がした。
 俺は立ち上がり、レンズキャップをはめた。「午後も、図書室?」
 「いる。湊は?」
 「いる、たぶん」
 「たぶんを、はいに混ぜとく」

 からかい半分に聞こえるのに、約束の形だけはここに置かれる。俺は頷いて、教室に戻った。戻る前に一度だけ振り返ると、陽は校庭の中央の方に視線を送り、体育館の壁に映る光の反射をじっと見ていた。
 昼の光は、見ているだけでも熱がある。触れなくても、じわっと届く。今の俺の名前も、そういう光の温度に似ていた。

 午後。
 授業の間は、意識を板書に向ける。黒板の左右のバランスが少しずれて、先生の歩幅に合わせて文字が並んでいく。名前で呼ばれた余韻が、耳の奥で遅れて鳴る。呼ばれることは、合図になる。自分で自分を見失わないように、座標を打ってくれる。
 窓の外の雲が速くなり、教室の光がときどき目を細めさせる。授業が終わる寸前、クラスの後ろの方で誰かが言った。
 神崎、今日も図書室だって。
 誰かが返す。へえ、マジ。
 そのへえは軽くて、今は重くない。重さは自分で決めると、彼に言われた気がする。自分のペースで、という合図を思い出す。

 放課後、いつもより少し遅れて図書室に入ると、空気がやはり切り替わる。紙と木の匂い。カーテンの影。熊谷先生の「静かにね」。
 席に向かう途中、陽が顔を上げた。何も聞かない目。問いを丸ごと、付箋にして渡してくる。

 今日のページ、どこから?

 俺は付箋に「ここから」と書いて返す。彼は「了解」と書いて、ページの角に貼る。そこに今日の俺の速度が置かれる。
 二人で鉛筆を動かして、ページが進む。降りてくる影が、同じ角度で机の縁を走る。膝の下の床の温度まで似ている気がするのは、多分気のせいじゃない。
 どこかで、紙をめくる音。どこかで、咳払い。外から、サッカー部のかけ声がにじむ。音の上に集中をのせて、何度か止まり、また進む。陽はいつものようにヒントだけを置く。紙の端の小さな点。しるしは少ないのに、意味は多い。
 その繰り返しの間、俺はふと気づいた。陽のスマホの画面が、付箋を貼り直す彼の指先で短く光った。ちらりと見えたアルバムの中、見覚えのある色が並ぶ。俺が撮った花壇。階段の踊り場から見た空。夕焼けの反射。
 胸の奥が、不意に騒がしくなる。

 帰り際、カウンターで本を借りる陽を待っていると、彼が何気なくスマホをこちらに向けた。画面が明るくなり、アルバムが開く。知らないうちに、俺の写真が増えている。

 「許可したっけ」

 「してない」

 「……じゃあ」

 「でも、今、許可して」

 言い方は軽いのに、目の奥は真面目だった。
 俺は少しだけ間を置いて、「今だけ」と答える。
 陽は小さく笑って、すぐ重ねる。
 「じゃ、延長型で」

 「勝手に延長するな」

 「延長の許可は、その都度取る」

 「今、取ってない」

 「今は、サービス」

 言い合いの形なのに、口の端で笑いが止まる。俺はスマホの画面に並ぶ写真をもう一度見た。自分が撮ったはずの景色が、他人の端末に整然と並んでいる。色も構図もそのままなのに、少し違って見える。持ち主が変わるだけで、写真は別の名前を持つ。
 陽は、写真をひとつ拡大した。階段の踊り場。踊り場の窓。薄い雲。
 「好きなんだよね、ここ」
 「よく分かったな」
 「湊が好きな場所、だいたい分かる」
 「勝手に把握するな」
 「把握、は、好きの初期症状」

 さらりと言って、彼はスマホをしまった。
 俺は何も返せなくて、図書室のドアに手をかける。扉の向こうの廊下は、夕方の色を少しだけ吸っている。外に出ると、陽が言った。

 「俺のも、撮っていいよ」

 「お前の?」

 「うん。今の光、顔にやわらかいから」

 言われて、ふいに構える。カメラを持ち上げると、陽は視線を少しだけ遠くへやった。真正面じゃない。横顔の角度。頬の骨のラインに薄い光が乗る。まぶしいのをごまかすみたいに、目を細める。
 ファインダーの中で、背景の廊下が静かにぼけていく。ピントを合わせるたび、陽の横顔は少し優しくなっていく。機械的な操作なのに、気持ちの方がそれに連れて変わる。
 シャッターボタンに乗せた指に、微かな震えが走る。
 そのとき、陽が静かに言った。

 「好きな人を撮る時の手、やさしいね」

 撮影ボタンを押す指が、わずかに強張った。止めようとして、止められない。結局、音は鳴る。シャッターの軽い音が、廊下の端で跳ねて消える。写真は撮れてしまった。撮れたものは、もう消せない。
 好き、って単語は、まだ未来形。けれど、もう未来の影はここに落ちている。

 「今の、冗談じゃないのか」

 「冗談半分。本気半分」

 「半分の配分、おかしい」

 「均等じゃない方が、続きがある」

 返事の形を探せない。
 俺は撮った写真を再生する。画面の中の陽は、いつもよりすこし柔らかい顔をしている。光が顔の端に薄く乗って、まぶたの影が深い。横顔の輪郭が、線ではなく面に見える。
 「消す?」と彼が言った。
 首を振る。
 「消さない」
 「延長型で保存」
 「その言い方やめろ」
 「じゃあ、名前で保存」

 名前で。
 陽のスマホに、俺の写真が「湊」で並ぶみたいに。
 俺のカメラの中でも、いくつかの景色に彼の名前がついていたことに、その瞬間気づく。
 階段の踊り場。夕焼けの反射。花壇の紫。
 見ているだけで、彼の呼吸のリズムが重なってくる場所。そこに、名前を貼る。
 貼った名前は、じわじわと浸透して、景色の色を少しだけ変える。

 昇降口を抜けて校門へ。帰り道は、日常の音がいつもの順序で並ぶ。自転車のブレーキ。信号の音。コンビニのドアの開閉。
 陽がポケットからラムネを出す。
 「いる?」
 「一個」
 もらって口に入れると、冷たい甘さが広がる。
 「写真、今日の分、送る?」
 「送るなら、二枚」
 「二枚?」
 「踊り場の窓と、今の横顔」
 「横顔は、名前で保存だから、送るのは保留」
 「ケチ」
 「延長型で許可取るから」
 「だから、その言い方やめろ」

 くだらない言葉の投げ合いで、心臓の速度が落ち着く。落ち着いたところで、ふいに陽が真面目な声になった。

 「俺さ、名前で呼ぶの、練習してる」

 「練習?」

 「いつでも自然に出るように。噂とか、タイミングとか、周りの音とかに左右されないように。湊って呼ぶの、俺の中の標準にしたいから」

 言葉の形がまっすぐで、力も抜けている。無理に押し込まない手の強さ。
 「標準、か」
 「うん。標準になるまで、たぶん少しかかる。だから、練習」
 「変な練習だな」
 「変な練習ほど、続く」

 俺は足元の影を見た。夕方の角度で、影が細長く伸びる。二人分の影が重なるところ、色が濃い。
 「俺も、練習する」
 「なにを」
 「名前で呼ぶの。神崎じゃなくて、陽」
 呼ぶと、彼は少し目を丸くした。「今、言った」
 「今は、練習」
 「延長型で」
 「だから、それやめろ」
 笑いながら、彼は歩幅を合わせた。
 歩幅が重なるたび、名前の呼び方が少しだけ自然になる。口の形が覚える。舌の動きが覚える。
 練習は、回数が支える。回数が、未来の形を支える。

 駅前で別れる前、陽がスマホを取り出して言った。
 「一枚だけ、今の湊」
 「俺?」
 「うん。昼の花壇の時より、顔がやわらかいから」
 「撮る側が言うな」
 「撮られる側の顔も、撮る側のものだよ」
 「理屈が変だ」
 「じゃあ、理屈じゃなく、練習」

 押し切られて、立ち止まる。カメラを向けられるのは苦手だ。苦手だけど、今は逃げないと決める。
 スマホのレンズが上がる。陽の指が、画面の上でそっと動く。
 「はい、湊」
 名前を呼ばれて、目が自然に上がる。ちょうどそのとき、風が少しだけ吹いて、前髪が目にかかった。陽の指が一瞬迷って、画面から離れる。
 シャッターの音。
 「撮った」
 「変な顔じゃない?」
 「やわらかい。昼の花より、今の湊の方が、春だ」

 軽く言って、送信の画面を見せてくる。俺のスマホが震く前に、陽が続けた。
 「名前で呼ぶと、写真の中の湊が、湊になる」
 「当たり前じゃないのか」
 「当たり前にするのが、練習」
 「お前の練習、やたら真面目だな」
 「真面目半分、ふざけ半分。本気半分」

 配分が三つあるのはおかしい。指摘すると、陽は「配分は後で調整」と言った。
 電車がホームに入ってくる音がして、会話が切れる。
 改札の前で、俺は小さく手を上げた。「じゃあ、また」
 「また。栞、忘れないで」
 「覚えてる」

 改札を抜ける前、スマホが震えた。陽から、写真が二枚。踊り場の窓と、俺の素直すぎる顔。どちらも、名前がついて届く。
 保存のフォルダに入れる指先が、さっきより落ち着いている。
 未来形の単語は、まだ口にしない。けれど、フォルダの名前のつけ方で、未来の影は濃くなる。
 俺はフォルダに「昼の光」と打ち込み、少し迷って、「湊と陽」と付け足した。
 名前が並ぶと、画面の白がやわらかく見える。駅のホームの冷たい光に負けない。
 電車に乗って、窓に映る自分の顔を見る。今日撮られた顔より、少しだけ固い。車窓の外、夕方の色が街路樹を撫でていく。車内にいる人たちの声は、遠い。
 ポケットの中のスマホが、もう一度だけ震いた。
 陽から。
 名前の練習、明日もする。花壇、今日より寄る。
 俺は短く返す。
 了解。延長型で。
 送信して、すぐに後悔した。向こうの言い回しを自分から使うなんて、負けた気がしたから。
 けれど、画面に灯る既読の青が、思ったよりずっとやさしい色をしていて、どうでもよくなった。

 夜。
 机にカメラを置き、レンズを拭く。今日の花の粉が、布にすこしだけつく。レンズの端に残っていた指紋が消えると、昼の光が戻ってきたみたいに、部屋の白がやわらかく見えた。
 スマホのアルバムを開く。昼の花壇。踊り場の窓。陽の横顔。駅前の俺の顔。
 並べ替えをして、名前の順にした。
 名前は、音より先に形になる。
 湊。陽。
 順番を逆にして、また戻す。
 右から左へ、左から右へ。
 繰り返すうちに、口の中でその二つの名前がほどけ、絡まって、またほどける。
 名前で呼ぶ練習は、口でやるだけじゃない。目でもやる。耳でもやる。指先でもやる。
 そうして、標準にしていく。
 誰にとっての標準かって、まずは自分にとって。
 それを思いながら、ベッドに体を倒す。
 天井の白に、今日の光の名残がうっすら残っている。
 まぶたを閉じると、呼ばれた名前がもう一度落ちてきた。
 湊。
 その音は、今日の一枚目のシャッターより軽く、最後の一枚より熱い。
 未来形の単語は、まだ言わない。
 でも、写真の中で、もう影が伸び始めている。
 影は形に従って動く。
 なら、形を整える。
 名前の形から、先に。
 明日、昼の光の下でもう一度練習する。
 標準になるまで、回数をかける。
 それでいい。
 それがいい。
 俺たちの速度は、もう少しだけ、名前で揃っていく。