昼休みのチャイムが鳴ると、教室の空気は一斉に立ち上がった。
パンの袋が開く音、椅子の脚が鳴る音、笑い声の粒。音の隙間を縫うみたいにして、俺はカメラを首から下げ、窓の外の明るさを一度だけ確かめる。雲は薄く、春の手前の光。撮るにはちょうどいい。
校庭の片隅、体育館の陰になっている花壇は、いつ見ても人が少ない。パンジーとビオラが混じって咲いていて、色の組み合わせが日によって違って見える。風が弱い日は、花の縁の揺れが小さい。シャッタースピードを落としてもぶれにくいから、午後の白い光をそのまま拾える。
屈んで、ファインダーを覗く。息を一度止めて、ピントの輪が花びらの縁に吸い付いていくのを待つ。シャッターを切る瞬間だけ、世界の音が一度薄くなる。音が戻ると、写真はもう出来上がっていて、たった今の光の形を持っている。
背後から、名前が飛んできた。
「湊」
名前で呼ばれると、身体が先に反応する。振り向くと、神崎陽がいつもより近い距離に立っていた。
すぐ手を伸ばせば触れられそうな間合い。制服の肩が、光を受けて少し白い。髪の端が昼の風をひとつ掬って、落とす。そのごく小さな動きまで、目に入る。
「下の名前、もっと呼んでいい?」
「別に」
「別にってことは、いい?」
詰められて、頷いた。頷く首筋に、名前の音がもう一度触れた。
「湊」
二度目は、さっきより少し低い声だった。体温が、名前の形で入ってくる。皮膚より内側、胸の真ん中にすっと置かれる感じがした。置かれたものは軽いのに、確かにそこにある。
「写真、今日も?」
「昼の光、好きだから」
「ふうん。見てもいい?」
「見る、だけ」
条件をつけると、陽は小さく笑って「了解」と言った。俺はカメラの再生ボタンを押し、さっきの花壇を見せた。液晶の上で、紫と黄が並ぶ。
陽は画面を覗き込みながら、ほんの少しだけ顔を近づけた。呼吸の温度が動く。
「湊は、寄るのうまいね」
「寄る?」
「ぎりぎりまで寄って、でも花の形を壊さないで止まる。今の距離感、いい」
「人にそういうこと言うな」
「褒めた」
「分かってる」
名前で呼ばれているせいで、会話の重心がいつもより真ん中にある気がした。
俺は立ち上がり、レンズキャップをはめた。「午後も、図書室?」
「いる。湊は?」
「いる、たぶん」
「たぶんを、はいに混ぜとく」
からかい半分に聞こえるのに、約束の形だけはここに置かれる。俺は頷いて、教室に戻った。戻る前に一度だけ振り返ると、陽は校庭の中央の方に視線を送り、体育館の壁に映る光の反射をじっと見ていた。
昼の光は、見ているだけでも熱がある。触れなくても、じわっと届く。今の俺の名前も、そういう光の温度に似ていた。
午後。
授業の間は、意識を板書に向ける。黒板の左右のバランスが少しずれて、先生の歩幅に合わせて文字が並んでいく。名前で呼ばれた余韻が、耳の奥で遅れて鳴る。呼ばれることは、合図になる。自分で自分を見失わないように、座標を打ってくれる。
窓の外の雲が速くなり、教室の光がときどき目を細めさせる。授業が終わる寸前、クラスの後ろの方で誰かが言った。
神崎、今日も図書室だって。
誰かが返す。へえ、マジ。
そのへえは軽くて、今は重くない。重さは自分で決めると、彼に言われた気がする。自分のペースで、という合図を思い出す。
放課後、いつもより少し遅れて図書室に入ると、空気がやはり切り替わる。紙と木の匂い。カーテンの影。熊谷先生の「静かにね」。
席に向かう途中、陽が顔を上げた。何も聞かない目。問いを丸ごと、付箋にして渡してくる。
今日のページ、どこから?
俺は付箋に「ここから」と書いて返す。彼は「了解」と書いて、ページの角に貼る。そこに今日の俺の速度が置かれる。
二人で鉛筆を動かして、ページが進む。降りてくる影が、同じ角度で机の縁を走る。膝の下の床の温度まで似ている気がするのは、多分気のせいじゃない。
どこかで、紙をめくる音。どこかで、咳払い。外から、サッカー部のかけ声がにじむ。音の上に集中をのせて、何度か止まり、また進む。陽はいつものようにヒントだけを置く。紙の端の小さな点。しるしは少ないのに、意味は多い。
その繰り返しの間、俺はふと気づいた。陽のスマホの画面が、付箋を貼り直す彼の指先で短く光った。ちらりと見えたアルバムの中、見覚えのある色が並ぶ。俺が撮った花壇。階段の踊り場から見た空。夕焼けの反射。
胸の奥が、不意に騒がしくなる。
帰り際、カウンターで本を借りる陽を待っていると、彼が何気なくスマホをこちらに向けた。画面が明るくなり、アルバムが開く。知らないうちに、俺の写真が増えている。
「許可したっけ」
「してない」
「……じゃあ」
「でも、今、許可して」
言い方は軽いのに、目の奥は真面目だった。
俺は少しだけ間を置いて、「今だけ」と答える。
陽は小さく笑って、すぐ重ねる。
「じゃ、延長型で」
「勝手に延長するな」
「延長の許可は、その都度取る」
「今、取ってない」
「今は、サービス」
言い合いの形なのに、口の端で笑いが止まる。俺はスマホの画面に並ぶ写真をもう一度見た。自分が撮ったはずの景色が、他人の端末に整然と並んでいる。色も構図もそのままなのに、少し違って見える。持ち主が変わるだけで、写真は別の名前を持つ。
陽は、写真をひとつ拡大した。階段の踊り場。踊り場の窓。薄い雲。
「好きなんだよね、ここ」
「よく分かったな」
「湊が好きな場所、だいたい分かる」
「勝手に把握するな」
「把握、は、好きの初期症状」
さらりと言って、彼はスマホをしまった。
俺は何も返せなくて、図書室のドアに手をかける。扉の向こうの廊下は、夕方の色を少しだけ吸っている。外に出ると、陽が言った。
「俺のも、撮っていいよ」
「お前の?」
「うん。今の光、顔にやわらかいから」
言われて、ふいに構える。カメラを持ち上げると、陽は視線を少しだけ遠くへやった。真正面じゃない。横顔の角度。頬の骨のラインに薄い光が乗る。まぶしいのをごまかすみたいに、目を細める。
ファインダーの中で、背景の廊下が静かにぼけていく。ピントを合わせるたび、陽の横顔は少し優しくなっていく。機械的な操作なのに、気持ちの方がそれに連れて変わる。
シャッターボタンに乗せた指に、微かな震えが走る。
そのとき、陽が静かに言った。
「好きな人を撮る時の手、やさしいね」
撮影ボタンを押す指が、わずかに強張った。止めようとして、止められない。結局、音は鳴る。シャッターの軽い音が、廊下の端で跳ねて消える。写真は撮れてしまった。撮れたものは、もう消せない。
好き、って単語は、まだ未来形。けれど、もう未来の影はここに落ちている。
「今の、冗談じゃないのか」
「冗談半分。本気半分」
「半分の配分、おかしい」
「均等じゃない方が、続きがある」
返事の形を探せない。
俺は撮った写真を再生する。画面の中の陽は、いつもよりすこし柔らかい顔をしている。光が顔の端に薄く乗って、まぶたの影が深い。横顔の輪郭が、線ではなく面に見える。
「消す?」と彼が言った。
首を振る。
「消さない」
「延長型で保存」
「その言い方やめろ」
「じゃあ、名前で保存」
名前で。
陽のスマホに、俺の写真が「湊」で並ぶみたいに。
俺のカメラの中でも、いくつかの景色に彼の名前がついていたことに、その瞬間気づく。
階段の踊り場。夕焼けの反射。花壇の紫。
見ているだけで、彼の呼吸のリズムが重なってくる場所。そこに、名前を貼る。
貼った名前は、じわじわと浸透して、景色の色を少しだけ変える。
昇降口を抜けて校門へ。帰り道は、日常の音がいつもの順序で並ぶ。自転車のブレーキ。信号の音。コンビニのドアの開閉。
陽がポケットからラムネを出す。
「いる?」
「一個」
もらって口に入れると、冷たい甘さが広がる。
「写真、今日の分、送る?」
「送るなら、二枚」
「二枚?」
「踊り場の窓と、今の横顔」
「横顔は、名前で保存だから、送るのは保留」
「ケチ」
「延長型で許可取るから」
「だから、その言い方やめろ」
くだらない言葉の投げ合いで、心臓の速度が落ち着く。落ち着いたところで、ふいに陽が真面目な声になった。
「俺さ、名前で呼ぶの、練習してる」
「練習?」
「いつでも自然に出るように。噂とか、タイミングとか、周りの音とかに左右されないように。湊って呼ぶの、俺の中の標準にしたいから」
言葉の形がまっすぐで、力も抜けている。無理に押し込まない手の強さ。
「標準、か」
「うん。標準になるまで、たぶん少しかかる。だから、練習」
「変な練習だな」
「変な練習ほど、続く」
俺は足元の影を見た。夕方の角度で、影が細長く伸びる。二人分の影が重なるところ、色が濃い。
「俺も、練習する」
「なにを」
「名前で呼ぶの。神崎じゃなくて、陽」
呼ぶと、彼は少し目を丸くした。「今、言った」
「今は、練習」
「延長型で」
「だから、それやめろ」
笑いながら、彼は歩幅を合わせた。
歩幅が重なるたび、名前の呼び方が少しだけ自然になる。口の形が覚える。舌の動きが覚える。
練習は、回数が支える。回数が、未来の形を支える。
駅前で別れる前、陽がスマホを取り出して言った。
「一枚だけ、今の湊」
「俺?」
「うん。昼の花壇の時より、顔がやわらかいから」
「撮る側が言うな」
「撮られる側の顔も、撮る側のものだよ」
「理屈が変だ」
「じゃあ、理屈じゃなく、練習」
押し切られて、立ち止まる。カメラを向けられるのは苦手だ。苦手だけど、今は逃げないと決める。
スマホのレンズが上がる。陽の指が、画面の上でそっと動く。
「はい、湊」
名前を呼ばれて、目が自然に上がる。ちょうどそのとき、風が少しだけ吹いて、前髪が目にかかった。陽の指が一瞬迷って、画面から離れる。
シャッターの音。
「撮った」
「変な顔じゃない?」
「やわらかい。昼の花より、今の湊の方が、春だ」
軽く言って、送信の画面を見せてくる。俺のスマホが震く前に、陽が続けた。
「名前で呼ぶと、写真の中の湊が、湊になる」
「当たり前じゃないのか」
「当たり前にするのが、練習」
「お前の練習、やたら真面目だな」
「真面目半分、ふざけ半分。本気半分」
配分が三つあるのはおかしい。指摘すると、陽は「配分は後で調整」と言った。
電車がホームに入ってくる音がして、会話が切れる。
改札の前で、俺は小さく手を上げた。「じゃあ、また」
「また。栞、忘れないで」
「覚えてる」
改札を抜ける前、スマホが震えた。陽から、写真が二枚。踊り場の窓と、俺の素直すぎる顔。どちらも、名前がついて届く。
保存のフォルダに入れる指先が、さっきより落ち着いている。
未来形の単語は、まだ口にしない。けれど、フォルダの名前のつけ方で、未来の影は濃くなる。
俺はフォルダに「昼の光」と打ち込み、少し迷って、「湊と陽」と付け足した。
名前が並ぶと、画面の白がやわらかく見える。駅のホームの冷たい光に負けない。
電車に乗って、窓に映る自分の顔を見る。今日撮られた顔より、少しだけ固い。車窓の外、夕方の色が街路樹を撫でていく。車内にいる人たちの声は、遠い。
ポケットの中のスマホが、もう一度だけ震いた。
陽から。
名前の練習、明日もする。花壇、今日より寄る。
俺は短く返す。
了解。延長型で。
送信して、すぐに後悔した。向こうの言い回しを自分から使うなんて、負けた気がしたから。
けれど、画面に灯る既読の青が、思ったよりずっとやさしい色をしていて、どうでもよくなった。
夜。
机にカメラを置き、レンズを拭く。今日の花の粉が、布にすこしだけつく。レンズの端に残っていた指紋が消えると、昼の光が戻ってきたみたいに、部屋の白がやわらかく見えた。
スマホのアルバムを開く。昼の花壇。踊り場の窓。陽の横顔。駅前の俺の顔。
並べ替えをして、名前の順にした。
名前は、音より先に形になる。
湊。陽。
順番を逆にして、また戻す。
右から左へ、左から右へ。
繰り返すうちに、口の中でその二つの名前がほどけ、絡まって、またほどける。
名前で呼ぶ練習は、口でやるだけじゃない。目でもやる。耳でもやる。指先でもやる。
そうして、標準にしていく。
誰にとっての標準かって、まずは自分にとって。
それを思いながら、ベッドに体を倒す。
天井の白に、今日の光の名残がうっすら残っている。
まぶたを閉じると、呼ばれた名前がもう一度落ちてきた。
湊。
その音は、今日の一枚目のシャッターより軽く、最後の一枚より熱い。
未来形の単語は、まだ言わない。
でも、写真の中で、もう影が伸び始めている。
影は形に従って動く。
なら、形を整える。
名前の形から、先に。
明日、昼の光の下でもう一度練習する。
標準になるまで、回数をかける。
それでいい。
それがいい。
俺たちの速度は、もう少しだけ、名前で揃っていく。
パンの袋が開く音、椅子の脚が鳴る音、笑い声の粒。音の隙間を縫うみたいにして、俺はカメラを首から下げ、窓の外の明るさを一度だけ確かめる。雲は薄く、春の手前の光。撮るにはちょうどいい。
校庭の片隅、体育館の陰になっている花壇は、いつ見ても人が少ない。パンジーとビオラが混じって咲いていて、色の組み合わせが日によって違って見える。風が弱い日は、花の縁の揺れが小さい。シャッタースピードを落としてもぶれにくいから、午後の白い光をそのまま拾える。
屈んで、ファインダーを覗く。息を一度止めて、ピントの輪が花びらの縁に吸い付いていくのを待つ。シャッターを切る瞬間だけ、世界の音が一度薄くなる。音が戻ると、写真はもう出来上がっていて、たった今の光の形を持っている。
背後から、名前が飛んできた。
「湊」
名前で呼ばれると、身体が先に反応する。振り向くと、神崎陽がいつもより近い距離に立っていた。
すぐ手を伸ばせば触れられそうな間合い。制服の肩が、光を受けて少し白い。髪の端が昼の風をひとつ掬って、落とす。そのごく小さな動きまで、目に入る。
「下の名前、もっと呼んでいい?」
「別に」
「別にってことは、いい?」
詰められて、頷いた。頷く首筋に、名前の音がもう一度触れた。
「湊」
二度目は、さっきより少し低い声だった。体温が、名前の形で入ってくる。皮膚より内側、胸の真ん中にすっと置かれる感じがした。置かれたものは軽いのに、確かにそこにある。
「写真、今日も?」
「昼の光、好きだから」
「ふうん。見てもいい?」
「見る、だけ」
条件をつけると、陽は小さく笑って「了解」と言った。俺はカメラの再生ボタンを押し、さっきの花壇を見せた。液晶の上で、紫と黄が並ぶ。
陽は画面を覗き込みながら、ほんの少しだけ顔を近づけた。呼吸の温度が動く。
「湊は、寄るのうまいね」
「寄る?」
「ぎりぎりまで寄って、でも花の形を壊さないで止まる。今の距離感、いい」
「人にそういうこと言うな」
「褒めた」
「分かってる」
名前で呼ばれているせいで、会話の重心がいつもより真ん中にある気がした。
俺は立ち上がり、レンズキャップをはめた。「午後も、図書室?」
「いる。湊は?」
「いる、たぶん」
「たぶんを、はいに混ぜとく」
からかい半分に聞こえるのに、約束の形だけはここに置かれる。俺は頷いて、教室に戻った。戻る前に一度だけ振り返ると、陽は校庭の中央の方に視線を送り、体育館の壁に映る光の反射をじっと見ていた。
昼の光は、見ているだけでも熱がある。触れなくても、じわっと届く。今の俺の名前も、そういう光の温度に似ていた。
午後。
授業の間は、意識を板書に向ける。黒板の左右のバランスが少しずれて、先生の歩幅に合わせて文字が並んでいく。名前で呼ばれた余韻が、耳の奥で遅れて鳴る。呼ばれることは、合図になる。自分で自分を見失わないように、座標を打ってくれる。
窓の外の雲が速くなり、教室の光がときどき目を細めさせる。授業が終わる寸前、クラスの後ろの方で誰かが言った。
神崎、今日も図書室だって。
誰かが返す。へえ、マジ。
そのへえは軽くて、今は重くない。重さは自分で決めると、彼に言われた気がする。自分のペースで、という合図を思い出す。
放課後、いつもより少し遅れて図書室に入ると、空気がやはり切り替わる。紙と木の匂い。カーテンの影。熊谷先生の「静かにね」。
席に向かう途中、陽が顔を上げた。何も聞かない目。問いを丸ごと、付箋にして渡してくる。
今日のページ、どこから?
俺は付箋に「ここから」と書いて返す。彼は「了解」と書いて、ページの角に貼る。そこに今日の俺の速度が置かれる。
二人で鉛筆を動かして、ページが進む。降りてくる影が、同じ角度で机の縁を走る。膝の下の床の温度まで似ている気がするのは、多分気のせいじゃない。
どこかで、紙をめくる音。どこかで、咳払い。外から、サッカー部のかけ声がにじむ。音の上に集中をのせて、何度か止まり、また進む。陽はいつものようにヒントだけを置く。紙の端の小さな点。しるしは少ないのに、意味は多い。
その繰り返しの間、俺はふと気づいた。陽のスマホの画面が、付箋を貼り直す彼の指先で短く光った。ちらりと見えたアルバムの中、見覚えのある色が並ぶ。俺が撮った花壇。階段の踊り場から見た空。夕焼けの反射。
胸の奥が、不意に騒がしくなる。
帰り際、カウンターで本を借りる陽を待っていると、彼が何気なくスマホをこちらに向けた。画面が明るくなり、アルバムが開く。知らないうちに、俺の写真が増えている。
「許可したっけ」
「してない」
「……じゃあ」
「でも、今、許可して」
言い方は軽いのに、目の奥は真面目だった。
俺は少しだけ間を置いて、「今だけ」と答える。
陽は小さく笑って、すぐ重ねる。
「じゃ、延長型で」
「勝手に延長するな」
「延長の許可は、その都度取る」
「今、取ってない」
「今は、サービス」
言い合いの形なのに、口の端で笑いが止まる。俺はスマホの画面に並ぶ写真をもう一度見た。自分が撮ったはずの景色が、他人の端末に整然と並んでいる。色も構図もそのままなのに、少し違って見える。持ち主が変わるだけで、写真は別の名前を持つ。
陽は、写真をひとつ拡大した。階段の踊り場。踊り場の窓。薄い雲。
「好きなんだよね、ここ」
「よく分かったな」
「湊が好きな場所、だいたい分かる」
「勝手に把握するな」
「把握、は、好きの初期症状」
さらりと言って、彼はスマホをしまった。
俺は何も返せなくて、図書室のドアに手をかける。扉の向こうの廊下は、夕方の色を少しだけ吸っている。外に出ると、陽が言った。
「俺のも、撮っていいよ」
「お前の?」
「うん。今の光、顔にやわらかいから」
言われて、ふいに構える。カメラを持ち上げると、陽は視線を少しだけ遠くへやった。真正面じゃない。横顔の角度。頬の骨のラインに薄い光が乗る。まぶしいのをごまかすみたいに、目を細める。
ファインダーの中で、背景の廊下が静かにぼけていく。ピントを合わせるたび、陽の横顔は少し優しくなっていく。機械的な操作なのに、気持ちの方がそれに連れて変わる。
シャッターボタンに乗せた指に、微かな震えが走る。
そのとき、陽が静かに言った。
「好きな人を撮る時の手、やさしいね」
撮影ボタンを押す指が、わずかに強張った。止めようとして、止められない。結局、音は鳴る。シャッターの軽い音が、廊下の端で跳ねて消える。写真は撮れてしまった。撮れたものは、もう消せない。
好き、って単語は、まだ未来形。けれど、もう未来の影はここに落ちている。
「今の、冗談じゃないのか」
「冗談半分。本気半分」
「半分の配分、おかしい」
「均等じゃない方が、続きがある」
返事の形を探せない。
俺は撮った写真を再生する。画面の中の陽は、いつもよりすこし柔らかい顔をしている。光が顔の端に薄く乗って、まぶたの影が深い。横顔の輪郭が、線ではなく面に見える。
「消す?」と彼が言った。
首を振る。
「消さない」
「延長型で保存」
「その言い方やめろ」
「じゃあ、名前で保存」
名前で。
陽のスマホに、俺の写真が「湊」で並ぶみたいに。
俺のカメラの中でも、いくつかの景色に彼の名前がついていたことに、その瞬間気づく。
階段の踊り場。夕焼けの反射。花壇の紫。
見ているだけで、彼の呼吸のリズムが重なってくる場所。そこに、名前を貼る。
貼った名前は、じわじわと浸透して、景色の色を少しだけ変える。
昇降口を抜けて校門へ。帰り道は、日常の音がいつもの順序で並ぶ。自転車のブレーキ。信号の音。コンビニのドアの開閉。
陽がポケットからラムネを出す。
「いる?」
「一個」
もらって口に入れると、冷たい甘さが広がる。
「写真、今日の分、送る?」
「送るなら、二枚」
「二枚?」
「踊り場の窓と、今の横顔」
「横顔は、名前で保存だから、送るのは保留」
「ケチ」
「延長型で許可取るから」
「だから、その言い方やめろ」
くだらない言葉の投げ合いで、心臓の速度が落ち着く。落ち着いたところで、ふいに陽が真面目な声になった。
「俺さ、名前で呼ぶの、練習してる」
「練習?」
「いつでも自然に出るように。噂とか、タイミングとか、周りの音とかに左右されないように。湊って呼ぶの、俺の中の標準にしたいから」
言葉の形がまっすぐで、力も抜けている。無理に押し込まない手の強さ。
「標準、か」
「うん。標準になるまで、たぶん少しかかる。だから、練習」
「変な練習だな」
「変な練習ほど、続く」
俺は足元の影を見た。夕方の角度で、影が細長く伸びる。二人分の影が重なるところ、色が濃い。
「俺も、練習する」
「なにを」
「名前で呼ぶの。神崎じゃなくて、陽」
呼ぶと、彼は少し目を丸くした。「今、言った」
「今は、練習」
「延長型で」
「だから、それやめろ」
笑いながら、彼は歩幅を合わせた。
歩幅が重なるたび、名前の呼び方が少しだけ自然になる。口の形が覚える。舌の動きが覚える。
練習は、回数が支える。回数が、未来の形を支える。
駅前で別れる前、陽がスマホを取り出して言った。
「一枚だけ、今の湊」
「俺?」
「うん。昼の花壇の時より、顔がやわらかいから」
「撮る側が言うな」
「撮られる側の顔も、撮る側のものだよ」
「理屈が変だ」
「じゃあ、理屈じゃなく、練習」
押し切られて、立ち止まる。カメラを向けられるのは苦手だ。苦手だけど、今は逃げないと決める。
スマホのレンズが上がる。陽の指が、画面の上でそっと動く。
「はい、湊」
名前を呼ばれて、目が自然に上がる。ちょうどそのとき、風が少しだけ吹いて、前髪が目にかかった。陽の指が一瞬迷って、画面から離れる。
シャッターの音。
「撮った」
「変な顔じゃない?」
「やわらかい。昼の花より、今の湊の方が、春だ」
軽く言って、送信の画面を見せてくる。俺のスマホが震く前に、陽が続けた。
「名前で呼ぶと、写真の中の湊が、湊になる」
「当たり前じゃないのか」
「当たり前にするのが、練習」
「お前の練習、やたら真面目だな」
「真面目半分、ふざけ半分。本気半分」
配分が三つあるのはおかしい。指摘すると、陽は「配分は後で調整」と言った。
電車がホームに入ってくる音がして、会話が切れる。
改札の前で、俺は小さく手を上げた。「じゃあ、また」
「また。栞、忘れないで」
「覚えてる」
改札を抜ける前、スマホが震えた。陽から、写真が二枚。踊り場の窓と、俺の素直すぎる顔。どちらも、名前がついて届く。
保存のフォルダに入れる指先が、さっきより落ち着いている。
未来形の単語は、まだ口にしない。けれど、フォルダの名前のつけ方で、未来の影は濃くなる。
俺はフォルダに「昼の光」と打ち込み、少し迷って、「湊と陽」と付け足した。
名前が並ぶと、画面の白がやわらかく見える。駅のホームの冷たい光に負けない。
電車に乗って、窓に映る自分の顔を見る。今日撮られた顔より、少しだけ固い。車窓の外、夕方の色が街路樹を撫でていく。車内にいる人たちの声は、遠い。
ポケットの中のスマホが、もう一度だけ震いた。
陽から。
名前の練習、明日もする。花壇、今日より寄る。
俺は短く返す。
了解。延長型で。
送信して、すぐに後悔した。向こうの言い回しを自分から使うなんて、負けた気がしたから。
けれど、画面に灯る既読の青が、思ったよりずっとやさしい色をしていて、どうでもよくなった。
夜。
机にカメラを置き、レンズを拭く。今日の花の粉が、布にすこしだけつく。レンズの端に残っていた指紋が消えると、昼の光が戻ってきたみたいに、部屋の白がやわらかく見えた。
スマホのアルバムを開く。昼の花壇。踊り場の窓。陽の横顔。駅前の俺の顔。
並べ替えをして、名前の順にした。
名前は、音より先に形になる。
湊。陽。
順番を逆にして、また戻す。
右から左へ、左から右へ。
繰り返すうちに、口の中でその二つの名前がほどけ、絡まって、またほどける。
名前で呼ぶ練習は、口でやるだけじゃない。目でもやる。耳でもやる。指先でもやる。
そうして、標準にしていく。
誰にとっての標準かって、まずは自分にとって。
それを思いながら、ベッドに体を倒す。
天井の白に、今日の光の名残がうっすら残っている。
まぶたを閉じると、呼ばれた名前がもう一度落ちてきた。
湊。
その音は、今日の一枚目のシャッターより軽く、最後の一枚より熱い。
未来形の単語は、まだ言わない。
でも、写真の中で、もう影が伸び始めている。
影は形に従って動く。
なら、形を整える。
名前の形から、先に。
明日、昼の光の下でもう一度練習する。
標準になるまで、回数をかける。
それでいい。
それがいい。
俺たちの速度は、もう少しだけ、名前で揃っていく。



